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二十二節

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翌日、目を覚ました俺は、久しぶりに静かな時間を過ごしていた。

思えば月星丸と出会って以来、俺は一人になることが、ほとんどなかったのだな。

縁側に出て、ただ流れる雲を見上げている。

こんなに穏やかで何もないのも久しぶりだ。

俺はいままで、こういう暮らしをしていたんだった。

ごろりと横になって、再び目を閉じる。

梅雨入り前の、やや湿気を帯びた生暖かい風が吹く。

万屋の店の方から聞こえてくる喧噪を聞きながら、俺はただそこにじっとしているだけだった。

やがて暮れ六つを知らせる鐘の音が聞こえてくる。

俺は用心棒の仕事を済ませるため、部屋を出た。

万屋の店先の方に回って、景気づけ代わりに売れ残りのおはぎを一つつまむ。

それを食べ終わって、通りに出たところだった。

「これはちょうどよいところに出くわした。そなたに頼みたい仕事がある。俺からの個人的な依頼だ、ぜひ引き受けられよ!」

目の前に現れたのは、頬に赤いひっかき傷をつけた葉山だった。

「どうしたその顔の傷は。てめえの女房にでもやられたか」

「俺は独り身だ! お前はあの方と一体どのようにして過ごしておったのだ!」

「はぁ?」

月星丸のことか。

俺は葉山を無視して歩き出す。

「俺は今まで、男女を問わず様々な方を見てきたが、あのようなお方は初めてだ。噂には聞いていたが、これほどとは思わなかったぞ」

依頼先の家まで、まだまだ距離はあるが、約束の時間には少し早い。

ぶらぶらと歩き出した俺の後ろを、葉山がついてくる。

「どうやってお前はあの方を取り回しておったのだ。全く腑に落ちん」

「まだ一日しか経ってねぇじゃねぇか、何をそんなに騒ぐ」

「一日でも耐えられん!」

俺はしかめ面で葉山を見てやる。

それでも引き下がらないということは、よほど困っているのだろう、とは、思う。

「今から例の屋敷へ来い。場所は分かっているだろう。至急だ」

「悪いが、俺は今から別の仕事があって、行かなきゃならねぇんだ」

「別とはなんだ! 他にどんな用がある!」

「うるせーな。もうあんたらとの仕事は終わったんだ」

「新しく依頼すると申しておる」

「おい。お前、俺がいくらすると思ってんだ。そんなに……」

万屋を通せと言おうと思って、やめた。

もし本当に萬平に話しが行ったら、俺はそれを引き受けざるをえない。

「こう見えて、俺も忙しいんだ」

葉山は立ち止まった。

俺は振り返らない。

「じゃあな。せいぜいあいつを崇め奉れ」

葉山の舌打ちと、駆け出す足音が聞こえる。

そうか、葉山が手を焼くほど困っているのなら、元気にやっている証拠だ。

体はもう治ったのであろうか。

医師もちゃんとしたのを連れてきてるんだろうなぁ。

ふと顔を上げたら、目の前にお萩の姿があった。

「お久しぶり」

心臓がざわつき始めるのを、俺はゆっくりとなだめる。

「俺はもう、守役は下りた」

「知ってるよ」

お萩はくすりと笑うと、俺の横に並んだ。

「お月ちゃんのことは、もういいのかい? 待ってるんじゃないのかい?」

「誰がだ」

「お月ちゃんが、千さんのことを」

依頼先の家が近い。

そろそろこの女にも退散してもらわなければ、仕事に集中できない。

「刺したのはお前か」

お萩は笑った。

「ねぇ千さん、これから一杯どうだい?」

「月星丸の居場所を知りたいのなら、葉山の後を追った方が早いぞ」

「そんなことは、とっくに知ってるさ」

お萩の足が止まった。

「残念だね、もっと色々と話しが出来る人かと思った」

お萩は両腕を組み斜に構えると、にっこりと微笑んだ。

「では、ごきげんよう。またいつかどこかで」

宵闇の迫る薄暗い通りを、俺が瞬きをしている間に、お萩の姿が消えた。

あの女にも、二度と会うことはあるまい。

俺は依頼のあった家に急ぐ。

お萩の姿が消えて、我慢していた俺の心臓はようやく解放されたらしい。

急に心拍数が上がる。

そんなに驚いてどうする。

あれは女であって女ではない。

俺の苦手とする女の最たるものだが、あの女にこれほど怖がる必要など、どこにもないのだ。

俺は胸に手を当てた。

大きく息を吸い呼吸を整える。

大丈夫だ。

次の仕事に集中しよう。

依頼主の家へ向かい、事情を聞く。

大きな商家の娘だ。

それが寺子屋で知り合った幼なじみの画描きの男と通じ合い、帰ってこないという。

両親と共に、その画描きの男の家に向かった。

画描きのような男と話しをするのに、なぜ用心棒が必要なのかと思っていたら、なるほどただの画描きではなかったようだ。

美人画を得意とする流行の先頭をいくようなちゃらちゃらした男だった。

派手な着物に酒と煙草、洒落というのか粋といのか、酔狂な男だ。

歌舞伎役者のように、派手な化粧までしている。

女の方も男に負けじと、やたらと顔に白粉を塗りたくっているが、コレは隈取りなのか落書きなのか、俺にはよく分からない。

娘の父親と母親は、とにかく娘を連れ戻そうと必死だった。

俺はうんざりしながら、ただその横に座って目を閉じている。

目は簡単に閉じられるが、耳だけは閉じたくとも聞こえてくるから難しい。

彼らの話しなぞ、いちいちまともに聞いてはいないが、とにかく長引きそうなことだけが辛い。

ふと片目を開ける。

男はだらしなく着物を羽織ったまま片膝を立て、この喧噪の中でも落書きのような絵を描いている。

どうみても仕事の絵などではない。

へのへのもへじや、言いたくても言えないような言葉を、そこに書くことで気を紛らわせている。

女が泣きながら、男の背に飛びついた。

男の手元がそれに押されて、この娘の親父の似顔絵らしき絵が乱れる。

男は筆を放り投げた。

「おい親父! 千両万両を生み出すこの俺さまの手が、怪我でもしたらどうしてくれる!」

男は先ほどまでの、寺子屋の子どもの落書きのような半紙を掲げてみせた。

そういえば月星丸の書いた字をみたことがなかったな。

「俺の絵が一枚いくらで売れるか知ってんのか? 一枚の原画で、何枚の版木が作られてると思ってやがる!」

月星丸は算術も不得意であった。

城の姫は計算をしなくてもよいのだろうか。

炊事や裁縫はできるようであったが、漢詩や歌のひとつくらい、詠めるのであろうか。

「お前の賃金なんぞたかが知れてるじゃないか! ちゃんと版元から聞いてるよ!」

「なんだとてめぇ、バカにしてんのか! 俺はそのうち、でかい男になるんだよ!」

でかい男か、そういえば元服もまだだったな。

結局元服はどうするのであろうか。

元服までの命だというのなら、今からお茶やお花の稽古をしたところで、何になるというのだろう。

激しい口論が続いている。

俺がこうしている間にも、月星丸は踊りや琴の稽古をしているのだろうか。

ついに男が立ち上がり、親父さんとお袋さんの前に立ちはだかった。

なるほど、この男のために、娘が店の売り上げを盗んでは貢ぎあげていたのか。

そりゃダメだな。

なんだ、版元からも働かないってんで、破門にされてんのか。

そりゃ親御さんの心配もなおさらだ。

そういえば、葉山が何か言ってたな。

月星丸が言うことを聞かないとか何とか。

世の娘とは、誰もがこんなものなのだろうか。

上さまの姫が、城を抜け出すなどよほどのこと。

「ちょっと! お侍さん!」

ついてきたおかみさんの声で我に返る。

親父は男と娘から馬乗りになって羽交い締めにされていた。

「そこまでだ」

俺は男の襟を後ろからつかんで引き上げる。

戌の刻を知らせる鐘が鳴っている。

もうそんな時間になったのか。

間もなく町木戸も閉まる。

おかみさんが倒れた親父を助け起こす。

画描きはひょろひょろとした男だ。

俺はそいつを部屋の隅に放り投げた。

「さぁ、娘さんを連れてお帰りなさい」

おかみが娘の腕をつかむ。

娘は泣きわめいてそれを嫌がった。

おやじさんも一緒になって娘に詰めよる。

その隙に、おとこは長屋の部屋から抜け出してしまった。

「あの野郎、逃げやがったな!」

親父が俺を見上げた。

追いかけろということか? 

そこまでは依頼に入っていないので、俺は動かんぞ。

「ほら、お節ちゃん。あなたも帰りましょう」

そうだ。

俺も早く帰りたい。

あの抜け出した男の後を追って、俺もここを出ればよかった。

娘は壁に張り付き、テコでも動こうとしない。

両親の説得ももはやここまでか。

男がもどってくれば、さらにやっかいなことになる。

俺は重い腰を持ちあげた。

嫌がる娘をそのまま抱き上げる。

「親父さん、部屋の戸を開けてくれ」

これ以上何を言っても時間の無駄だ。

早くしないと町木戸が閉まる。

そんなもんを飛び越えるのはいつものことだが、出来れば開いている間に通り過ぎたい。

暴れる娘を抱きかかえて外に出た。

そういえば、こういう依頼は今までいくつも受けて来たが、娘を抱きかかえて外に出すなんてことは、初めてかもしれない。

それに気づいた瞬間、心臓が騒ぎ脂汗がにじみ出る。

男に逃げられた女は、外の風に当たって少しは冷静さを取り戻したらしい。

地面に下ろすと、大人しく歩き始めた。

しくしくとすすり泣く声があたりに響く。

この一家を無事に家まで送り届ければ、俺の仕事も終わりだ。

「なぁ、おっかさん、おとっさん」

突然娘が立ち止まる。

何かを話し始めた娘に、両親が駆け寄った。

俺はため息をつく。

早く家までたどり着かないと、俺の仕事が終わらない。

ふと娘を抱き上げた腕の感触が戻ってきた。

そのとたんに、全身に鳥肌がたち身震いをする。

そんな乱暴かつ危険な行為を、俺は今までしてこなかったのにな。

月星丸は、今頃なにをしているのだろうか。

話しがまとまったらしい。

ようやく一家が歩き始める。

俺もそれに合わせて歩き出した。

そういえばお萩が何かを言っていたな。

なんだったっけ。

ようやく家までたどり着いた。

頭を下げられ礼を言われるのを、俺は歯がゆい思い出で聞いている。

早く帰りたい。

「ではごきげんよう。達者でな」

俺は挨拶を簡単にすませると、サッときびすを返した。

早くしないと、町木戸が閉まる。

全力で夜道を駆け抜け、閉まりかけた門をぎりぎりですり抜ける。

よかった。これで無事に家に戻れる。

もう門は閉じられたので、月星丸のいる屋敷へはたどり着けない。

行くとしてもまた明日だ。

いや、明日になっても、俺に行く用事などないではないか。

家路についた俺は、安心して歩き始める。

あれ、だけど家とは、長屋のことだろうか、それとも、萬平のところだろうか。

あの月星丸のことだ。

また葉山の所を抜け出すかもしれない。

あいつが戻るとしたら、長屋の方だ。

木戸門をひらりと飛び越える。

荒らされた部屋では、確かに改修工事が行われていたが、床板まではまだ入っていなかった。

となると、万屋へ来るだろうか。

俺はそこでふと疑問がわいた。

そもそも月星丸は、あの葉山の屋敷から万屋までの道を知っているのだろうか。

俺の足取りが自然と速まる。

もし知らずに抜け出したとしたら、夜道を迷っているかも知れない。

あの時葉山は、家を抜け出したとは言っていなかったが、そんなことは当てにならない。

町と町を隔てる木戸門が見えた。

門番などあってないようなもの。

男の格好をした女が通らなかったかと声をかけてもよかったが、俺はその門を飛び越えた。

なぜこんなに気が焦るのかが自分でも不思議だ。

きっと、月星丸が上さまの娘を知ってしまったからなのだろう。

そんな一大事を見逃すわけにはいかない。
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