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十三節
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お萩を送ってくるとは言ったものの、それからしばらく月星丸は戻って来なかった。
俺は笠を編みながらイライラと帰りを待っている。
どこまで送っていったのだろうか。
行き先を聞いておけばよかった。
俺も一緒に行くという手もあったが、そんなことは今になって思いついたことで、あの瞬間にそんな自殺行為のようなことは頭に浮かびもしない。
ふと葉山の顔が脳裏を横切る。
もしや、今度こそ奴が強引に連れ戻す計画を立てたのかもしれぬ。
帰り道にでも連れ去られたか?
そう思うと、また脈が速くなる。
やはりついていくべきだった。
俺は勢いよく立ち上がった。
その時、ガラリと引き戸が開いて、月星丸が姿を現した。
真っ青な顔でふらふらと土間に入り込むと、そのままドサリと倒れ込む。
「どうした!」
助けおこした瞬間、胃の内容物を吐き出した。
全身が小刻みに震えている。
「誰か! 誰か、医者を頼む!」
口元がおぼつかないのか、焦点の定まらない目でパクパクと口を動かす。
吐いたものが独特の色味を帯びている。
俺は月星丸の口に手を突っ込むと、中のものを全て吐き出させた。
異変を察知した長屋の住人が、すぐに駆けつける。
俺が手を洗っている間に、月星丸は布団に寝かされた。
「患者は?」
呼ばれた医者に事情を聞かれる。
この医者の関という男は、俺と同じように万屋の連れてきた、お抱えの医者だ。
「出かけていた。帰りが遅いと思ったらこれだ」
この症状は、俺も関も嫌というほどよく知っている。
ヒ素だ。
「千さん、万屋へ行ってこの薬をもらってきてくれ」
渡された紙切れを手に走り出す。
萬平の選んだ医者だ、腕は十分に信用出来る。
駆け込んだ万屋の店先で店子に用件を伝えた。
混雑している店の片隅に、葉山が座っていた。
「血相を変えてどうした」
葉山は店で出された湯飲みを片手に、それをすすった。
「そういや、あんたんとこのガキがさっき真っ青な顔で歩いてたぞ。どうした、具合でも悪いのか」
それを俺は、上からにらみつける。
「誰の仕業だ」
「さぁな、俺は歩いてるのを見かけただけだ」
「どの方向から歩いてきた。まさかあんたが仕組んだんじゃねぇだろうな」
「どの口が言う。次に無礼を働いたら、叩き斬るぞ」
丁稚から薬が手渡される。
葉山には聞きたいことが山ほどあったが、今はこの薬を届ける方が先だ。
「話しはあとだ。首を洗って待っておけ!」
長屋に駆けもどる。
関に薬を手渡すと、関はすぐにそれを飲ませた。
月星丸が薄目を開ける。
「おい! 気がついたか?」
朦朧とした意識で、目は俺を捜している。
「何を食った、誰にやられた?」
「何も食ってない」
「んなことねぇだろ」
全身を痙攣させて、体が勝手に伸びる。
苦しいのか、月星丸は抱きかかえられている関の袖をつかんだ。
「変なものなんて、なんも食ってねぇよ」
体温が下がり、体がぶるぶると震えている。
俺は質問の仕方を変えた。
「今日食ったものを全部言え」
朝の飯、ブリの煮付けとみそ汁。
団子屋で食べた汁粉とみたらし。
「それか」
「なにが?」
「あの女にやられたのか?」
ぐったりとした体で、月星丸は首を横に振る。
「なんでそんなことを言うんだ、そんなの酷いじゃないか」
「他に誰がいる」
「俺に毒を盛ったっていうのか?」
「それ以外にないだろ」
「お萩さんはそんな人じゃねぇよ」
「バカか! お前は今までいったい……」
「今はもうよせ」
関に言われ、俺は口をつぐむ。
「千さんが最近、女を連れ込んでいるという噂は聞いていたのだが」
関はふっと笑った。
「天変地異でも起きたのかと思っていたのが、まぁ、普通の女子ではないことは、相分かった。千さん、これから女の助手を入れて看病をする。このままここにいるか?」
関に抱きかかえられた月星丸が、うつろな目で俺を見上げる。
「ちっ、看病が先だ」
「手当てはする。数日はよく看病されたし」
俺は長屋を出た。
それを合図に、外で待っていた女が中に入っていく。
こんなところに俺の用はない。
用があるのは葉山のところだ。
俺は苛立ちを抱えたまま、長屋の外に出た。
「お月ちゃんの具合が悪いって聞いたんだ」
長屋の木戸門をくぐった先にいたのは、お萩だった。
「何しにきた」
「お月ちゃんはいいのかい?」
「あぁ、もう助かった。無事だ」
そうと言い切れる状態とは言い難いが、関の腕ならそうなるだろう。
俺はにこりと笑ってみせる。
「悪かったな、心配かけちまって」
「何が悪かったんだろうね」
「さぁ、どっかで猫いらずでも拾い食いでもしたんだろ」
「私も看病しようかい? なんかこう、責任を感じちゃってねぇ」
そっとうつむく、その非常に女らしい仕草に、俺は思わず一歩後ろに下がった。
「間もなく日が落ちる。送っていこう、どこから来た?」
怖がっている場合ではない。
まずはコイツの正体を探ることが肝心だ。
お萩はちらりと俺を見上げると、妖しげな表情を浮かべた。
「おや、送ってくださるのですか? 独り身のお部屋まで」
「そう言っている。早ういたせ」
女はくすりと笑って俺の横に並ぼうとするので、すぐに後ろに引く。
「なんだい千さん、腕の一つでも組もうじゃないか」
「どこに住んでいる」
「この先の本町通りの向こうさ」
お萩はため息をついた。
「なんだよ、あたしが下手人だとでも思ってるのかい? そんなことしやしないよ」
「先に歩け」
「まぁ酷い」
女は歩き出した。
歩きながら自分は犯人ではない、そんなに疑われるのは悲しいなどとつらつら愚痴を並べているが、俺がお萩を避けるのは、それが全てなわけではない。
全部聞き流す。
女が立ち止まれば俺も立ち止まり、歩き出せば俺も歩く。
やがてお萩は泣き出した。
「せっかくお月ちゃんと仲良くなれたのに、そんな風に思われたんじゃ、あたしもやっていけないよ。どうしてそんなに……、あっ」
急に立ち止まってうずくまる。
「どうした」
「あ、足をくじいたみたい」
お萩がそこから動かないので、俺も動かない。
立ち上がって動き出すのをじっとそこで待つ。
女はついに怒り出した。
「ここは優しく近寄って、慰めの言葉ひとつでもかけるのが、男ってもんじゃないのかい!」
それが男の義務とでも言うのなら、俺は男でなくても構わない。
死ぬ。
「なんだい、千さんは衆道の方かい? だけどお月は女じゃないか」
ようやくお萩は立ち上がった。
足をくじいたというのは戯言のようだ。
「うちまで送るってのも、その気があるから言ってんだろ?」
その気とはなんだ、意味が分からぬ。
やはりこいつは隠密か、くノ一か。
俺は腰の刀に手をかけた。
「勝負をつけるなら、今ここでもよい」
女を斬るのは趣味ではないが、ある程度脅して口を割らせるのも一つの手だ。
やったことはないが、どうしよう。
「こんな気の利かない男も始めてだ。ははぁ~ん、分かった」
お萩は急に腰に手を当て、俺を見上げる。
「あんた、お月ちゃんに惚れてるね? だから義理立てして、あたしになびかないってワケだ」
その突然の発想の飛躍に、俺の脳は思考を停止する。
これだから女と話していても、意味が分からない。
俺はどうしていいのかさっぱり分からず、その場に立ちすくむ。
いつものことだ。
「あぁ分かったよ。もういい、いいさ。さっさと帰って看病でもしてやんな」
お萩は急に背を向けると、手を振ってさっさと歩き出した。
俺は刀にかけた手のやり場に困る。
お萩は言葉通り、本町通りへ向かっていた。
後を追いかけてもいいが、話しかけて弁明する気はない。
つけるなら、こっそり後をつけるに限る。
俺は刀の柄から手を離すと、静かに一歩を踏み出した。
女は本町通りに出ると、しばらくは真っ直ぐに歩いていた。
日暮れ前、帰宅に急ぐ人々で通りはあふれている。
人混みのなかにお萩の姿を見失わぬよう、後をつける。
やがてお萩は、大通りからすっと脇道に逸れた。
すぐに俺もそこへ向かう。
間髪入れずに入ったはずの脇道に、お萩の姿はもうなかった。
慎重に辺りを見渡しながら歩く。
建てられた納屋の引き戸を開けようともしてみたが、どれも錠がさしてあって簡単に開くようなものでもない。
「簡単に振ったわりには、執着があるじゃないか」
お萩が姿を現した。
「なんだい、それとも、気が変わった?」
「何者だ」
近づいてこようとするのを、刀の柄に手をかけて制する。
「ふふ、千さんは幸せなお人だねぇ」
お萩は笑った。
「あたしとどうこうする気がないなら、さっさと帰んな。つき合うだけ時間の無駄ってもんだ」
「どこのどいつだと聞いている」
「ただの通りすがりのお節介焼きだよ。あんたに目の敵にされるような覚えは、何にもないんだけどねぇ」
土壁に背をもたれたまま、お萩は動かなかった。
その絡みつくような視線に、俺の方が居心地が悪くなる。
「相分かった。そこまで言うのなら俺も用はない。もう俺たちの周囲をうろつくな」
どうしようかと迷ったが、あえて俺はお萩に背を向けた。
これで斬りかかってくるようなら、この女は完全にクロだ。
全神経を背後に集中させて、歩き出す。
女は動こうとしなかった。
通りに戻り、人混みの中に紛れる。
俺はふっと息を吐いた。
お萩が本当に無関係というのなら、それでいい。
俺は暮れかけた道を長屋へと急いだ。
引き戸を開け中に入ると、そこに葉山が座っていた。
「てめぇ! なにしてやがる!」
居間に駆け上がった俺を、葉山はゆっくりと振り返った。
「戻ったか」
「ここで何してやがる!」
「その人が、助けてくれたんだ」
布団の中の月星丸が、ごそごそと動いた。
「千さんが出て行ってすぐに、変な人が来て。だけどこの人が、追い払ってくれたんだ」
俺はじっと動かない葉山の背中を見下ろした。
どういうことだ?
「女と連れだって出たわりには、帰宅が早かったな」
見られてたのか。
俺はどかりと腰を下ろす。
この男は敵か味方か?
「お前の知っていることを、全部話せ」
葉山はギロリと俺をにらむと、ゆっくりと立ち上がった。
「家を留守にするな。万屋からの依頼を、忠実に守れ」
俺は深く大きく息を吐く。
どれもこれも万屋の依頼とコイツ絡みか。
俺はどうやら、何も知らされずに面倒な仕事に巻き込まれているようだ。
葉山は出て行った。
「おい、月星丸」
俺は膝の上に方杖をついて見下ろす。
「てめーは一体、何者だ」
布団の中の月星丸は、こちらに背を向けていて顔が見えない。
「お前、本気でここで暮らすつもりなのか?」
俺にはどうしても、それが許される立場の人間であるようには見えない。
「どういう事情でここに来てんのかは知らねぇが、このカリは大きいぞ」
月星丸が、ごそりと振り返った。
「何でそんなこと言うんだよ」
「うるせー、具合はもういいのか」
見上げる月星丸の目には、たっぷりと涙が浮かんでいたが、そんなことは気にしていられない。
「何でそんなこと言うの?」
「答える気がないなら、いい」
衝立を立て直す。
俺は布団を敷いた。
「疲れた。もう寝る。おやすみ」
灯りを吹き消す。
夜になく鳥の声が遠くから聞こえてきた。
俺は何も分からないふりをして、目を閉じた。
俺は笠を編みながらイライラと帰りを待っている。
どこまで送っていったのだろうか。
行き先を聞いておけばよかった。
俺も一緒に行くという手もあったが、そんなことは今になって思いついたことで、あの瞬間にそんな自殺行為のようなことは頭に浮かびもしない。
ふと葉山の顔が脳裏を横切る。
もしや、今度こそ奴が強引に連れ戻す計画を立てたのかもしれぬ。
帰り道にでも連れ去られたか?
そう思うと、また脈が速くなる。
やはりついていくべきだった。
俺は勢いよく立ち上がった。
その時、ガラリと引き戸が開いて、月星丸が姿を現した。
真っ青な顔でふらふらと土間に入り込むと、そのままドサリと倒れ込む。
「どうした!」
助けおこした瞬間、胃の内容物を吐き出した。
全身が小刻みに震えている。
「誰か! 誰か、医者を頼む!」
口元がおぼつかないのか、焦点の定まらない目でパクパクと口を動かす。
吐いたものが独特の色味を帯びている。
俺は月星丸の口に手を突っ込むと、中のものを全て吐き出させた。
異変を察知した長屋の住人が、すぐに駆けつける。
俺が手を洗っている間に、月星丸は布団に寝かされた。
「患者は?」
呼ばれた医者に事情を聞かれる。
この医者の関という男は、俺と同じように万屋の連れてきた、お抱えの医者だ。
「出かけていた。帰りが遅いと思ったらこれだ」
この症状は、俺も関も嫌というほどよく知っている。
ヒ素だ。
「千さん、万屋へ行ってこの薬をもらってきてくれ」
渡された紙切れを手に走り出す。
萬平の選んだ医者だ、腕は十分に信用出来る。
駆け込んだ万屋の店先で店子に用件を伝えた。
混雑している店の片隅に、葉山が座っていた。
「血相を変えてどうした」
葉山は店で出された湯飲みを片手に、それをすすった。
「そういや、あんたんとこのガキがさっき真っ青な顔で歩いてたぞ。どうした、具合でも悪いのか」
それを俺は、上からにらみつける。
「誰の仕業だ」
「さぁな、俺は歩いてるのを見かけただけだ」
「どの方向から歩いてきた。まさかあんたが仕組んだんじゃねぇだろうな」
「どの口が言う。次に無礼を働いたら、叩き斬るぞ」
丁稚から薬が手渡される。
葉山には聞きたいことが山ほどあったが、今はこの薬を届ける方が先だ。
「話しはあとだ。首を洗って待っておけ!」
長屋に駆けもどる。
関に薬を手渡すと、関はすぐにそれを飲ませた。
月星丸が薄目を開ける。
「おい! 気がついたか?」
朦朧とした意識で、目は俺を捜している。
「何を食った、誰にやられた?」
「何も食ってない」
「んなことねぇだろ」
全身を痙攣させて、体が勝手に伸びる。
苦しいのか、月星丸は抱きかかえられている関の袖をつかんだ。
「変なものなんて、なんも食ってねぇよ」
体温が下がり、体がぶるぶると震えている。
俺は質問の仕方を変えた。
「今日食ったものを全部言え」
朝の飯、ブリの煮付けとみそ汁。
団子屋で食べた汁粉とみたらし。
「それか」
「なにが?」
「あの女にやられたのか?」
ぐったりとした体で、月星丸は首を横に振る。
「なんでそんなことを言うんだ、そんなの酷いじゃないか」
「他に誰がいる」
「俺に毒を盛ったっていうのか?」
「それ以外にないだろ」
「お萩さんはそんな人じゃねぇよ」
「バカか! お前は今までいったい……」
「今はもうよせ」
関に言われ、俺は口をつぐむ。
「千さんが最近、女を連れ込んでいるという噂は聞いていたのだが」
関はふっと笑った。
「天変地異でも起きたのかと思っていたのが、まぁ、普通の女子ではないことは、相分かった。千さん、これから女の助手を入れて看病をする。このままここにいるか?」
関に抱きかかえられた月星丸が、うつろな目で俺を見上げる。
「ちっ、看病が先だ」
「手当てはする。数日はよく看病されたし」
俺は長屋を出た。
それを合図に、外で待っていた女が中に入っていく。
こんなところに俺の用はない。
用があるのは葉山のところだ。
俺は苛立ちを抱えたまま、長屋の外に出た。
「お月ちゃんの具合が悪いって聞いたんだ」
長屋の木戸門をくぐった先にいたのは、お萩だった。
「何しにきた」
「お月ちゃんはいいのかい?」
「あぁ、もう助かった。無事だ」
そうと言い切れる状態とは言い難いが、関の腕ならそうなるだろう。
俺はにこりと笑ってみせる。
「悪かったな、心配かけちまって」
「何が悪かったんだろうね」
「さぁ、どっかで猫いらずでも拾い食いでもしたんだろ」
「私も看病しようかい? なんかこう、責任を感じちゃってねぇ」
そっとうつむく、その非常に女らしい仕草に、俺は思わず一歩後ろに下がった。
「間もなく日が落ちる。送っていこう、どこから来た?」
怖がっている場合ではない。
まずはコイツの正体を探ることが肝心だ。
お萩はちらりと俺を見上げると、妖しげな表情を浮かべた。
「おや、送ってくださるのですか? 独り身のお部屋まで」
「そう言っている。早ういたせ」
女はくすりと笑って俺の横に並ぼうとするので、すぐに後ろに引く。
「なんだい千さん、腕の一つでも組もうじゃないか」
「どこに住んでいる」
「この先の本町通りの向こうさ」
お萩はため息をついた。
「なんだよ、あたしが下手人だとでも思ってるのかい? そんなことしやしないよ」
「先に歩け」
「まぁ酷い」
女は歩き出した。
歩きながら自分は犯人ではない、そんなに疑われるのは悲しいなどとつらつら愚痴を並べているが、俺がお萩を避けるのは、それが全てなわけではない。
全部聞き流す。
女が立ち止まれば俺も立ち止まり、歩き出せば俺も歩く。
やがてお萩は泣き出した。
「せっかくお月ちゃんと仲良くなれたのに、そんな風に思われたんじゃ、あたしもやっていけないよ。どうしてそんなに……、あっ」
急に立ち止まってうずくまる。
「どうした」
「あ、足をくじいたみたい」
お萩がそこから動かないので、俺も動かない。
立ち上がって動き出すのをじっとそこで待つ。
女はついに怒り出した。
「ここは優しく近寄って、慰めの言葉ひとつでもかけるのが、男ってもんじゃないのかい!」
それが男の義務とでも言うのなら、俺は男でなくても構わない。
死ぬ。
「なんだい、千さんは衆道の方かい? だけどお月は女じゃないか」
ようやくお萩は立ち上がった。
足をくじいたというのは戯言のようだ。
「うちまで送るってのも、その気があるから言ってんだろ?」
その気とはなんだ、意味が分からぬ。
やはりこいつは隠密か、くノ一か。
俺は腰の刀に手をかけた。
「勝負をつけるなら、今ここでもよい」
女を斬るのは趣味ではないが、ある程度脅して口を割らせるのも一つの手だ。
やったことはないが、どうしよう。
「こんな気の利かない男も始めてだ。ははぁ~ん、分かった」
お萩は急に腰に手を当て、俺を見上げる。
「あんた、お月ちゃんに惚れてるね? だから義理立てして、あたしになびかないってワケだ」
その突然の発想の飛躍に、俺の脳は思考を停止する。
これだから女と話していても、意味が分からない。
俺はどうしていいのかさっぱり分からず、その場に立ちすくむ。
いつものことだ。
「あぁ分かったよ。もういい、いいさ。さっさと帰って看病でもしてやんな」
お萩は急に背を向けると、手を振ってさっさと歩き出した。
俺は刀にかけた手のやり場に困る。
お萩は言葉通り、本町通りへ向かっていた。
後を追いかけてもいいが、話しかけて弁明する気はない。
つけるなら、こっそり後をつけるに限る。
俺は刀の柄から手を離すと、静かに一歩を踏み出した。
女は本町通りに出ると、しばらくは真っ直ぐに歩いていた。
日暮れ前、帰宅に急ぐ人々で通りはあふれている。
人混みのなかにお萩の姿を見失わぬよう、後をつける。
やがてお萩は、大通りからすっと脇道に逸れた。
すぐに俺もそこへ向かう。
間髪入れずに入ったはずの脇道に、お萩の姿はもうなかった。
慎重に辺りを見渡しながら歩く。
建てられた納屋の引き戸を開けようともしてみたが、どれも錠がさしてあって簡単に開くようなものでもない。
「簡単に振ったわりには、執着があるじゃないか」
お萩が姿を現した。
「なんだい、それとも、気が変わった?」
「何者だ」
近づいてこようとするのを、刀の柄に手をかけて制する。
「ふふ、千さんは幸せなお人だねぇ」
お萩は笑った。
「あたしとどうこうする気がないなら、さっさと帰んな。つき合うだけ時間の無駄ってもんだ」
「どこのどいつだと聞いている」
「ただの通りすがりのお節介焼きだよ。あんたに目の敵にされるような覚えは、何にもないんだけどねぇ」
土壁に背をもたれたまま、お萩は動かなかった。
その絡みつくような視線に、俺の方が居心地が悪くなる。
「相分かった。そこまで言うのなら俺も用はない。もう俺たちの周囲をうろつくな」
どうしようかと迷ったが、あえて俺はお萩に背を向けた。
これで斬りかかってくるようなら、この女は完全にクロだ。
全神経を背後に集中させて、歩き出す。
女は動こうとしなかった。
通りに戻り、人混みの中に紛れる。
俺はふっと息を吐いた。
お萩が本当に無関係というのなら、それでいい。
俺は暮れかけた道を長屋へと急いだ。
引き戸を開け中に入ると、そこに葉山が座っていた。
「てめぇ! なにしてやがる!」
居間に駆け上がった俺を、葉山はゆっくりと振り返った。
「戻ったか」
「ここで何してやがる!」
「その人が、助けてくれたんだ」
布団の中の月星丸が、ごそごそと動いた。
「千さんが出て行ってすぐに、変な人が来て。だけどこの人が、追い払ってくれたんだ」
俺はじっと動かない葉山の背中を見下ろした。
どういうことだ?
「女と連れだって出たわりには、帰宅が早かったな」
見られてたのか。
俺はどかりと腰を下ろす。
この男は敵か味方か?
「お前の知っていることを、全部話せ」
葉山はギロリと俺をにらむと、ゆっくりと立ち上がった。
「家を留守にするな。万屋からの依頼を、忠実に守れ」
俺は深く大きく息を吐く。
どれもこれも万屋の依頼とコイツ絡みか。
俺はどうやら、何も知らされずに面倒な仕事に巻き込まれているようだ。
葉山は出て行った。
「おい、月星丸」
俺は膝の上に方杖をついて見下ろす。
「てめーは一体、何者だ」
布団の中の月星丸は、こちらに背を向けていて顔が見えない。
「お前、本気でここで暮らすつもりなのか?」
俺にはどうしても、それが許される立場の人間であるようには見えない。
「どういう事情でここに来てんのかは知らねぇが、このカリは大きいぞ」
月星丸が、ごそりと振り返った。
「何でそんなこと言うんだよ」
「うるせー、具合はもういいのか」
見上げる月星丸の目には、たっぷりと涙が浮かんでいたが、そんなことは気にしていられない。
「何でそんなこと言うの?」
「答える気がないなら、いい」
衝立を立て直す。
俺は布団を敷いた。
「疲れた。もう寝る。おやすみ」
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夜になく鳥の声が遠くから聞こえてきた。
俺は何も分からないふりをして、目を閉じた。
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