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台風娘
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間もなく12月を迎える日曜日、突然の来客を文月が出迎えた。
「どなたかとお約束でいらっしゃいますか?」
「兄の周に会いに参りました」
10代後半、高校生らしい彼女は周を兄と呼んだ。そういえば昔、周に連れられて来た少女がいた。文月は笑顔で答えた。
「確か…由衣子さまであらしゃいましたね」
「そうよ。お兄さまは今日は、こちらにいらっしゃるって伺ったのですけど」
美しく成長したが雰囲気は小学生の頃とさほど変わっていない。
周から彼女の訪れを聞いてはいない。つまり約束なしに押し掛けて来たという事だ。しかも友人らしい少女を2人も連れている。
「どうぞ、こちらへ」
文月は彼女たちを来客用の応接室へ導いた。
「周さまをお呼びして参ります、こちらで少々お待ちください」
文月は部屋を出てメイドの一人に、お茶とケーキを出すように命じて、二階の周の部屋へ向かった。
「失礼いたします。周さま、お妹さまの由衣子さまがならしゃっておられます」
机に向かって勉強中の周が驚いて顔を上げた。
「今…何と言った?」
「由衣子さまがご学友をお連れになって、いらっしゃっています」
「あいつめ…断ったのに来たのか…友だちも一緒だって?」
「はい、お二方」
「勘弁してくれ…」
げっそりとした顔で天を仰いだ。周は母の浅子が嫌いだが、異母妹の由衣子は最早、天敵のレベルだった。帰国してから周が勤める病院に、不意にやって来て散々に困らされた記憶がある。育ての母である浅子の企みだとわかり過ぎる程わかっているから始末に悪い。
浅子は周に何とか花嫁を、と様々な手を使って来る。ただ武たちや有人を本気で怒らせると、反撃が恐ろしいのは理解している。それで最近は由衣子を使うのだ。由衣子本人は兄の為だと本気で信じているから、周にすれば無碍にも出来ずに困ってしまう。
渋々、医学書に栞を挟んで立ち上がった。
文月も周を気の毒には思うが、御園生家の使用人の立場では何も言えない。
「武さまと夕麿が不在なのが、不幸中の幸いだな」
階段を降りながら呟いた。武と夕麿は金曜日の夜から、休養の為にいつものホテルに今日の夜まで宿泊している。部屋は夕麿が年間を通じてキープしている為、滞在時間は自由に出来るのだ。2人がいなくて良かったという周の言葉に、文月も思わず頷いてしまった。
敦紀はデッサン旅行に出ていて貴之も同道している。有人と小夜子は板倉 正巳のデータを得る為に渡米している。義勝と雅久も昨日から以前、新婚旅行に行った温泉にやはり休養に出掛けている。
つまり御園生邸には今、周しかいない事になる。どこかに出掛けていれば良かったと思うが、既に後の祭だ。
「お待たせいたしました」
文月がドアを開けて、由衣子に声をかけた。その後に周が入った。
「お兄さま!」
笑顔で立ち上がった妹に、周はうんざりした顔で答えた。
「由衣子、僕は約束してないぞ」
「あら、だってお休みでしょ、お兄さま」
「僕はまだ研修医の身分だ。休日は勉強をしなければならないんだ。暇じゃないと言った筈だ」
「今日一日くらい良いじゃない」
「お前…学校の勉強をちゃんとしているのか?レベルの低い大学しか行く場所がないなんて事になるなよ?
………で?」
「夕麿さまは?」
由衣子は今でも夕麿の事を諦めていない。
「またそれか…言った筈だ。夕麿の事は諦めなさいと」
「だって、おたあさんが夕麿さまは私の婚約者だって」
「夕麿は既に結婚している。婚約云々はおたあさんが勝手に言っているだけだ。有人氏と武さまの勘気を買ったら、今度こそ久我は潰されるぞ」
父が御園生に屈するのも時間の問題。周はそう見ていた。ここまで保ち堪えたのは賞賛に値する。だが様々な障害を乗り越えて生き残った財閥の現総帥だ。有人は巧妙で辛辣だった。武が佐田川を潰したように、一気に効力を発揮する方法はとらない。ジワジワと真綿で首を絞めるような方法で、確実に久我家とその事業全般が追い詰められていた。周は有人に何度か、やめてくれるように嘆願したくなった。
自業自得─── それがわかっているから黙って見詰めて耐えた。
「それで何の用だ?」
「ひとつはお兄さま、昨日、お誕生日だったでしょ?はい、プレゼント」
「え…ああ、ありがとう」
受け取った小箱には、タイピンが入っていた。久我家は困窮している。
「アルバイトしたお金で買ったの」
「アルバイト?」
「そう。小学生の女の子の家庭教師をしてるの」
恐らくは家計を助ける為だろう。今回の事は由衣子本人にはさほど罪はない。周はそう思って妹の学費を出していた。何よりもこの歳の離れた妹を可愛く思う。第一、彼女も両親の犠牲者だとは思うのだ。
「ありがとう、大事にするよ」
周の目がすっと細くなり、口許から笑みが零れた。
「それでこっちの2人はお友だちの原西 華子さん。こっちは杵崎 玖美子さん。お兄さまに紹介に来たの」
やっぱりかと天を仰いで溜息吐いた。
「由衣子、言った筈だ。僕は当分、恋愛している暇はない。一人前の医者になる為に勉強中の身だ。それに自分の相手は自分で見付ける」
「でも出会いは必要でしょ?」
その言葉が浅子の受け売りだとわかっているので、周は聞かなかったふりををした。
「由衣子、昼餉は?」
「まだだけど?」
「これからランチに行くが、一緒にどうだ?」
「華子さんと玖美子さんも?」
「そうだ」
「喜んで」
満面の笑顔を見て、彼女たちが最初からそのつもりだったのがわかる。
「着替えて来る」
そう言って部屋を出てまた深々と溜息吐いた。
「文月、僕の車を玄関前に。それといつものレストランに、これから行くと。
ああ、個室でなくて良い」
「承りました」
のせられたのは腹立たしいが、そこはやはり妹には甘い周。急いで部屋に戻って着替え、財布やスマホなどをポケットに入れた。
玄関先で自分の車の鍵を受け取り、妹たちを車に乗せた。帰国してすぐに手に入れたBMW。そろそろ買い替え時だと思っていた。次は国産のハイブリッド車を、と考えている。車は武の体調不良で駆け付ける為、必要不可欠なのだ。
レストランに到着すると普通の席に案内された。
「周、食事ですか?」
声を掛けられて振り返ると清方と雫が立っていた。
「ええ。清方さんと雫さんも?」
「たまには外でゆっくりしようと思ってな」
夜まで武と夕麿はホテルの中だ。だから二人もゆっくり出来るらしい。周は興味津々で見ている妹に言った。
「由衣子、護院 清方さまと成瀬 雫さまだ。ご挨拶しなさい」
「初めてお目もじいたさます。久我 由衣子です」
由衣子は前に御園生邸で、二人に会っているが覚えていないらしい。
「周、可愛いお嬢さんたちと食事とは華やかで良いな」
「からかわないでください、雫さん」
由衣子が浅子の意にのせられて、周に花嫁をと言って困らせているのは、もちろん雫も知っている。
「一緒にどうですか、周。 食事は大勢の方が良いでしょう?」
周の気持ちを考えて清方が言う。しかし周は首を振った。
「僕はここで良いよ、清方さん」
雫は武の公務から帰国してから大きな事件があり、数日前まで特務室に泊まり込んでいたのだ。二人でゆっくりとして欲しい。
「では、そうさせてもらおう」
周のおもいやりを感じ取って、雫が笑顔で清方を促した。
「お兄さま、あの方々は?」
「護院清方さまはおたあさんが乳母を務めた方だ。ご母堂さまの高子さまは五摂家の一つ、近衛家のご出身で夕麿のご母堂 翠子さまの異母姉になられる。 つまり僕は六条家繋がりで夕麿と従兄弟同士だが、清方さんは近衛家繋がりで従兄弟同士なんだ」
「ふうん。 もう一方は?」
「雫さんは武さまの父君さまの従弟にあたられる。どちらもご身分が高い方々だ、ご無礼がないようにな」
由衣子の生母は父 周哉の秘書だった女性で、才色兼備で秘書としても有能な女性だ。それでも一般家庭出身の女性で、 早くに由衣子を久我家に差し出したのは、貴族社会で少しでも彼女の立場を良くする為だった。目上の人間に対する弁えを、きちんと覚えさせなければならない。
「はあい」
「何だ、その返事は」
「はい…ごめんなさい」
華子と玖美子はそんな兄妹の姿を黙って見詰めていた。
「さあ、好きなものを遠慮せず注文しなさい」
「やった!」
喜んでメニューを広げる3人を、周は笑顔で見詰めた。願わくば彼女たちが幸せでありますように。そう願わずにはいられない。
彼女たちは良く食べ、よくしゃべり、よく笑った。周はそれを黙って見ていた。デザートまでたいらげて、レストランを出た。
「どうする?どこか行くか?」
浅子に言い含められた事さえ実行しなければ、可愛い妹なのだが…と溜息をそっと吐く。
「いいの!?」
喜んで由衣子が口にしたのは、車で1時間ほど行った所にある遊園地だった。そこにも御園生が出資している。
「ちょっと待て」
邪魔はしたくないが、便宜を図ってもらう為に夕麿に電話を入れた。返って来た返事は、ゲートに係員を待たせておく、というものだった。
3人を車に乗せて遊園地へ向かう。夕麿の指定通り、係員が待ち受けていた。入場の為に並んでいる人々を後目に、別の入口から中へ入る。
「お兄さま、凄い!」
「ここには御園生が出資している。大株主なんだ。さっき電話で頼んだ。言っておくがアトラクションや乗り物には特別はないからな。ちゃんと並べよ」
「ううん、こんなに早く入れただけで嬉しい」
由衣子は早々にもらった園内の地図を広げ、3人で検討を始めた。早めに昼食を摂ったので、まだ13時を過ぎたばかりだ。夕方17時の閉園時間までには、それなりに遊べるだろう。
「電話、誰から?」
「周さんです。由衣子さんやお友だちと一緒に、遊園地へ行きたいのだそうです」
「周さんが妹にまるっきりだらしないのは、ある意味笑えるよな」
「可愛いのでしょう?姉妹はいないのでわからないですが。
あ、電話しますから」
「早くな」
キングサイズのベッドで二人きり。金曜日の夜からずっと、誰にも邪魔をされない時間を過ごしている。静けさの中に電話をする夕麿の声だけが聞こえる。武は紫霄の寮にいた頃を思い出していた。生徒会の仕事がない休日は、こんな風に一日中ベッドで抱き合っていた。二人とも社会人になって、忙しさにこんな時間をすっかり忘れていた。
「お待たせしました」
電話を終えた夕麿が、仰向けに寝て天井を眺めている武を抱き締めた。それに応えて身をすり寄せた。
「何を考えていたのです?」
「昔を…思い出してた。寮でもこうして休みにベッドにいたなって。お前だけを見て、お前の声だけ聞いて…それが、たまらなく嬉しくて、すっごく幸せで…」
「懐かしいですね。でも少し前の出来事にも感じられます。何年も過ぎてしまったのですね、あの時から」
「夕麿、愛してる。苦労ばっかりでごめんな」
「武…」
幸せを貪っていた時間に戻りたいと思う。けれど今が嫌いなのではない。夕麿と寄り添って生きるという事は何よりも幸せだった。
でも…二人だけの時間が少なくなったのが、武には時々寂しくてたまらなくなる。同じベッドで互いに疲れ果てて眠る。触れ合いのない時間が続くと不安になる。
「武、せめて月一でここへ来ませんか?あなたともっと二人でいたいと思うのです」
「俺ももっとこうしてたい」
紫霄にいた頃もいろんな事があった。だが振り返れば懐かしく、愛しい日々だと思う。
「武、私は苦労だとは思っていません」
腰に回された腕が、更に抱き寄せた。
「ン…」
重なった唇が熱い。
「むしろ私は嬉しいのです。あなたと一緒に様々な事を乗り越えて、また愛情が深くなるのですから」
「夕麿…俺、お前が伴侶なのを誇りに思う」
どんな時も真っ直ぐ背を伸ばし、凛とした姿勢を貫く。それはどんな時も武の手本になり、挫けそうな時の勇気になる。
「夕麿、欲しい…抱いて」
両手を伸ばして首に腕を絡めた。触れ合う温もりが、心を満たし癒やす。
「チェックアウトは、明日の朝にしましょう」
「雫さんに連絡を入れなきゃ…」
「後で」
「うん…」
ピアノを奏でるように、夕麿の細く長い指が武の身体を撫で回す。
「ぁ…ン…ヤダ…焦らすな…」
金曜日にチェックインしてから、食事と入浴以外はベッドの中にいる。互いに求め合い、知り尽くした身体に触れ合い、繰り返し繋がった。
「夕麿…も…挿れて…」
「欲しいのですか?」
「欲し…ン…ぁああ…」
ずっと抱き合っていた為、そこは柔らかく解れたままだった。夕麿のモノを吸い込むように受け入れ、熱を帯びた肉壁が包み込んだ。
「夕麿ぁ…」
甘い声で呼ばれると、それだけでゾクゾクと背中を快感が走る。数え切れない程に抱き合い求めあっても、飽くという事を考えてみた事もない。
「あッああッ…夕麿…もっと…」
少し舌足らずになる嬌声も興奮するにつれて、白い肌が桜色に染まる様も欲情に潤む瞳や鮮やかな紅になる唇も、もっと見詰めていたいと想ってしまう。 抱き締めれば抱き締める程、心の奥深くが満たされていく。 武に出逢うまでの孤独は、もうどこにも存在してはいない。
「愛して…います」
乱れる息で愛を囁くと武は切なげに声を上げ、内部がそれに呼応するように収縮する。
「イイ…ああッ…夕麿…夕麿ぁ…」
強過ぎる快感に溺れながら、抗うように首を振る。愛しくて愛しくて…ずっとこうして、抱き締めていたくなる。
武が辛く感じたり、悲しいと思う事を全て、取り除いてやりたいと本気で思う。無理なのはわかっている。それでも愛する人には笑っていて欲しい。こんなにも彼の愛と熱に包まれて、幸せでいられるから。
「武…もっと感じて…もっと、私を欲しがって…」
「ンぁ…ああン…ひッ…ヤ…激し…凄い…」
零れ落ちる涙を舌先で舐めとり、両脚を抱え上げてさらに深く挿入する。
「ダ…メ…そ…ああッ…深いッ…」
「ああ…武…凄い…中が絡み付いて…イイ…あなたの中で溶けてしまいそうです」
「も…イく…夕麿…お願…」
両腕で縋り付いて来るのは、吐精が近い事を示していた。
「私も…もう…」
「一緒…一緒がいい…」
「イってください…」
促すように更に深みを刺激した。
「ひッそこダメぇ…ぁああッあッあッああ…!」
「くっ…武…ああ…!」
武の絶頂の収縮に絞られるように、夕麿は自らの欲望を迸らせた 全てを放出し終わっても、満ち足りた想いそのままに快感が続いていた。
「夕麿…キスして…」
背中の手が口付けを強請るように抱き締める力が増した。乱れた呼吸を整えながら、肘を着いて身を起こし唇を重ねた。
悲しみも喜びも色褪せたりしない。自分たちは運命を分け合って生きている。
眠り込んだ武をベッドに残して、夕麿は音を出来るだけさせないように注意して居間に出た。手にしたスマホで電話をかける。
「夕麿です」
〔武さまのご様子は如何ですか?〕
「まだかなり不安定です」
〔やはり期間が足らないようですね……本来ならばもっと空気の良い自然の中で、ゆっくりしていただくのが一番なのですが…〕
電話の相手は清方だった。公務から帰国して武はそのまま4日程入院した。退院して仕事に復帰したものの不安定な精神状態が続き、発作と顕著に判断出来る程の症状はないが、夕麿が側にいないとその不安定さが増していた。
食事、睡眠、仕事に拒否反応を起こして、何も出来なくなる。夕麿に対する態度は発作時に近い状態。これも発作なのかもしれないと考え、幾つかの投薬をしながら週末を利用して二人きりにならせたのだ。最初は自然豊かな人里離れたホテルに、療養に行かせる計画だった。雫と清方が別部屋で同行するつもりで申請したが、治療の為というのも診断書も功を為さず、許可が下りなかったのだ。それでいつものホテルで休ませる事にした。
公務の精神的負担と武の不安定は、夕麿にも影響を及ぼしていた。投薬こそしなかったが、武を安心させて休ませる為という状況が、少なくとも電話での会話では夕麿には、効き目があったように感じていた。
〔わかりました。 先程、義勝君が帰宅したと連絡を受けました。それを含めて有人氏に、今少しの療養を話して置きます〕
雅久も公務での無理が響いて、食欲低下と低血圧が続いていた。そこで義勝に旅行に行かせたのだ。山間の温泉宿で少しは癒せたのだろう。
また貴之は特務室が人手不足な事もあり、完全なオーバーワーク状態だった。見かねた敦紀が雫に交渉に来て、スケッチの為の旅行を理由に休みを取らせた。
清方は雫に次の公務には人員を増やすように告げていた。武と夕麿のクッションになる人間がもっと必要だと。雫以外が不慣れだったとは言え、今回は余りにも個々に負担があり過ぎた。誰よりも丈夫な周ですら食欲不振で、点滴の世話になった程だ。
当然ながら武にかかった負担は、生半可なものではなかった筈だった。帰路は発熱でほとんど眠ったままにして空港から病院へ搬送した。熱や身体の疲労が治まったのと引き換えるように、武の様子に変化が現れたのだった。
本来、宮としての立場は、武自身が望んだものではない。それでも懸命に役目を果たそうと自分の限界を超えて頑張った結果が、今の状態だからと誰が責める事が出来るだろう。
〔では明朝、診察を兼ねて薬をお持ちいたします〕
「わかりました。よろしくお願いします」
頼るべくは清方だけ。夕麿は不安を噛み殺して、武が眠るベッドへ戻った。
華子と玖美子をタクシーで帰らせ、周は由衣子と二人で夕食を摂っていた。日本料理を食べさせる老舗料亭は御園生系列ではないが、武たちが利用する場所で相良 通宗に頼んで部屋を取ってもらった。
懐石料理を予約してある。二人が席に着くと、早々に料理が運ばれて来た。
「一応コース料理だが、他に食べたいものがあったら注文しなさい」
「お兄さま、太っ腹!」
「下品な言葉を使うな」
清華貴族の令嬢とは思えない言葉遣いを、周は今日一日中注意し続けてうんざりしていた。
「お兄さま、煩い…オヤジくさい!」
「由衣子、今のお前ではたとえ夕麿が独り身でも、嫁に出す訳にはいかないな」
「え?」
「久我家の恥になる。第一、夕麿は礼儀作法に厳しい。庶民育ちの武さまに手を挙げてまで、厳しく教育したくらいだ。千年の歴史を持つ清華貴族の令嬢として、もう少しお淑かになりなさい」
兄として側にいる事は出来ない。武や夕麿に害を及ぼす両親の住む家に、戻る事は絶対に出来ないのだ。久我家は由衣子が婿を迎えて継ぐしかないだろう。
「由衣子、僕がお前の相手をするのは今日が最後だ。欲しい物があるなら幾らでも買ってやる。メールしてくれば送ろう」
「お兄さま……」
「おたあさんの言いなりはやめなさい。僕は結婚はしない」
「どうして?モテないから?」
高校生の割には子供っぽい妹に、周は首を振ってから口を開いた。
「紫霄時代は引く手数多だった…おたあさんに妨害ばかりされたがな。だが僕には…ずっと想い続けた人がいた。僕はその人が傷付き、苦しんでいる時に…何も出来なかった。その人は今、愛する人と幸せでいる。苦労は多いがそれでも幸せだと笑う。僕は…その笑顔を見て、自分の想いを終わらせる事にしたんだ」
「好きならどうして、相手から奪わないの?それが好きって事でしょ?」
「僕にはその人を幸せにする力はない」
「そんなのわからないじゃない」
「………由衣子、本当に好きな人が出来たらわかるよ。一番大切なのは好きな人の笑顔だって」
「自分は幸せじゃないのは嫌」
「それは愛する事を本当に知らない人間の言葉だ。自分の感情を相手に押し付けるのは本当の愛じゃない。由衣子、おたあさんや他の誰かに言われた相手ではなく、お前が本当に愛せる相手を探しなさい」
由衣子は何か言い返そうと顔を上げて、哀しそうな周を見て言葉に詰まった。
「本当はお前を生みの母親の元に返してやりたい。あの家にいてもお前は幸せにはなれないかもしれない。全てをお前になすり付けてしまった僕が、悪いだというのもわかっている。許して欲しい」
「お兄さま!?」
周は座布団を外して、畳に手を突いて頭を下げた。
「僕は医師として自分の道を行く。これは僕のわがままでもある」
歳の離れた異母妹に全てを負わせ、自分のわがままを通す。家は捨てた。病院や御園生家では、名前で呼んでもらうのは、捨てた家の姓を極力使いたくないからだ。
「この通りだ。僕はいないか遠く外国にでもいると想ってくれ。お前の学費は幾らでも出す。留学したいならばその便宜もはかろう。だから僕を捨て置いてくれ」
今日、御園生邸にいきなり来た事は、今後も平然と足を運ぶつもりなのだという懸念がある。武や夕麿に会う事もあるだろう。自分絡みでこれ以上、武を傷付けたくないのだ。武が傷付けば夕麿も傷付く。それだけは避けたかった。
山積する問題に更なる苦悩を、積み重ねるような真似だけはしたくない。
「僕の周囲や御園生邸にはもう関わらないで欲しい。お前が彷徨けば傷付く方々がいる。そうなれば僕は本当に、遠くへ行かなければならなくなるだろう」
今度こそ久我家は潰され、周も居場所を失うだろう。それだけは防がなければならない。
「………わかったわ、お兄さま」
「ありがとう、由衣子」
周はもう一度、手を突いて深々と頭を下げた。
「お兄さま…立派なお医者さまになってね」
「ああ…精一杯努力する」
「うん、期待してるよ?」
その後、料亭でタクシーを呼んでもらい、周は運転手に金を渡した。周も自分の車に乗り、御園生邸へに帰宅した。
出迎えた文月から武と夕麿が今しばらく、療養する話を聞いてから自分に与えられた部屋に戻った。
スマホを手に清方に電話する。武の様子を聞いた後、由衣子に自分の片想いの話をしたと告げた。その話を浅子が聞いた場合、彼女はその相手を清方だと勘違いする筈だ。間違っても夕麿だとは思わないだろう。だがその結果、浅子が清方に対して何か行動を起こすかもしれない。前以て詫びておかなければならなかった。
清方は周の話を真剣に聞いてくれ、大丈夫だと言ってくれた。何度も謝って電話を切った。
行き場のない憤りと悲しみが、周の心を満たしていた。溢れる涙を拭いもせずに声を殺して泣いた。泣いて泣いて涙が枯れたらもう、こんな想いも封じてしまおう。紫霞宮家の侍医として生きる為に。
ゆっくりと目を開けると、嵌め殺しの窓の向こうは鮮やかな夕焼け空だった。昼過ぎに周から夕麿に電話があった後、抱かれたのは記憶している。どうやらそのまま眠ってしまったようだ。夕麿も傍らで眠っている。
彼も今回の公務の疲れで、かなりの体重を落としていた。けれども皇家の公務には数週間から1ヶ月にもわたるものもある。さすがに悪路をジープで5時間というのはないが、それなりにハードなのが公務なのだ。早朝から夜遅くまで、食事の時間すら公務になる。数百人の人間と挨拶や言葉を交わす。皇家は友好以外の約束は交わさない。
だが紫霞宮の公務は、御園生の国際協力プロジェクトとセットになる。通常のルールからは逸脱しているのだ。
いつか夕麿を解放してやりたい。ずっとそう思って来た。無理させて苦労ばかりさせる。だから夕麿が自分の好きな事を自由にさせてあげたい。
けれど…ここまでの事態になれば恐らくもう無理だ。彼を武の宿命の道連れにしたくない。
いつかは手を放そう。
そう思っていたのに…… 多分、無理になった。名目だけの皇家の一員から、公務を行う本当の一員になった。夕麿の妃としての立場が確立した事になる。後戻りは出来ないのだ。ならば…武の取る道は一つしかない。共に歩いて守り続ける事。
皇家としての公務は紫霞宮が、非公開である限りは海外に限定される。向かう先も限定される。増えれば再び生命を狙われる事があるだろう。
夕麿を守り共にある人生を歩いて行く。現実を受け入れて覚悟を決めなければならない時が来たのかもしれない。
武は唇を噛み締めた。アメリカに留学したばかりの冬、クリスマス休暇で帰国した。再びロサンゼルスへ向かう機内で、「明日を信じる」と告げた。あの時の決意を更に深めたものが、今は要求されているのだと感じる。
自分に何が出来るだろう。
何をすれば良いのだろう。
答えを得るにはまだまだ経験が足らず、学ばなければならない事だらけだ。今回の公務一つを取っても知らない事だらけだった。いざという時に慌てて学んでも、付け刃はすぐに剥がれ落ちる。夕麿から学べない事もある。誰か専属で教えてくれる人を探してもらおう。皇家の一員として宮名を与えられた人間として、相応しく振る舞い生きて行けるように。そうする事で夕麿だけではなく、従ってくれ尽くしてくれる皆への負担も、少しは軽減されるかもしれない。
夕麿の温もりを感じながら、自分のこれからの在り方を考えていた。二人で生きて行く為に。
武が目を覚ましたのとほぼ同時に夕麿も目が覚めたしかし武が何かを考えている様子だった為、敢えて眠っているふりを決め込んだ。現実と自力で向かい合う事も、武には必要だと清方に言われていた。その上で紫霞宮と御園生 武の二つの在り方を、自分の在り方として統合していく決意がいると。分けようとするから無理が出る。人間は本来的に幾つもの顔を持ち、使い分けて生きている。その一つとして自然な形で受け入れる。それが重大なのだと。何故ならば紫霞宮と御園生 武は同じ一人の人間であるのだから。別の誰かになる訳ではない。武はそこを間違えてしまっているのだ。
同時に清方は夕麿に告げた。紫霄時代のように皆で、武を庇い守るだけの在り方はやめるように、と。学生の間はそれで良かった。夕麿たちは未開花の花を守る萼がくで、堅く外部を排除する形で守護すれば良かった。しかし武は社会人になり、一人の人間として開花しつつある。従って萼が堅く閉ざしたままでは、花開く事が出来ないのだ。まずは萼である夕麿たちが開いて花を支える姿に変わらなければ、武の本来的な資質が開いて成長する事はない。
この事に誰よりも先に気付いたのは義勝だった。敦紀も彼らの中では年齢が低いというのに了承している。雅久は了解した上で武の兄としての自分と、臣としての在り方を使い分けている。貴之は元より守護者に徹する決意を紫霄時代から抱いていた。周は最初から一歩引いた形で、武を支え守る姿勢を示していた。ただ彼は自分が抱えた問題が多過ぎる。
最終的な自分の立場に対しての決心が出来ていないのは、守られ支えられている武。そして双方の狭間にいる夕麿だった。
武と共に花として寄り添うのか。それとも萼としての自分を選ぶのか。ただ後者を選択すれば、武との間に距離が出来てしまう。手を取り合い、並んで歩く者ではなくなるのだ。武より数歩後ろを歩く者になる。それは武をさらなる高みには上げるが、更なる孤独へと進ませる事であった。
清方はこれらの事実を並べこう付け足した。
「答えは夕麿さまご自身が、見つけ出さられなければなりません。そしてその結果が他の者のこれからの在り方をも左右いたします。あなたさまが望まれている事は何であられるのか。武さまの願いはどのようであらしゃるのか。よくお考えになってください」
武の不安定さの原因は、企業人となって変化しつつある。それでも久我 由衣子のような存在は、まだまだ武を不安と悲しみを誘う。武にはまだ夕麿の幸せと自分の幸せをイコールする強さがない。自分といない事に彼の幸せが存在すると信じている部分があるからだ。
清方に突き付けられた武の精神状態は、夕麿を激しく動揺させた。武を愛するからこそ全てを捨てられる。そう思い捨てた事が幾つかある。 未練はないつもりだが憧憬は消えていない。だから敢えて背を向けて、目を閉ざして耳を塞いで来た。それが愛の証だとも思っていた。だが武はそんな夕麿の気持ちを、敏感に察知しているのかもしれない。
「全てを捨てる必要はないのです」
清方の言葉が反芻する。一つだけでも自分がやりたい事を求めてみる。武が組み紐に打ち込むように。何もかもを武の為に犠牲にしてはならない。自分の生き方と武と歩む道。紫霞宮妃としての在り方。それらを縒り合わせて、一つにして行くのが人間として本来の姿。
武の創作する組み紐は、数多くの縒った糸を組んで、一つの紐に仕上げる。その美しさと丈夫さは、人と人の理想的な在り方ではないか。
ふとそんな考えが心に浮かんだ。
ああそうだった。音楽も同じだ。一つ一つの音を奏でてメロディーが出来上がる。もっと複雑で美しく壮大な曲は、たくさんの楽器を必要とする。 一つ一つの音は個性的だ。調和する事によって、一つの曲を奏でる事が出来る。
武に寄り添う事だけを考えて、自らの音やメロディーを奏でるのを止めていたのだ。武は夕麿が見ないようにしていたものを、敏感に感じ取って見ていたのだ。だからいつか夕麿が自分を捨てて、自分が憧れるものへ行くかもしれないと思っていたのだろう。その不安が発作時の夕麿に縋る姿を呼び、平静時にはいつか手放す事を思わせたのかもしれない。
───何と愚かな事を考えていたのか。目の前の霧が晴れた気持ちだった。不意に武が身を寄せて来た。夕麿はたった今、目覚めたふりをして武を抱き締めた。
「夕麿」
「何ですか?」
「お腹空いた」
「では少し早いですが、夕食にしましょう。準備が出来るまでに軽くシャワーを浴びましょう?」
「うん」
武の笑顔に夕麿も笑顔で返した。
「どなたかとお約束でいらっしゃいますか?」
「兄の周に会いに参りました」
10代後半、高校生らしい彼女は周を兄と呼んだ。そういえば昔、周に連れられて来た少女がいた。文月は笑顔で答えた。
「確か…由衣子さまであらしゃいましたね」
「そうよ。お兄さまは今日は、こちらにいらっしゃるって伺ったのですけど」
美しく成長したが雰囲気は小学生の頃とさほど変わっていない。
周から彼女の訪れを聞いてはいない。つまり約束なしに押し掛けて来たという事だ。しかも友人らしい少女を2人も連れている。
「どうぞ、こちらへ」
文月は彼女たちを来客用の応接室へ導いた。
「周さまをお呼びして参ります、こちらで少々お待ちください」
文月は部屋を出てメイドの一人に、お茶とケーキを出すように命じて、二階の周の部屋へ向かった。
「失礼いたします。周さま、お妹さまの由衣子さまがならしゃっておられます」
机に向かって勉強中の周が驚いて顔を上げた。
「今…何と言った?」
「由衣子さまがご学友をお連れになって、いらっしゃっています」
「あいつめ…断ったのに来たのか…友だちも一緒だって?」
「はい、お二方」
「勘弁してくれ…」
げっそりとした顔で天を仰いだ。周は母の浅子が嫌いだが、異母妹の由衣子は最早、天敵のレベルだった。帰国してから周が勤める病院に、不意にやって来て散々に困らされた記憶がある。育ての母である浅子の企みだとわかり過ぎる程わかっているから始末に悪い。
浅子は周に何とか花嫁を、と様々な手を使って来る。ただ武たちや有人を本気で怒らせると、反撃が恐ろしいのは理解している。それで最近は由衣子を使うのだ。由衣子本人は兄の為だと本気で信じているから、周にすれば無碍にも出来ずに困ってしまう。
渋々、医学書に栞を挟んで立ち上がった。
文月も周を気の毒には思うが、御園生家の使用人の立場では何も言えない。
「武さまと夕麿が不在なのが、不幸中の幸いだな」
階段を降りながら呟いた。武と夕麿は金曜日の夜から、休養の為にいつものホテルに今日の夜まで宿泊している。部屋は夕麿が年間を通じてキープしている為、滞在時間は自由に出来るのだ。2人がいなくて良かったという周の言葉に、文月も思わず頷いてしまった。
敦紀はデッサン旅行に出ていて貴之も同道している。有人と小夜子は板倉 正巳のデータを得る為に渡米している。義勝と雅久も昨日から以前、新婚旅行に行った温泉にやはり休養に出掛けている。
つまり御園生邸には今、周しかいない事になる。どこかに出掛けていれば良かったと思うが、既に後の祭だ。
「お待たせいたしました」
文月がドアを開けて、由衣子に声をかけた。その後に周が入った。
「お兄さま!」
笑顔で立ち上がった妹に、周はうんざりした顔で答えた。
「由衣子、僕は約束してないぞ」
「あら、だってお休みでしょ、お兄さま」
「僕はまだ研修医の身分だ。休日は勉強をしなければならないんだ。暇じゃないと言った筈だ」
「今日一日くらい良いじゃない」
「お前…学校の勉強をちゃんとしているのか?レベルの低い大学しか行く場所がないなんて事になるなよ?
………で?」
「夕麿さまは?」
由衣子は今でも夕麿の事を諦めていない。
「またそれか…言った筈だ。夕麿の事は諦めなさいと」
「だって、おたあさんが夕麿さまは私の婚約者だって」
「夕麿は既に結婚している。婚約云々はおたあさんが勝手に言っているだけだ。有人氏と武さまの勘気を買ったら、今度こそ久我は潰されるぞ」
父が御園生に屈するのも時間の問題。周はそう見ていた。ここまで保ち堪えたのは賞賛に値する。だが様々な障害を乗り越えて生き残った財閥の現総帥だ。有人は巧妙で辛辣だった。武が佐田川を潰したように、一気に効力を発揮する方法はとらない。ジワジワと真綿で首を絞めるような方法で、確実に久我家とその事業全般が追い詰められていた。周は有人に何度か、やめてくれるように嘆願したくなった。
自業自得─── それがわかっているから黙って見詰めて耐えた。
「それで何の用だ?」
「ひとつはお兄さま、昨日、お誕生日だったでしょ?はい、プレゼント」
「え…ああ、ありがとう」
受け取った小箱には、タイピンが入っていた。久我家は困窮している。
「アルバイトしたお金で買ったの」
「アルバイト?」
「そう。小学生の女の子の家庭教師をしてるの」
恐らくは家計を助ける為だろう。今回の事は由衣子本人にはさほど罪はない。周はそう思って妹の学費を出していた。何よりもこの歳の離れた妹を可愛く思う。第一、彼女も両親の犠牲者だとは思うのだ。
「ありがとう、大事にするよ」
周の目がすっと細くなり、口許から笑みが零れた。
「それでこっちの2人はお友だちの原西 華子さん。こっちは杵崎 玖美子さん。お兄さまに紹介に来たの」
やっぱりかと天を仰いで溜息吐いた。
「由衣子、言った筈だ。僕は当分、恋愛している暇はない。一人前の医者になる為に勉強中の身だ。それに自分の相手は自分で見付ける」
「でも出会いは必要でしょ?」
その言葉が浅子の受け売りだとわかっているので、周は聞かなかったふりををした。
「由衣子、昼餉は?」
「まだだけど?」
「これからランチに行くが、一緒にどうだ?」
「華子さんと玖美子さんも?」
「そうだ」
「喜んで」
満面の笑顔を見て、彼女たちが最初からそのつもりだったのがわかる。
「着替えて来る」
そう言って部屋を出てまた深々と溜息吐いた。
「文月、僕の車を玄関前に。それといつものレストランに、これから行くと。
ああ、個室でなくて良い」
「承りました」
のせられたのは腹立たしいが、そこはやはり妹には甘い周。急いで部屋に戻って着替え、財布やスマホなどをポケットに入れた。
玄関先で自分の車の鍵を受け取り、妹たちを車に乗せた。帰国してすぐに手に入れたBMW。そろそろ買い替え時だと思っていた。次は国産のハイブリッド車を、と考えている。車は武の体調不良で駆け付ける為、必要不可欠なのだ。
レストランに到着すると普通の席に案内された。
「周、食事ですか?」
声を掛けられて振り返ると清方と雫が立っていた。
「ええ。清方さんと雫さんも?」
「たまには外でゆっくりしようと思ってな」
夜まで武と夕麿はホテルの中だ。だから二人もゆっくり出来るらしい。周は興味津々で見ている妹に言った。
「由衣子、護院 清方さまと成瀬 雫さまだ。ご挨拶しなさい」
「初めてお目もじいたさます。久我 由衣子です」
由衣子は前に御園生邸で、二人に会っているが覚えていないらしい。
「周、可愛いお嬢さんたちと食事とは華やかで良いな」
「からかわないでください、雫さん」
由衣子が浅子の意にのせられて、周に花嫁をと言って困らせているのは、もちろん雫も知っている。
「一緒にどうですか、周。 食事は大勢の方が良いでしょう?」
周の気持ちを考えて清方が言う。しかし周は首を振った。
「僕はここで良いよ、清方さん」
雫は武の公務から帰国してから大きな事件があり、数日前まで特務室に泊まり込んでいたのだ。二人でゆっくりとして欲しい。
「では、そうさせてもらおう」
周のおもいやりを感じ取って、雫が笑顔で清方を促した。
「お兄さま、あの方々は?」
「護院清方さまはおたあさんが乳母を務めた方だ。ご母堂さまの高子さまは五摂家の一つ、近衛家のご出身で夕麿のご母堂 翠子さまの異母姉になられる。 つまり僕は六条家繋がりで夕麿と従兄弟同士だが、清方さんは近衛家繋がりで従兄弟同士なんだ」
「ふうん。 もう一方は?」
「雫さんは武さまの父君さまの従弟にあたられる。どちらもご身分が高い方々だ、ご無礼がないようにな」
由衣子の生母は父 周哉の秘書だった女性で、才色兼備で秘書としても有能な女性だ。それでも一般家庭出身の女性で、 早くに由衣子を久我家に差し出したのは、貴族社会で少しでも彼女の立場を良くする為だった。目上の人間に対する弁えを、きちんと覚えさせなければならない。
「はあい」
「何だ、その返事は」
「はい…ごめんなさい」
華子と玖美子はそんな兄妹の姿を黙って見詰めていた。
「さあ、好きなものを遠慮せず注文しなさい」
「やった!」
喜んでメニューを広げる3人を、周は笑顔で見詰めた。願わくば彼女たちが幸せでありますように。そう願わずにはいられない。
彼女たちは良く食べ、よくしゃべり、よく笑った。周はそれを黙って見ていた。デザートまでたいらげて、レストランを出た。
「どうする?どこか行くか?」
浅子に言い含められた事さえ実行しなければ、可愛い妹なのだが…と溜息をそっと吐く。
「いいの!?」
喜んで由衣子が口にしたのは、車で1時間ほど行った所にある遊園地だった。そこにも御園生が出資している。
「ちょっと待て」
邪魔はしたくないが、便宜を図ってもらう為に夕麿に電話を入れた。返って来た返事は、ゲートに係員を待たせておく、というものだった。
3人を車に乗せて遊園地へ向かう。夕麿の指定通り、係員が待ち受けていた。入場の為に並んでいる人々を後目に、別の入口から中へ入る。
「お兄さま、凄い!」
「ここには御園生が出資している。大株主なんだ。さっき電話で頼んだ。言っておくがアトラクションや乗り物には特別はないからな。ちゃんと並べよ」
「ううん、こんなに早く入れただけで嬉しい」
由衣子は早々にもらった園内の地図を広げ、3人で検討を始めた。早めに昼食を摂ったので、まだ13時を過ぎたばかりだ。夕方17時の閉園時間までには、それなりに遊べるだろう。
「電話、誰から?」
「周さんです。由衣子さんやお友だちと一緒に、遊園地へ行きたいのだそうです」
「周さんが妹にまるっきりだらしないのは、ある意味笑えるよな」
「可愛いのでしょう?姉妹はいないのでわからないですが。
あ、電話しますから」
「早くな」
キングサイズのベッドで二人きり。金曜日の夜からずっと、誰にも邪魔をされない時間を過ごしている。静けさの中に電話をする夕麿の声だけが聞こえる。武は紫霄の寮にいた頃を思い出していた。生徒会の仕事がない休日は、こんな風に一日中ベッドで抱き合っていた。二人とも社会人になって、忙しさにこんな時間をすっかり忘れていた。
「お待たせしました」
電話を終えた夕麿が、仰向けに寝て天井を眺めている武を抱き締めた。それに応えて身をすり寄せた。
「何を考えていたのです?」
「昔を…思い出してた。寮でもこうして休みにベッドにいたなって。お前だけを見て、お前の声だけ聞いて…それが、たまらなく嬉しくて、すっごく幸せで…」
「懐かしいですね。でも少し前の出来事にも感じられます。何年も過ぎてしまったのですね、あの時から」
「夕麿、愛してる。苦労ばっかりでごめんな」
「武…」
幸せを貪っていた時間に戻りたいと思う。けれど今が嫌いなのではない。夕麿と寄り添って生きるという事は何よりも幸せだった。
でも…二人だけの時間が少なくなったのが、武には時々寂しくてたまらなくなる。同じベッドで互いに疲れ果てて眠る。触れ合いのない時間が続くと不安になる。
「武、せめて月一でここへ来ませんか?あなたともっと二人でいたいと思うのです」
「俺ももっとこうしてたい」
紫霄にいた頃もいろんな事があった。だが振り返れば懐かしく、愛しい日々だと思う。
「武、私は苦労だとは思っていません」
腰に回された腕が、更に抱き寄せた。
「ン…」
重なった唇が熱い。
「むしろ私は嬉しいのです。あなたと一緒に様々な事を乗り越えて、また愛情が深くなるのですから」
「夕麿…俺、お前が伴侶なのを誇りに思う」
どんな時も真っ直ぐ背を伸ばし、凛とした姿勢を貫く。それはどんな時も武の手本になり、挫けそうな時の勇気になる。
「夕麿、欲しい…抱いて」
両手を伸ばして首に腕を絡めた。触れ合う温もりが、心を満たし癒やす。
「チェックアウトは、明日の朝にしましょう」
「雫さんに連絡を入れなきゃ…」
「後で」
「うん…」
ピアノを奏でるように、夕麿の細く長い指が武の身体を撫で回す。
「ぁ…ン…ヤダ…焦らすな…」
金曜日にチェックインしてから、食事と入浴以外はベッドの中にいる。互いに求め合い、知り尽くした身体に触れ合い、繰り返し繋がった。
「夕麿…も…挿れて…」
「欲しいのですか?」
「欲し…ン…ぁああ…」
ずっと抱き合っていた為、そこは柔らかく解れたままだった。夕麿のモノを吸い込むように受け入れ、熱を帯びた肉壁が包み込んだ。
「夕麿ぁ…」
甘い声で呼ばれると、それだけでゾクゾクと背中を快感が走る。数え切れない程に抱き合い求めあっても、飽くという事を考えてみた事もない。
「あッああッ…夕麿…もっと…」
少し舌足らずになる嬌声も興奮するにつれて、白い肌が桜色に染まる様も欲情に潤む瞳や鮮やかな紅になる唇も、もっと見詰めていたいと想ってしまう。 抱き締めれば抱き締める程、心の奥深くが満たされていく。 武に出逢うまでの孤独は、もうどこにも存在してはいない。
「愛して…います」
乱れる息で愛を囁くと武は切なげに声を上げ、内部がそれに呼応するように収縮する。
「イイ…ああッ…夕麿…夕麿ぁ…」
強過ぎる快感に溺れながら、抗うように首を振る。愛しくて愛しくて…ずっとこうして、抱き締めていたくなる。
武が辛く感じたり、悲しいと思う事を全て、取り除いてやりたいと本気で思う。無理なのはわかっている。それでも愛する人には笑っていて欲しい。こんなにも彼の愛と熱に包まれて、幸せでいられるから。
「武…もっと感じて…もっと、私を欲しがって…」
「ンぁ…ああン…ひッ…ヤ…激し…凄い…」
零れ落ちる涙を舌先で舐めとり、両脚を抱え上げてさらに深く挿入する。
「ダ…メ…そ…ああッ…深いッ…」
「ああ…武…凄い…中が絡み付いて…イイ…あなたの中で溶けてしまいそうです」
「も…イく…夕麿…お願…」
両腕で縋り付いて来るのは、吐精が近い事を示していた。
「私も…もう…」
「一緒…一緒がいい…」
「イってください…」
促すように更に深みを刺激した。
「ひッそこダメぇ…ぁああッあッあッああ…!」
「くっ…武…ああ…!」
武の絶頂の収縮に絞られるように、夕麿は自らの欲望を迸らせた 全てを放出し終わっても、満ち足りた想いそのままに快感が続いていた。
「夕麿…キスして…」
背中の手が口付けを強請るように抱き締める力が増した。乱れた呼吸を整えながら、肘を着いて身を起こし唇を重ねた。
悲しみも喜びも色褪せたりしない。自分たちは運命を分け合って生きている。
眠り込んだ武をベッドに残して、夕麿は音を出来るだけさせないように注意して居間に出た。手にしたスマホで電話をかける。
「夕麿です」
〔武さまのご様子は如何ですか?〕
「まだかなり不安定です」
〔やはり期間が足らないようですね……本来ならばもっと空気の良い自然の中で、ゆっくりしていただくのが一番なのですが…〕
電話の相手は清方だった。公務から帰国して武はそのまま4日程入院した。退院して仕事に復帰したものの不安定な精神状態が続き、発作と顕著に判断出来る程の症状はないが、夕麿が側にいないとその不安定さが増していた。
食事、睡眠、仕事に拒否反応を起こして、何も出来なくなる。夕麿に対する態度は発作時に近い状態。これも発作なのかもしれないと考え、幾つかの投薬をしながら週末を利用して二人きりにならせたのだ。最初は自然豊かな人里離れたホテルに、療養に行かせる計画だった。雫と清方が別部屋で同行するつもりで申請したが、治療の為というのも診断書も功を為さず、許可が下りなかったのだ。それでいつものホテルで休ませる事にした。
公務の精神的負担と武の不安定は、夕麿にも影響を及ぼしていた。投薬こそしなかったが、武を安心させて休ませる為という状況が、少なくとも電話での会話では夕麿には、効き目があったように感じていた。
〔わかりました。 先程、義勝君が帰宅したと連絡を受けました。それを含めて有人氏に、今少しの療養を話して置きます〕
雅久も公務での無理が響いて、食欲低下と低血圧が続いていた。そこで義勝に旅行に行かせたのだ。山間の温泉宿で少しは癒せたのだろう。
また貴之は特務室が人手不足な事もあり、完全なオーバーワーク状態だった。見かねた敦紀が雫に交渉に来て、スケッチの為の旅行を理由に休みを取らせた。
清方は雫に次の公務には人員を増やすように告げていた。武と夕麿のクッションになる人間がもっと必要だと。雫以外が不慣れだったとは言え、今回は余りにも個々に負担があり過ぎた。誰よりも丈夫な周ですら食欲不振で、点滴の世話になった程だ。
当然ながら武にかかった負担は、生半可なものではなかった筈だった。帰路は発熱でほとんど眠ったままにして空港から病院へ搬送した。熱や身体の疲労が治まったのと引き換えるように、武の様子に変化が現れたのだった。
本来、宮としての立場は、武自身が望んだものではない。それでも懸命に役目を果たそうと自分の限界を超えて頑張った結果が、今の状態だからと誰が責める事が出来るだろう。
〔では明朝、診察を兼ねて薬をお持ちいたします〕
「わかりました。よろしくお願いします」
頼るべくは清方だけ。夕麿は不安を噛み殺して、武が眠るベッドへ戻った。
華子と玖美子をタクシーで帰らせ、周は由衣子と二人で夕食を摂っていた。日本料理を食べさせる老舗料亭は御園生系列ではないが、武たちが利用する場所で相良 通宗に頼んで部屋を取ってもらった。
懐石料理を予約してある。二人が席に着くと、早々に料理が運ばれて来た。
「一応コース料理だが、他に食べたいものがあったら注文しなさい」
「お兄さま、太っ腹!」
「下品な言葉を使うな」
清華貴族の令嬢とは思えない言葉遣いを、周は今日一日中注意し続けてうんざりしていた。
「お兄さま、煩い…オヤジくさい!」
「由衣子、今のお前ではたとえ夕麿が独り身でも、嫁に出す訳にはいかないな」
「え?」
「久我家の恥になる。第一、夕麿は礼儀作法に厳しい。庶民育ちの武さまに手を挙げてまで、厳しく教育したくらいだ。千年の歴史を持つ清華貴族の令嬢として、もう少しお淑かになりなさい」
兄として側にいる事は出来ない。武や夕麿に害を及ぼす両親の住む家に、戻る事は絶対に出来ないのだ。久我家は由衣子が婿を迎えて継ぐしかないだろう。
「由衣子、僕がお前の相手をするのは今日が最後だ。欲しい物があるなら幾らでも買ってやる。メールしてくれば送ろう」
「お兄さま……」
「おたあさんの言いなりはやめなさい。僕は結婚はしない」
「どうして?モテないから?」
高校生の割には子供っぽい妹に、周は首を振ってから口を開いた。
「紫霄時代は引く手数多だった…おたあさんに妨害ばかりされたがな。だが僕には…ずっと想い続けた人がいた。僕はその人が傷付き、苦しんでいる時に…何も出来なかった。その人は今、愛する人と幸せでいる。苦労は多いがそれでも幸せだと笑う。僕は…その笑顔を見て、自分の想いを終わらせる事にしたんだ」
「好きならどうして、相手から奪わないの?それが好きって事でしょ?」
「僕にはその人を幸せにする力はない」
「そんなのわからないじゃない」
「………由衣子、本当に好きな人が出来たらわかるよ。一番大切なのは好きな人の笑顔だって」
「自分は幸せじゃないのは嫌」
「それは愛する事を本当に知らない人間の言葉だ。自分の感情を相手に押し付けるのは本当の愛じゃない。由衣子、おたあさんや他の誰かに言われた相手ではなく、お前が本当に愛せる相手を探しなさい」
由衣子は何か言い返そうと顔を上げて、哀しそうな周を見て言葉に詰まった。
「本当はお前を生みの母親の元に返してやりたい。あの家にいてもお前は幸せにはなれないかもしれない。全てをお前になすり付けてしまった僕が、悪いだというのもわかっている。許して欲しい」
「お兄さま!?」
周は座布団を外して、畳に手を突いて頭を下げた。
「僕は医師として自分の道を行く。これは僕のわがままでもある」
歳の離れた異母妹に全てを負わせ、自分のわがままを通す。家は捨てた。病院や御園生家では、名前で呼んでもらうのは、捨てた家の姓を極力使いたくないからだ。
「この通りだ。僕はいないか遠く外国にでもいると想ってくれ。お前の学費は幾らでも出す。留学したいならばその便宜もはかろう。だから僕を捨て置いてくれ」
今日、御園生邸にいきなり来た事は、今後も平然と足を運ぶつもりなのだという懸念がある。武や夕麿に会う事もあるだろう。自分絡みでこれ以上、武を傷付けたくないのだ。武が傷付けば夕麿も傷付く。それだけは避けたかった。
山積する問題に更なる苦悩を、積み重ねるような真似だけはしたくない。
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今度こそ久我家は潰され、周も居場所を失うだろう。それだけは防がなければならない。
「………わかったわ、お兄さま」
「ありがとう、由衣子」
周はもう一度、手を突いて深々と頭を下げた。
「お兄さま…立派なお医者さまになってね」
「ああ…精一杯努力する」
「うん、期待してるよ?」
その後、料亭でタクシーを呼んでもらい、周は運転手に金を渡した。周も自分の車に乗り、御園生邸へに帰宅した。
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スマホを手に清方に電話する。武の様子を聞いた後、由衣子に自分の片想いの話をしたと告げた。その話を浅子が聞いた場合、彼女はその相手を清方だと勘違いする筈だ。間違っても夕麿だとは思わないだろう。だがその結果、浅子が清方に対して何か行動を起こすかもしれない。前以て詫びておかなければならなかった。
清方は周の話を真剣に聞いてくれ、大丈夫だと言ってくれた。何度も謝って電話を切った。
行き場のない憤りと悲しみが、周の心を満たしていた。溢れる涙を拭いもせずに声を殺して泣いた。泣いて泣いて涙が枯れたらもう、こんな想いも封じてしまおう。紫霞宮家の侍医として生きる為に。
ゆっくりと目を開けると、嵌め殺しの窓の向こうは鮮やかな夕焼け空だった。昼過ぎに周から夕麿に電話があった後、抱かれたのは記憶している。どうやらそのまま眠ってしまったようだ。夕麿も傍らで眠っている。
彼も今回の公務の疲れで、かなりの体重を落としていた。けれども皇家の公務には数週間から1ヶ月にもわたるものもある。さすがに悪路をジープで5時間というのはないが、それなりにハードなのが公務なのだ。早朝から夜遅くまで、食事の時間すら公務になる。数百人の人間と挨拶や言葉を交わす。皇家は友好以外の約束は交わさない。
だが紫霞宮の公務は、御園生の国際協力プロジェクトとセットになる。通常のルールからは逸脱しているのだ。
いつか夕麿を解放してやりたい。ずっとそう思って来た。無理させて苦労ばかりさせる。だから夕麿が自分の好きな事を自由にさせてあげたい。
けれど…ここまでの事態になれば恐らくもう無理だ。彼を武の宿命の道連れにしたくない。
いつかは手を放そう。
そう思っていたのに…… 多分、無理になった。名目だけの皇家の一員から、公務を行う本当の一員になった。夕麿の妃としての立場が確立した事になる。後戻りは出来ないのだ。ならば…武の取る道は一つしかない。共に歩いて守り続ける事。
皇家としての公務は紫霞宮が、非公開である限りは海外に限定される。向かう先も限定される。増えれば再び生命を狙われる事があるだろう。
夕麿を守り共にある人生を歩いて行く。現実を受け入れて覚悟を決めなければならない時が来たのかもしれない。
武は唇を噛み締めた。アメリカに留学したばかりの冬、クリスマス休暇で帰国した。再びロサンゼルスへ向かう機内で、「明日を信じる」と告げた。あの時の決意を更に深めたものが、今は要求されているのだと感じる。
自分に何が出来るだろう。
何をすれば良いのだろう。
答えを得るにはまだまだ経験が足らず、学ばなければならない事だらけだ。今回の公務一つを取っても知らない事だらけだった。いざという時に慌てて学んでも、付け刃はすぐに剥がれ落ちる。夕麿から学べない事もある。誰か専属で教えてくれる人を探してもらおう。皇家の一員として宮名を与えられた人間として、相応しく振る舞い生きて行けるように。そうする事で夕麿だけではなく、従ってくれ尽くしてくれる皆への負担も、少しは軽減されるかもしれない。
夕麿の温もりを感じながら、自分のこれからの在り方を考えていた。二人で生きて行く為に。
武が目を覚ましたのとほぼ同時に夕麿も目が覚めたしかし武が何かを考えている様子だった為、敢えて眠っているふりを決め込んだ。現実と自力で向かい合う事も、武には必要だと清方に言われていた。その上で紫霞宮と御園生 武の二つの在り方を、自分の在り方として統合していく決意がいると。分けようとするから無理が出る。人間は本来的に幾つもの顔を持ち、使い分けて生きている。その一つとして自然な形で受け入れる。それが重大なのだと。何故ならば紫霞宮と御園生 武は同じ一人の人間であるのだから。別の誰かになる訳ではない。武はそこを間違えてしまっているのだ。
同時に清方は夕麿に告げた。紫霄時代のように皆で、武を庇い守るだけの在り方はやめるように、と。学生の間はそれで良かった。夕麿たちは未開花の花を守る萼がくで、堅く外部を排除する形で守護すれば良かった。しかし武は社会人になり、一人の人間として開花しつつある。従って萼が堅く閉ざしたままでは、花開く事が出来ないのだ。まずは萼である夕麿たちが開いて花を支える姿に変わらなければ、武の本来的な資質が開いて成長する事はない。
この事に誰よりも先に気付いたのは義勝だった。敦紀も彼らの中では年齢が低いというのに了承している。雅久は了解した上で武の兄としての自分と、臣としての在り方を使い分けている。貴之は元より守護者に徹する決意を紫霄時代から抱いていた。周は最初から一歩引いた形で、武を支え守る姿勢を示していた。ただ彼は自分が抱えた問題が多過ぎる。
最終的な自分の立場に対しての決心が出来ていないのは、守られ支えられている武。そして双方の狭間にいる夕麿だった。
武と共に花として寄り添うのか。それとも萼としての自分を選ぶのか。ただ後者を選択すれば、武との間に距離が出来てしまう。手を取り合い、並んで歩く者ではなくなるのだ。武より数歩後ろを歩く者になる。それは武をさらなる高みには上げるが、更なる孤独へと進ませる事であった。
清方はこれらの事実を並べこう付け足した。
「答えは夕麿さまご自身が、見つけ出さられなければなりません。そしてその結果が他の者のこれからの在り方をも左右いたします。あなたさまが望まれている事は何であられるのか。武さまの願いはどのようであらしゃるのか。よくお考えになってください」
武の不安定さの原因は、企業人となって変化しつつある。それでも久我 由衣子のような存在は、まだまだ武を不安と悲しみを誘う。武にはまだ夕麿の幸せと自分の幸せをイコールする強さがない。自分といない事に彼の幸せが存在すると信じている部分があるからだ。
清方に突き付けられた武の精神状態は、夕麿を激しく動揺させた。武を愛するからこそ全てを捨てられる。そう思い捨てた事が幾つかある。 未練はないつもりだが憧憬は消えていない。だから敢えて背を向けて、目を閉ざして耳を塞いで来た。それが愛の証だとも思っていた。だが武はそんな夕麿の気持ちを、敏感に察知しているのかもしれない。
「全てを捨てる必要はないのです」
清方の言葉が反芻する。一つだけでも自分がやりたい事を求めてみる。武が組み紐に打ち込むように。何もかもを武の為に犠牲にしてはならない。自分の生き方と武と歩む道。紫霞宮妃としての在り方。それらを縒り合わせて、一つにして行くのが人間として本来の姿。
武の創作する組み紐は、数多くの縒った糸を組んで、一つの紐に仕上げる。その美しさと丈夫さは、人と人の理想的な在り方ではないか。
ふとそんな考えが心に浮かんだ。
ああそうだった。音楽も同じだ。一つ一つの音を奏でてメロディーが出来上がる。もっと複雑で美しく壮大な曲は、たくさんの楽器を必要とする。 一つ一つの音は個性的だ。調和する事によって、一つの曲を奏でる事が出来る。
武に寄り添う事だけを考えて、自らの音やメロディーを奏でるのを止めていたのだ。武は夕麿が見ないようにしていたものを、敏感に感じ取って見ていたのだ。だからいつか夕麿が自分を捨てて、自分が憧れるものへ行くかもしれないと思っていたのだろう。その不安が発作時の夕麿に縋る姿を呼び、平静時にはいつか手放す事を思わせたのかもしれない。
───何と愚かな事を考えていたのか。目の前の霧が晴れた気持ちだった。不意に武が身を寄せて来た。夕麿はたった今、目覚めたふりをして武を抱き締めた。
「夕麿」
「何ですか?」
「お腹空いた」
「では少し早いですが、夕食にしましょう。準備が出来るまでに軽くシャワーを浴びましょう?」
「うん」
武の笑顔に夕麿も笑顔で返した。
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BL
人好きのする端正な顔立ちを持ち、文武両道でなんでも無難にこなせることのできた生田雅紀(いくたまさき)は、小さい頃から多くの友人に囲まれていた。
しかし他人との付き合いは広く浅くの最小限に留めるタイプで、女性とも身体だけの付き合いしかしてこなかった。
偶然出会った久世透(くぜとおる)は、嫉妬を覚えるほどのスタイルと美貌をもち、引け目を感じるほどの高学歴で、議員の孫であり大企業役員の息子だった。
御曹司であることにふさわしく、スマートに大金を使ってみせるところがありながら、生田の前では捨てられた子犬のようにおどおどして気弱な様子を見せ、そのギャップを生田は面白がっていたのだが……。
これまで他人と深くは関わってこなかったはずなのに、会うたびに違う一面を見せる久世は、いつしか生田にとって離れがたい存在となっていく。
【7/27完結しました。読んでいただいてありがとうございました。】
【続編も8/17完結しました。】
「その溺愛は行き場を彷徨う……気弱なスパダリ御曹司は政略結婚を回避したい」
https://www.alphapolis.co.jp/novel/962473946/911896785
↑この続編は、R18の過激描写がありますので、苦手な方はご注意ください。
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