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講義の時間割をバイト先に届けるために、弘夢はキャンパスを足早に通り過ぎて駅に向かった。
家の最寄り駅から大学、大学からバイト先。休日は家からバイト先へ行くのを考慮して、定期券を家からバイト先の最寄り駅に切り替えた方がいいのかもしれない......と、今現在の財布の中身を考えながら歩く。定期券二つよりもひとつの方がわずかだが安くなる。バイト先への交通費は支給されるとは言われたが、どこからを申請して良いのかが今のところ不明なのだ。
「弘夢」
バイト先への切符を買って改札を通ろうとした時だった。不意に後ろから声をかけられた。
「悠貴?何?」
腕を組んで仁王立ちする彼とその後ろでニヤニヤ笑う女にうんざりする。
「切符なんか買ってどこへ行くんだ?」
「どこって、バイトだけど?」
普通に答えるとさらに彼は不機嫌になった。
「何の用?俺、急いでるんだけど?」
悠貴の不機嫌の理由が今一つ弘夢には理解できない。ただ今は本当に急いでいた。
「バイトって兄貴の会社だよな?」
「そうだよ?わかってるなら聞かないでよ」
急いでるのに何を、と腹立たしくなる。
「用はそれだけ?もう行っていいかな?急いでるんだよ」
「本当に兄貴の会社でバイトするのか?」
「そうだよ。セキュリティの問題とかで一般公募はしないんだって。で、昨日、いきなり連れて行かれて面接受けたの。だから今日は講義の予定とか提出して、セキュリティとかのパスもらう。上の人の時間の都合もあるから急いでるわけ」
昨日、悠貴も聞こえる状態でバイトについて和臣が口にした。聞いていないはずはないのだ。それをこうしてわざわざ問いかけてくるのは、正直言って時間の無駄にしか思えない。
「はい、返事したからね。じゃ」
「おい、弘夢!待てよ!」
悠貴を振り切るようにして改札を通り、帰宅するのに利用するのとは逆の車両に乗り込んだ。
今度はスマホが震える。チラリと見ると和臣からだ。
『弘夢、来れそうか?』
『あ、うん。今、電車乗った』
『了解。最寄り駅に着いたら連絡くれ。通用口に降りるから』
『うん、わかった』
『弘夢、好きだぜ』
『ば、バカ!』
スマホを握りしめたまま、顔が瞬時に熱くなった。きっと真っ赤になっているに違いない。で、和臣は多分、スマホの向こう側で笑っている。
そう思い至るとムカつく。本気なのか、からかっているのか、時々境目がわからなくなる。
バイトの打ち合わせはスムーズに終わり、そのまま作業に就いた。
驚いたのは構成している社員たちの有能さだった。貴族階級の人間も自分たち一般人も変わりなく、熱心にモニターを見つめてキーボードやマウスを使用している。
弘夢は雑用や彼らの飲みものを用意したり、指示された作業を行うのが役目だ。
ただ、弘夢には触れられない場所のセキュリティもある。一番の例が最上階で、ここは和臣もダメらしい。一番強力なセキュリティが掛けられ、外部の人がプログラミングしたらしい......というのしか和臣も知らないという。何でもセキュリティを破壊して侵入されたことがあるのだとか。
「怖いね、それ」
「社のトップが詰めている所だし、身分の高い方々が出入りされてると聞いてる」
「あ~それは厳重になるな」
「最上階のセキュリティのチェックをチラリと見たことがあるが、あれを組んだ人間は天才だな。あんな複雑なの、俺には扱えん」
「凄いね。でも外部の人って言わなかった?」
「上つ方にはいろんなお知り合いがいるだろうさ」
「そういうものか~」
ファミレスで夕食を摂りながら話をする。
「今日、ギリギリだったが、何かあったのか?」
「う~ん......」
できれば告げ口じみた行為はしたくはないので、思わず口ごもってしまう。
「悠貴か」
「うん......」
「今朝、俺にも何かグダグダ言って来たからな」
「そうなの?何がしたいのかな?」
「邪魔したいんだろうが、理由がわからん」
「あの女が後ろで笑ってた」
「あの女......悠貴に何を吹き込んでるんだ?」
悠貴の言動の背後にいつも彼女の影が見えて、弘夢は不安と不快さが入り交じる気分になる。和臣も似たような状態らしく、顔を見合わせて同時に深々と溜息を吐いた。
「人の恋愛に口挟む暇があったら、自分の彼女の本性見破る努力をしろって言うんだ。あれの脳内花畑はいつになったら枯れるんだろうな」
「だね……」
半ば氷が融けて薄くなったコーラを飲みながら、弘夢は悠貴の背後でニヤニヤと笑う女の顔を思い出した。
「彼女は確かに美人だとは思うけど......」
彼女は華やかでほっそりした身体も綺麗だと思える美人だ。並んでいるだけならば悠貴とはお似合いだとは思える。キャンパスでもきっとそう思われてるだろう。
「美人?あの程度ならその辺にざらにいるが?弘夢は本当の美人を見たことないんだな」
美人に本当も嘘もあるのか?と弘夢は首を傾げた。どちらにしても容姿はそれこそ平凡で、性格も普通な自分とは縁のない話だと思う。
ただ平凡ゆえに目立たないのは有難いと思ってはいた。同性婚が認められているとはいえ、まだまだ偏見は根強いものがある。この広いキャンパスを行き交う学生に自分と同じ性嗜好の人間はいるだろうとは思う。けれど公言している者は見たことがない。それだけ難しいということなのだと弘夢は感じていた。
人の中には『病的』と表現をしたくなるほどの、強い嫌悪をむき出しにする人もいる。実際にそんなに遠くない過去には『同性愛』は病気として、どう考えても非人道的な治療法が使われていたとも言われている。世界を振り返ればまだまだ同性愛を禁じて、激しい処罰まで与える国や民族、宗教も存在している。
たとえ同性婚が認められても、マイノリティが歩む道はまだまだ険しくゴールは遠い。
弘夢は幸いにも両親が息子の状態を受け入れてくれた。悩んだり戸惑ったりはあったであろうが、彼らが息子に望んだのは『幸せ』だった。
そして......弘夢にしても孫の顔を見せられないのは申し訳ないと思う。けれどこれが自分なのだと自分自身を受け入れるまで、弘夢自身が悩んだのも事実だった。
少数派であること。初恋の相手である悠貴には異性の恋人がいて、決して自分には振り向かないとわかっていること。
恋敵として辛辣な言葉を交わしながらも、美加は唯一の理解者だった。彼女は最初から弘夢の同性愛を受け入れ来てくれた。
両親の理解と美加がいなかったら、弘夢は中学生くらいで自暴自棄になっていてかもしれない。
いや、和臣もありのままの弘夢を普通に受け入れてくれていた。悩んでいた時期も両親に素直に正直に、自分のマイノリティについて話すようにと促してくれたのは彼だった。ずっと見守ってくれていたのだ。悠貴しか目に入っていなかった弘夢に呆れもしないで。
それとも、哀れに思われていたのだろうか?
和臣はそういう人じゃない。悠貴ならそうかもしれないが、彼は誰かを上から見下す様なことはしない。
悠貴の態度にあまりにも慣れ過ぎて、他人が自分を見る眼差しを悪く考えてしまう自分に苦笑する。
何と自虐的だったのだろう。視野狭窄になっていたのだ。和臣のお陰でやっと周りを見る気持ちが動けたのかもしれない。
美加に和臣と付き合うことになったと言うと喜んだ。
「人のことは言えないけどさ......悠貴は特にあんたには酷かったと思うのよね、あの女と付き合ってからは余計に。あれはないわ。
あ~あ、私も誰かいい人探そうかな。悠貴はもういいわ。たとえ振り向いてもらえても願い下げよ。最近は周囲の人にもあまり良く思われてないみたいだし」
「そうなの!?」
「私、学部同じでしょ?だから周囲の声が、嫌でも入って来るのよ」
「ホント、どうしちゃったんだろね。昔はそこまで酷くはなかったのにさ」
「ま、諦めるしかないわ。あれはああいう奴だったんだって。ある意味、子供時代の自分と決別かな~」
彼女にも何事か思うところがあるのだろう。
「美加が決めたならいいんじゃないない?でも俺とは変わらずに友だちでいてくれるよね?」
「当たり前でしょ?私たち親友じゃないの!」
「うん。ありがと」
実は美加とはよく一緒にいるため、カップルだと思われる時がある。だが今現在口にしたように、『親友』というのが一番しっくりくる。
バイトへ向かう時にはいつも悠貴がどこかで待ち伏せて、執拗に何かを言ってきたり睨んできたりする。なのに何がどうなのかはハッキリと言わない。苛立って弘夢が彼を振り切って立ち去る、と言うのも理由であるのかもしれないが。
和臣に相談してみるべきなのだろうが、兄弟喧嘩はして欲しくはないというのが本音だ。できれば和臣を煩わせたくないとも思う。
バイトの帰りは毎日ではないにしても和臣の車で、それなりに夜も更けての時が多い。もちろん、和臣は時と場合によっては泊まり込みで仕事をするので、弘夢はまだ公共交通機関が動いている時間ならそれで、終わった時間まで残ったらならば領収書を提出すれば返金されるためタクシーで帰宅する。
実際に現場に行って働いてみれば、SEという仕事はかなりハードだとわかる。しかし和臣に言わせるとまだ配慮が行き届いている企業なのだそうだ。少なくとも上層部は彼らの仕事に対する理解が深いのだそうだ。
和臣の友人で他企業へ就職した人の上層部は、そもそもの知識が皆無で無理難題をさも簡単にできるだろうと言ってくるそうだ。
「コンピュータを魔法の箱かなんかと勘違いしてるんだろうなあ......」
と友人はこぼしていたそうだ。
御園生では遅くまで勤務していると夕食だけでなく、夜食も朝食も手配される。シャワールームや仮眠室まであるのには弘夢も驚いた。
実際にあらたなシステムへの切り替えなどは、週単位で泊まり込みになる場合もあるらしい。また決算時期などは社内で末端機器がフル稼働になるため、トラブルが発生したらすぐに対応しなければならない。
もちろん比較的に余裕がある時もある。そんな時は弘夢にいろんなことを教えてくれたり、雑談に興じたりする。
実際に和臣たち社員SEがどれほどの収入を得ているのかはわからないが、弘夢のバイト時給はかなりの額だ。
バイトはしなければならなかったので、ファーストフード店か居酒屋でもと考えていた。けれど今は比べ物にならないほどの金額を得ている。お陰で夏休みにはほぼ連日出勤したこともあって、PCも和臣が選んでくれた最新の高スペックのデスクトップとノートがすぐに買えたし、必要なソフトも周辺機器も揃えられた。家にもそれなりのお金も入れることができていた。
和臣との仲はまだまだ恋人とは呼べない状態が続いていた。ひとつには彼が忙し過ぎるというのもある。デートはすることはするが、内容はまるで初々しい学生の様だ。もちろん、深い仲にはまだまだ遠い。
それでも弘夢は自分の心がゆっくりと和臣へと傾いていくのを感じていた。悠貴の嫌がらせに近い態度も理由の一つだった。
近かったはずの人間が一番遠くて、さほど距離を考えたことがなかった相手が一番近くにいる。不思議だなと弘夢は思った。変わらないのは美加だけというのも不思議だが、嬉しくも感じられた。
十月も末の金曜日、弘夢は校門前ののロータリーに向かって急いでいた。和臣と今夜から旅行に出る予定になっていて、彼は社から早めに帰宅して自分の荷物と弘夢の荷物を乗せて、車で直接迎えに来る約束になっていたからだ。もちろん、弘夢の荷物は朝に玄関の上がり框に置いて来た。双方の両親が了承した上での旅行だった。
「弘夢!」
「え?あ、美加」
「何?急いでるの?」
「うん。ちょっとね」
「デート?」
「旅行」
「ええ!?いやいよかあ......」
美加が嬉しそうに背中を叩いた。
「痛いよ、美加。それにいよいよって何?」
「ヤダもうしらばっくれて!」
美加はとても楽しそうにニヤニヤと笑う。初めは意味がわかっていなかった弘夢だが、美加のその顔を見ているうちにその意味を理解した。瞬時に頬にカッとばかりに熱を感じた。
「お、赤くなった......やっと意味がわかったわけ?」
「い、いや......だって......」
「もしかして弘夢、あなた......旅行ってそういうのも含むって考えてなかったの?」
「うん......」
和臣に誘われたこと自体が嬉しく、二泊三日の間はずっと一緒だというのにも浮かれていた。
「ほんっとに子供ね~和臣さんが可哀想。あ、でもそこが惚れどころとか?」
彼女はまるで自分が恋をしているかのように楽しそうだった。
「美加はさあ......」
「何、何?」
「美人なんだから良い奴見つかるよ」
「とーとつに何よ」
ぶっきらぼうな口調で言って横を向く。『唐突』がひらがなっぽい言い方になってるのは、きっと照れているからだろう。普通に女の子が好きになれていたら、美加みたいな子がいい。でもどこまでも異性とは恋愛にならない友情の平行線だ。
「あら、和臣さんはまだみたいよ」
確かに校門前のロータリーに見慣れた和臣の車はない。
「う~ん、上手く仕事から抜けられなかったのかも。遅くなるなら連絡来るだろうから、もう少し待ってみるよ」
「じゃ、私も付き合ってあげるわ」
一人で立っていると間違いなく、悠貴が見付けて絡んで来る。しかも彼の後ろでほくそ笑む麗巳がいるのだ。
思わず周囲を見回して二人の姿がないのにホッとする。
「悠貴?」
「うん。最近、出会すとネチネチと絡まれるんだ」
「うわっ、陰湿ね~ああ、ヤダヤダ」
今のところ執拗に追いかけ回されて、嫌がらせとしか言いようがない行為に出られているのは弘夢だけらしい。やはりこれは和臣絡みだからなのだ。
「それで何処へ行くの?」
「知らない」
「あらら、和臣さん任せ?」
「うん。でもも御園生系列のホテルに宿泊するって言ってた。割引があるからランクが少し上の部屋が取れるんだって」
「おお、和臣さん、勝負にでたのか」
「はあ?勝負って何?」
美加の言うことは時々意味不明だ。弘夢がわからないだけなのかもしれないが。
「あの......」
不意に背後で声がした。驚いて二人同時に振り向いた。水色のフレアスカートに白いブラウスの女の子が、戸惑った顔で立っていた。
「?」
知り合いか?と美加に視線を向けると彼女は首を振った。
「えっと......どこかで会った?講義が一緒とか?」
弘夢も美加もサークルには所属していない。
「いえ......多分、私が一方的に知ってるだけです」
唇を引き結んで一歩前に踏み出して来た。美加が何かを理解したのか、そっと弘夢から離れる。
「俺に用?」
弘夢が何となくこう問いかけると、彼女はコックリと頷いた。
「じゃ、まず名前教えてくれ」
どこかですれ違っているのかもしれないが、顔に見覚えがないゆえに当然ながら、名前も知らない。
弘夢の言葉に彼女は少し悲しそうな顔をしてから、袖を掴むようにしてギュッと拳を握りしめた。
「わ、私、鈴原 メイって言います」
「鈴原さんね」
「あの......美加さんと付き合ってはいないって、本当ですか?」
弘夢は少々うんざりした顔になった。男女間に友情は存在しないと考える輩の何と多いことか。こんな所まで追いかけて来て言うことはそれかと思う。
「私!あなたが好きです!美加さんとお付き合いしてられないなら、私とお付き合いしてください!」
周囲に聞こえるのを考えて言っているのがわかる。そうやって衆目を集めて、弘夢が断りにくくする計算なのが丸わかりだ。
弘夢と同時に美加も深々と溜息を吐いた。
「ごめん。俺には付き合ってる人がいるから無理」
「え?今、美加さんとは付き合ってないって言ったじゃないですか!」
「あのね、弘夢の相手は私限定なわけ?失礼しちゃうわ。まるで私にも弘夢にも他の人間関係がないみたいじゃないの!」
腹を立てたのは美加の方だった。
「付き合ってる人がいるって、嘘なんでしょ!?」
「何でそうなる......」
頭が痛い。悠貴の次はこの女か。
「勝手に……」
うんざりして口を開けかけた時、ロータリーに和臣の車が入って来て二人の傍らに停車した。
「弘夢、すまん!」
和臣は謝罪の言葉を口にしながら、車から降りて二人の間に割り込んだ。それを見て美加が噴き出す。
「や~ね、もう。ホント露骨よね、和臣さんて」
「お前が弘夢に引っ付いてるのが悪い」
「はいはい、それは申し訳ございませんでした。
ね、旅行に行くんだって?」
「夏休みもゆっくり取れなかったんでね」
「おお~」
彼の言葉を受けて美加がニヤニヤする。
「何だ?お前って腐女子系か?」
「悪い?」
美加も和臣には幼い頃によく遊んでもらってたから、今でも仲良しの幼馴染みのご近所さんだ。
「あの!」
和臣の登場ですっかり忘れられたメイが声をあげる。
「先ほどの答え、聞いてないんですけど!」
「あら、まだいたの?」
美加が呆れた声を出す。
「ん?ひょっとして俺、タイミング悪かった?なになに修羅場?」
和臣がメイを見ながら言う。弘夢が異性に興味がないのは、和臣もよく知るところだ。現在の弘夢の相手は自分であるのもあって、余裕綽々で笑っている。
「答えって......あのさ、俺はさっき言ったよね?付き合ってる人がいるからって。それが嘘か本当かなんてどうでもいいじゃん。俺はまず君とは付き合わないって断ってるんだから」
「振られる側には納得できる理由が欲しいです!」
「この子、何でいちいち叫ぶんだ?」
和臣が不思議そうに口を挟む。
「ああ、それは弘夢が断りにくくするためね。全然効いてないけど」
「なるほど」
二人して好き放題なことを言う。
「それはキミの都合。俺は関係ない。君が納得しようとしまいとNOはNOだ。変わらないよ」
「でも......でも!」
「悪いけど迎えが来たから」
弘夢は取り付く島も与えない。
「和臣さん、お待たせ」
「おう、いいのか?」
「うん。大丈夫」
「じゃあな、美加」
「今度、何か奢ってよね!」
「時間があったらな」
「弘夢には時間作るくせに」
「そりゃな」
和臣はさっさと弘夢を助手席に乗せて、美加に軽口を叩いてから車を発進させた。
鈴原 メイと名乗った女の子はまだその場に立って、ジッと睨むようにこちらを見ていたが弘夢は無視した。
「お前、モテるんだな」
「さあ?どうだろ。普段は美加との仲を勘違いされてるから、あんな風に寄ってくるのはいないんだよね。もちろん、美加とは幼馴染みだってちゃんと言ってはいるけどさ」
「よっぽどお前が好きなのか、それともほかの思惑があったのか」
「知らない。関係ないし。そもそも男でも女でもああいうの嫌いだから。美加がいてくれて助かったし、和臣さんが来てくれてよかったよ」
「いや、出る間際に悠貴に捕まってさ」
「え、悠貴?」
「あいつ、何なんだ?わけわからん」
「お兄さんの和臣さんがわからないなら、俺はもっとわかんないよ。
そっか、今日は待ち伏せしてないと思ったらそっちに行ったのか」
「は?待ち伏せ?お前、そんなことされてたのか」
「あ......いや、振り切れるレベルだから」
和臣には言わないでいたのにうっかり口をすべらせてしまった。
「こら、何で言わない」
「いや、そこまで実害があるわけじゃないし......和臣さんと悠貴に兄弟喧嘩して欲しくないから」
「これは兄弟喧嘩の域を超えてるだろ。いくらあの女の影響があっても、近頃のあいつは酷過ぎる」
「どうなっちゃってるんだろ、とは俺も思ってる」
ハンドルを握る和臣の横顔を見つめながら呟くように言った。
後ろにいつも悠貴の麗巳がいて、彼女を意識してか弘夢にも美加にも辛辣だ。
二人は兄弟なのにこんなにも違う。
「ん?俺の顔に何かついてるか?それとも見惚れてるとか?」
「はあ?和臣さん、何それ」
和臣の言い様に思わず噴き出した。
「弘夢が見惚れるほどイケメンだろ、俺は?」
「自分で言って恥ずかしくない?」
美加なら絶対に叩くか蹴っ飛ばしてるとチラリと思いながら苦笑する。
車は帝都を出て周辺地域の住宅街を通り抜けていく。キャンパスを出た時は青空が広がっていたが、ゆっくりと夕刻の色合いに変化しつつあった。
弘夢は帝都からほとんど出たことがない。両親の親戚も皆、帝都かその周辺に住んでいるために正月などにも自宅に集まる。そもそも両親共にさほど親戚が多いわけではなく、さほど広くない弘夢の家で双方が顔を合わせても何とかなるくらいだった。周辺地域に住む親戚の所を訪問するくらい。
中高生くらいから和臣に教えてもらってPCに夢中になってしまったので、部活などもやったことがない。友だちはそれなりにいるが、深く関わって来たとも言えない。
ひとえに自分の性指向が知られるのが怖かった。ましてや対象が近くにいる悠貴だというのも知られたくない。
必然的に美加と話すことが多く、二人が付き合っていると周囲に思われ続けてきた。それを隠れ蓑にしていた部分もあった。
そうまでして隠す部分があったのはやはり、悠貴の弘夢に対する態度も関係していたのだ。彼の辛辣な態度は麗巳に出会う前から多少は存在していた。ただ彼女がエスカレートさせただけなのだ。
理由はわからないが、悠貴には嫌われている気がしていた。それは弘夢の性指向がはっきりする以前からで、それが原因とは思えない。
そして......今は間違いなく、和臣のことが原因になっている。当然ながら弘夢の性指向も悟ったと判断できる。だからこそ毎日の様に絡んで来る。
ずっと想っていた相手が一番に遠かった事実は、もう弘夢には悲しいとしか言い様がない。既に彼に対する恋心はない、不思議なくらいに。
今は傍らにいる和臣を愛しいと感じる。誰かに自分の性指向を受け入れてもらえるのは、こんなにも多幸感に包まれるのかと思う。流されたのでも思い込みでもないと断言できる。
この数ヶ月、仕事場での彼もデートでの彼も見つめて来た。最初は弘夢の心の内ではお試しだった。だが和臣のささいな言動に胸がときめいたり熱くなったりする。幼馴染みのお隣のお兄さんで、よく知っているつもりだった。けれど実際には知らないことばかりの事実にも、強くはっきりと惹きつけられる自分がいた。
......この和臣が好きだ
間違いなく今は彼に対する恋心がある。いや、もうどこか『恋』を超え始めているのかもしれない。
美加がからかったように、きっと二人の関係は前に踏み出すのだろう。
あとの問題はその時に考えればいい。
弘夢は今、和臣とちゃんと恋人同士になりたいと思っていた。
もっともっと、近い二人になりたかった。
家の最寄り駅から大学、大学からバイト先。休日は家からバイト先へ行くのを考慮して、定期券を家からバイト先の最寄り駅に切り替えた方がいいのかもしれない......と、今現在の財布の中身を考えながら歩く。定期券二つよりもひとつの方がわずかだが安くなる。バイト先への交通費は支給されるとは言われたが、どこからを申請して良いのかが今のところ不明なのだ。
「弘夢」
バイト先への切符を買って改札を通ろうとした時だった。不意に後ろから声をかけられた。
「悠貴?何?」
腕を組んで仁王立ちする彼とその後ろでニヤニヤ笑う女にうんざりする。
「切符なんか買ってどこへ行くんだ?」
「どこって、バイトだけど?」
普通に答えるとさらに彼は不機嫌になった。
「何の用?俺、急いでるんだけど?」
悠貴の不機嫌の理由が今一つ弘夢には理解できない。ただ今は本当に急いでいた。
「バイトって兄貴の会社だよな?」
「そうだよ?わかってるなら聞かないでよ」
急いでるのに何を、と腹立たしくなる。
「用はそれだけ?もう行っていいかな?急いでるんだよ」
「本当に兄貴の会社でバイトするのか?」
「そうだよ。セキュリティの問題とかで一般公募はしないんだって。で、昨日、いきなり連れて行かれて面接受けたの。だから今日は講義の予定とか提出して、セキュリティとかのパスもらう。上の人の時間の都合もあるから急いでるわけ」
昨日、悠貴も聞こえる状態でバイトについて和臣が口にした。聞いていないはずはないのだ。それをこうしてわざわざ問いかけてくるのは、正直言って時間の無駄にしか思えない。
「はい、返事したからね。じゃ」
「おい、弘夢!待てよ!」
悠貴を振り切るようにして改札を通り、帰宅するのに利用するのとは逆の車両に乗り込んだ。
今度はスマホが震える。チラリと見ると和臣からだ。
『弘夢、来れそうか?』
『あ、うん。今、電車乗った』
『了解。最寄り駅に着いたら連絡くれ。通用口に降りるから』
『うん、わかった』
『弘夢、好きだぜ』
『ば、バカ!』
スマホを握りしめたまま、顔が瞬時に熱くなった。きっと真っ赤になっているに違いない。で、和臣は多分、スマホの向こう側で笑っている。
そう思い至るとムカつく。本気なのか、からかっているのか、時々境目がわからなくなる。
バイトの打ち合わせはスムーズに終わり、そのまま作業に就いた。
驚いたのは構成している社員たちの有能さだった。貴族階級の人間も自分たち一般人も変わりなく、熱心にモニターを見つめてキーボードやマウスを使用している。
弘夢は雑用や彼らの飲みものを用意したり、指示された作業を行うのが役目だ。
ただ、弘夢には触れられない場所のセキュリティもある。一番の例が最上階で、ここは和臣もダメらしい。一番強力なセキュリティが掛けられ、外部の人がプログラミングしたらしい......というのしか和臣も知らないという。何でもセキュリティを破壊して侵入されたことがあるのだとか。
「怖いね、それ」
「社のトップが詰めている所だし、身分の高い方々が出入りされてると聞いてる」
「あ~それは厳重になるな」
「最上階のセキュリティのチェックをチラリと見たことがあるが、あれを組んだ人間は天才だな。あんな複雑なの、俺には扱えん」
「凄いね。でも外部の人って言わなかった?」
「上つ方にはいろんなお知り合いがいるだろうさ」
「そういうものか~」
ファミレスで夕食を摂りながら話をする。
「今日、ギリギリだったが、何かあったのか?」
「う~ん......」
できれば告げ口じみた行為はしたくはないので、思わず口ごもってしまう。
「悠貴か」
「うん......」
「今朝、俺にも何かグダグダ言って来たからな」
「そうなの?何がしたいのかな?」
「邪魔したいんだろうが、理由がわからん」
「あの女が後ろで笑ってた」
「あの女......悠貴に何を吹き込んでるんだ?」
悠貴の言動の背後にいつも彼女の影が見えて、弘夢は不安と不快さが入り交じる気分になる。和臣も似たような状態らしく、顔を見合わせて同時に深々と溜息を吐いた。
「人の恋愛に口挟む暇があったら、自分の彼女の本性見破る努力をしろって言うんだ。あれの脳内花畑はいつになったら枯れるんだろうな」
「だね……」
半ば氷が融けて薄くなったコーラを飲みながら、弘夢は悠貴の背後でニヤニヤと笑う女の顔を思い出した。
「彼女は確かに美人だとは思うけど......」
彼女は華やかでほっそりした身体も綺麗だと思える美人だ。並んでいるだけならば悠貴とはお似合いだとは思える。キャンパスでもきっとそう思われてるだろう。
「美人?あの程度ならその辺にざらにいるが?弘夢は本当の美人を見たことないんだな」
美人に本当も嘘もあるのか?と弘夢は首を傾げた。どちらにしても容姿はそれこそ平凡で、性格も普通な自分とは縁のない話だと思う。
ただ平凡ゆえに目立たないのは有難いと思ってはいた。同性婚が認められているとはいえ、まだまだ偏見は根強いものがある。この広いキャンパスを行き交う学生に自分と同じ性嗜好の人間はいるだろうとは思う。けれど公言している者は見たことがない。それだけ難しいということなのだと弘夢は感じていた。
人の中には『病的』と表現をしたくなるほどの、強い嫌悪をむき出しにする人もいる。実際にそんなに遠くない過去には『同性愛』は病気として、どう考えても非人道的な治療法が使われていたとも言われている。世界を振り返ればまだまだ同性愛を禁じて、激しい処罰まで与える国や民族、宗教も存在している。
たとえ同性婚が認められても、マイノリティが歩む道はまだまだ険しくゴールは遠い。
弘夢は幸いにも両親が息子の状態を受け入れてくれた。悩んだり戸惑ったりはあったであろうが、彼らが息子に望んだのは『幸せ』だった。
そして......弘夢にしても孫の顔を見せられないのは申し訳ないと思う。けれどこれが自分なのだと自分自身を受け入れるまで、弘夢自身が悩んだのも事実だった。
少数派であること。初恋の相手である悠貴には異性の恋人がいて、決して自分には振り向かないとわかっていること。
恋敵として辛辣な言葉を交わしながらも、美加は唯一の理解者だった。彼女は最初から弘夢の同性愛を受け入れ来てくれた。
両親の理解と美加がいなかったら、弘夢は中学生くらいで自暴自棄になっていてかもしれない。
いや、和臣もありのままの弘夢を普通に受け入れてくれていた。悩んでいた時期も両親に素直に正直に、自分のマイノリティについて話すようにと促してくれたのは彼だった。ずっと見守ってくれていたのだ。悠貴しか目に入っていなかった弘夢に呆れもしないで。
それとも、哀れに思われていたのだろうか?
和臣はそういう人じゃない。悠貴ならそうかもしれないが、彼は誰かを上から見下す様なことはしない。
悠貴の態度にあまりにも慣れ過ぎて、他人が自分を見る眼差しを悪く考えてしまう自分に苦笑する。
何と自虐的だったのだろう。視野狭窄になっていたのだ。和臣のお陰でやっと周りを見る気持ちが動けたのかもしれない。
美加に和臣と付き合うことになったと言うと喜んだ。
「人のことは言えないけどさ......悠貴は特にあんたには酷かったと思うのよね、あの女と付き合ってからは余計に。あれはないわ。
あ~あ、私も誰かいい人探そうかな。悠貴はもういいわ。たとえ振り向いてもらえても願い下げよ。最近は周囲の人にもあまり良く思われてないみたいだし」
「そうなの!?」
「私、学部同じでしょ?だから周囲の声が、嫌でも入って来るのよ」
「ホント、どうしちゃったんだろね。昔はそこまで酷くはなかったのにさ」
「ま、諦めるしかないわ。あれはああいう奴だったんだって。ある意味、子供時代の自分と決別かな~」
彼女にも何事か思うところがあるのだろう。
「美加が決めたならいいんじゃないない?でも俺とは変わらずに友だちでいてくれるよね?」
「当たり前でしょ?私たち親友じゃないの!」
「うん。ありがと」
実は美加とはよく一緒にいるため、カップルだと思われる時がある。だが今現在口にしたように、『親友』というのが一番しっくりくる。
バイトへ向かう時にはいつも悠貴がどこかで待ち伏せて、執拗に何かを言ってきたり睨んできたりする。なのに何がどうなのかはハッキリと言わない。苛立って弘夢が彼を振り切って立ち去る、と言うのも理由であるのかもしれないが。
和臣に相談してみるべきなのだろうが、兄弟喧嘩はして欲しくはないというのが本音だ。できれば和臣を煩わせたくないとも思う。
バイトの帰りは毎日ではないにしても和臣の車で、それなりに夜も更けての時が多い。もちろん、和臣は時と場合によっては泊まり込みで仕事をするので、弘夢はまだ公共交通機関が動いている時間ならそれで、終わった時間まで残ったらならば領収書を提出すれば返金されるためタクシーで帰宅する。
実際に現場に行って働いてみれば、SEという仕事はかなりハードだとわかる。しかし和臣に言わせるとまだ配慮が行き届いている企業なのだそうだ。少なくとも上層部は彼らの仕事に対する理解が深いのだそうだ。
和臣の友人で他企業へ就職した人の上層部は、そもそもの知識が皆無で無理難題をさも簡単にできるだろうと言ってくるそうだ。
「コンピュータを魔法の箱かなんかと勘違いしてるんだろうなあ......」
と友人はこぼしていたそうだ。
御園生では遅くまで勤務していると夕食だけでなく、夜食も朝食も手配される。シャワールームや仮眠室まであるのには弘夢も驚いた。
実際にあらたなシステムへの切り替えなどは、週単位で泊まり込みになる場合もあるらしい。また決算時期などは社内で末端機器がフル稼働になるため、トラブルが発生したらすぐに対応しなければならない。
もちろん比較的に余裕がある時もある。そんな時は弘夢にいろんなことを教えてくれたり、雑談に興じたりする。
実際に和臣たち社員SEがどれほどの収入を得ているのかはわからないが、弘夢のバイト時給はかなりの額だ。
バイトはしなければならなかったので、ファーストフード店か居酒屋でもと考えていた。けれど今は比べ物にならないほどの金額を得ている。お陰で夏休みにはほぼ連日出勤したこともあって、PCも和臣が選んでくれた最新の高スペックのデスクトップとノートがすぐに買えたし、必要なソフトも周辺機器も揃えられた。家にもそれなりのお金も入れることができていた。
和臣との仲はまだまだ恋人とは呼べない状態が続いていた。ひとつには彼が忙し過ぎるというのもある。デートはすることはするが、内容はまるで初々しい学生の様だ。もちろん、深い仲にはまだまだ遠い。
それでも弘夢は自分の心がゆっくりと和臣へと傾いていくのを感じていた。悠貴の嫌がらせに近い態度も理由の一つだった。
近かったはずの人間が一番遠くて、さほど距離を考えたことがなかった相手が一番近くにいる。不思議だなと弘夢は思った。変わらないのは美加だけというのも不思議だが、嬉しくも感じられた。
十月も末の金曜日、弘夢は校門前ののロータリーに向かって急いでいた。和臣と今夜から旅行に出る予定になっていて、彼は社から早めに帰宅して自分の荷物と弘夢の荷物を乗せて、車で直接迎えに来る約束になっていたからだ。もちろん、弘夢の荷物は朝に玄関の上がり框に置いて来た。双方の両親が了承した上での旅行だった。
「弘夢!」
「え?あ、美加」
「何?急いでるの?」
「うん。ちょっとね」
「デート?」
「旅行」
「ええ!?いやいよかあ......」
美加が嬉しそうに背中を叩いた。
「痛いよ、美加。それにいよいよって何?」
「ヤダもうしらばっくれて!」
美加はとても楽しそうにニヤニヤと笑う。初めは意味がわかっていなかった弘夢だが、美加のその顔を見ているうちにその意味を理解した。瞬時に頬にカッとばかりに熱を感じた。
「お、赤くなった......やっと意味がわかったわけ?」
「い、いや......だって......」
「もしかして弘夢、あなた......旅行ってそういうのも含むって考えてなかったの?」
「うん......」
和臣に誘われたこと自体が嬉しく、二泊三日の間はずっと一緒だというのにも浮かれていた。
「ほんっとに子供ね~和臣さんが可哀想。あ、でもそこが惚れどころとか?」
彼女はまるで自分が恋をしているかのように楽しそうだった。
「美加はさあ......」
「何、何?」
「美人なんだから良い奴見つかるよ」
「とーとつに何よ」
ぶっきらぼうな口調で言って横を向く。『唐突』がひらがなっぽい言い方になってるのは、きっと照れているからだろう。普通に女の子が好きになれていたら、美加みたいな子がいい。でもどこまでも異性とは恋愛にならない友情の平行線だ。
「あら、和臣さんはまだみたいよ」
確かに校門前のロータリーに見慣れた和臣の車はない。
「う~ん、上手く仕事から抜けられなかったのかも。遅くなるなら連絡来るだろうから、もう少し待ってみるよ」
「じゃ、私も付き合ってあげるわ」
一人で立っていると間違いなく、悠貴が見付けて絡んで来る。しかも彼の後ろでほくそ笑む麗巳がいるのだ。
思わず周囲を見回して二人の姿がないのにホッとする。
「悠貴?」
「うん。最近、出会すとネチネチと絡まれるんだ」
「うわっ、陰湿ね~ああ、ヤダヤダ」
今のところ執拗に追いかけ回されて、嫌がらせとしか言いようがない行為に出られているのは弘夢だけらしい。やはりこれは和臣絡みだからなのだ。
「それで何処へ行くの?」
「知らない」
「あらら、和臣さん任せ?」
「うん。でもも御園生系列のホテルに宿泊するって言ってた。割引があるからランクが少し上の部屋が取れるんだって」
「おお、和臣さん、勝負にでたのか」
「はあ?勝負って何?」
美加の言うことは時々意味不明だ。弘夢がわからないだけなのかもしれないが。
「あの......」
不意に背後で声がした。驚いて二人同時に振り向いた。水色のフレアスカートに白いブラウスの女の子が、戸惑った顔で立っていた。
「?」
知り合いか?と美加に視線を向けると彼女は首を振った。
「えっと......どこかで会った?講義が一緒とか?」
弘夢も美加もサークルには所属していない。
「いえ......多分、私が一方的に知ってるだけです」
唇を引き結んで一歩前に踏み出して来た。美加が何かを理解したのか、そっと弘夢から離れる。
「俺に用?」
弘夢が何となくこう問いかけると、彼女はコックリと頷いた。
「じゃ、まず名前教えてくれ」
どこかですれ違っているのかもしれないが、顔に見覚えがないゆえに当然ながら、名前も知らない。
弘夢の言葉に彼女は少し悲しそうな顔をしてから、袖を掴むようにしてギュッと拳を握りしめた。
「わ、私、鈴原 メイって言います」
「鈴原さんね」
「あの......美加さんと付き合ってはいないって、本当ですか?」
弘夢は少々うんざりした顔になった。男女間に友情は存在しないと考える輩の何と多いことか。こんな所まで追いかけて来て言うことはそれかと思う。
「私!あなたが好きです!美加さんとお付き合いしてられないなら、私とお付き合いしてください!」
周囲に聞こえるのを考えて言っているのがわかる。そうやって衆目を集めて、弘夢が断りにくくする計算なのが丸わかりだ。
弘夢と同時に美加も深々と溜息を吐いた。
「ごめん。俺には付き合ってる人がいるから無理」
「え?今、美加さんとは付き合ってないって言ったじゃないですか!」
「あのね、弘夢の相手は私限定なわけ?失礼しちゃうわ。まるで私にも弘夢にも他の人間関係がないみたいじゃないの!」
腹を立てたのは美加の方だった。
「付き合ってる人がいるって、嘘なんでしょ!?」
「何でそうなる......」
頭が痛い。悠貴の次はこの女か。
「勝手に……」
うんざりして口を開けかけた時、ロータリーに和臣の車が入って来て二人の傍らに停車した。
「弘夢、すまん!」
和臣は謝罪の言葉を口にしながら、車から降りて二人の間に割り込んだ。それを見て美加が噴き出す。
「や~ね、もう。ホント露骨よね、和臣さんて」
「お前が弘夢に引っ付いてるのが悪い」
「はいはい、それは申し訳ございませんでした。
ね、旅行に行くんだって?」
「夏休みもゆっくり取れなかったんでね」
「おお~」
彼の言葉を受けて美加がニヤニヤする。
「何だ?お前って腐女子系か?」
「悪い?」
美加も和臣には幼い頃によく遊んでもらってたから、今でも仲良しの幼馴染みのご近所さんだ。
「あの!」
和臣の登場ですっかり忘れられたメイが声をあげる。
「先ほどの答え、聞いてないんですけど!」
「あら、まだいたの?」
美加が呆れた声を出す。
「ん?ひょっとして俺、タイミング悪かった?なになに修羅場?」
和臣がメイを見ながら言う。弘夢が異性に興味がないのは、和臣もよく知るところだ。現在の弘夢の相手は自分であるのもあって、余裕綽々で笑っている。
「答えって......あのさ、俺はさっき言ったよね?付き合ってる人がいるからって。それが嘘か本当かなんてどうでもいいじゃん。俺はまず君とは付き合わないって断ってるんだから」
「振られる側には納得できる理由が欲しいです!」
「この子、何でいちいち叫ぶんだ?」
和臣が不思議そうに口を挟む。
「ああ、それは弘夢が断りにくくするためね。全然効いてないけど」
「なるほど」
二人して好き放題なことを言う。
「それはキミの都合。俺は関係ない。君が納得しようとしまいとNOはNOだ。変わらないよ」
「でも......でも!」
「悪いけど迎えが来たから」
弘夢は取り付く島も与えない。
「和臣さん、お待たせ」
「おう、いいのか?」
「うん。大丈夫」
「じゃあな、美加」
「今度、何か奢ってよね!」
「時間があったらな」
「弘夢には時間作るくせに」
「そりゃな」
和臣はさっさと弘夢を助手席に乗せて、美加に軽口を叩いてから車を発進させた。
鈴原 メイと名乗った女の子はまだその場に立って、ジッと睨むようにこちらを見ていたが弘夢は無視した。
「お前、モテるんだな」
「さあ?どうだろ。普段は美加との仲を勘違いされてるから、あんな風に寄ってくるのはいないんだよね。もちろん、美加とは幼馴染みだってちゃんと言ってはいるけどさ」
「よっぽどお前が好きなのか、それともほかの思惑があったのか」
「知らない。関係ないし。そもそも男でも女でもああいうの嫌いだから。美加がいてくれて助かったし、和臣さんが来てくれてよかったよ」
「いや、出る間際に悠貴に捕まってさ」
「え、悠貴?」
「あいつ、何なんだ?わけわからん」
「お兄さんの和臣さんがわからないなら、俺はもっとわかんないよ。
そっか、今日は待ち伏せしてないと思ったらそっちに行ったのか」
「は?待ち伏せ?お前、そんなことされてたのか」
「あ......いや、振り切れるレベルだから」
和臣には言わないでいたのにうっかり口をすべらせてしまった。
「こら、何で言わない」
「いや、そこまで実害があるわけじゃないし......和臣さんと悠貴に兄弟喧嘩して欲しくないから」
「これは兄弟喧嘩の域を超えてるだろ。いくらあの女の影響があっても、近頃のあいつは酷過ぎる」
「どうなっちゃってるんだろ、とは俺も思ってる」
ハンドルを握る和臣の横顔を見つめながら呟くように言った。
後ろにいつも悠貴の麗巳がいて、彼女を意識してか弘夢にも美加にも辛辣だ。
二人は兄弟なのにこんなにも違う。
「ん?俺の顔に何かついてるか?それとも見惚れてるとか?」
「はあ?和臣さん、何それ」
和臣の言い様に思わず噴き出した。
「弘夢が見惚れるほどイケメンだろ、俺は?」
「自分で言って恥ずかしくない?」
美加なら絶対に叩くか蹴っ飛ばしてるとチラリと思いながら苦笑する。
車は帝都を出て周辺地域の住宅街を通り抜けていく。キャンパスを出た時は青空が広がっていたが、ゆっくりと夕刻の色合いに変化しつつあった。
弘夢は帝都からほとんど出たことがない。両親の親戚も皆、帝都かその周辺に住んでいるために正月などにも自宅に集まる。そもそも両親共にさほど親戚が多いわけではなく、さほど広くない弘夢の家で双方が顔を合わせても何とかなるくらいだった。周辺地域に住む親戚の所を訪問するくらい。
中高生くらいから和臣に教えてもらってPCに夢中になってしまったので、部活などもやったことがない。友だちはそれなりにいるが、深く関わって来たとも言えない。
ひとえに自分の性指向が知られるのが怖かった。ましてや対象が近くにいる悠貴だというのも知られたくない。
必然的に美加と話すことが多く、二人が付き合っていると周囲に思われ続けてきた。それを隠れ蓑にしていた部分もあった。
そうまでして隠す部分があったのはやはり、悠貴の弘夢に対する態度も関係していたのだ。彼の辛辣な態度は麗巳に出会う前から多少は存在していた。ただ彼女がエスカレートさせただけなのだ。
理由はわからないが、悠貴には嫌われている気がしていた。それは弘夢の性指向がはっきりする以前からで、それが原因とは思えない。
そして......今は間違いなく、和臣のことが原因になっている。当然ながら弘夢の性指向も悟ったと判断できる。だからこそ毎日の様に絡んで来る。
ずっと想っていた相手が一番に遠かった事実は、もう弘夢には悲しいとしか言い様がない。既に彼に対する恋心はない、不思議なくらいに。
今は傍らにいる和臣を愛しいと感じる。誰かに自分の性指向を受け入れてもらえるのは、こんなにも多幸感に包まれるのかと思う。流されたのでも思い込みでもないと断言できる。
この数ヶ月、仕事場での彼もデートでの彼も見つめて来た。最初は弘夢の心の内ではお試しだった。だが和臣のささいな言動に胸がときめいたり熱くなったりする。幼馴染みのお隣のお兄さんで、よく知っているつもりだった。けれど実際には知らないことばかりの事実にも、強くはっきりと惹きつけられる自分がいた。
......この和臣が好きだ
間違いなく今は彼に対する恋心がある。いや、もうどこか『恋』を超え始めているのかもしれない。
美加がからかったように、きっと二人の関係は前に踏み出すのだろう。
あとの問題はその時に考えればいい。
弘夢は今、和臣とちゃんと恋人同士になりたいと思っていた。
もっともっと、近い二人になりたかった。
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