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嫉妬
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清方が雫と再会してニ度目の冬季休暇で、今度は二人が揃って帰国して御園生邸に滞在していた。
事の始まりは一本の電話だった。
武と夕麿が外出しないと言うので、雫は清方と一緒に部屋でくつろいでいた。 すると突然、携帯の着信音が鳴った。 画面に浮かび出た名前は雫の以前の上司のものだった。 清方に軽く合図をして、廊下に出て通話ボタンを押した。
「はい、成瀬です」
ずっと武と夕麿の専任警護に就いている為、上司とは帰国の時に報告に行った時以来だ。
「はあ? 待ってください、部長。 俺は紫霞宮殿下の専任警護を仰せつかっている身ですよ?」
特殊な捜査の応援を要請されたのだが、本来ならば有り得ない事だった。 武の生命を脅かしていた者たちは排除したが、完全に安全になったという保証はどこにも存在していない。
「それ、俺じゃなくても出来るでしょう?」
抗議してみたがどうしてもと譲らない。
「わかりました、殿下にご都合をうかがってみます。 部長、私がここを離れるという事は、その間に殿下はお出ましになられなくなるという事になります。 その事実をきちんとご理解してくださり二度とないと約束してください。 そうでなければお願いをする事は出来ません」
一番の役目を置いて短期間とはいえ、別の任務に就くというのは非常識とも感じられた。 本当に通常では有り得ない。
「折り返し連絡します」
通話を終えて雫は深々と溜息を吐いた。
「信じられん。 正気の沙汰じゃない」
天を仰いでボヤいた雫に清方が目を丸くした。
「何か問題ですか?」
「しばらくここを離れて、応援に行けとさ」
「武さま方を置いて?」
「そうだ。 普通は有り得ない。 何だか知らないがご指名だそうだ。
……ちょっと武さまにご相談申し上げて来る」
珍しくボヤきながら雫が行ったのを、清方は苦笑しながら見送った。
「え?応援?しばらくいないの?」
「申し訳ございません。 本来ならば有り得ない事なのですが…恐らくは年末という事で、人手不足なのだとも考えられます」
武はどちらかというとこういう時には理解を示してくれる。有り難いとは思うのだが警護官としては心苦しい。
「だったら夕麿、ホテルには今夜から行こうよ? あそこに籠もっているなら、雫さんも安心だろ?」
「雫さん、それはどれくらいの期間なのですか?」
夕麿の質問はもっともだった。
「明日より3日…と聞いております」
「わかりました。 では今夜からホテルへ移る事にします。 それでよろしいですか?」
「ありがとうございます。 二度とこのような事がないように、上には厳重に抗議しておきますので」
深々と頭を下げた雫に武は明るく言った。
「仕事なんだから仕方ないよ」 と。
夕方、ホテルへ行く武と夕麿を警護する為の準備をする。 ボディアーマーを着てその上にシャツを着る。
雫の防弾装備はアメリカで手に入れた、刃物の刃も通さない特殊繊維製だ。 通常の警察が採用している、金属プレートを布ポケットに入れたものは、重い為にどうしても行動が制限されてしまう。 しかも微妙に隙間がある為、銃弾が飛んでくる角度によっては防ぎ切れない。 刃物は防げないのだ。 それでは十分な警護は出来ない。 そう考えて自費で購入したボディアーマーだった。 これならば首も腕も防げる。 自らの身を守る事は武たちを護る事。 先に自分が倒れてしまったら後は誰が護るのだ。 最後まで行動出来なければ意味がない。
警護する事とは武たちを無事に目的地に移動させ帰宅させる事。 警護官としての誇りにかけて任務を遂行し全うする、これが雫に課せられた任務だ。
シャツを着ると肩からガン・ホルダーを装着する。 雫は銃の常時所持許可を持っている。 蓬莱皇国では日本と同じく銃に対する規制が厳しい。警察官・警護官であっても通常は、銃は署内の保管庫にあり持ち出しは厳重に管理されている。 銃弾の数もきちんと点検報告し、使用した時も報告が義務付けられている。 雫のように常時所持許可が出るのは特例なのだ。 同時に武専任の警護が如何に危険であるのかを物語っていた。
雫はリボルバーを開いて中の銃弾を確認した。 次いで確かに回転するのを確認して銃身に戻す。 安全装置の確認を行いグリップ部分を手前にホルダーに入れた。 銃が飛び出さないようにホルダーのカバーを止める。
「はい」
清方が広げてくれた上着を着た。
「行って来る。 応援任務中、連絡は入れられないかもしれない」
「わかってます。 何かあれば逆に連絡が来るでしょうから、知らせがないのは良い知らせだと思っていますよ」
清方がそう言うのを聞いて何となく嬉しくなった。 そっと抱き寄せて軽く唇を重ねて身体を放した。
清方には警護官の伴侶としての覚悟は出来ていた。 皇宮警察に所属する彼には本来、そこまでの危険は通常はない。 だが武たちの警護をしている限り、いつ何が起こっても不思議ではなかった。雫を頼もしく思う。 自分の恋人である事を誇りに思う。 10数年前付き合っていた時には、雫が将来何を選択しようとしているのか聞いた記憶がない。 中等部の生徒だった自分には、まだまだわからない事だったのかもしれない。
今は純粋に生まれて初めて好きになった人と一緒にいる。 ただそれだけで幸せだった。
高等部生徒会長。 学院の全生徒の頂点であり、最も強い権限を持つ存在。 そして席を置く学年で最も高貴なる立場。他ならぬ清方自身もその立場に身を置いた経験を持っている。
在任中の雫は古臭い制度の幾つかを廃止した。 例えば朝夕の国旗と校旗の掲揚にいちいち立ち止まって注目するという制度。 戦時中でもあるまいに…と廃止させた。 作業や登下校を中断して起立して注目するのは、幾らなんでもナンセンスだと。 また身分が高い人物が廊下を通る時に、そこにいる全員が脇に寄って礼をする、というのも廃止した。 脇に寄って道を空ける程度で良いと。 余りにも堅苦しい戦前のままの校風を、もっと過ごしやすいように改変したのだ。
全寮制の紫霄学院では堅苦しい校風で生徒を縛り付け続けるのは、既に不可能な時代へと突入していたのだ。 雫のこの努力がなかったら、外部編入した武は学院に最後まで馴染めなかっただろう。
切れ者の66代。 そう呼ばれただけの努力と奮闘を、成瀬 雫はやり遂げて卒業して行ったのだ。5年後、同じく高等部生徒会長に就任した清方は、雫のやり残した事、やれなかった事を何とか遂げようと奔走した。 二度と逢えない筈の愛しい人への清方の精一杯の愛情だった。再会してこうして共に暮らす日々をどんなに夢見ただろう。 実現した今となってはそれも良い思い出だった。
雫が脱いだ服をそっと抱き締めて残り香を嗅いでみる。 しばらくは戻って来ない。 そう思うと寂しさが湧き上がって来る。
不思議なものだ。 あんなに長い間逢えない日々を生きて来たのが今は信じられない。 ホンの数日、雫が留守にするだけなのに寂しく感じてしまう。 夜毎に肌を重ね求め合うのが、いつの間にか普通になってしまっていた。 だから独り寝の寂しさを辛く感じてしまう。 彼の息遣いが側にない事が少しばかり不安になってしまう。つくづく人間とは身勝手な生き物だとは思う。 だがそんな自分が愛しいとも思う。 恋する人間はきっと身勝手なものなのだと。
それは雫が出掛けた二日後の昼下がりだった。 清方は周と共に御園生系列の病院に来ていた。 アメリカに持って行っていた薬が多少、心許なくなっていたのを補充する為である。 ある程度の薬剤はアメリカでも処方箋があれば手に入れられる。 一部の物は処方がなくてもスーパーに行けば普通に棚に並んでいる。だが一つだけ問題があった。 アメリカの薬は分量が多過ぎる。 特に武のような小柄な人間には使えない。いずれ渡米する彼のことを考えても皇国内で揃えておく方が無難だと判断した。
有人に頼んでここの院長と交渉してもらい、今日、処方箋を書いて持って来たのだ。 処方箋にはありとあらゆる場合を想定して、多種多様な薬剤が記入されていた。 保にも処方箋を書いてもらっていたので、かなりの枚数になっていた。 それを受け取った病院は、全てを整えるのに1時間程の猶予を告げた。
そこで1時間後にと約束して清方は周と別れて街へ出た。 一人で帝都の街を歩く。 院から解放されて初めての事だった。 最近まで常に監視が付いていた彼は、ただ街を歩く事すらままならなかったのだ。
今病床にいる母方の祖父は、学院の理事の一人でもあった。 立場こそ一理事だが摂関家の当主であり、長年その地位にいた為に理事としてはかなりの発言力を保持していた。 だから清方は武の身分を以てしても完全に解放されずにいたのだ。
実父久方がその祖父から理事の権利を買い取った。 清方が護院家の籍に入り、学院を牛耳っていた者を武たちが排除した後、久方が理事の一人に就任した。 やっと清方は本当に解放されたのだ。 皮肉な事にそれ以前に彼は、学院の理事の一人に名を連ねていた。 それでも監視は消えなかったのだ。
今はこうして何も持てなかった自分がたくさんのものを得て、こうして街を歩いているというのは幸せそのものだった。
ふと見るとたくさんの車が行き交う道の向こう、ビルの前に雫が立っていた。 任務中の彼に声をかける訳にはいかないが、姿を見るだけで喜びが込み上げて来る。 ビジネススーツ姿の彼は誰かを待っている様子だった。 通常、捜査には不慮の事態を考えて、二人一組で行動する事が義務付けられている。 だから雫もその相手を待っているのだろう。
見ているとビルの中からスーツ姿の女性が出て来た。 グラマラスな美人で、一斉に周囲が注目する程の存在感を持っていた。 その女性がゆっくりと雫に近付いた。
清方は二人を見つめて息を呑んだ。 清方の視力は2.0以上ある。 読み書きに遠視用眼鏡を使用する程だ。 だから道を挟んだ向こうの人間の顔まで見える。 女性が近付くと雫が満面に笑みを浮かべたのが見えた。 女性が何とはなしにこちらに顔を向けた。
「!?」
その顔に見覚えがあった。 一年前の秋、貴之が調べた雫の経歴書を内緒でもらっていたのだ。 その中に彼女の写真があった。 かつての雫の恋人。 上司の縁者で雫の3年下のキャリア警察官だ。 雫の両親も気に入り婚約寸前だったという。 その時、武の伴侶候補としての話が起こり、彼女との仲は終わったらしい。
雫の気持ちがどうだったのかは清方にはわからない。 ただ、雫は武の伴侶になる事を了承していた。 後に彼が語った言葉は、学院に戻る手段が見つかったと思ったから了承したと。 結局、もう一人の候補であった夕麿を武は伴侶として選んだが、雫は次の手として皇宮警察への移動を申請した。
皇宮警察官には安易になれるものではない。 出自、容姿、成績、経歴などが徹底的に調査される。 本来は皇宮警察側から引き抜きがあるのだ。雫はアメリカでの研修から帰国した時から、皇宮警察に引き抜きの声が掛けられていた。
婚約寸前の恋人と別れてまで、皇家の貴種との通常とは違う縁組みを受け入れようとした事も配慮されて、雫は春の人事異動で皇宮警察官になった。 だが突然、別れを告げられた女性はどんな想いでいたのだろうか。 かつての自分の痛みと同じようなものを、彼女も味わったのではなかったのだろうか。
雫の腕に彼女が自らの腕を絡めるのが見えた。 雫は嫌がる素振りもなく、当たり前のような顔で歩き出した。
近くの信号をこちらへ向かって渡って来る。 清方はとっさに近くの喫茶店へ飛び込んだ。
嫉妬で胸がいっぱいだった。 逃げ出さなければ任務中の筈の雫に、あなたの恋人は誰なのかと詰め寄りそうだった。
胸が痛い。 嫉妬の次に襲って来た感情は深い悲しみだった。 雫はこれまで住んでいたマンションを引き払っていた。 だから警護の為も相俟って御園生邸に滞在している。 今の今まで当たり前のように思っていた。 しかしよく考えてみると雫が、自分の家族の事を口にした記憶がほとんどない。何某かの連絡をしているのも……見た事がない。 今、気付いてしまった。
喫茶店の前を雫が通り過ぎて行く、彼女と笑顔で語り合いながら。 UVカットの硝子を隔てて、清方がいるのにも気付かずに。
運ばれて来た珈琲を前に、清方は唇を噛み締めて座り続けた。
気付いてしまった事実に胸が塞がる心地でいた。 雫の両親は清方の事を知らないのだろうか。 それとも…清方との事で雫は家族と揉めているのではないか。
落ち着こうとカップに伸ばした手が震えていた。
自分の幸せに目が眩くらんで、雫が置かれているかもしれない状況を考えた事がなかった。 自分の事しか見えなかった。
もし…もし雫の両親が今でも、彼が普通に結婚して家庭を持つ事を望んでいたら? 降って湧いたような今回の急な要請にそんな裏事情が絡んでいたら…… どうすれば良いのだろうか。 雫はどうするのだろうか。
怖い……怖い……怖い…… 幸せな時間を味わっただけに失う事が恐ろしい。
本当は飛び出して彼の背中に飛び付きたかった。 縋り付きたかった。
清方が病院に戻ったのは約束の時間ギリギリだった。 普段は余裕を持って約束の時間を守る彼らしからぬ姿に、先に戻って来ていた周は心底驚いた。 しかも顔色が酷く悪かった。
「清方さん、どこか具合でも悪いのでは……」
心配そうに言葉を濁す周に彼は力なく微笑んだ。
「ちょっと人混みに酔ってしまいました。 夕麿さまと同じように、私も人の多い場所に不慣れであるのを失念していました」
周は嘘を信じたようだった。 彼に余計な心配はさせたくはない。 それでなくても彼の人生を清方は、十分に引っ掻き回して来たのだ。
清方は周を促して薬を受け取り、代金を支払って車で帰宅した。
部屋に戻って清方は悶々とした。 嫉妬に心はのた打ち回る。
雫は彼女と何処へ向かったのだろう。 どのような会話を交わしているのだろう。 彼女の眩いばかりの美しさに、雫の心は動かされているのではないか。
昼間垣間見た光景が心から離れない。 彼女と並んで歩く姿は、お似合いのカップルだった。
その事実が辛い。
悲しい。
雫……雫…… 声が聞きたかった。 昼間のあれは何でもないと。 愛しているのはお前だと。 今すぐに言って欲しかった。
雫が帰って来たのは約束の期限の次の日の夕刻だった。 武たちをホテルに迎えに行って少し疲れた顔で帰宅した。 遅れるのは武たちには連絡していたらしいが清方にはなかった。 それは仕方がない事なのかもしれなかった。
だが今の清方には辛かった。 廊下の途中で雫の帰宅を知って慌てて部屋へ戻った。 冷静な気持ちで雫に向き合えない。 だから皆のいる所には行けなかった。
雫は警護の為の装備を解きにすぐに部屋へ戻って来る。 清方はソファに座って瞑目した。
「ただいま」
「おかえりなさい」
懸命に笑顔を作った。 疲れが見えるがまだ警護官の顔をしていた。
雫はまず上着を脱いで、清方が受け取った。 銃をホルダーから外し安全装置の確認をしてから、保管用の引き出しに入れて鍵を閉めた。 ホルダーを外してホッと息を吐く。
雫が普段の顔に戻る瞬間だ。
「お疲れさま」
そう言って上着を抱き締めるようにした瞬間、清方の動きが停止した。 女物の香水の匂いがしたのだ。 ムカムカと怒りが湧き上がった。 清方は立ち上がると上着を近くのゴミ箱に投げ捨てた。
「おい、清方! 何をするんだ!?」
雫が慌てた。
「あんな匂いをさせて、あなたは武さまと夕麿さまを迎えに行ったのですか!?」
「え!?」
驚いた雫は立ち上がって、投げ捨てられた上着を拾い上げて嗅いだ。
「…っ」
絶句した雫から清方は視線をそらした。 しまった…という表情に、彼の本心を見た気がしたのだ。
「湯を溜めて来ます」
いたたまれなくてバスルームに逃げ込んだ。
泣きたかった。 だが泣く訳にはいかない。 溢れかけた涙を拭って部屋に戻った。
雫の視線を感じる。 清方はそれに気付かないふりをして、クローゼットから雫の着替えを出して整えた。
「清方」
「何です?」
ソファに戻った彼に雫が真っ直ぐに見つめて声をかけた。 それに真っ直ぐに答えた。
「勘違いするなよ?」
「勘違いされるような事でもして来たのですか?」
「あのな……」
何か言いかけた雫からついっと視線を外した。 本当は耳を塞ぎたい。
「清方?」
雫はやっと恋人の様子がおかしいのに気付いたのだ。
「俺が留守の間に、何かあったのか?」
「別に何もありません。 いつもと同じですよ」
そう変わったのは自らの心の内。 気付いてしまった事を忘れられないだけ。 無視してしまえないだけ。
……だから悲しくて辛い。
「ね、雫。 あなたのご両親は私の事を、どう思っていらっしゃるのでしょう?」
「え?」
「あなたは何も話してはくださらない…」
清方は伏せている視線を雫に戻した。
「私はあなたの事を何も知らない」
「それは…」
雫が苦々しい顔で視線を外した。
ああ、やはりそうだったのか。 彼は清方と生きる為に、家族に背を向けようとしているのだ。
「武さまの伴侶候補に内定する前、お付き合いされていた方がいたのでしょう? 今回の仕事は…その方と一緒だった」
「!?」
驚愕に息を呑んだのがわかった。
「終わりにしましょう、雫。 武さまと夕麿さまの治療もほぼ終了しました。 私がいなくてもお二方はもう大丈夫です。 だから……私は両親の所へ帰ります」
「清方…」
「大学は退学します。 一年間ありがとう、雫。 幸せでした。 側にいてくださった事を心から感謝します。 だからあなたはご両親の元へ帰ってください」
考えて考えて苦しんで苦しんでその結果に出た答えだった。
「本気で言ってるのか?」
「嘘偽りで言える事ではないでしょう? 雫、あなたには私よりあの人の方が相応しい」
膝の上で手を握り締めた。 本当は嫉妬と悲しみで叫び出しそうだった。けれども彼が本来いるべき場所は自分の側ではないのだとも思っていた。
「俺の不在の間…何があった」
「何も。 ただ、街であなたを見かけただけです」
寂しげな笑みを浮かべた清方に雫ははっきりと狼狽した。
「清方…聞いてくれ…」
「何を…何を聞けと言うのです!?」
「彼女は…彼女とは一緒に仕事をしただけだ!」
「腕を組んで楽しそうに?」
次第に自制が利かなくなる。
「腕を組んであんなに身体を密着させて…あなたは嫌がってなかった! むしろ嬉しそうな顔で並んで歩いていた。 そこに私がいるのも知らずに!」
悲しい……悲しい……悲しい…… どんなにしても女性にはかなわない。 同性の結び付きはやがて警察官や警護官としての雫には傷になる。
見ないようにしていた現実が、見えない枷となって嫉妬と入り混じって締め付ける。
雫を責めてはいけない。 雫には罪はない。 わかっているのに感情の爆発を止められない。
「仕事だったと言ってるだろう!?」
耐え切れなくなった雫がテーブルを叩いて怒鳴った。
「何を勘違いしてるんだ!?」
「言い訳は聞きたくありません! 仕事だったとしても、あなたは彼女といる事を楽しんでいました」
違う…違う…こんな事を言いたい訳じゃない。
「…やめましょう。 こんな言い争いは意味がありません」
「俺を捨てるのか?」
「大丈夫です。 きっと良い思い出だったと、あなたは笑う日が来ます」
その為ならば何でもする。たとえ失う事に心が耐えられなかったとしても、愛する人が幸せであるならば何を惜しむ?そう想い至って清方は、武の気持ちを本当に理解できた気がした。自分の存在を否定た彼の深い悲しみが。
「16年間もお前を忘れられなかった俺にはそんな日は絶対に来ない! ずっと…後悔して後悔して、何度も自暴自棄になりかけた。 夢の中でお前は泣いて俺を責めた。 俺は夢の中で謝り続けていつも目が覚めた。
辛かった……ずっと辛かった」
雫の苦悩に満ちた顔は初めて見た。
「だが、再会したお前は俺を責めなかった。 それどころか、俺を想い続けてくれていた。 その喜びがわかるか? 俺は…やっと、お前の所へ戻れたんだ!」
言葉が出なかった。
「誰にも邪魔はさせない! 俺はお前と生きて行くと決めたんだ!」
何という強い言葉だろう。 嬉しい。 嬉しくて……悲しい……
「ありがとう…雫。 今の言葉でもう十分、私は報われました。 お願いです。 ご両親の元へ帰ってください」
そして…普通に結婚して幸せになって欲しい。
「嫌だ! 俺はそんな言葉は聞きたくない!」
雫が拒否すれば拒否する程、女性と楽しそうに歩く姿が浮かぶ。 嫉妬に胸が灼かれる。 自分にここまでの強い感情があったなんて知らずに生きて来た。
「あなたは…あの人といる方が幸せそうでした。 私はあんなあなたを見た事がありません」
きっと雫が自分を大切にしてくれるのは過去の罪の意識。 自分への愛情じゃない。 嫉妬心が悪魔の囁きをする。 苦しいのに…悲しいのに…それをぶつける場所がない。
「あなたの贖いはもう十分いただきました」
「贖いなんかじゃない! お前を愛しているんだ! 彼女とは終わっている。 俺は元から結婚する気はなかったんだ。 何故わかってくれない!」
清方の言動の底に、強い嫉妬心が存在するのを雫は気付いてはいない。
「俺を捨てるな、清方」
その言葉に首を振ったが本当は怖かった。 雫が自分の言葉を受け入れるのが。 だがもう止められない。
「湯を…止めないと…」
不意にバスルームの湯を出したままなのを思い出して清方は立ち上がった。 ふらふらと心許ない足取りで、バスルームへと行って湯を止めた。 湯はバスタブから溢れそうになっていた。 湯を止めてバスルームから出ようとして振り返ると雫が立っていた。
「俺は…お前と別れたりしない」
力強く抱き締められた。 その強さに縋りたくなる。 と…シャツからも香水が匂う。 ムカムカした。
「あの人に触れた手で、私に触らないでください!」
悲鳴のような声を上げて、たった今、縋りたいと思った腕の中から逃げ出した。 だがここはバスルームだ。 唯一の出入り口は雫が塞いでいる。 どこにも逃げ場はない。
雫はというと…今の清方の言葉に、何か感じるものがあったらしく、首を傾げるようにして考え込んでいた。 そして……ハッとして顔を上げ清方を見つめた。
「清方、お前……」
雫の口から笑い声が漏れた。
「何だ…妬いてるのか? だったら素直にそう言え!」
楽しそうにそう言ってなおも笑い続ける姿に、先程とは別の怒りがこみ上げて来た。 この数日、どんな想いでいたのかも知らないで、目の前の男は笑っている。
悔しい。
腹立たしい。
清方はシャワーのノズルを取ると湯を全開にして雫に向けた。
「うわっ…!熱い!やめろ、清方!何をする!?」
慌てふためく雫に容赦なく湯を浴びせかける。 女性の痕跡など全部、洗い流してしまいたい。 雫の中の彼女の記憶ごと、洗い流してしまえればどんなに良いだろう。 そんな事は不可能だ。 そう思うと悲しみが一気にこみ上げて来た。
清方の手からシャワーノズルが音を立てて落ちた。 全身からがっくりと力が抜けて、清方はその場に泣き伏した。 身も夜もなく号泣した。
「清方…」
雫は湯を止めるとそっと彼を抱き起こした。
「すまなかった…お前に見られたとは思ってなかった」
抱き締めて何故彼女といたのかを説明した。
最近、身なりの良い裕福そうなカップルを狙った、強盗事件が頻発していたのだという。 警察官がそれらしい格好で囮になって捜査したが、彼らは街中でのカップルの行動を観察した上で犯行に及ぶらしい。 間に合わせのセレブもどきでは、彼らは引っかからなかった。
だから雫に要請が来たらしい。 雫ならば貴族の子息として立ち振る舞いは本物だ。 しかもそれなりに裕福である。 相手の女性もそこそこの家の令嬢で一応は元恋人同士。 お誂え向きの二人に街中を歩かせて、囮にする作戦だったのだ。 これ見よがしに腕を組み、カードで高価なものを買い物する。 ドレスコードのあるレストランで食事をする。 一泊、数十万するホテルのスイートに宿泊する。 彼らには垂涎すいぜんもののセレブであるのを見せ付けた。
そしてやっと昨夜、それらしい者たちに付け回されるのに気付いて、わざと人気のない場所へ誘き出した。 彼らは雫たちを襲おうとして、待ち構えていた所轄の刑事たちに現行犯逮捕されたという。
「ホテル…に止まった?」
「寝室が二つある部屋にな。 彼女は昨年、結婚してる。 どちらも既に大切な相手がいるんだ、当然、おかしな事にはならない」
そう言って雫は笑った。
「なあ、清方。 確かに俺の両親は、お前との事に良い顔はしていない。 だが仲違いしたのは……お前と再会するより前だ。
彼女と別れて武さまとの縁談を承諾した時に揉めて俺は家を出た。 俺には兄も弟もいる。 後継ぎになる必要もない。 だからお前と生きて行く。 良岑君と大差はないさ」
雫はとっくに腹を据えていた。 両親は雫が武の専任警護を引き受けた事にすら、懸念を示して口出しをして来た。
「俺はとっくに子供じゃない。 自分の生き方は自分で決める。 同性愛者だからと警察にいられないなら、武さまにボディガードに雇っていただくさ」
お茶目にウインクして笑う。
「俺はやっとお前を取り戻したんだからな。 もう離さない。 お前が嫌だと言ったら、鎖で繋いでも逃がさないから、覚悟しておけ」
「雫…雫…」
名前を呼ぶのが精一杯だった。
「悪かった。 任務の内容を説明しておけば良かった。 お前が街中に出る可能性を考えてなかった。 余計な心配をさせないようにしたつもりが逆効果になったな。
許してくれ、清方」
懸命に言葉を紡いで悩み苦しんでいた清方へ贖あがなおうとしてくれる。 そこに彼の愛情を感じた。 今度は嬉しさに視界が歪む。 シャツを握り締めて啜り泣く背中を、雫の大きな手が優しく撫でた。
と、不意に雫がくしゃみをした。 全身ずぶ濡れで冷えてしまったらしい。
「ごめんなさい……」
「何故そこで謝る?」
雫が苦笑した。
「お風呂…入って温まって…」
いくら雫が丈夫でも冬の最中だ。 このままでは風邪をひいてしまう。
「じゃあ、一瞬に入ろう?」
その言葉に頬が熱くなったのを隠すように雫の胸に顔を隠して頷いた。
繰り返し口付けを交わしながら、濡れた服を脱ぎ捨ててシャワーを浴び、バスタブに一緒に入った。
「もっとひっつけよ、温まらないぞ?」
ぴったりと合わせた肌と肌。
「ああ、やっぱりお前の抱き心地が最高だ」
「何です、それ? ムカつきますね…」
やっぱり……とは比べる対象があるという事だ。
「仕方ないだろう? 抱き合って見せる必要があったんだから。 後で思いっ切り嫌みを言われたけどな」
「嫌み?」
「そりゃ、お前の処に何日か帰られないんだ。 つい……な」
彼女はホテルの部屋で雫にこう言ったのだ。
『抱き心地が悪いって言いたげな溜息、折角の場面で人の耳許でするのやめてくれない?』 と。
そのままを清方に言うと雫の首に腕を絡めて笑う。
「う~ん、女は強過ぎて俺には扱いきれん。 お前の方が綺麗で可愛い。 本当に妬いたらどうなるのか、たっぷり見せてもらったしな」
「…言わないでください…」
恥ずかしさに顔を伏せた。
「全く…そんな可愛い顔すんなよ。 ベッドまで我慢出来ないだろうが…」
「バカ…」
身を起こして自分から唇を重ねた。
「ん…ふゥン…」
わずかに離れている時間がこんなに、寂しくて不安なものだとは知らなかった。 そして…自分が如何に狭い視野で、雫との生活を見ていたのかがわかった。
精神科医としてあらゆる事を想定して考えられるつもりだった。 だが自分自身の事だと学んだものを全て忘れてしまう。 何も見えなくなってしまう。 もっと冷静なつもりだった。 けれど実際には雫がかつての恋人といるのを見て、嫉妬でいっぱいになってしまった。 混乱して狼狽えて目撃した事実から逃げ出そうとした。
大人になって心にも余裕を持っているつもりだった。 こんなに自分が脆いとは思わなかった。
それに比べて…雫は……
「あなたは…ちゃんと生きて来たのですね」
学院という閉鎖された世界でただ嘆き諦めるしかなかった自分とは違って、外にいた雫は懸命に自分の生きる道を求めて、社会の荒波を乗り越えて来たのだ。 しかもそれは清方と歩く人生を取り戻す為だった。 恐らくは何度も挫けそうになったに違いない。 武との縁談すら利用しようとした程だ。
「愛してます」
ただ歳を重ねただけの子供、それが自分。 だが雫はありのままを受け入れてくれた。
「さっきは慌てたぞ? 本気でお前に捨てられるかと思って、背筋が凍ったように感じた」
「ごめんなさい…」
「謝るのは俺の方だ」
強く抱き締められたらそれだけでもう十分だった。
「抱いてくたさい…あなたが欲しい」
「もう十分温まったな…上がるか?」
本当はすぐに抱かれたい。 でも…ベッドでたっぷり愛して欲しいとも思う。
「連れて行って…」
縋り付くとそのまま抱き上げられてバスタブから出された。 簡単に水気を拭ってバスローブを着せられた。 やはり水気を拭ってバスローブを着た雫に、再び抱き上げられてベッドに運ばれた。
幸せだった。 唇を重ねながらバスローブを剥ぎ取られた。 雫の手が肌を愛しげに撫で回す。
「ン…あ…雫…もっと…もっと、私に触れて…」
もう触れてもらえないかもしれないと、嘆き悲しんだ数日が嘘のようだった。
「清方、愛してる」
「ああ…嬉しい…雫…私の…雫…」
雫が自分の為に生きてくれるなら、全てを捧げて生きて行こう。
「ン!あッ!ダメ…」
「相変わらず、胸が弱いな」
片方を強く摘まれもう片方に歯を立てられると、あられもなく甘い声を上げてしまう。
「胸だけでイけそうだな?」
「…イヤ…許して…」
瞳を潤ませて首を振る。 その姿に匂いたつ色香に雫はクラクラしてしまう。
あの学祭の実行委員が集まった日、大勢の中でそこだけ光が射したように、まだ幼い顔をした清方は綺麗だった。 視線が外せなくなった。 だから生徒会長の立場を利用して話し掛けた。 一目惚れだった。
あの日から10年以上の歳月が流れても、清方は綺麗で少しも変わりがなかった。
「嫌がるところを見ると、もうイきそうなのか?」
少し意地悪い質問をしてみる。 清方はもっと瞳を潤ませて首を振った。
「いやか? ならばどうして欲しい?」
その言葉にみるみるうちに、清方の頬が薔薇色に染まった。
美しい…と思う。
雫の喉が鳴った。
「雫…欲しい」
両脚を開いて請う。
「煽るな…自制出来なくなるだろうが」
「しなくて良いから…あなたで満たして」
ジェルを付けた雫の指が欲情に蠢うごめく蕾を撫でた。
「ああ…」
清方の口から期待を込めた熱い吐息が漏れた。
「ンぁ!…はンぁ…」
体内で動く指に肉壁が絡み付く。
「やッ…そこ…ダメ…!!」
悲鳴のような声をあげた瞬間、清方のモノが欲望を飛び散らせた。まだ一度も触れられていないのに。羞恥心に耐えられず両手で顔を覆った。
「そんなに寂しかったのか?」
雫はそんな清方を笑わずに優しく問い掛けた。顔を覆ったまま頷いた。寂しかった。だがそれ以上に怖かった。また雫が背を向けて去って行くかもしれないと。だから逃げ出そうとしたのだと…この瞬間にわかってしまった。あの時の別れがまだこんなにもトラウマとして残っていると。
「挿れるぞ?」
「はぁッ…ああぁッ…!」
言葉と共に受け入れた熱と大きさに、大きく仰け反って声をあげた。太腿が痙攣している。
「清方…お前はずっと、辛い想いでいたんだな」
「雫?」
合わせた肌の温もりを確かめながら雫が耳許で呟いた。
「バカな事をしたと…後で後悔した。 他に方法があった筈なのに…一番、悪い方法を俺は選んでしまった」
雫はちゃんと清方の心の傷を理解していた。 嫉妬からあのような言動になった本当の理由を。
「俺は…二度とあんな…間違いは…しない!」
抽挿を始めながら力強く言う。 そこに雫がどれだけ苦悩したのかが見えてしまう。
「雫…あッ…あンぁ…イイ…もっと…もっと…」
「もっと欲しがれ、清方…俺は…丸ごと全部…お前のものだ…!」
再会して一年。 共に暮らすようになって半年。 離れていた時間を取り戻すにはまだまだ足らない。
「あッあッ…雫…もう…イく…ああッ…お願い…イかせて…」
「ああ、イけ…俺も限界だ…」
「ヤ…あッ…イく…ああッ…イくぅ…!!」
爪先が反り返り仰け反って戦慄わななく身体が、肉壁を激しく収縮した。
「うッ…くうッ…清方!!」
引きずり込まれるように、雫も激しく清方の体内に放出した。
満たされていく。 清方は息を乱して覆い被さって来た雫を、両手で力いっぱい抱き締めた。 すると応えるように、力強くしっかりと抱き返された。
「ありがとう、雫…私は幸せです…」
何度も求め合った後、改めて入浴をした。 雫の背中を洗い流しながら、清方は一つの疑問を口にした。
「どうしてあの人と結婚しなかったのですか?」
「…仕方ないだろ。 振られたんだから」
「え?」
「他の誰かを想い続ける男なんぞいらない、そう言われて振られたんだ」
ちょっと拗ねたように言う姿がおかしくて、清方は吹き出したのだった。
事の始まりは一本の電話だった。
武と夕麿が外出しないと言うので、雫は清方と一緒に部屋でくつろいでいた。 すると突然、携帯の着信音が鳴った。 画面に浮かび出た名前は雫の以前の上司のものだった。 清方に軽く合図をして、廊下に出て通話ボタンを押した。
「はい、成瀬です」
ずっと武と夕麿の専任警護に就いている為、上司とは帰国の時に報告に行った時以来だ。
「はあ? 待ってください、部長。 俺は紫霞宮殿下の専任警護を仰せつかっている身ですよ?」
特殊な捜査の応援を要請されたのだが、本来ならば有り得ない事だった。 武の生命を脅かしていた者たちは排除したが、完全に安全になったという保証はどこにも存在していない。
「それ、俺じゃなくても出来るでしょう?」
抗議してみたがどうしてもと譲らない。
「わかりました、殿下にご都合をうかがってみます。 部長、私がここを離れるという事は、その間に殿下はお出ましになられなくなるという事になります。 その事実をきちんとご理解してくださり二度とないと約束してください。 そうでなければお願いをする事は出来ません」
一番の役目を置いて短期間とはいえ、別の任務に就くというのは非常識とも感じられた。 本当に通常では有り得ない。
「折り返し連絡します」
通話を終えて雫は深々と溜息を吐いた。
「信じられん。 正気の沙汰じゃない」
天を仰いでボヤいた雫に清方が目を丸くした。
「何か問題ですか?」
「しばらくここを離れて、応援に行けとさ」
「武さま方を置いて?」
「そうだ。 普通は有り得ない。 何だか知らないがご指名だそうだ。
……ちょっと武さまにご相談申し上げて来る」
珍しくボヤきながら雫が行ったのを、清方は苦笑しながら見送った。
「え?応援?しばらくいないの?」
「申し訳ございません。 本来ならば有り得ない事なのですが…恐らくは年末という事で、人手不足なのだとも考えられます」
武はどちらかというとこういう時には理解を示してくれる。有り難いとは思うのだが警護官としては心苦しい。
「だったら夕麿、ホテルには今夜から行こうよ? あそこに籠もっているなら、雫さんも安心だろ?」
「雫さん、それはどれくらいの期間なのですか?」
夕麿の質問はもっともだった。
「明日より3日…と聞いております」
「わかりました。 では今夜からホテルへ移る事にします。 それでよろしいですか?」
「ありがとうございます。 二度とこのような事がないように、上には厳重に抗議しておきますので」
深々と頭を下げた雫に武は明るく言った。
「仕事なんだから仕方ないよ」 と。
夕方、ホテルへ行く武と夕麿を警護する為の準備をする。 ボディアーマーを着てその上にシャツを着る。
雫の防弾装備はアメリカで手に入れた、刃物の刃も通さない特殊繊維製だ。 通常の警察が採用している、金属プレートを布ポケットに入れたものは、重い為にどうしても行動が制限されてしまう。 しかも微妙に隙間がある為、銃弾が飛んでくる角度によっては防ぎ切れない。 刃物は防げないのだ。 それでは十分な警護は出来ない。 そう考えて自費で購入したボディアーマーだった。 これならば首も腕も防げる。 自らの身を守る事は武たちを護る事。 先に自分が倒れてしまったら後は誰が護るのだ。 最後まで行動出来なければ意味がない。
警護する事とは武たちを無事に目的地に移動させ帰宅させる事。 警護官としての誇りにかけて任務を遂行し全うする、これが雫に課せられた任務だ。
シャツを着ると肩からガン・ホルダーを装着する。 雫は銃の常時所持許可を持っている。 蓬莱皇国では日本と同じく銃に対する規制が厳しい。警察官・警護官であっても通常は、銃は署内の保管庫にあり持ち出しは厳重に管理されている。 銃弾の数もきちんと点検報告し、使用した時も報告が義務付けられている。 雫のように常時所持許可が出るのは特例なのだ。 同時に武専任の警護が如何に危険であるのかを物語っていた。
雫はリボルバーを開いて中の銃弾を確認した。 次いで確かに回転するのを確認して銃身に戻す。 安全装置の確認を行いグリップ部分を手前にホルダーに入れた。 銃が飛び出さないようにホルダーのカバーを止める。
「はい」
清方が広げてくれた上着を着た。
「行って来る。 応援任務中、連絡は入れられないかもしれない」
「わかってます。 何かあれば逆に連絡が来るでしょうから、知らせがないのは良い知らせだと思っていますよ」
清方がそう言うのを聞いて何となく嬉しくなった。 そっと抱き寄せて軽く唇を重ねて身体を放した。
清方には警護官の伴侶としての覚悟は出来ていた。 皇宮警察に所属する彼には本来、そこまでの危険は通常はない。 だが武たちの警護をしている限り、いつ何が起こっても不思議ではなかった。雫を頼もしく思う。 自分の恋人である事を誇りに思う。 10数年前付き合っていた時には、雫が将来何を選択しようとしているのか聞いた記憶がない。 中等部の生徒だった自分には、まだまだわからない事だったのかもしれない。
今は純粋に生まれて初めて好きになった人と一緒にいる。 ただそれだけで幸せだった。
高等部生徒会長。 学院の全生徒の頂点であり、最も強い権限を持つ存在。 そして席を置く学年で最も高貴なる立場。他ならぬ清方自身もその立場に身を置いた経験を持っている。
在任中の雫は古臭い制度の幾つかを廃止した。 例えば朝夕の国旗と校旗の掲揚にいちいち立ち止まって注目するという制度。 戦時中でもあるまいに…と廃止させた。 作業や登下校を中断して起立して注目するのは、幾らなんでもナンセンスだと。 また身分が高い人物が廊下を通る時に、そこにいる全員が脇に寄って礼をする、というのも廃止した。 脇に寄って道を空ける程度で良いと。 余りにも堅苦しい戦前のままの校風を、もっと過ごしやすいように改変したのだ。
全寮制の紫霄学院では堅苦しい校風で生徒を縛り付け続けるのは、既に不可能な時代へと突入していたのだ。 雫のこの努力がなかったら、外部編入した武は学院に最後まで馴染めなかっただろう。
切れ者の66代。 そう呼ばれただけの努力と奮闘を、成瀬 雫はやり遂げて卒業して行ったのだ。5年後、同じく高等部生徒会長に就任した清方は、雫のやり残した事、やれなかった事を何とか遂げようと奔走した。 二度と逢えない筈の愛しい人への清方の精一杯の愛情だった。再会してこうして共に暮らす日々をどんなに夢見ただろう。 実現した今となってはそれも良い思い出だった。
雫が脱いだ服をそっと抱き締めて残り香を嗅いでみる。 しばらくは戻って来ない。 そう思うと寂しさが湧き上がって来る。
不思議なものだ。 あんなに長い間逢えない日々を生きて来たのが今は信じられない。 ホンの数日、雫が留守にするだけなのに寂しく感じてしまう。 夜毎に肌を重ね求め合うのが、いつの間にか普通になってしまっていた。 だから独り寝の寂しさを辛く感じてしまう。 彼の息遣いが側にない事が少しばかり不安になってしまう。つくづく人間とは身勝手な生き物だとは思う。 だがそんな自分が愛しいとも思う。 恋する人間はきっと身勝手なものなのだと。
それは雫が出掛けた二日後の昼下がりだった。 清方は周と共に御園生系列の病院に来ていた。 アメリカに持って行っていた薬が多少、心許なくなっていたのを補充する為である。 ある程度の薬剤はアメリカでも処方箋があれば手に入れられる。 一部の物は処方がなくてもスーパーに行けば普通に棚に並んでいる。だが一つだけ問題があった。 アメリカの薬は分量が多過ぎる。 特に武のような小柄な人間には使えない。いずれ渡米する彼のことを考えても皇国内で揃えておく方が無難だと判断した。
有人に頼んでここの院長と交渉してもらい、今日、処方箋を書いて持って来たのだ。 処方箋にはありとあらゆる場合を想定して、多種多様な薬剤が記入されていた。 保にも処方箋を書いてもらっていたので、かなりの枚数になっていた。 それを受け取った病院は、全てを整えるのに1時間程の猶予を告げた。
そこで1時間後にと約束して清方は周と別れて街へ出た。 一人で帝都の街を歩く。 院から解放されて初めての事だった。 最近まで常に監視が付いていた彼は、ただ街を歩く事すらままならなかったのだ。
今病床にいる母方の祖父は、学院の理事の一人でもあった。 立場こそ一理事だが摂関家の当主であり、長年その地位にいた為に理事としてはかなりの発言力を保持していた。 だから清方は武の身分を以てしても完全に解放されずにいたのだ。
実父久方がその祖父から理事の権利を買い取った。 清方が護院家の籍に入り、学院を牛耳っていた者を武たちが排除した後、久方が理事の一人に就任した。 やっと清方は本当に解放されたのだ。 皮肉な事にそれ以前に彼は、学院の理事の一人に名を連ねていた。 それでも監視は消えなかったのだ。
今はこうして何も持てなかった自分がたくさんのものを得て、こうして街を歩いているというのは幸せそのものだった。
ふと見るとたくさんの車が行き交う道の向こう、ビルの前に雫が立っていた。 任務中の彼に声をかける訳にはいかないが、姿を見るだけで喜びが込み上げて来る。 ビジネススーツ姿の彼は誰かを待っている様子だった。 通常、捜査には不慮の事態を考えて、二人一組で行動する事が義務付けられている。 だから雫もその相手を待っているのだろう。
見ているとビルの中からスーツ姿の女性が出て来た。 グラマラスな美人で、一斉に周囲が注目する程の存在感を持っていた。 その女性がゆっくりと雫に近付いた。
清方は二人を見つめて息を呑んだ。 清方の視力は2.0以上ある。 読み書きに遠視用眼鏡を使用する程だ。 だから道を挟んだ向こうの人間の顔まで見える。 女性が近付くと雫が満面に笑みを浮かべたのが見えた。 女性が何とはなしにこちらに顔を向けた。
「!?」
その顔に見覚えがあった。 一年前の秋、貴之が調べた雫の経歴書を内緒でもらっていたのだ。 その中に彼女の写真があった。 かつての雫の恋人。 上司の縁者で雫の3年下のキャリア警察官だ。 雫の両親も気に入り婚約寸前だったという。 その時、武の伴侶候補としての話が起こり、彼女との仲は終わったらしい。
雫の気持ちがどうだったのかは清方にはわからない。 ただ、雫は武の伴侶になる事を了承していた。 後に彼が語った言葉は、学院に戻る手段が見つかったと思ったから了承したと。 結局、もう一人の候補であった夕麿を武は伴侶として選んだが、雫は次の手として皇宮警察への移動を申請した。
皇宮警察官には安易になれるものではない。 出自、容姿、成績、経歴などが徹底的に調査される。 本来は皇宮警察側から引き抜きがあるのだ。雫はアメリカでの研修から帰国した時から、皇宮警察に引き抜きの声が掛けられていた。
婚約寸前の恋人と別れてまで、皇家の貴種との通常とは違う縁組みを受け入れようとした事も配慮されて、雫は春の人事異動で皇宮警察官になった。 だが突然、別れを告げられた女性はどんな想いでいたのだろうか。 かつての自分の痛みと同じようなものを、彼女も味わったのではなかったのだろうか。
雫の腕に彼女が自らの腕を絡めるのが見えた。 雫は嫌がる素振りもなく、当たり前のような顔で歩き出した。
近くの信号をこちらへ向かって渡って来る。 清方はとっさに近くの喫茶店へ飛び込んだ。
嫉妬で胸がいっぱいだった。 逃げ出さなければ任務中の筈の雫に、あなたの恋人は誰なのかと詰め寄りそうだった。
胸が痛い。 嫉妬の次に襲って来た感情は深い悲しみだった。 雫はこれまで住んでいたマンションを引き払っていた。 だから警護の為も相俟って御園生邸に滞在している。 今の今まで当たり前のように思っていた。 しかしよく考えてみると雫が、自分の家族の事を口にした記憶がほとんどない。何某かの連絡をしているのも……見た事がない。 今、気付いてしまった。
喫茶店の前を雫が通り過ぎて行く、彼女と笑顔で語り合いながら。 UVカットの硝子を隔てて、清方がいるのにも気付かずに。
運ばれて来た珈琲を前に、清方は唇を噛み締めて座り続けた。
気付いてしまった事実に胸が塞がる心地でいた。 雫の両親は清方の事を知らないのだろうか。 それとも…清方との事で雫は家族と揉めているのではないか。
落ち着こうとカップに伸ばした手が震えていた。
自分の幸せに目が眩くらんで、雫が置かれているかもしれない状況を考えた事がなかった。 自分の事しか見えなかった。
もし…もし雫の両親が今でも、彼が普通に結婚して家庭を持つ事を望んでいたら? 降って湧いたような今回の急な要請にそんな裏事情が絡んでいたら…… どうすれば良いのだろうか。 雫はどうするのだろうか。
怖い……怖い……怖い…… 幸せな時間を味わっただけに失う事が恐ろしい。
本当は飛び出して彼の背中に飛び付きたかった。 縋り付きたかった。
清方が病院に戻ったのは約束の時間ギリギリだった。 普段は余裕を持って約束の時間を守る彼らしからぬ姿に、先に戻って来ていた周は心底驚いた。 しかも顔色が酷く悪かった。
「清方さん、どこか具合でも悪いのでは……」
心配そうに言葉を濁す周に彼は力なく微笑んだ。
「ちょっと人混みに酔ってしまいました。 夕麿さまと同じように、私も人の多い場所に不慣れであるのを失念していました」
周は嘘を信じたようだった。 彼に余計な心配はさせたくはない。 それでなくても彼の人生を清方は、十分に引っ掻き回して来たのだ。
清方は周を促して薬を受け取り、代金を支払って車で帰宅した。
部屋に戻って清方は悶々とした。 嫉妬に心はのた打ち回る。
雫は彼女と何処へ向かったのだろう。 どのような会話を交わしているのだろう。 彼女の眩いばかりの美しさに、雫の心は動かされているのではないか。
昼間垣間見た光景が心から離れない。 彼女と並んで歩く姿は、お似合いのカップルだった。
その事実が辛い。
悲しい。
雫……雫…… 声が聞きたかった。 昼間のあれは何でもないと。 愛しているのはお前だと。 今すぐに言って欲しかった。
雫が帰って来たのは約束の期限の次の日の夕刻だった。 武たちをホテルに迎えに行って少し疲れた顔で帰宅した。 遅れるのは武たちには連絡していたらしいが清方にはなかった。 それは仕方がない事なのかもしれなかった。
だが今の清方には辛かった。 廊下の途中で雫の帰宅を知って慌てて部屋へ戻った。 冷静な気持ちで雫に向き合えない。 だから皆のいる所には行けなかった。
雫は警護の為の装備を解きにすぐに部屋へ戻って来る。 清方はソファに座って瞑目した。
「ただいま」
「おかえりなさい」
懸命に笑顔を作った。 疲れが見えるがまだ警護官の顔をしていた。
雫はまず上着を脱いで、清方が受け取った。 銃をホルダーから外し安全装置の確認をしてから、保管用の引き出しに入れて鍵を閉めた。 ホルダーを外してホッと息を吐く。
雫が普段の顔に戻る瞬間だ。
「お疲れさま」
そう言って上着を抱き締めるようにした瞬間、清方の動きが停止した。 女物の香水の匂いがしたのだ。 ムカムカと怒りが湧き上がった。 清方は立ち上がると上着を近くのゴミ箱に投げ捨てた。
「おい、清方! 何をするんだ!?」
雫が慌てた。
「あんな匂いをさせて、あなたは武さまと夕麿さまを迎えに行ったのですか!?」
「え!?」
驚いた雫は立ち上がって、投げ捨てられた上着を拾い上げて嗅いだ。
「…っ」
絶句した雫から清方は視線をそらした。 しまった…という表情に、彼の本心を見た気がしたのだ。
「湯を溜めて来ます」
いたたまれなくてバスルームに逃げ込んだ。
泣きたかった。 だが泣く訳にはいかない。 溢れかけた涙を拭って部屋に戻った。
雫の視線を感じる。 清方はそれに気付かないふりをして、クローゼットから雫の着替えを出して整えた。
「清方」
「何です?」
ソファに戻った彼に雫が真っ直ぐに見つめて声をかけた。 それに真っ直ぐに答えた。
「勘違いするなよ?」
「勘違いされるような事でもして来たのですか?」
「あのな……」
何か言いかけた雫からついっと視線を外した。 本当は耳を塞ぎたい。
「清方?」
雫はやっと恋人の様子がおかしいのに気付いたのだ。
「俺が留守の間に、何かあったのか?」
「別に何もありません。 いつもと同じですよ」
そう変わったのは自らの心の内。 気付いてしまった事を忘れられないだけ。 無視してしまえないだけ。
……だから悲しくて辛い。
「ね、雫。 あなたのご両親は私の事を、どう思っていらっしゃるのでしょう?」
「え?」
「あなたは何も話してはくださらない…」
清方は伏せている視線を雫に戻した。
「私はあなたの事を何も知らない」
「それは…」
雫が苦々しい顔で視線を外した。
ああ、やはりそうだったのか。 彼は清方と生きる為に、家族に背を向けようとしているのだ。
「武さまの伴侶候補に内定する前、お付き合いされていた方がいたのでしょう? 今回の仕事は…その方と一緒だった」
「!?」
驚愕に息を呑んだのがわかった。
「終わりにしましょう、雫。 武さまと夕麿さまの治療もほぼ終了しました。 私がいなくてもお二方はもう大丈夫です。 だから……私は両親の所へ帰ります」
「清方…」
「大学は退学します。 一年間ありがとう、雫。 幸せでした。 側にいてくださった事を心から感謝します。 だからあなたはご両親の元へ帰ってください」
考えて考えて苦しんで苦しんでその結果に出た答えだった。
「本気で言ってるのか?」
「嘘偽りで言える事ではないでしょう? 雫、あなたには私よりあの人の方が相応しい」
膝の上で手を握り締めた。 本当は嫉妬と悲しみで叫び出しそうだった。けれども彼が本来いるべき場所は自分の側ではないのだとも思っていた。
「俺の不在の間…何があった」
「何も。 ただ、街であなたを見かけただけです」
寂しげな笑みを浮かべた清方に雫ははっきりと狼狽した。
「清方…聞いてくれ…」
「何を…何を聞けと言うのです!?」
「彼女は…彼女とは一緒に仕事をしただけだ!」
「腕を組んで楽しそうに?」
次第に自制が利かなくなる。
「腕を組んであんなに身体を密着させて…あなたは嫌がってなかった! むしろ嬉しそうな顔で並んで歩いていた。 そこに私がいるのも知らずに!」
悲しい……悲しい……悲しい…… どんなにしても女性にはかなわない。 同性の結び付きはやがて警察官や警護官としての雫には傷になる。
見ないようにしていた現実が、見えない枷となって嫉妬と入り混じって締め付ける。
雫を責めてはいけない。 雫には罪はない。 わかっているのに感情の爆発を止められない。
「仕事だったと言ってるだろう!?」
耐え切れなくなった雫がテーブルを叩いて怒鳴った。
「何を勘違いしてるんだ!?」
「言い訳は聞きたくありません! 仕事だったとしても、あなたは彼女といる事を楽しんでいました」
違う…違う…こんな事を言いたい訳じゃない。
「…やめましょう。 こんな言い争いは意味がありません」
「俺を捨てるのか?」
「大丈夫です。 きっと良い思い出だったと、あなたは笑う日が来ます」
その為ならば何でもする。たとえ失う事に心が耐えられなかったとしても、愛する人が幸せであるならば何を惜しむ?そう想い至って清方は、武の気持ちを本当に理解できた気がした。自分の存在を否定た彼の深い悲しみが。
「16年間もお前を忘れられなかった俺にはそんな日は絶対に来ない! ずっと…後悔して後悔して、何度も自暴自棄になりかけた。 夢の中でお前は泣いて俺を責めた。 俺は夢の中で謝り続けていつも目が覚めた。
辛かった……ずっと辛かった」
雫の苦悩に満ちた顔は初めて見た。
「だが、再会したお前は俺を責めなかった。 それどころか、俺を想い続けてくれていた。 その喜びがわかるか? 俺は…やっと、お前の所へ戻れたんだ!」
言葉が出なかった。
「誰にも邪魔はさせない! 俺はお前と生きて行くと決めたんだ!」
何という強い言葉だろう。 嬉しい。 嬉しくて……悲しい……
「ありがとう…雫。 今の言葉でもう十分、私は報われました。 お願いです。 ご両親の元へ帰ってください」
そして…普通に結婚して幸せになって欲しい。
「嫌だ! 俺はそんな言葉は聞きたくない!」
雫が拒否すれば拒否する程、女性と楽しそうに歩く姿が浮かぶ。 嫉妬に胸が灼かれる。 自分にここまでの強い感情があったなんて知らずに生きて来た。
「あなたは…あの人といる方が幸せそうでした。 私はあんなあなたを見た事がありません」
きっと雫が自分を大切にしてくれるのは過去の罪の意識。 自分への愛情じゃない。 嫉妬心が悪魔の囁きをする。 苦しいのに…悲しいのに…それをぶつける場所がない。
「あなたの贖いはもう十分いただきました」
「贖いなんかじゃない! お前を愛しているんだ! 彼女とは終わっている。 俺は元から結婚する気はなかったんだ。 何故わかってくれない!」
清方の言動の底に、強い嫉妬心が存在するのを雫は気付いてはいない。
「俺を捨てるな、清方」
その言葉に首を振ったが本当は怖かった。 雫が自分の言葉を受け入れるのが。 だがもう止められない。
「湯を…止めないと…」
不意にバスルームの湯を出したままなのを思い出して清方は立ち上がった。 ふらふらと心許ない足取りで、バスルームへと行って湯を止めた。 湯はバスタブから溢れそうになっていた。 湯を止めてバスルームから出ようとして振り返ると雫が立っていた。
「俺は…お前と別れたりしない」
力強く抱き締められた。 その強さに縋りたくなる。 と…シャツからも香水が匂う。 ムカムカした。
「あの人に触れた手で、私に触らないでください!」
悲鳴のような声を上げて、たった今、縋りたいと思った腕の中から逃げ出した。 だがここはバスルームだ。 唯一の出入り口は雫が塞いでいる。 どこにも逃げ場はない。
雫はというと…今の清方の言葉に、何か感じるものがあったらしく、首を傾げるようにして考え込んでいた。 そして……ハッとして顔を上げ清方を見つめた。
「清方、お前……」
雫の口から笑い声が漏れた。
「何だ…妬いてるのか? だったら素直にそう言え!」
楽しそうにそう言ってなおも笑い続ける姿に、先程とは別の怒りがこみ上げて来た。 この数日、どんな想いでいたのかも知らないで、目の前の男は笑っている。
悔しい。
腹立たしい。
清方はシャワーのノズルを取ると湯を全開にして雫に向けた。
「うわっ…!熱い!やめろ、清方!何をする!?」
慌てふためく雫に容赦なく湯を浴びせかける。 女性の痕跡など全部、洗い流してしまいたい。 雫の中の彼女の記憶ごと、洗い流してしまえればどんなに良いだろう。 そんな事は不可能だ。 そう思うと悲しみが一気にこみ上げて来た。
清方の手からシャワーノズルが音を立てて落ちた。 全身からがっくりと力が抜けて、清方はその場に泣き伏した。 身も夜もなく号泣した。
「清方…」
雫は湯を止めるとそっと彼を抱き起こした。
「すまなかった…お前に見られたとは思ってなかった」
抱き締めて何故彼女といたのかを説明した。
最近、身なりの良い裕福そうなカップルを狙った、強盗事件が頻発していたのだという。 警察官がそれらしい格好で囮になって捜査したが、彼らは街中でのカップルの行動を観察した上で犯行に及ぶらしい。 間に合わせのセレブもどきでは、彼らは引っかからなかった。
だから雫に要請が来たらしい。 雫ならば貴族の子息として立ち振る舞いは本物だ。 しかもそれなりに裕福である。 相手の女性もそこそこの家の令嬢で一応は元恋人同士。 お誂え向きの二人に街中を歩かせて、囮にする作戦だったのだ。 これ見よがしに腕を組み、カードで高価なものを買い物する。 ドレスコードのあるレストランで食事をする。 一泊、数十万するホテルのスイートに宿泊する。 彼らには垂涎すいぜんもののセレブであるのを見せ付けた。
そしてやっと昨夜、それらしい者たちに付け回されるのに気付いて、わざと人気のない場所へ誘き出した。 彼らは雫たちを襲おうとして、待ち構えていた所轄の刑事たちに現行犯逮捕されたという。
「ホテル…に止まった?」
「寝室が二つある部屋にな。 彼女は昨年、結婚してる。 どちらも既に大切な相手がいるんだ、当然、おかしな事にはならない」
そう言って雫は笑った。
「なあ、清方。 確かに俺の両親は、お前との事に良い顔はしていない。 だが仲違いしたのは……お前と再会するより前だ。
彼女と別れて武さまとの縁談を承諾した時に揉めて俺は家を出た。 俺には兄も弟もいる。 後継ぎになる必要もない。 だからお前と生きて行く。 良岑君と大差はないさ」
雫はとっくに腹を据えていた。 両親は雫が武の専任警護を引き受けた事にすら、懸念を示して口出しをして来た。
「俺はとっくに子供じゃない。 自分の生き方は自分で決める。 同性愛者だからと警察にいられないなら、武さまにボディガードに雇っていただくさ」
お茶目にウインクして笑う。
「俺はやっとお前を取り戻したんだからな。 もう離さない。 お前が嫌だと言ったら、鎖で繋いでも逃がさないから、覚悟しておけ」
「雫…雫…」
名前を呼ぶのが精一杯だった。
「悪かった。 任務の内容を説明しておけば良かった。 お前が街中に出る可能性を考えてなかった。 余計な心配をさせないようにしたつもりが逆効果になったな。
許してくれ、清方」
懸命に言葉を紡いで悩み苦しんでいた清方へ贖あがなおうとしてくれる。 そこに彼の愛情を感じた。 今度は嬉しさに視界が歪む。 シャツを握り締めて啜り泣く背中を、雫の大きな手が優しく撫でた。
と、不意に雫がくしゃみをした。 全身ずぶ濡れで冷えてしまったらしい。
「ごめんなさい……」
「何故そこで謝る?」
雫が苦笑した。
「お風呂…入って温まって…」
いくら雫が丈夫でも冬の最中だ。 このままでは風邪をひいてしまう。
「じゃあ、一瞬に入ろう?」
その言葉に頬が熱くなったのを隠すように雫の胸に顔を隠して頷いた。
繰り返し口付けを交わしながら、濡れた服を脱ぎ捨ててシャワーを浴び、バスタブに一緒に入った。
「もっとひっつけよ、温まらないぞ?」
ぴったりと合わせた肌と肌。
「ああ、やっぱりお前の抱き心地が最高だ」
「何です、それ? ムカつきますね…」
やっぱり……とは比べる対象があるという事だ。
「仕方ないだろう? 抱き合って見せる必要があったんだから。 後で思いっ切り嫌みを言われたけどな」
「嫌み?」
「そりゃ、お前の処に何日か帰られないんだ。 つい……な」
彼女はホテルの部屋で雫にこう言ったのだ。
『抱き心地が悪いって言いたげな溜息、折角の場面で人の耳許でするのやめてくれない?』 と。
そのままを清方に言うと雫の首に腕を絡めて笑う。
「う~ん、女は強過ぎて俺には扱いきれん。 お前の方が綺麗で可愛い。 本当に妬いたらどうなるのか、たっぷり見せてもらったしな」
「…言わないでください…」
恥ずかしさに顔を伏せた。
「全く…そんな可愛い顔すんなよ。 ベッドまで我慢出来ないだろうが…」
「バカ…」
身を起こして自分から唇を重ねた。
「ん…ふゥン…」
わずかに離れている時間がこんなに、寂しくて不安なものだとは知らなかった。 そして…自分が如何に狭い視野で、雫との生活を見ていたのかがわかった。
精神科医としてあらゆる事を想定して考えられるつもりだった。 だが自分自身の事だと学んだものを全て忘れてしまう。 何も見えなくなってしまう。 もっと冷静なつもりだった。 けれど実際には雫がかつての恋人といるのを見て、嫉妬でいっぱいになってしまった。 混乱して狼狽えて目撃した事実から逃げ出そうとした。
大人になって心にも余裕を持っているつもりだった。 こんなに自分が脆いとは思わなかった。
それに比べて…雫は……
「あなたは…ちゃんと生きて来たのですね」
学院という閉鎖された世界でただ嘆き諦めるしかなかった自分とは違って、外にいた雫は懸命に自分の生きる道を求めて、社会の荒波を乗り越えて来たのだ。 しかもそれは清方と歩く人生を取り戻す為だった。 恐らくは何度も挫けそうになったに違いない。 武との縁談すら利用しようとした程だ。
「愛してます」
ただ歳を重ねただけの子供、それが自分。 だが雫はありのままを受け入れてくれた。
「さっきは慌てたぞ? 本気でお前に捨てられるかと思って、背筋が凍ったように感じた」
「ごめんなさい…」
「謝るのは俺の方だ」
強く抱き締められたらそれだけでもう十分だった。
「抱いてくたさい…あなたが欲しい」
「もう十分温まったな…上がるか?」
本当はすぐに抱かれたい。 でも…ベッドでたっぷり愛して欲しいとも思う。
「連れて行って…」
縋り付くとそのまま抱き上げられてバスタブから出された。 簡単に水気を拭ってバスローブを着せられた。 やはり水気を拭ってバスローブを着た雫に、再び抱き上げられてベッドに運ばれた。
幸せだった。 唇を重ねながらバスローブを剥ぎ取られた。 雫の手が肌を愛しげに撫で回す。
「ン…あ…雫…もっと…もっと、私に触れて…」
もう触れてもらえないかもしれないと、嘆き悲しんだ数日が嘘のようだった。
「清方、愛してる」
「ああ…嬉しい…雫…私の…雫…」
雫が自分の為に生きてくれるなら、全てを捧げて生きて行こう。
「ン!あッ!ダメ…」
「相変わらず、胸が弱いな」
片方を強く摘まれもう片方に歯を立てられると、あられもなく甘い声を上げてしまう。
「胸だけでイけそうだな?」
「…イヤ…許して…」
瞳を潤ませて首を振る。 その姿に匂いたつ色香に雫はクラクラしてしまう。
あの学祭の実行委員が集まった日、大勢の中でそこだけ光が射したように、まだ幼い顔をした清方は綺麗だった。 視線が外せなくなった。 だから生徒会長の立場を利用して話し掛けた。 一目惚れだった。
あの日から10年以上の歳月が流れても、清方は綺麗で少しも変わりがなかった。
「嫌がるところを見ると、もうイきそうなのか?」
少し意地悪い質問をしてみる。 清方はもっと瞳を潤ませて首を振った。
「いやか? ならばどうして欲しい?」
その言葉にみるみるうちに、清方の頬が薔薇色に染まった。
美しい…と思う。
雫の喉が鳴った。
「雫…欲しい」
両脚を開いて請う。
「煽るな…自制出来なくなるだろうが」
「しなくて良いから…あなたで満たして」
ジェルを付けた雫の指が欲情に蠢うごめく蕾を撫でた。
「ああ…」
清方の口から期待を込めた熱い吐息が漏れた。
「ンぁ!…はンぁ…」
体内で動く指に肉壁が絡み付く。
「やッ…そこ…ダメ…!!」
悲鳴のような声をあげた瞬間、清方のモノが欲望を飛び散らせた。まだ一度も触れられていないのに。羞恥心に耐えられず両手で顔を覆った。
「そんなに寂しかったのか?」
雫はそんな清方を笑わずに優しく問い掛けた。顔を覆ったまま頷いた。寂しかった。だがそれ以上に怖かった。また雫が背を向けて去って行くかもしれないと。だから逃げ出そうとしたのだと…この瞬間にわかってしまった。あの時の別れがまだこんなにもトラウマとして残っていると。
「挿れるぞ?」
「はぁッ…ああぁッ…!」
言葉と共に受け入れた熱と大きさに、大きく仰け反って声をあげた。太腿が痙攣している。
「清方…お前はずっと、辛い想いでいたんだな」
「雫?」
合わせた肌の温もりを確かめながら雫が耳許で呟いた。
「バカな事をしたと…後で後悔した。 他に方法があった筈なのに…一番、悪い方法を俺は選んでしまった」
雫はちゃんと清方の心の傷を理解していた。 嫉妬からあのような言動になった本当の理由を。
「俺は…二度とあんな…間違いは…しない!」
抽挿を始めながら力強く言う。 そこに雫がどれだけ苦悩したのかが見えてしまう。
「雫…あッ…あンぁ…イイ…もっと…もっと…」
「もっと欲しがれ、清方…俺は…丸ごと全部…お前のものだ…!」
再会して一年。 共に暮らすようになって半年。 離れていた時間を取り戻すにはまだまだ足らない。
「あッあッ…雫…もう…イく…ああッ…お願い…イかせて…」
「ああ、イけ…俺も限界だ…」
「ヤ…あッ…イく…ああッ…イくぅ…!!」
爪先が反り返り仰け反って戦慄わななく身体が、肉壁を激しく収縮した。
「うッ…くうッ…清方!!」
引きずり込まれるように、雫も激しく清方の体内に放出した。
満たされていく。 清方は息を乱して覆い被さって来た雫を、両手で力いっぱい抱き締めた。 すると応えるように、力強くしっかりと抱き返された。
「ありがとう、雫…私は幸せです…」
何度も求め合った後、改めて入浴をした。 雫の背中を洗い流しながら、清方は一つの疑問を口にした。
「どうしてあの人と結婚しなかったのですか?」
「…仕方ないだろ。 振られたんだから」
「え?」
「他の誰かを想い続ける男なんぞいらない、そう言われて振られたんだ」
ちょっと拗ねたように言う姿がおかしくて、清方は吹き出したのだった。
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