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二十三節

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月星丸の居る屋敷の前までたどり着いた。

辺りはすっかり夜の闇に覆われ、中の様子も分からない。

静かであるのならば、俺なんかの出番ではなかったのかも。

ふと気になって辺りを見渡した。

もしやお萩とその仲間が来ているやも知れぬ。

そう思うと、急に身が引き締まった。

そうだ、俺はさっきからずっと、そのことが気になっていたんだ。

「きゃあ!」

突然、屋敷の中から悲鳴が上がった。

俺は中へ飛び込む。

声の聞こえた庭先の方へ回った。

戸板が破られた様子はない。

だとしたら、刺客が入り込んだのはどこだ?

内側から、ガラリと扉が開いた。

そこに立っていたのは、月星丸だった。

「千さん!」

月星丸は素足のまま庭に飛び出すと、俺に抱きつく。

「遅いよ! なんで俺を置いていったんだよ、もっと早く迎えに来て!」

思わず抱き留めそうになった自分の腕を、空に高く掲げる。

家斉公の娘に失礼など出来ない。

「迎えに来たのではない、様子を見に来ただけだ。先ほどの悲鳴はなんだ?」

月星丸は後ろを振り返った。

驚いた女中や控えの役人が集まっている。

「あいつらが俺に嫌なことばっかりやらせようとするんだ。これじゃあせっかく抜け出したのに、元に戻されたみたいだ。ねぇ、長屋に帰ろう、俺はあっちの方がいい」

「葉山はどうした?」

「あんな奴、だいっきらいだ!」

月星丸は、吐き捨てるようにつぶやいた。

「だから、出て行けって言ってやった。もうあいつは、ここには来ないよ」

「そうか」

俺は胸にしがみつく月星丸を、振り払うようにして後ろに下がる。

「あいつには、役不足ということだな」

月星丸を残して、俺は屋敷に上がった。

そこにいる女中たちを見下ろす。

「月星丸が何をした」

女たちは、お互いの顔を見合わせるばかりで、ろくな返事が返ってこない。

この荒らされた部屋は、全部月星丸の仕業か。

俺は足元に落ちていた紙を拾った。

寺子屋通いの長屋の虎次郎よりも拙い文字、ろくに筆を持ったことのない者の筆跡だ。

「あ、見ないでよ」

俺の手から、月星丸がそれを奪い取ろうとするのを取り上げる。

「お前、いろはを最初から言ってみろ」

「『いろは』といえば、『いろは』に決まってるだろ」

足元に落ちている「庭訓往来」を広げる。

「ほら、これを読め」

「漢字はまだ読めない」

月星丸は本を奪い取った。

「お前はこの歳まで、一体何をやっていたんだ」

月星丸は、顔を真っ赤にしてうつむく。

何も教えられていないというのは、こういうことか。

壁には棹の折られた三味線と、弦の全て切られた琴が立てかけられている。

「月星丸が、ここに居られるのはいつまでだ」

「それは……」

女中たちが言葉を濁す。

「ねぇ、ちょっと待って。ここに居られるって、どういうこと? ここに居られるのは、いつまでって、なに?」

月星丸は俺に向かって、本を投げつけた。

「だから、帰らないってずっと言ってるのに! こんなことしたって無駄なんだよ。どうしてそれが分からないの?」

「どこの大名屋敷の娘かは知らぬが」

俺は、そう言った。

「家から抜けるのなら、それなりの覚悟が必要だ。本当に屋敷を抜け出して自由な暮らしがしたいのなら、ちゃんと家に戻って父上と話しをつけてこい」

月星丸は、眉間にしわを寄せ俺を見上げた。

「それが出来ぬのなら、大人しく戻れ。出来るというのなら、ここで誰にも負けぬ知恵という力をつけて戦え。選ぶのはお前だ」

返事はない。

月星丸は、ただ黙ってうつむいた。

無理難題を押しつけているのは分かっている。

だけど、月星丸が自ら江戸城の姫だと名乗らぬ限りは、こうするしかない。

名乗ればその時は、無理矢理にでも城に帰す。

「元の場所には……、戻らない」

月星丸は、ぼそりとつぶやいた。

「そうか。では俺もここに用はない。葉山に頼まれてお前の面倒を見ろと言われたが、その必要もなかったようだ」

「待って!」

「邪魔したな。この仕事の依頼はなしってことだ。では御免」

背を向けた俺の背に、月星丸はしがみつく。

「分かった! 分かったよ。だからお願い、ここに居て。他に信じられる人が、ここには誰もいないんだ」

涙を必死で堪えている。

月星丸は鼻水をすする。

「今日はもう遅い。さっさと寝ろ。明日からしっかり学べ。それがお前の生きる道だ」

大人しくうなずいたのを見届けると、女中たちは寝支度を始めた。

俺は月星丸を残して部屋を出る。

女中に案内させて、別室に移った。

「葉山はどうした。どこにいる」

「葉山さまは、夜は非番にございます」

俺はため息をつく。

布団を整えると、女中は姿を消した。

あの男は、どこまでやる気があるのかないのかが分からん。
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