一片の契約

翡翠

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薔薇色の夢

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 あの日から瞬く間に1週間が過ぎた。

 要にバレはしないかと玲はハラハラし通しだったが、樹はどこ吹く風だった。それが原因なのかはわからないが、要は欠片にも感づいてはいない様子だった。

「じゃあ、俺は自分のマンションに戻るわ」

 いつものように週末に自分のマンションに戻って行く要がリビングの入口で言った。樹は読んでいる本から顔を上げてこう言った。

「そのまま自分のマンションにいればいいだろう。ここに戻って来る必要はないと思うが?」

「何で?玲が大学に行き来するのに俺は必要だろう?」

「車の手配をすれば良いだけだ。別にお前でなくてもかまわない」

「はあ?何だよ、それ」

「前から言おうと思っていたんだがな、要。ここに来て当然の顔をして何もしない。かと言って食費を入れるわけでもない。家事は全部、玲にやらせっぱなし。正直言って勝手が過ぎる」

 樹は酷く不機嫌だった。

「はあ?ここは兄さんの部屋で、俺は弟じゃないか」

「だからなんだ?私の弟であると言うのを免罪符にして甘えるな。少しは彼を見習え」

 樹の剣幕にキッチンで夕食の用意をしていた玲はオロオロした。ここで家事をするのは行き場所がない自分を、住まわせて貰っているからに過ぎない。できる事をただやっているだけで、要が何もしなくても気にもしていなかった。当然ながら苦痛でもなんでもない。こうしてみると結構、自分はこういうのが好きなんだと自覚したほどだ。

「あの……樹さん、ボクは別に気にしてません」

 おずおずと声を掛けると樹は振り返って優しく微笑んだ。

「玲、そういう問題じゃないんだよ。要は次男とは言え、いずれは嵯峨野のグループ企業の経営に関わっていく。誰かに、しかも自分の友だちに自分の兄の部屋で、何もかもをしてもらって平気でいる事はよくない事なんだよ」

 経営に関わる……それは玲には遠い世界の話だった。

「身近な人間に対しての心配りもできないという事は、経営者として自分の下にいる者たちに配慮できないというのとイコールになる。まさかお前は一生、両親や私のすねかじって生きるつもりじゃないだろうな?」

 厳しい言葉だった。普段は優しく柔らかで人当たりの良い樹の別の顔を見ているのだと思った。

「そんなわけないだろう!?俺は俺なりに考えてる!」

「何をどう考えているんだ?お前は何をしたい?経営者一族としての自分の立ち位置を考えた事はあるのか?」

「俺はまだ学生だぞ!」

 激高して叫んだ要に向かって、樹は深々と溜息を吐いた。

「御園生の子息たちが経営に参加し始めたのは、大学に入ってすぐだったそうだ。最初にアメリカへ留学した子息たちはロサンジェルスの関連会社の建て直しを、わずか数ヶ月で成功させている。確かに彼らは非常に頭脳明晰で大変優秀な方たちだ。私もお前にそこまで求めるつもりはない。しかし……大学の成績は今一つで、友人に対する心配りも出来ないとなればこの先、経営者の一人としてやっていけるのかがとても不安だ」

「御園生の方々は……特別だろ!」

「そうだな。だがその半分でもお前ができたなら、私はこんなに心配はしないよ。お前はあまりにも子供過ぎる。既に成人しているのだからもっと自覚を持ちなさい」

 要を叱責する樹は、企業人としての厳しい顔をしている。だが恐いとは思わなかった。これはこれで一人の男としての自信と責任に溢れていて、とても魅力的だとさえ思えた。

「……兄さんにはわからないさ。兄は優秀だけれど、弟は味噌っかすって言われ続けて来た気持ちなんか。俺は経営者なんかになりたくない。自分の未来は自分で決める……!」

 悲痛な声と顔をする要に玲は何も言えなかった。普段は飄々ひょうひょうとしている彼の中に、こんな想いが隠されていたとは考えた事もなかった。

 要は樹としばらく睨みあっていたが不意に視線をそらして、小さく溜息を吐いてから踵きびすを返した。

「出かける。

 ところで兄さん。いつの間に玲を名前で呼び捨てにするようになったんだ?ついこの前まで『秋月くん』だったよな?」

 背中を向けたまま言葉を投げ掛けて、彼は誰の返事も待たずに出て行ってしまった。

 要の捨て台詞に玲は口から心臓が飛び出しそうになった。樹が自分を『玲』と呼ぶようになったのは、遊園地のホテルでの時からだ。そう呼ばれるのが玲には嬉しかった。しかし要はやはり違和感を感じていたのだろうか。二人の間が変化したのに気付いていたのだろうか。

 声もなくキッチンで立ち尽くしていると樹が呼んだ。少し俯き加減に側へ行くと抱き寄せられた。

「君が責任を感じたり、気に病んだりする必要はないからね?」

「でも......」

「私はむしろ君に感謝してるくらいだよ。私も両親も要を甘やかせ過ぎたと反省している」

「でも、要は凄く良い友人です」

「しかしそれだけでは社会は通用しない。残念な話だけどね。要は私以上に何不自由なくきままに、これまでを過ごして生きてる来た。次男だから家を継ぐ必要もないわけだしね。君を見ていて自分の過ちを気付いたんだよ。要にもっと将来の自覚を持たさなければならないと」

 自分が樹の考えを変えた、という事実がわからない。自分は何も出来ず、何も持ってはいない。むしろ自分がいる事で仲の良い兄弟が、揉めて拗れるのは嬉しくはない。確かに要は無頓着な部分があるのは認める。けれどもそれは彼の魅力だと玲は感じるし、金銭的な感覚が違うのは大学にいる裕福な家庭の者は総体的にそんなものだ。

 玲が要に食事を奢ってもらうのを諌めるのは、正直に言えば自分の都合を押し付けているに過ぎないと思っている。ただ彼が執拗に誘って来れない理由を突き付けただけなのだ。誰かの出した金で贅沢をするのに、慣れてしまう自分を想像して恐れている。本音を言えばそんな理由なのだ。

 慎ましやかと言えば聞こえは良い。ただの貧乏暮らしも『清貧』などという言葉に置換えられる。しかし自分は決して清らかな人間でも、その様な生活を営んでいる訳ではない。単に自分の生活費を稼がなければ生きられない立場なだけだ。

 しかし今日のようなのが繰り返されるのは樹にも要にも絶対に善い訳がない。アパートの部屋の修復も終わったと連絡を受けた。周囲の空き地に学生用に安価で提供される集合住宅が建設されるという話も聞いた。工事の準備も進んでいるらしい。以前よりも人の往来が増え、警察の見回りも増えた話もある。

 もうそろそろこんな夢か幻のような生活から、あの狭いアパートの部屋での現実の自分の暮らしに戻る次期が来ていると思った。もちろんすぐに口にすれば今夜の事が原因だとして、二人とも気にするだろうし引き止められるだろう。どこか昼間の時間が空いている時に戻ろう。全てを破壊されてしまった玲の為に購入された物も、本当はここに残して返却するべきだとは思う。しかし衣類は玲にしか着れないサイズで、PCはないと大学の講義やレポート提出に必要不可欠だ。

 何年かかっても相応の金額を返却しよう。だがその額は増え続け続けている。玲にはそれが心苦しかった。



 休講の合間にアパートの状態を見に戻った。元の大家は既におらず、この辺り一体の土地を買った企業がここも購入したらしい。管理人と名乗る人物に新しい鍵が渡された。見ればアパート全体に改修が施されており、ドアも頑丈な金属製の物に交換されていた。

「ここもいずれは取り壊す事になりますが、あなたのような住人がいらっしゃるので、新しい建物が完成した時点で移っていただく事になるかと思います」

 どういう契約になるかは未定だそうだが、大学に申請すれば家賃補助が受けられるようになるという。そうなれば生活は少しは楽になるかもしれない。大学に所属している間は。

 玲が目指しているのは図書館司書。大好きな本に囲まれて生きられるならば、これほど幸せな事はないと思っている。自分で本を購入する金があまりないので、大学の図書館をフルに使わせてもらっている。その所為で現役の司書たちを顔見知りになり、卒業時に大学に残れる道が開けるかもしれない状態だった。

 樹の会社にこのまま社員と残るように要請されてはいる。だが契約とは言え身体の関係を持った間柄で、しかも卒業後はそれも終わる。何事もなかったかのような顔で在籍できるほど厚顔無恥ではないつもりだ。ゆえに大学図書館の司書の誘いはあり難かった。

 同時に要との友人関係もその辺りで終わるだろう。本来ならば出会えなかったかもしれない相手で、大学のキャンパスというフリーな場所だからこそ出会い、友人としての時間を過ごせているだけ。卒業すれば互いの道は分かたれていくのは考えなくてもわかる。

 別の部屋のように綺麗になった部屋に入って、玲は自分を強く戒めながら進むべき未来を思い描いていた。

 部屋には新たな持ち主の配慮で、最低限必要なものが揃えれていた。食器や調理器具は買いなおさなければならないが、近年は安価で何でも揃う店がある。玲一人が使う分にはそれで十分間に合う。冷蔵庫や洗濯機も設置されている。大丈夫だ、ここに戻って来ても生活できる。できるだけ早く樹のマンションを出よう。部屋を破壊した犯人は見付かってはいないが、それでも玲は戻って来る決意を固めたのだった。

 ホッとして大学に戻ると入口で要が待ち構えていた。

「玲、どこへ行ってたの?」

「どこって……」

「俺も休講になったからお茶にでも誘おうとしたら姿が見えないから……お前が門から出て行くのを見たって奴がいて、その内帰って来るだろうと思って待ってた」

 機嫌が悪いのを隠そうともしない彼の態度に玲は困った顔をした。

「どこへ行ってた?」

「大袈裟だなあ……アパートの改修が終わって連絡を貰ったから、ちょっと見に行って来たんだ」

「アパート?何で一人で行くかなあ」

「要の方も休講だって知らなかったもの」

 一人で行きたかったからとは言えない。まだ樹のマンションを出る話はしない方が良いと思って、敢えてそれ以上は口にを噤つぐんだ。

「で、どうだった?」

「綺麗になってたよ。外観も綺麗になってたし、ドアも頑丈な金属のに変えてあった。鍵も新しいの貰ってきた」

「……」

 鍵の話をした途端、要がまた不機嫌な顔になった。

「要……どうかした?」

「あそこに戻るつもりか?」

「……あのね、樹さんのマンションにいつまでもいられないでしょ!」

「他のところへ引っ越せばいいだろ!」

「ボクにそんなお金はない。あそこだってぎりぎりなんだから。要にはわからないのかもしれないけど」

 口を出さないで欲しいと思う。要と自分は違うのだから。

「じゃあ、俺の部屋に来いよ。大学には近いし、部屋もある」

「彼女が来るたびに追い出されるのはイヤだ」

 彼のマンションにいればきっと、樹と付き合っているのがバレてしまうだろう。いつかはバレる事でも今はまだ覚悟ができてはいない。

「兄さんに相談してみよう?」

「……」

 今度は玲が不機嫌になる番だった。話にならないとばかりに要を押し退けて、次の講義の為に足早に歩き出した。

「玲?待てよ……おい!」

 追い縋ろうとする要をさらに振り払って、逃げるように立ち去った。


 その日、玲は要と一切の言葉を交わさなかった。要も少し離れてこっちを睨んでいた。どうしても譲れないものは譲れないのだ。従って自分から歩み寄るつもりはなかった。

 当然ながら樹もすぐに気付いたが、敢えて口出しはして来なかった。要も彼に何も話してはいないようだった。同じマンションで生活しながら言葉も交わさず、視線も絡ませない。食事は同じテーブルで摂るが、後は要が部屋に篭ってしまう。

 大学でも所属している学部が違うと会おうとしなければほとんどすれ違いになって顔を合わさない。樹のマンションを出る時間も違ってしまった為、玲は自分の荷物をアパートに少しずつ移動させ始めていた。とは言っても私物はあの事件で使えなくなったので、今の玲の持ち物はあの日に大学に持って行っていた物と着ていた服くらい。それ以外は全て―――PCや教科書などを含めて―――樹が買ってくれたものだった。本当はここに置いて行くべきなのかもしれないが、そうなると衣類も学校に必要なものも手元になくなってしまう。いずれこれの代金も彼に返済しようと誓って、今は厚意に甘えさせてもらう事に決めた。

 玲は手持ちのお金を出して口座の使えるお金とあわせて考え込んだ。正直に言うと電化製品の実際の値段を知らない。多分、使える金額では足らないだろう。一応は新品を見には行くが、実際はリサイクルショップを探して金額に見合う物を買い揃えるしかないだろう。冬になった今は暖房もなければ過ごすのは難しい。



「玲」

 また不機嫌な顔で夕食を摂った要が、無言のままでマンションを出て行った。

 洗浄機に軽くぬるま湯で洗った食器を入れていた玲は、その姿をキッチンの片隅からやはり無言で眺めていた。

 樹の声がかかったのは、食器を入れ終わってスイッチをONにした時だった。

「はい」

 返事と共にダイニングからリビングに移動していた樹の側に行くと、抱き寄せられ半ば強制的に膝の上に座らされた。頭に手を当てられて唇を重ねると、玲は頬が熱くなるのを感じた。

「一つ訊いてもいいかな?」

「何でしょう?」

 ずぐにまた唇を重ねられる近さで樹が言う。

「喧嘩の理由はこの前の私の発言?」

「いいえ。違います。理由は......価値観の違いです」

 少なとも彼は玲の感覚はわかってくれると信じたかった。

 樹は玲から少し視線を外すと溜息を吐いた。

「あの子にも困ったものだ......で、具体的にはどういう状況だったのかな?」

「あの......」

 樹に何も言わずにアパートへ戻る準備をしているのは、やはり後ろめたくて口ごもってしまう。

「君がアパートに戻る準備をしているのと関係がある?」

 やはり気が付いていたのだ。それでいて何も言わずに玲の思うままに任せていてくれたのだと知る。

「......勝手にごめんなさい」

「君があやまる事じやないよ。むしろ君らしいと思ってた。ちょと寂しくなるから残念だと思うけどね」

 本当はここにいられたら......とは思う。しかしそれは今の玲にとっては分不相応な望みだ。

「で?」

 要との行き違いを話す様に促される。

「その、アパートの改修が終わったって連絡をもらったので、どんな状態になったのかを確認に言ったんです。ちょうど休講になったのでその時間で。そうしたら要の方も休講だったみたいで......」

 どこに行っていたのかと問い詰められた事。アパートに帰る事を反対された事。そして最終的には樹に何とかしてもらえばいいと言われて、玲が会話を打ち切ってその場を離れた事を正直に話した。

「要のマンションはご両親が賃貸料金を出していますし、樹さんにどうにかしていただくのはここにこのままいるのと同じ事になります」

 愛人契約の事を要が知らない以上、彼の申し出は普通の感覚とはかけ離れていると玲は続けた。そこに要自身が労働で得た収入すらかかわっていない。誰かが困っている友人の分まで何とかしてくれる筈だと言う考えは、どんなにねじ曲げても玲には受け入れられない感覚だった。

 せめて樹に......というのが本人の口から出たのであればまだ違う対応をしただろう。 しかし要は勝手に兄の手を借りる事を口にしたのだ。玲からすれば要は自分の両親や兄を、財布かATMのように扱っているのと同じだという意識がないように感じた。

「要の周囲にいる人の中には要のそういうのを利用する人がいます。本人はわかっているつもりになっているけど......」

 裏で結構な事をいう人間もいると匂わせた。

 桜華学園は貴族、富豪などと庶民が入り混じって所属している。奨学金制度もしっかりしている。そもそもは大体が身分や実家の経済状況でグループが出来ている。この方が軋轢あつれきが少なくて済むからだ。ところが要はそういうのを気にしない性質で、彼の取り巻きにはいろんな人間がいる。金目当ては嫌いと言いながら、表向きはそうでない顔をする者を完全には見切れてはいないのだ。

「今回のアパートが荒らされた件でここにお世話になっているのを、要は当たり前の事として周囲に話しました。ほとんどの人がボクに無事で良かったと言って、講義のコピーを出してくれたり集めてくれたりしました。教科書も上級生から貰って来てくれた人もいます。

 でも嫌味を言って来たり、不快な噂を流そうとした人たちもいます。彼らは口をそろえて今回の件は、樹さんと要に同情してもらう為に自作自演した事だと言いました。もちろん警察が介入しているわけですし、ボクの自作自演であるなら既に判明していると思います。でも彼らは事実はどうでも良いんです。自分たちでなくボクが一人勝ちで、このような待遇を受ける事を良くは思わないだけなんです。自分たちが得る筈の甘い汁が減るとでも思っているのか……ボクが度々、要を諌めているのが気に入らないのでしょう」

 彼らの嫌がらせは軽いもので今のところの実質的な被害はない。もちろんアパートの一件に彼らが関係している様子でもない。けれども玲は自分が二人に良くしてもらう事で彼らの不満が募って、いつかは要に対して過度の依存や欲求を突きつける者が出て来る気がする……と話した。

「要はそこがわかっていません。あまりにも無防備すぎます」

 嘘偽りのない素直な気持ちを吐露する。

「それは……申し訳ない。どうやら兄弟揃って傲慢な勘違いをしていたようだね」

「そうではありません。ボクが樹さんと要の立場になったとしても同じ事をします」

 玲は樹の目を覗き込んできっぱりと言った。

「でも世の中には理解しがたい考えを持つ人がいます」

「わかっているつもりだけれど、君や要の周囲にいるのはどういうタイプかのかな?」

「はっきり言えば自分が優遇されずに、別の誰かが何かをしてもらうのを嫉む人間です。今回、ボクは自分の持ち物を全てと言っていい状態で失いました。あのままでは大学での勉強もままなりませんでした。樹さんにそれらを揃えていただいて、大学ではテキストを上級生に譲っていただいたり、今年度版と違う部分とかこれまでのノートをコピーしてもらいました。みんな心の優しい善意です」

「良い友人たちに恵まれるのは君が彼らに同じように優しくしているからだ」

「だと嬉しいのですが……」

 樹にそう言われると少しくすぐったい気持ちになった。

「で?」

「するとわざわざやって来て周囲の関係ない人たちにも誇示するように言うんです」

『お前は得だよなあ!嵯峨野 要に取り入ってその兄貴にもいい顔して、強請れば何でも買ってもらえて。しかもそれでも飽き足らずに強欲に、みんなにも助けてもらうんだからな!兄貴と弟、どっちをたらし込んだ?ああ、両方か!他の奴らも誘惑したのか?何人相手にした?』

 彼らの暴言をそのまま樹に話す事はできなかった。たらし込んだ、と言われればある意味で反論はできない。契約とは言え『愛人』になって金品を受取っているのは事実なのだ。だから『兄貴と弟』以後の言葉は口にしなかった。

「ふむ、それは厄介だね。その手の輩は何を言っても耳を貸さない。要は彼らの事を知ってるの?」

「取り巻きの中にいますから。でも要の前では真逆の事を言います。先程の言葉も誰かが耳に入れたかも知れませんが……多分、根拠のない誹謗中傷だと思っていると思います」

「彼らは君に暴言以外の嫌がらせはするのか?」

 そう問い掛けた樹の顔は厳しくなっていた。

「いえ、言葉以外の行動に出れば要に自分たちがしている事を知られると思っているでしょう。嫌味はしきりに言ってきますが、今の所はそれ以上の事はしては来ません」

 そんなものに一々傷付いたり気に病んだりはしないと、玲は樹に笑って見せた。

「ボクが心配なのは彼らが元から要にたかる傾向にある事なんです。要は多分、頼られているくらいにしか感じていません。このままボクがここに居続けるとエスカレートする心配があります。そうでなくても最近、要もこっちにいるのを彼らは知っているので、彼の部屋を使わせろ的な事を言い出している様子なんです。もしも彼らが要の部屋をよくない事に使ったとしたら……要にも何某かの禍があるかもしれません」

 もちろんここを出てアパートに戻る一番の理由は口には出来ない。だが今口にしている事も真実であり、心配している事であるのは嘘偽りのない事だった。

「わかった。要の事は私が何とかする」

「はい」

 要と出会っていなかったら、きっと今も一人でキャンパスで過ごしていただろう。

「玲、でも週末にはここへ泊まりに来て欲しい」

「はい」

 樹が望むのであればと思う。

「約束したよ?」

「はい」

 返事と共に微笑めば樹も笑顔になった。そのまま顔が近付いて来る。玲はそっと目を閉じて彼の唇が降って来るのを待った。そっと重ねられ口付けはそのまま深くなる。舌先を絡めながら抱き締められてから唇が放された。

「ああ……」

 官能の色をした溜息が漏れる。

 樹の唇はそのまま玲の細い首に移動し、片方の腕は玲の背を支えもう片方はシャツ越しに胸を撫でる。すぐに口付けの刺激でぷっくりと膨らんだものを探り当てて、軽く抓るようにされて声を上げた。

「や……ダメぇ!」

 全身をゾクゾクと快楽の波が押し寄せる。

「ん?いやじゃないだろう?」

 シャツのボタンを外しながら意地悪く言われて、玲は目の前の顔を睨んだ。

「そんな顔をしても誘ってるようにしか見えないからね」

 開いた胸元から手が差し入れられ、今度は直接爪で乳首をつままれた。

「ひぃ!」

 いきなりの強い刺激に悲鳴と共に身体が揺れる。少しずつ……少しずつ、こうして自分の身体が作り変えられていくのを感じていた。この先はきっと……樹に触れられなければ耐えられない身体に変わってしまうだろ。でも……そうなってしまったらばどうすれば良いのだろう?未来に待っているのは別れ以外の何ものでもないのだから。大学を卒業すれば契約は終わる。樹は自分の前からいなくなる。その時に自分は、すっかり作りかえられてしまった身体は、どうなってしまうのだろうか。触れられ感じさせられる悦びに、まだ来ぬ未来への不安が混じる。

 生きていけるのだろうか。いや、今度こそ生きるのをやめてもいいのかもしれない。樹に抱かれる温もりと要たち友人の優しさが消えてしまわないように。だから何もかもを記憶しておこう。

 唇が胸へと降りて来る……と玄関のドアの開閉音が響いた。驚いて樹と視線が絡んだ次の瞬間、玲は弾かれたようにキッチンカウンターの向こうへ駆け込んでいた。

 慌ててシャツのボタンを留めて服を調え、リビングに瀬を向けるようにして冷蔵庫のドアを開けた。

 リビングのドアを開けて要が入って来た。

「出かけたんじゃなかったのか?」

「ちょっと忘れ物を取りに来た」

「急ぐのか?誰かと約束でも?」

「別に」

「だったらちょっとそこに座りなさい」

「何?またお説教?ウザいんだけど?」

 いつもの要らしくない言葉だった。
 
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