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二節
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万屋での一仕事を終えて家に帰ろうと思っていたのに、後についてくる月星丸が邪魔で帰れない。
彼は俺の後をつけまわして、まるで野良犬のようだ。
「家まで送ってやるから、大人しく家の名を白状しろ」
「そなたについていけばよい。そなたのうちが今日から俺の家だ」
俺が立ち止まると、月星丸も立ち止まる。
にらみをきかせてもまるでビクともしない。
「おぉ、団子屋があるぞ、ちょっと一服して参ろう」
奴は茶屋に座って店子を呼んだ。
今が好機!
俺は奴から逃れようと、この隙ばかりと全速力で走り出す。
「あ、待て!」
それを見た月星丸は、慌てて追いかけてきた。
「俺を置いていこうとは無礼にも程がある! 待て! 誰かそいつを捕まえてくれ! 俺の財布をくすねた盗人だ!」
ありもしない嘘を大声で叫びながら追いかけてくる。
どう見たって見てくれは自分の方が盗人のナリだということに気づいていない。
「泥棒! そいつを取り押さえろ!」
しかし、奴がそう叫びながら追いかけてくるものだから、自然と注目は集まる。
前を走る俺の足を、お侍の一人が引っかけた。
「うわっ!」
盛大に転ぶ。
足をひっかけたお侍は、俺を見下ろした。
「おい、財布を盗んだというのは真か」
「んなわけねぇだろ!」
あのクソガキめ!
そう思って振り返るも、そこに月星丸の姿はなかった。
「あれ?」
俺は首をかしげる。足を引っかけたお侍も、姿を消してしまった追っ手を相手に居心地を悪くしてしまった。
「な、なんだか誤解があったようだ。すまなかったな」
手を引いて立たせてくれたので、俺も水に流す。
着物についた土ぼこりを落とすと、少年に騙されたような不甲斐なさと、それに伴う苛立ちを無理矢理切り返しながら、長屋に戻ろうと歩き出した。
ふと背中にまとわりつく熱い視線を感じて、どうしたものかと思う。
人には言えぬ裏家業を担う身だ。
恨みを買うことも少なくない。
買う気もないのに、すぐ目の前にあった櫛屋ののれんをくぐった。
品物を見ているふりをして、追っ手の姿を確かめようとした時だった。
「やぁ、女への贈り物なら俺が見立ててやろう」
間髪入れずに月星丸は物陰から飛び出し、俺の腕に飛びついた。
「おぉ、これなどよいではないか」
真っ赤な朱塗りに派手な花鳥の柄のついた櫛を手に取る。
「あらいらっしゃいまし」
店の女がにこにこと現れた。
「贈り物にございますか?」
「い、いや、そうではない」
月星丸に腕をつかまれているせいもあるが、若く白粉のにおいのする女は、俺がこの世で一番苦手とするものだ。
「どうだ、この店で一番細工のよいものはこの辺りであろう」
月星丸がそういうと、女は笑った。
「おやおや見かけによらず、随分とお目の高い坊ちゃんですね」
心臓が痛い。
寒気がして全身から変な脂汗が噴き出す。
「ではこれをいただこう」
「かしこまりました」
女が愛想よく微笑んで、俺を見上げた。
とたんに首をしめられたように息が止まる。
「いらん!」
そう叫ぶのが精一杯だった。
驚いて振り返る女の視線に、俺は後ろにひっくり返る。
「おい、大丈夫か?」
月星丸が見下ろした。
女も駆け寄り見下ろす。
俺はその場を逃げ出した。
「おい待てどこへいく!」
「うるさい、ついてくるな!」
これ以上あの場にいたら、本当に心の臓が止まっていたかもしれない。
俺は女から十分に離れた安全圏まで逃げ出してから、立ち止まって息を整える。
「なんだそなた、いきなりどうした」
追いかけてきた月星丸は、不器用に俺の背をなでる。
お前はもしかして、それで介抱しているつもりか?
「よけいなお世話だ」
俺はその手を払って再び歩き出した。
まだ少し脈が早い。
「どうした、そなたは何かおかしな病でも持っているのか? ならばよい医者をいくつか知っている。私の名前を出さぬと約束するのなら、教えてやっ……」
前から歩いてくる侍の姿に、月星丸は急に立ち止まった。
「では達者でな」
慌てて逃げようとするその首根っこを、俺は上から押さえつける。
「まぁ待て。俺もちょいとお前に用ができた」
必死で抵抗する月星丸を脇に抱える。
「やぁやぁ、そこのお侍さま」
俺の呼びかけに、その男たちは立ち止まった。
「ちょいとおたずねしたいのだが、このガキに見覚えはござらぬか?」
月星丸の顔を上げようとして、差し向けたその手に思いっきり噛みつかれる。
「痛って!」
その隙に、奴は全力で走り去った。
「おい待て!」
逃げる月星丸を、今度は俺が追いかける。
路地裏から大通りに抜け出た。
うつむいたまま前もよく見ず無茶苦茶に走る月星丸は、あちこちで通行人にぶつかり、ついには見知らぬ女将の先導する荷台にぶつかって、それをひっくり返した。
「待ちな!」
通りに色とりどりの反物が転げ落ちる。
威勢のいい女将の声に、転げた月星丸はくるりと立ち上がった。
「兄貴! 助けてくれよぉ!」
その瞬間、月星丸はあろうことか追いかけてきた俺に抱きついた。
「あんたが兄弟かい!」
鬼の形相の女将に、俺の心臓も縮み上がる。
月星丸と目が合った。
「逃げろ」
走り出した俺を追いかけ、月星丸も走り出す。
冗談じゃない。
あんな恐ろしい女につき合ってられるか。
日の傾き始めた通り走り続け、町の外れまで来て俺はようやく足を止めた。
隣には同じように息の荒い月星丸がいる。
「あぁもう! しょうがねぇなぁ! 今晩だけだぞ!」
一体いつからこんなことをしているのか、すり切れた草履を履く月星丸の足からは、滲んだ古い血が黒くこびりついていた。
「明日になっても出て行かなかったら、そのまま色町にお前を売りつけてやるからな!」
「ほほう。なるほどその手があったか。うん、それも悪くはないな。では今から早速参ろう。事は早い方がよい」
ひょうひょうとしたその語り口に、俺の方がガクリとくる。
「普通は陰間じゃなくて、奉公人の方を想像するんだがな!」
「なるほど、そうであったか」
色白ですらりと華奢なこの容姿だ。
身のこなしやちょっとした所作も、ただの町人ではない。
確かにこのまま放置しておけば、陰間として売られていく可能性もなくはない。
「どこへゆく。遊郭のあるのは、こっちではなかったのか?」
そういう知識だけは豊富であることに苦笑いする。
「俺はこの通りまだ元服しておらぬゆえ行ったことがない。そなたがよいと思う茶屋を紹介してくれ」
俺は自分の長屋の方へ向かって歩き出した。
「本当に、明日には自分の家に帰れ。じゃないと本気で陰間にされるぞ」
「だからそれでも構わぬと申しておるのに」
月星丸は俺の後をついてくる。
本当に役者の子か? 色町から抜け出た子か?
だとしたら、自分からそこに戻りたいとは思わぬはず。
長屋の家の引き戸を開ける。
「ほほう、これが長屋住まいというものか!」
俺の脇をすり抜けて、月星丸が座敷に駆け込んだ。
きょろきょろと辺りを見回す。
「で、次の間への廊下はどこだ? 入り口はどこに隠してある」
「これで全部だよ、お坊ちゃん」
俺はすり切れた畳の上に腰を下ろした。
「この六畳一間が俺の全てだ。どうだ、早く帰りたくなっただろ?」
「なるほど承知した」
彼は俺の目の前にストンと腰を落ち着けた。
「では師匠、これからよろしく頼む」
もう一度ため息をつく。
「まぁいいだろう。どうせすぐに嫌になって出て行くか迎えが来るだろ。無理に追い出すよりここで少し世話でも焼いてりゃあ、お礼もはずんでもらえるってもんだ」
ニヤリと笑って、ふと思いついた妙案を口にしてみる。
どうだ? これで嫌気がさして、自分から出て行きたくなっただろ?
「そうだな、ならばそうすればいい。それまで厄介になるぞ」
彼はそう言うと、その場でごろりと横になり目を閉じた。
このままそこで寝るつもりなのだろうか、これ以上はテコでも動きそうにない。
この作戦は、失敗だったようだ。
よほど疲れていたのか、すぐに寝息が聞こえてくる。
今日の俺は、一日ため息をついてばかりだ。
客用の布団などあるわけもなく、俺もそのまま横になった。
彼は俺の後をつけまわして、まるで野良犬のようだ。
「家まで送ってやるから、大人しく家の名を白状しろ」
「そなたについていけばよい。そなたのうちが今日から俺の家だ」
俺が立ち止まると、月星丸も立ち止まる。
にらみをきかせてもまるでビクともしない。
「おぉ、団子屋があるぞ、ちょっと一服して参ろう」
奴は茶屋に座って店子を呼んだ。
今が好機!
俺は奴から逃れようと、この隙ばかりと全速力で走り出す。
「あ、待て!」
それを見た月星丸は、慌てて追いかけてきた。
「俺を置いていこうとは無礼にも程がある! 待て! 誰かそいつを捕まえてくれ! 俺の財布をくすねた盗人だ!」
ありもしない嘘を大声で叫びながら追いかけてくる。
どう見たって見てくれは自分の方が盗人のナリだということに気づいていない。
「泥棒! そいつを取り押さえろ!」
しかし、奴がそう叫びながら追いかけてくるものだから、自然と注目は集まる。
前を走る俺の足を、お侍の一人が引っかけた。
「うわっ!」
盛大に転ぶ。
足をひっかけたお侍は、俺を見下ろした。
「おい、財布を盗んだというのは真か」
「んなわけねぇだろ!」
あのクソガキめ!
そう思って振り返るも、そこに月星丸の姿はなかった。
「あれ?」
俺は首をかしげる。足を引っかけたお侍も、姿を消してしまった追っ手を相手に居心地を悪くしてしまった。
「な、なんだか誤解があったようだ。すまなかったな」
手を引いて立たせてくれたので、俺も水に流す。
着物についた土ぼこりを落とすと、少年に騙されたような不甲斐なさと、それに伴う苛立ちを無理矢理切り返しながら、長屋に戻ろうと歩き出した。
ふと背中にまとわりつく熱い視線を感じて、どうしたものかと思う。
人には言えぬ裏家業を担う身だ。
恨みを買うことも少なくない。
買う気もないのに、すぐ目の前にあった櫛屋ののれんをくぐった。
品物を見ているふりをして、追っ手の姿を確かめようとした時だった。
「やぁ、女への贈り物なら俺が見立ててやろう」
間髪入れずに月星丸は物陰から飛び出し、俺の腕に飛びついた。
「おぉ、これなどよいではないか」
真っ赤な朱塗りに派手な花鳥の柄のついた櫛を手に取る。
「あらいらっしゃいまし」
店の女がにこにこと現れた。
「贈り物にございますか?」
「い、いや、そうではない」
月星丸に腕をつかまれているせいもあるが、若く白粉のにおいのする女は、俺がこの世で一番苦手とするものだ。
「どうだ、この店で一番細工のよいものはこの辺りであろう」
月星丸がそういうと、女は笑った。
「おやおや見かけによらず、随分とお目の高い坊ちゃんですね」
心臓が痛い。
寒気がして全身から変な脂汗が噴き出す。
「ではこれをいただこう」
「かしこまりました」
女が愛想よく微笑んで、俺を見上げた。
とたんに首をしめられたように息が止まる。
「いらん!」
そう叫ぶのが精一杯だった。
驚いて振り返る女の視線に、俺は後ろにひっくり返る。
「おい、大丈夫か?」
月星丸が見下ろした。
女も駆け寄り見下ろす。
俺はその場を逃げ出した。
「おい待てどこへいく!」
「うるさい、ついてくるな!」
これ以上あの場にいたら、本当に心の臓が止まっていたかもしれない。
俺は女から十分に離れた安全圏まで逃げ出してから、立ち止まって息を整える。
「なんだそなた、いきなりどうした」
追いかけてきた月星丸は、不器用に俺の背をなでる。
お前はもしかして、それで介抱しているつもりか?
「よけいなお世話だ」
俺はその手を払って再び歩き出した。
まだ少し脈が早い。
「どうした、そなたは何かおかしな病でも持っているのか? ならばよい医者をいくつか知っている。私の名前を出さぬと約束するのなら、教えてやっ……」
前から歩いてくる侍の姿に、月星丸は急に立ち止まった。
「では達者でな」
慌てて逃げようとするその首根っこを、俺は上から押さえつける。
「まぁ待て。俺もちょいとお前に用ができた」
必死で抵抗する月星丸を脇に抱える。
「やぁやぁ、そこのお侍さま」
俺の呼びかけに、その男たちは立ち止まった。
「ちょいとおたずねしたいのだが、このガキに見覚えはござらぬか?」
月星丸の顔を上げようとして、差し向けたその手に思いっきり噛みつかれる。
「痛って!」
その隙に、奴は全力で走り去った。
「おい待て!」
逃げる月星丸を、今度は俺が追いかける。
路地裏から大通りに抜け出た。
うつむいたまま前もよく見ず無茶苦茶に走る月星丸は、あちこちで通行人にぶつかり、ついには見知らぬ女将の先導する荷台にぶつかって、それをひっくり返した。
「待ちな!」
通りに色とりどりの反物が転げ落ちる。
威勢のいい女将の声に、転げた月星丸はくるりと立ち上がった。
「兄貴! 助けてくれよぉ!」
その瞬間、月星丸はあろうことか追いかけてきた俺に抱きついた。
「あんたが兄弟かい!」
鬼の形相の女将に、俺の心臓も縮み上がる。
月星丸と目が合った。
「逃げろ」
走り出した俺を追いかけ、月星丸も走り出す。
冗談じゃない。
あんな恐ろしい女につき合ってられるか。
日の傾き始めた通り走り続け、町の外れまで来て俺はようやく足を止めた。
隣には同じように息の荒い月星丸がいる。
「あぁもう! しょうがねぇなぁ! 今晩だけだぞ!」
一体いつからこんなことをしているのか、すり切れた草履を履く月星丸の足からは、滲んだ古い血が黒くこびりついていた。
「明日になっても出て行かなかったら、そのまま色町にお前を売りつけてやるからな!」
「ほほう。なるほどその手があったか。うん、それも悪くはないな。では今から早速参ろう。事は早い方がよい」
ひょうひょうとしたその語り口に、俺の方がガクリとくる。
「普通は陰間じゃなくて、奉公人の方を想像するんだがな!」
「なるほど、そうであったか」
色白ですらりと華奢なこの容姿だ。
身のこなしやちょっとした所作も、ただの町人ではない。
確かにこのまま放置しておけば、陰間として売られていく可能性もなくはない。
「どこへゆく。遊郭のあるのは、こっちではなかったのか?」
そういう知識だけは豊富であることに苦笑いする。
「俺はこの通りまだ元服しておらぬゆえ行ったことがない。そなたがよいと思う茶屋を紹介してくれ」
俺は自分の長屋の方へ向かって歩き出した。
「本当に、明日には自分の家に帰れ。じゃないと本気で陰間にされるぞ」
「だからそれでも構わぬと申しておるのに」
月星丸は俺の後をついてくる。
本当に役者の子か? 色町から抜け出た子か?
だとしたら、自分からそこに戻りたいとは思わぬはず。
長屋の家の引き戸を開ける。
「ほほう、これが長屋住まいというものか!」
俺の脇をすり抜けて、月星丸が座敷に駆け込んだ。
きょろきょろと辺りを見回す。
「で、次の間への廊下はどこだ? 入り口はどこに隠してある」
「これで全部だよ、お坊ちゃん」
俺はすり切れた畳の上に腰を下ろした。
「この六畳一間が俺の全てだ。どうだ、早く帰りたくなっただろ?」
「なるほど承知した」
彼は俺の目の前にストンと腰を落ち着けた。
「では師匠、これからよろしく頼む」
もう一度ため息をつく。
「まぁいいだろう。どうせすぐに嫌になって出て行くか迎えが来るだろ。無理に追い出すよりここで少し世話でも焼いてりゃあ、お礼もはずんでもらえるってもんだ」
ニヤリと笑って、ふと思いついた妙案を口にしてみる。
どうだ? これで嫌気がさして、自分から出て行きたくなっただろ?
「そうだな、ならばそうすればいい。それまで厄介になるぞ」
彼はそう言うと、その場でごろりと横になり目を閉じた。
このままそこで寝るつもりなのだろうか、これ以上はテコでも動きそうにない。
この作戦は、失敗だったようだ。
よほど疲れていたのか、すぐに寝息が聞こえてくる。
今日の俺は、一日ため息をついてばかりだ。
客用の布団などあるわけもなく、俺もそのまま横になった。
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