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#19

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 ぱん! となにかが弾けたような音がして、目が覚めた。まぶたを持ち上げ、部屋の中を見回す。

 夕焼けに変わる直前の、黄色が強くなった太陽光がブラインド越しに差し込む室内。見慣れた自分の部屋である。異変はとくに見当たらなかった。

 午後4時12分。もう少し眠っていていい時間だ。このところ、睡眠不足が続いているから眠気もある。そのまま、また夢の中に戻りたい、とまぶたを閉じた。

 冷たいものが足首に触れた。ベッドの柵か。そう思って、足を引っ込めようとして、ふと頭が覚醒する。
 ベッドに柵なんかない。それに、柵があったとして、足首をぐるりと巻きつけるか?
 恐る恐る、視線を下にずらした。ひゅうぅと間抜けな音を立てて、息が唇から漏れる。

 女の子が、毛布からはみ出したわたしの右足首を掴んでいる。艶のない茶色の髪がじゃまで、目元は見えない。鼻から下はひび割れて黒く煤けている。ひびわれた部分からは桃色の肉が見えていた。
 服装は、煤けた中世風のドレスで、色が飛んで全体的に茶色っぽいが、少女っぽさの残るデザインだ。彼女は、ベッドの足元に立ち、軽く身をかがめていた。鼻腔にこびりつくような焦げたものの臭いが、急に漂ってくる。

 悲鳴を上げることもできず硬直するわたしに、覆いかぶさるような体勢で女の子がベッドに手を置く。

 ぎしり

 夢ではなく、現実なのだと主張するように、ベッドがきしんだ。

 女の子は、わたしとぴったり重なるよう、手に手をあわせて全身を伏せる。強烈な、ものの焦げた臭いが鼻を刺激し、荒く浅い呼吸を繰り返すために半開きになったわたしの口に、びったり、彼女の頬が触れた。炭化した皮膚が、クロワッサンのように、わたしの歯にあたってさりさり削れる。その奥にある、生焼けの組織からは臭みの強い肉と同じにおいがした。

「うえ、……っうぐ」

 不快感と、恐怖のせいで、嘔吐く。今になって、からだが不自然に動かないことに気づいた。彼女が触れたところが、淡く発光している。

 憎い、憎い、憎い。寂しい、寂しい、寂しい。

 頭の中に、処理できないほどの大きな感情が流れ込んでくる。女の子の、真っ黒な顔のなか、まつげが触れる距離の位置にぴり、と亀裂が入り、裂けた。白濁したひとみと、至近距離で目が合う。近すぎて焦点すら合わないというのに、彼女が憎んでいるのが、わたしだとわかった。

 ――お前が憎い、なぜ、お前だけ?

 砂を食べているような気分だ。全身が焼けるような憎しみ。いや、実際、かげろうのようにわたしの体からは小さな炎が上がっていた。恐ろしいのは、それでまったく痛みがないこと。

 わたし、このまま取り込まれるの?
 こんなにあっさりと、お父さんとお母さんになんの恩返しもできず、誰にも挨拶できずに。

 視界が、極彩色に染まっていく。

 ……一番、憎い相手に取り込まれて、消えるの?

「いやだ、触るな!」

 叫んで、――そこではっとなった。

 時計を見れば、午後5時34分。外は薄暗くなり、もうじき夜が訪れる。
 冷や汗をじっとり掻いた背中を、ベッドから浮かせる。部屋には誰もいない。

「夢……?」

 夢であってほしい。夢のはずだ。アレッシオにかっさらわれた夜に、ダイニングにあった結界は壊れてしまったが、後日クラウディオが修復してくれた。あいつらは、なんの予兆もなく入ってくるなんてできない。

 ベッドから起きて、恐る恐るダイニングへ向かう。ベレッタを携え、そろり、玄関の方を覗き、ドアが閉まっていることを確認した。反対側の、祭壇の方を見る。異常――ある。
 幾何学模様の額が、以前と同じように壊れて、床に落ちていた。壁には、焼け焦げたような跡がある。

 わたしは、寒気を感じながら、自分の腕を掴んだ。



 10月7日 22時30分。
 <ルーチェ>の前に強面の用心棒が並び、提げ看板は「営業中」の表記になっている。

 わたしはオーダーに従って、グラスを運ぶ。向かったテーブルの常連の男性客が、客をあさりにきたお姉さんの腰に手を絡ませて鼻の下をのばしていた。お姉さんの胸の谷間をちらちら盗み見ている。

 もちろんそれに気づかぬお姉さんではない。ちょろい客だと心中では手をたたいているだろう。

 男性客に戦闘機の名を冠したカクテルを、お姉さんには甘いストロベリーのカクテルを渡す。
 わたしが空になったグラスを下げている最中も、二人は上機嫌にさえずりあっていた。

「……らしいぜ。なんでも、根こそぎ持っていかれちまって、棺だけが売れ残りよ」
「やだあ。あたし、怪談のたぐいはだめなのよ! そういう話はよそでやってよ」
「そういうなよ。俺たち葬儀屋の間じゃこの話題で持ちきりなんだぜ。何度も遺体全部が安置所から盗み出されるなんて、異常だろ。きっと遅れた世界の終末の前触れだぜ」

(どれだけのんびり屋よ、神様は。もう新世紀に入ってだいぶたっているじゃない)

 喉元まで出かかったツッコミをぐっとこらえ、わたしは二人に背を向けた。

「でも怪談って言えば、先月だか、先々月だかのあの大雨の日に南区の教会前に悪魔が出たって言うじゃない。東洋系の女の子が追いかけられたって。巻き込まれて怪我した人もいるっていうわよ」
「そっちこそ映画の撮影かなんかだろ? いいなあ、俺も見てみたかったな」

 なにもないところで転倒するところだった。

(危ない危ない)

 心臓をばくばくさせて、グラスを抱え直す。

 ここ数日は、彼らのいう悪魔には遭遇していない。
 自室への襲撃のあと、クラウディオと一緒に、レオに相談した。レオの話では、一度侵入を許してしまうと、結界は破りやすくなってしまうのだという。破られた部分の強度が下がるとか。
 レオが色々手を尽くしてくれて、以前と同じかそれ以上の強度を結界にもたらせたのだが、それでも不安はつきない。
 部屋に狭間の者が現れた時、幸運にも生還できたが、常にそういくかはわからないからだ。

 とはいえ、嫌な夢を見たり、気配を感じることもなくなり、このところ体調は悪くない。レオには感謝だ。

 厨房のドアを開けると、マスターが小難しい顔をして、うなっていた。オーダー表を睨んで、うーんうーんとわかりやすく悩んでいる。

「どうかしました?」
「いや、なに、ケータリングの注文があってね。軽食なんだけど量は結構ある」
「あ、それじゃあわたし、行きますよ」
「そうして欲しいところだけど、今、足がないからね。バイクもあいにく修理中だし」

 店の出前用のバイクは、マスターの息子さんがすっ転んだとかで修理中。現在手元にない。代車の貸し出しは、別料金だったのだろうか。

「場所はどこです。近場なら徒歩で行きますよ」
「遺体安置所なんだよ。西区。歩くと三十分くらいかかっちゃうからなあ。料理も冷めるし」
「行けなくはない場所ですけど、そこにこの料理を?」
「安置所でパーティーでもするのかな。クールだね、なんてね、きっとほら、あれだよ。遺体泥棒の捜査で人が張り込んでいるから」
「ああ……なるほど」

 正確な場所は地図で確かめるからいいとして、徒歩で三十分は結構な距離だ。料理の量を見ると、足がないのは厳しい。というか、なぜオーダー受けてしまったのだろう、マスターは。今夜は比較的ヒマだから、欲張ったのかな。しばらく捜査が続くなら、評判が良ければリピートもあると見越してのこと、とか?

 隣の店の車を借りられないか交渉すると、エプロンを脱いでマスターが厨房を出ようとしたときだった。
 ベルが鳴って、ドアが開く。

 濃紺のスーツに光沢のあるアイボリーのシャツ。足下は汚れなのか元の色なのかわからない鈍色のハイカットシューズ。
 ベルトにねじ込まれた拳銃の尻を見れば、顔など見ずとも誰かわかった。
 マスターの顔が明るくなる。

「いいところに! ユリアン、一つ頼まれちゃくれないか。今日はおごりにするから。いつもの二皿でどうだ」
「よしきた、用件はなんだ」

 おごりという言葉がユリアンの顔を輝かせた。

(金持ちのくせに、安いヤツ……)



 数分後、わたしはユリアンの車の助手席に収まっていた。膝の上には高々と軽食のケースが積まれている。料理があるからか、今日は比較的安全運転だ。前回もこうだったらよかったのに。

 車のライトが照らし出す道の先は濃い闇が凝っていて、いつも我が物顔で夜空を席巻している月が細っているのを知らせた。三日もすれば新月だ。

「行き先は遺体安置所ね。いいご趣味だな。しかも話題のスポットときた」
「噂、知っているの」
「もちろん。遺体が消えるとか、女の子が化け物に追いかけ回されるとか」
「化け物に追いかけられた女の子は、南区の教会前での話よ。……楽しんでいるでしょう」
「まあな。おまえも楽しめよ」

 できたらとっくにしている。ユリアンにまともな神経を期待するほうが間違いなのだろう。

 まもなく、車は目的地周辺に到着した。

 コンクリートで整備された広い敷地の中に、同じく四面の壁をコンクリートでコーティングされた直方体の建物がぽつんと建っている。味気ない建物は地上二階建て。肝心の遺体収容部は地下のはずだ。
 安っぽい鉄パイプをつないだような門扉は開け放たれ、守衛室で男が一人寝こけている。

(これじゃ遺体泥棒が来ても気づかないわね……)

 守衛室の横を通り過ぎると、車は建物の側に停車した。
 街に出ればたむろしている荒んだ目の人たちが、ここにはいない。人気がないのだ。
 切れかけた外灯が、明滅している。そこに蛾やら羽虫やらが集まっていた。

 ユリアンに荷を押しつけて、建物の入り口をくぐった。
 入り口横のカウンターには壮年の男性が、気むずかしそうな顔で座っていた。用向きを伝えると、彼は内線を手に取った。

「今から、受けとりに来るとさ」
「ありがとうございます」

 しばらくすると、エレベーターから男の人二人が出てきた。中年の、ちょっとお腹が出てきた人と、細身だけど神経質そうな人。二人は地味な服装――地味すぎるといってもよい格好をしている。

 ――あいつら警官だぜ。
 ユリアンがこっそり耳打ちしてきた。
 ちらりと、ローマで警察のお世話になりかけた奴の顔を盗み見たが涼しいもの。ユリアンは店員のふりをして、せっせと商品と代金を交換する。格好から、絶対に店員じゃないってバレてると思うけれど。銃を上着の中にしっかり隠しているのは、褒められるかもしれない。
 しっかりチップまで受け取ってから、ユリアンは善良な一市民を装って問いかける。

「夜遅くご苦労さんです。しっかしこの辺も物騒ですね。遺体泥棒でしたっけ」
「夜は何かと物騒だからはやく帰った方がいい」

 無能と評判のサングエの警官だって、べらべら内情を話したりはしないようだ。言葉少なに、男たちはエレベーターに引き返していった。

 車まで戻ると、ユリアンは一服をはじめた。わたしの知らない銘柄の煙草だ。紫煙をくゆらせ、彼は遺体安置所を見やる。

「あいつら、夜明けまで張り込んでいるつもりらしいぜ。こんな時間に夜食だなんて、体に悪いな」
「あなたが健康に興味を持っているだなんて、知らなかったわ」
「まあ、人並みに。健康なほうが、人生楽しめる。そうだろ」
「そうね。そういうわけだから、早く帰ろう。ここにいたら風邪を引くかも」

 実際、妙に肌寒いのだ。ユリアンは、肩をすくめて「もう少し、月でも眺めようぜ」などという。

 空には、細くなって今にも消えてしまいそうな月が見える。

「月なんてほとんど見えないじゃない。あれを見て楽しいの?」
「オレ、新月って大好き。わくわくするだろ」
「……どちらかといえば、満月を見てそう感じる人のほうが多いんじゃないの?」
「あんたもそのうちそう思うようになるさ」
「なぜ?」
「新月は、あいつらが騒ぐ」

 その言葉尻が、絶叫にかき消された。
 わたしは振り返った。
 声は断続的に聞こえてくる。ぱらぱらと小さな破裂音も混じっていた。建物二階、ブラインドの向こうに映し出された影絵の人々が、右往左往している。
 さわさわ、かすかな寒気がして、二の腕に鳥肌が立つ。
 無意識に後ずさっていたのだろう。気づけば背が、車のボンネットに座るユリアンの腕に当たっていた。

「ところで例の宿題は?」
「しゅ、宿題?」

 恐怖で声が裏がえる。

「そう、宿題。その様子じゃまだって感じか?」

 もし相手がユリアンじゃなければ、恥も外聞もなくすがりついていただろう。
 この、なんともいいがたい空気の圧迫感。
 密度というのだろうか。微弱な電流が流れているような、粘り気を感じさせる違和感。

「な、なんか気持ち悪い。お腹のあたりがそわそわする」
「お。少しは感覚が研ぎすまされてきたみたいだな。いずれは臭いもわかるようになるさ」
「まさか、奴らが?」
「そうだ。すぐ近く、……ほら」

 じゃこっとユリアンが得物を鳴らした。月光を反射する黒い銃。拳銃より大きい、小さめになるようカスタマイズしたショットガンのようだ。

 ぽこ
 こぽこぽこぽ

 お湯が沸騰しはじめたときのような、かすかな音が聞こえた。目で音源を探す。眼前のアスファルトがぐらぐら沸き立っていた。直視したくないのに、不思議な引力がわたしの視線を引きつける。

 明滅する外灯の下で詳細は不明瞭だが、かえってそれがわたしの助けになった。こんなもの、はっきり見えたら卒倒していた。泡立つアスファルトが吐き出していたのは気泡ではなく、つるりとした――目玉だ。

 泡のようにぽろぽろとあふれ出て小山をつくった無数の目玉は、どんよりにごり焦点が定まっていない。
 いくら丼という料理を思い出すが、もちろん食欲はいっこうにそそられない。むしろ吐き気がこみあげて、一歩後退した。

 靴の踵が、アスファルトとぶつかって小さな音を立てた。
 一斉だった。目玉は焦点をわたしにそろえた。

『あ・あ・あ・あ・あ・あ・あ!』
「ひっ」

 息を飲んでさらに下がろうとすると、ぐいとユリアンに押しやられ、彼の背後にまわる。

「新月が近くなると退屈しない。光のない夜は、闇があまねく広がって、世界の境界は取り払われる!」
「格好つけてる場合?!」

 わたしの声を遮り、轟音とともに火花が夜に咲く。
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