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#4
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眠りを妨げたのは控えめなノックの音だった。
この辺りでは気味悪い絶叫や轟音は当たり前。そんな中では全く目立たないような音だ。
なのにそのこん・こん・こん・こんと一定のリズムで聞こえてくる音でわたしは目が覚めた。
用事があるならドアチャイムを鳴らせばいい。どこかの酔っぱらいのイタズラだろう。
ノックというには長すぎる断続的な音は、うっすら覚醒したわたしの意識にじんわりしみこんでくる。
(ノックが好きだなんて、世の中奇特な趣味をお持ちの方もいらっしゃる)
覚醒しきらない頭の中でひねくれた言葉が浮かんでくる。今日は休みだし、もう少し眠っていたい。再び意識を手放そうとしたのだけど。意に反して頭が冴えてきた。
「……最悪」
ため息をついて上体を起こす。
相変わらず爽快感はない。
蛍光塗料でぼんやり文字が光る時計を見れば、今はPM10時10分。実に12時間、半日も眠っていた計算になる。すっかり寝過ぎた。怠いのはそのせいかもしれない。
ベッドを降り、習慣で枕元のスマートフォンと枕の下に置いていたベレッタを手にとる。習慣といっても、これはそんなに長く続いているものではないが。サングエに住むことになって、始まったものだから、まだ数週間のこと。
部屋は墨を流したような闇に包まれている。ブラインドを少し開いて外を見れば、黒いクレヨンで塗りつぶしたような夜空が広がっている。新月だ。
明りをつけるのも面倒で、暗いままの廊下に出る。
クラウディオは外出したみたいだ。部屋のドアが開け放たれて中は真っ暗だ。
こん・こん・こん・こん
ノックの音はまだ続いている。
もしかして、ドアの向こうの誰かは、わたしの留守中もこうやってドアを叩き続けていたりして。嫌がらせのターゲットにされていたら嫌だなあ。クラウディオが帰ってきたら相談してみよう。
うんざりした気分で、ダイニングキッチンの電気のスイッチをオンにした。ダイニングキッチンと玄関の間にドアはない。玄関開けたら即食卓。
変な人と扉一枚隔てただけの空間で、淡々と食事を始める自分もなかなかシュール。冷蔵庫にクラウディオが用意しておいてくれたラザニアを温めて、席につく。いただきます、と誰にともなく挨拶し、幸せの味を堪能する。
こん・こん・こん・こん
さすが、クラウディオ。彼の手料理で、美味しくなかったものはない。一緒に暮らし始める直前に、6キロも落ちていた体重は、ゆるやかに右肩あがり。天井は元の6キロに設定しておきたい。
彼が休みのときに、レシピを教えてもらえないだろうか。
こん・こん・こん・こん
……美味しいものを食べているのに、舌打ちしたくなるなんて。
わたしのポジションもよくない。正面に玄関。今更ながら、自室で食事するべきだった。
こん・こん・こん・こん
「うるさい」
大きな声じゃない。安っぽいドア一枚で、きっと遮られてしまう程度の声量だった。だって、もし外の相手に聞こえて逆上されたら困るから。
だというのに、ノックの音はぴたりと止まった。
しんと静まりかえったダイニングに、ぴちゃんとシンクに水が垂れる音が響く。
だん!
荒々しい打撃音に文字通り飛び上がりそうになった。持っていたスプーンを取り落とした。だん、だんと続く音に体が硬直する。
やめてよ、ドアが壊れちゃう。そう不安になるほど、連打につぐ連打で、思わず耳を手で塞いだ。
ばちん、という音を肌で感じた。瞬間、部屋が真っ暗になる。廊下も、シンクの上の蛍光灯も、照明が落ちていた。
心臓が、痛いほど速く拍動している。嫌な汗が脇と背に浮いて、吐く息は冷たい。
何度まばたきしても、部屋は暗いままだった。音は止んだが、その静寂が心臓に痛い。
硬直していた体が、ようやく動くようになる。動きたくない、という気持ちと、じっとしていられないという気持ちがせめぎあい、後者に天秤が傾いた。
そろり立ち上がり、テーブルの上に置いていたスマートフォンのライトを点灯した。震える指では、慣れた操作がうまくできず、二度やり直す。
これまで動かなかったら途方に暮れたが、幸いなことに(不運にも?)平たい機械は元気だった。
頼りないライトで足元を照らしながら、玄関ドアへ一歩、一歩近づく。古い床板が、ぎっ、ぎっときしんだ。
深く息を吸って、覚悟を決め、小さな覗き穴に目を近づける。
誰も、いなかった。
不審な人物も、不審ではない人物も、ひとりも。
ドアの向こうはいたって普通の風景で、外廊下は電気もついていて明るい。
嫌がらせしてきた相手はもう逃げ去ったのだろうか。
どっと疲れた気持ちになる。なんてたちの悪いいたずら。
電気がつかないのは、きっとブレーカーが落ちたんだ。古い物件だから、なんの前触れもなく起こる設備の不調はよくあること。ブレーカーを戻せば元通り。
ふと、視線を上に向けたのは、玄関の上にある明かりを何気なく確認するためだった。
いた。
玄関をノックし続けていたモノ。
蜘蛛みたいに、外廊下の天井に張り付いている。全体が黒っぽく、シルエットは人間だ。てらてら照明を反射するそいつが、瞬きのあいまに消えていた。
目で追えない素早さでそいつが走ったのだと、視認できなかったわたしがどうして察したかといえば、青白く光った玄関ドアからぬるり、人の指が生えてきたから。
縦筋の目立つ、いやに白い爪。深爪しすぎの短い爪は、ぷっくり水風船のように膨らんだ短い指から生えている。暗闇でディテールがわかるのは、そいつ自身が淡く発光しているから。
悲鳴を上げる間もない。手首、肘、上腕。同時に頭部。裏ごしされたかぼちゃみたいに、ぬるぬると玄関から湧いてくる。
そいつが黒く見えたのは、濡れて肩から腕まで貼り付いた黒い髪の毛のせいだ。
腐臭を漂わせ、さながら水死体のような見目のそいつは、玄関ドアの前で立ちすくむわたしに、無造作に手をのばす。
ぱん、と爆竹に似た音を立て、閃光が走った。ドアから壁をつたい、部屋の内周をぐるりと。壁にかけられていたあの、幾何学模様の額のガラスが儚い音を立てて割れた。クラウディオが「結界」だと言っていた、幾何学模様。
音と光で、金縛りが解け、わたしは尻もちをついた。ぼた、ぼたと水っぽく重たい音を立て、床に突いた手のすぐそばに、青白くぷくぷくした手が落ちる。蜘蛛のように指を立てた青い手は、指をじたばたさせたあと、生臭い汚泥に変わった。
クラウディオが用心のために張っていてくれた結界で、一撃は避けられたけれど、次はそうもいかない。結界はさっきの一度で壊れてしまったみたい。
化け物の首が、肩が、そして腰から下が、ドアから生えて、ひたりとドアに張り付いた。発光が止まり、闇に沈む。
手を失っても怯んだ様子もなく、そいつはゆっくりわたしに近づいてくる。と、と、という妙に軽い足音がやけに大きく聞こえた。
わたしは全力で後ずさっていた。背に硬い感触。ダイニングテーブルの脚だ。
「やだ……!」
声が震えた。情けない事この上ないが、泣きそうだった。
こいつらをなんと呼べばいいのか知らない。今まで三度襲われた。何度か遭遇したら恐怖にも慣れるだろうと思ったのに、そうはいかないみたい。
前回、前々回こいつらが襲ってきたときは、クラウディオがいてくれた。今は、いない。
「やめ、やめて、やめてよ! 思い出したくないの! もう、放っておいて……!」
指先が冷たく、背筋には嫌な汗が流れる。目がちかちかする。気が遠くなりそうだ。
震える手で、必死にベレッタの安全装置を外し、じりじり距離を詰めてくる化け物に向けて構える。一度も撃ったことのない銃は、やけに重たく冷たい。
歯の根があわない。照準も定まらない。背中にじっとり脂汗をかいている。
(クラウディオ、助けて!)
彼がここにいないことはわかっている。それでも願わずにいられない。
銃の存在など意に介さず、距離を詰めてきた黒いそいつが、二歩の距離でくきりと首を横にかしげた。べったり張り付いてた髪が横にずれ、詳細がわからないほど腐ってそげた顔面が顕になる。床に落ちたスマートフォンが、律儀にピンポイントでそのさまを照らし出してくれていた。
反射的に引き金を引いていた。破裂音とともに鉛玉が弾き出され、腕が抜けそうな衝撃が走る。目を開けていられない。連続で、とにかく必死に引き金を引き続けた。
四発目の引き金を引こうとしたとき、がっちりと手を何かにホールドされた。
(ああ、死ぬんだ)
お母さんやお父さんみたいにあいつらに殺される。痛いのいやだな。もっと人生楽しみたかったな。
「歓迎の挨拶にゃ、激しすぎやしないか?」
聞き覚えのある声がした。恐る恐る目を開く。
開け放たれたドアの向こうから、安外灯のオレンジの光が差し込んで、その人の髪の毛を明るく照らし出していた。
暖かな色に染まった金髪、今は少し不機嫌そうに細められたヘーゼルの双眸。
わたしの手を掴んでいたのは、ユリアンだった。どういう心境の変化か、まともでシックな暗い色のスーツを着こんで、嫌みったらしい笑顔を浮かべている。右手には硝煙を燻らせたでかい拳銃。左手には、何故かピンクのガーベラの花束。
そして、床には汚泥の大きな水たまり。
……あいつは? あの、不気味なやつは?
「10時に12番通りだろ? あんまり焦れたからマスターに住所聞いて迎えに来たぜ」
「10時……って」
壁の蛍光塗料で光る時計が示すのは10時40分。PM。
「夜中よ」
「ここはサングエだぜ。これからがお楽しみだろ」
「わたし、未成年だけど」
「見りゃわかる」
嘲笑された。なんでわたしの胸元を見るの。玄関の鍵をどうやって開けたの? いろいろ聞きたいことがあるのに、言葉にならない。
何かを問いかける前に、強引に腕を引かれ立たされた。玄関の向こうから、耳に残る絶叫がこだました。数十匹の猫が一気に鳴いたらこんなふうに聞こえるかもしれない。ざわ、とわたしの二の腕に鳥肌が立った。
「話は後だ。新月の晩は奴らが騒ぐ。まずはここを出るぞ。次のが来たらこのぼろ屋じゃ全壊しちまう」
ひょいと小脇に抱え上げられた。小包かなんかのように、無造作に。ムスクの香りが鼻腔をくすぐるが、酔いしれている場合じゃない。
「ちょっと! 一体なんなの!?」
慌てて手足をばたつかせても、まるで効果無し。
「お、やっと普通に話したな。言っちゃあ悪いが、あんたのかしこまった態度インギンブレイって感じであんまり気分良くないぜ。……っと、デートはまずは夜景を見ながらのドライブに限るよな」
「え……? ちょ、何してるの!」
ひょいっとベッド脇の窓枠に手を掛けた彼は、当然のように窓枠をたたき落とした。
数拍おいて、下からガラスが割れる派手な音が聞こえた。通行人がいたら、大惨事だ。
いや、そんないるかもわからない通行人より、まずは我が身だ。なんだってこの男はこんなに窓枠から身を乗り出しているのだろう。
まるで。
そう、まるで今から飛び降りるように。
「ちょっと待ってよここ五階だあいああああぁぁぁあ」
後ろ向きにひょいっと床を蹴って。彼はわたしを抱えたまま夜空に飛び出した。投げ捨てられたガーベラたちが、ばらばらと宙に舞う。
胃の腑を浮遊感が襲う。空気抵抗で体中がびりびりする。必死にユリアンの腕にしがみつくと、頭上から上機嫌な笑声が降ってきた。
「吐くなよ!」
全身に衝撃が走った。
だん、と派手な音を立ててユリアンが着地した。お腹を締め付けられ、わたしは「ぐえっ」と踏まれたカエルみたいに呻く。
くらくらする頭を必死に動かして、現状を確認し眩暈がした。
街灯の支柱の上だ。ユリアンはわたしを抱えて、街灯の上に仁王立ちしている。
どうやって。問いただす前に、ぐるりと視界が回った。
支柱に触れた足裏を支点に、ユリアンが百八十度回転したのだ。頭を地面に、足を空に。
膝を引っ掛けたりしていない。忍者のように、革靴の底が支柱に張り付いている。
靴底が淡く発光しているように見えるのは、貧血を起こしかけているからかしら。
下を行く車の運転手たちが、信じられないものを見たという顔でわたしたちを見ていく。
「さて、リムジンのお出迎えだ!」
やってきたのは高級車……ではなく、コンテナを積んだ長距離輸送トラックだ。
くるりと一回転。難無くコンテナの上に着地すると、ユリアンは乱れてもいない髪を手で撫で付けて直した。口元には得意げな笑みが浮いている。
風が強い。身を起こしたら振り落とされそう。それでも文句の一つくらい言ってやろうと強風の中なんとか顔を上げて、ざっと血の気が引いた。
「ちょ、ば、危なっ……!」
道に張り出して作られた、毒々しい紫のネオンの看板が迫っていた。
ユリアンは身を伏せるでもなく、にっと笑い――顔面から突っ込んだ。
飛び散る血しぶきと肉片を想像して、わたしはさっと顔を背けたが、
「さあ、楽しいデートの始まりだ」
ご機嫌な声が聞こえてきて目を開ければ、犬歯をむき出しにして笑うユリアンがいた。
この辺りでは気味悪い絶叫や轟音は当たり前。そんな中では全く目立たないような音だ。
なのにそのこん・こん・こん・こんと一定のリズムで聞こえてくる音でわたしは目が覚めた。
用事があるならドアチャイムを鳴らせばいい。どこかの酔っぱらいのイタズラだろう。
ノックというには長すぎる断続的な音は、うっすら覚醒したわたしの意識にじんわりしみこんでくる。
(ノックが好きだなんて、世の中奇特な趣味をお持ちの方もいらっしゃる)
覚醒しきらない頭の中でひねくれた言葉が浮かんでくる。今日は休みだし、もう少し眠っていたい。再び意識を手放そうとしたのだけど。意に反して頭が冴えてきた。
「……最悪」
ため息をついて上体を起こす。
相変わらず爽快感はない。
蛍光塗料でぼんやり文字が光る時計を見れば、今はPM10時10分。実に12時間、半日も眠っていた計算になる。すっかり寝過ぎた。怠いのはそのせいかもしれない。
ベッドを降り、習慣で枕元のスマートフォンと枕の下に置いていたベレッタを手にとる。習慣といっても、これはそんなに長く続いているものではないが。サングエに住むことになって、始まったものだから、まだ数週間のこと。
部屋は墨を流したような闇に包まれている。ブラインドを少し開いて外を見れば、黒いクレヨンで塗りつぶしたような夜空が広がっている。新月だ。
明りをつけるのも面倒で、暗いままの廊下に出る。
クラウディオは外出したみたいだ。部屋のドアが開け放たれて中は真っ暗だ。
こん・こん・こん・こん
ノックの音はまだ続いている。
もしかして、ドアの向こうの誰かは、わたしの留守中もこうやってドアを叩き続けていたりして。嫌がらせのターゲットにされていたら嫌だなあ。クラウディオが帰ってきたら相談してみよう。
うんざりした気分で、ダイニングキッチンの電気のスイッチをオンにした。ダイニングキッチンと玄関の間にドアはない。玄関開けたら即食卓。
変な人と扉一枚隔てただけの空間で、淡々と食事を始める自分もなかなかシュール。冷蔵庫にクラウディオが用意しておいてくれたラザニアを温めて、席につく。いただきます、と誰にともなく挨拶し、幸せの味を堪能する。
こん・こん・こん・こん
さすが、クラウディオ。彼の手料理で、美味しくなかったものはない。一緒に暮らし始める直前に、6キロも落ちていた体重は、ゆるやかに右肩あがり。天井は元の6キロに設定しておきたい。
彼が休みのときに、レシピを教えてもらえないだろうか。
こん・こん・こん・こん
……美味しいものを食べているのに、舌打ちしたくなるなんて。
わたしのポジションもよくない。正面に玄関。今更ながら、自室で食事するべきだった。
こん・こん・こん・こん
「うるさい」
大きな声じゃない。安っぽいドア一枚で、きっと遮られてしまう程度の声量だった。だって、もし外の相手に聞こえて逆上されたら困るから。
だというのに、ノックの音はぴたりと止まった。
しんと静まりかえったダイニングに、ぴちゃんとシンクに水が垂れる音が響く。
だん!
荒々しい打撃音に文字通り飛び上がりそうになった。持っていたスプーンを取り落とした。だん、だんと続く音に体が硬直する。
やめてよ、ドアが壊れちゃう。そう不安になるほど、連打につぐ連打で、思わず耳を手で塞いだ。
ばちん、という音を肌で感じた。瞬間、部屋が真っ暗になる。廊下も、シンクの上の蛍光灯も、照明が落ちていた。
心臓が、痛いほど速く拍動している。嫌な汗が脇と背に浮いて、吐く息は冷たい。
何度まばたきしても、部屋は暗いままだった。音は止んだが、その静寂が心臓に痛い。
硬直していた体が、ようやく動くようになる。動きたくない、という気持ちと、じっとしていられないという気持ちがせめぎあい、後者に天秤が傾いた。
そろり立ち上がり、テーブルの上に置いていたスマートフォンのライトを点灯した。震える指では、慣れた操作がうまくできず、二度やり直す。
これまで動かなかったら途方に暮れたが、幸いなことに(不運にも?)平たい機械は元気だった。
頼りないライトで足元を照らしながら、玄関ドアへ一歩、一歩近づく。古い床板が、ぎっ、ぎっときしんだ。
深く息を吸って、覚悟を決め、小さな覗き穴に目を近づける。
誰も、いなかった。
不審な人物も、不審ではない人物も、ひとりも。
ドアの向こうはいたって普通の風景で、外廊下は電気もついていて明るい。
嫌がらせしてきた相手はもう逃げ去ったのだろうか。
どっと疲れた気持ちになる。なんてたちの悪いいたずら。
電気がつかないのは、きっとブレーカーが落ちたんだ。古い物件だから、なんの前触れもなく起こる設備の不調はよくあること。ブレーカーを戻せば元通り。
ふと、視線を上に向けたのは、玄関の上にある明かりを何気なく確認するためだった。
いた。
玄関をノックし続けていたモノ。
蜘蛛みたいに、外廊下の天井に張り付いている。全体が黒っぽく、シルエットは人間だ。てらてら照明を反射するそいつが、瞬きのあいまに消えていた。
目で追えない素早さでそいつが走ったのだと、視認できなかったわたしがどうして察したかといえば、青白く光った玄関ドアからぬるり、人の指が生えてきたから。
縦筋の目立つ、いやに白い爪。深爪しすぎの短い爪は、ぷっくり水風船のように膨らんだ短い指から生えている。暗闇でディテールがわかるのは、そいつ自身が淡く発光しているから。
悲鳴を上げる間もない。手首、肘、上腕。同時に頭部。裏ごしされたかぼちゃみたいに、ぬるぬると玄関から湧いてくる。
そいつが黒く見えたのは、濡れて肩から腕まで貼り付いた黒い髪の毛のせいだ。
腐臭を漂わせ、さながら水死体のような見目のそいつは、玄関ドアの前で立ちすくむわたしに、無造作に手をのばす。
ぱん、と爆竹に似た音を立て、閃光が走った。ドアから壁をつたい、部屋の内周をぐるりと。壁にかけられていたあの、幾何学模様の額のガラスが儚い音を立てて割れた。クラウディオが「結界」だと言っていた、幾何学模様。
音と光で、金縛りが解け、わたしは尻もちをついた。ぼた、ぼたと水っぽく重たい音を立て、床に突いた手のすぐそばに、青白くぷくぷくした手が落ちる。蜘蛛のように指を立てた青い手は、指をじたばたさせたあと、生臭い汚泥に変わった。
クラウディオが用心のために張っていてくれた結界で、一撃は避けられたけれど、次はそうもいかない。結界はさっきの一度で壊れてしまったみたい。
化け物の首が、肩が、そして腰から下が、ドアから生えて、ひたりとドアに張り付いた。発光が止まり、闇に沈む。
手を失っても怯んだ様子もなく、そいつはゆっくりわたしに近づいてくる。と、と、という妙に軽い足音がやけに大きく聞こえた。
わたしは全力で後ずさっていた。背に硬い感触。ダイニングテーブルの脚だ。
「やだ……!」
声が震えた。情けない事この上ないが、泣きそうだった。
こいつらをなんと呼べばいいのか知らない。今まで三度襲われた。何度か遭遇したら恐怖にも慣れるだろうと思ったのに、そうはいかないみたい。
前回、前々回こいつらが襲ってきたときは、クラウディオがいてくれた。今は、いない。
「やめ、やめて、やめてよ! 思い出したくないの! もう、放っておいて……!」
指先が冷たく、背筋には嫌な汗が流れる。目がちかちかする。気が遠くなりそうだ。
震える手で、必死にベレッタの安全装置を外し、じりじり距離を詰めてくる化け物に向けて構える。一度も撃ったことのない銃は、やけに重たく冷たい。
歯の根があわない。照準も定まらない。背中にじっとり脂汗をかいている。
(クラウディオ、助けて!)
彼がここにいないことはわかっている。それでも願わずにいられない。
銃の存在など意に介さず、距離を詰めてきた黒いそいつが、二歩の距離でくきりと首を横にかしげた。べったり張り付いてた髪が横にずれ、詳細がわからないほど腐ってそげた顔面が顕になる。床に落ちたスマートフォンが、律儀にピンポイントでそのさまを照らし出してくれていた。
反射的に引き金を引いていた。破裂音とともに鉛玉が弾き出され、腕が抜けそうな衝撃が走る。目を開けていられない。連続で、とにかく必死に引き金を引き続けた。
四発目の引き金を引こうとしたとき、がっちりと手を何かにホールドされた。
(ああ、死ぬんだ)
お母さんやお父さんみたいにあいつらに殺される。痛いのいやだな。もっと人生楽しみたかったな。
「歓迎の挨拶にゃ、激しすぎやしないか?」
聞き覚えのある声がした。恐る恐る目を開く。
開け放たれたドアの向こうから、安外灯のオレンジの光が差し込んで、その人の髪の毛を明るく照らし出していた。
暖かな色に染まった金髪、今は少し不機嫌そうに細められたヘーゼルの双眸。
わたしの手を掴んでいたのは、ユリアンだった。どういう心境の変化か、まともでシックな暗い色のスーツを着こんで、嫌みったらしい笑顔を浮かべている。右手には硝煙を燻らせたでかい拳銃。左手には、何故かピンクのガーベラの花束。
そして、床には汚泥の大きな水たまり。
……あいつは? あの、不気味なやつは?
「10時に12番通りだろ? あんまり焦れたからマスターに住所聞いて迎えに来たぜ」
「10時……って」
壁の蛍光塗料で光る時計が示すのは10時40分。PM。
「夜中よ」
「ここはサングエだぜ。これからがお楽しみだろ」
「わたし、未成年だけど」
「見りゃわかる」
嘲笑された。なんでわたしの胸元を見るの。玄関の鍵をどうやって開けたの? いろいろ聞きたいことがあるのに、言葉にならない。
何かを問いかける前に、強引に腕を引かれ立たされた。玄関の向こうから、耳に残る絶叫がこだました。数十匹の猫が一気に鳴いたらこんなふうに聞こえるかもしれない。ざわ、とわたしの二の腕に鳥肌が立った。
「話は後だ。新月の晩は奴らが騒ぐ。まずはここを出るぞ。次のが来たらこのぼろ屋じゃ全壊しちまう」
ひょいと小脇に抱え上げられた。小包かなんかのように、無造作に。ムスクの香りが鼻腔をくすぐるが、酔いしれている場合じゃない。
「ちょっと! 一体なんなの!?」
慌てて手足をばたつかせても、まるで効果無し。
「お、やっと普通に話したな。言っちゃあ悪いが、あんたのかしこまった態度インギンブレイって感じであんまり気分良くないぜ。……っと、デートはまずは夜景を見ながらのドライブに限るよな」
「え……? ちょ、何してるの!」
ひょいっとベッド脇の窓枠に手を掛けた彼は、当然のように窓枠をたたき落とした。
数拍おいて、下からガラスが割れる派手な音が聞こえた。通行人がいたら、大惨事だ。
いや、そんないるかもわからない通行人より、まずは我が身だ。なんだってこの男はこんなに窓枠から身を乗り出しているのだろう。
まるで。
そう、まるで今から飛び降りるように。
「ちょっと待ってよここ五階だあいああああぁぁぁあ」
後ろ向きにひょいっと床を蹴って。彼はわたしを抱えたまま夜空に飛び出した。投げ捨てられたガーベラたちが、ばらばらと宙に舞う。
胃の腑を浮遊感が襲う。空気抵抗で体中がびりびりする。必死にユリアンの腕にしがみつくと、頭上から上機嫌な笑声が降ってきた。
「吐くなよ!」
全身に衝撃が走った。
だん、と派手な音を立ててユリアンが着地した。お腹を締め付けられ、わたしは「ぐえっ」と踏まれたカエルみたいに呻く。
くらくらする頭を必死に動かして、現状を確認し眩暈がした。
街灯の支柱の上だ。ユリアンはわたしを抱えて、街灯の上に仁王立ちしている。
どうやって。問いただす前に、ぐるりと視界が回った。
支柱に触れた足裏を支点に、ユリアンが百八十度回転したのだ。頭を地面に、足を空に。
膝を引っ掛けたりしていない。忍者のように、革靴の底が支柱に張り付いている。
靴底が淡く発光しているように見えるのは、貧血を起こしかけているからかしら。
下を行く車の運転手たちが、信じられないものを見たという顔でわたしたちを見ていく。
「さて、リムジンのお出迎えだ!」
やってきたのは高級車……ではなく、コンテナを積んだ長距離輸送トラックだ。
くるりと一回転。難無くコンテナの上に着地すると、ユリアンは乱れてもいない髪を手で撫で付けて直した。口元には得意げな笑みが浮いている。
風が強い。身を起こしたら振り落とされそう。それでも文句の一つくらい言ってやろうと強風の中なんとか顔を上げて、ざっと血の気が引いた。
「ちょ、ば、危なっ……!」
道に張り出して作られた、毒々しい紫のネオンの看板が迫っていた。
ユリアンは身を伏せるでもなく、にっと笑い――顔面から突っ込んだ。
飛び散る血しぶきと肉片を想像して、わたしはさっと顔を背けたが、
「さあ、楽しいデートの始まりだ」
ご機嫌な声が聞こえてきて目を開ければ、犬歯をむき出しにして笑うユリアンがいた。
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