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その5

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 甘噛みのつもりが、勢い余って結構強く噛んでしまった。
「うぐっ」
 魔王の悲鳴が上がる。痛かった?! それとも効いてる?!
 後者だよね、そうだよね、そう祈ってる。どんなおとぎ話もゲームも少女漫画も、ハピエンだったら乙女のキスが締めって決まってる。
 これがキスに該当するのかとか、そろそろ年齢的に乙女乙女言うのきっついわとか、やだ変な味するもしかして血? とか色んなことが頭に浮かんでは消える。
 状態異常無効スキル、女神の加護が発動してくれるのを祈りつつ、わたしは恐る恐る、口を離した。魔王がぴくりともしなくなったから。
 そろり、と視線を上げると、ぐったり目をつぶっている魔王の姿。わたしが噛み付いたところはちょっと歯型ができてしまっていて、その中にあったバラのような模様は、じわっと色を薄くし、――消えた。
「う……」
 魔王が呻く。
 わたしは、身を硬くし、その瞬間を待った。
 長いまつげに縁取られた瞼が、ゆっくりゆっくり持ち上がる。
 現れた瞳は、薄茶色、だった。レイヤーを何重にもしたように、じわじわと顔貌が元のものに変化していく。
「ヨウル?」
 呼びかけると、彼は数度まばたきして、掠れ声で問うた。
「……ルカ?」
 その瞬間、ほっとしてしまって。わたしは我を忘れて、彼に飛びついてしまった。

× × × × ×

 がたごと揺れる馬車で、わたしとヨウルは向かい合って座っている。
 目が合うと、ちょっと気まずくて、わたしはつい、窓の外を眺めているふりをしてしまった。

 あれから。
 駆けつけたユナと、彼女の応援要請に従って集まった近衛兵たちに保護されたわたしとヨウルは、アベルの元へ連れて行かれた。
 ヨウルはお医者さんと神官のパトリックに診てもらい、体に異常もなく、呪いの残滓もない、完全な健康体と言い渡された。わたしも、同じ。
 わたしたちは、アベルにことの顛末を説明した。

 そして、十日後の夕方、まさに今。わたしたちは丘の上にある神殿に向かっている。儀式のために。
 そう。結界を解くための、儀式のため。
 魔王が打撃を受け、弱っているうちにというアベルの号令で、すでに船団が組まれ、結界の解除を待って進軍することになっている。
 このタイミングで儀式を行うと決めたのも、アベルだ。
『真の愛を捧げる相手を見つけたのだな、ルカ』
 そう言って笑顔を作った彼を、わたしはなんて器の大きな男だろうと思った。どこの馬の骨とも知れない女を手間暇かけて世話をして、プライドだってあるだろうに、国のためと身を引けるのだ。
 噂では、とある公爵令嬢に夜這いされて、責任感ばかり強い彼は彼女を傷物にしたことを気に病み、身を固めることを決意したとか言われてるけど、まっさか、城の警備がそんなゆるゆるなわけないよね。うん。救世の巫女の部屋にドレス泥棒が忍び込める程度には、しっかりしてる、うん、うん。
 というわけで、わたしたちはこれから丘の上の神殿で、するのだ、あれを。
「……」
「……」
 互いに見つめ合い、微妙な雰囲気に何も言い出せず。
 はーずーかーしーいー! こんな、はいどうぞいたしてくださいって感じで送り出されるのは、何度やっても恥ずかしい。顔はずっと火照ってるし、頭の中もふわふわしてしまう。
 ヨウルの方も、気まずそうで、姿勢を楽にしたまま、窓枠に肘をついて外を眺めている。
「あの」
「なあ」
 同じタイミングで口を開いてしまった。
「ど、どどどどうぞ、お先に」
 しどろもどろになるわたしに、ヨウルは苦笑する。
「ああ。……なあ、君はよかったのか? 俺なんかで、その、儀式の相手が。アベル陛下やルーク殿下じゃなくていいのか。俺のような、庶民出の、弱い心に付け込まれて魔王に操られるような人間で」
「それは……ヨウルこそよかったの? わたしみたいな挙動不審な、美人でもない女と、こんな。このさき一生ついてまわるんだよ、あいつ巫女と、って」
「いいに決まってるだろ、好きな子となのに、どこに嫌になる理由が?」
「えっ」
 思わず、わたしはびくりと背中を伸ばした。
「え、あ、そ、その」
「好きだよ、ルカ。本当は、もっと違う場面できちんと伝えたかったんだが、まさかこんな展開になるとは思わなかったから、なんにも用意できてないや」
 好き。
 そのシンプルな言葉で、わたしはきゅーっと頭の天辺まで血が登っていくのを感じた。
「魔王に体を乗っ取られて、それでもうすーく意識はあったんだ。君のドレスを作ることになったときは、巫女ってぐらいだから清らかで美人で、生きる聖域みたいな女性を想像してた。俺みたいな下々の者が見たら、目が潰れるんじゃないかってな。会ってみたら、普通の女の子で、俺のような職業の男にも分け隔てなく接してくれて。いつも俺の話を楽しそうに聞いてくれて、俺の作ったドレスを嬉しそうに着てくれて、笑顔を見せてくれる。ああ、たしかにある意味、神聖だなって思ったよ。でも、俺はそんな君を怖い目にあわせてしまった」
 おかしいな。彼に褒め殺しスキルは実装してなかった気がする。
 慣れない賛辞に耳まで熱くなってくる。
「で、でも、ヨウルは戻ってきてくれたよ。ちょっと焦ったけど、それでも、戻ってきてくれた」
「まあ、熱烈なキスだったからなあ」
 にやっとして、彼は首を手でなでた。わたしが噛み付いてしまったあたり。
 うう、思い出すだけで自分の行動が恥ずかしい……!
「改めて、ルカ、君が好きだ。だから君が使命をまっとうするのを、手伝わせてくれ」
「……うん!」
 力強く頷き、差し出された手をわたしは握り返した。
 ごつごつ骨ばった男の人の手。
 ああ、手汗掻いてる、わたし。

× × × × ×

 神殿の、儀式の間は、荘厳ともエロチックともいえる空間だ。
 大きな石造りの部屋の真ん中に、どどんと大きなベッドが置かれていて、その周りにはたくさんの花が撒かれていた。部屋の四隅にはロウソクが立ち並び、オレンジ色の光をゆらゆらさせている。充満している甘い、不思議なにおい。天井はない。これが昼間なら、太陽の光が眩しいだろう。今は満天の星が見える。
 わたしは、身を清められ、ガウンを着せられ、部屋に送り出された。素足で踏む石の床は、冷たくなかった。すべすべしてる。
 ベッドに歩み寄り、その端に腰を下ろす。髪を軽く手で直して、そのまま膝の上に手のひらを重ねて、深呼吸してその時を待った。
 あ、やばい、過呼吸になりそう。
 そう思うくらい、心臓が暴れまわってる。すまし顔で座ってるけど、頭の中はお祭り騒ぎだ。ああせっかく湯浴みしてきたのに、また手やら脇やらに嫌な汗を掻いてるぅぅ。
 たぶん、実際そうやって待ってた時間は、長くなかっただろう。時間感覚がおかしくなってるわたしには、永劫とも感じられたその待ち時間は、ヨウルが紗のカーテンをめくって入室してきて、終わった。
 床に撒かれた白い花を踏み越え、彼がやってくる。同じく白いガウンを着ている。
 その歩みはしっかりしていて、ブレもない。わたしが彼の首筋にあった呪いの刻印を消し去ったとき、一緒に、股にある傷の呪いの残滓も無くなったらしい。だから、ヨウルはもう、走ったり飛び跳ねたりできるのだ。よかった。
 ヨウルは目が合うと、照れくさそうに笑った。
「ごめん、待たせた」
 わたしの隣に、よ、とか言って軽く腰掛けた。ぎしりとベッドが軋み、わたしは小さくなる。
 彼のその態度のどこにも気取った感じはない。体の横に両手をついて、天を仰ぎ「すげー星だなあ」なんて言う。
「似合ってるよ」
 緊張でぶるぶるしているわたしの髪には、床に撒かれているのと同じ白い花が散りばめられている。それをひとつひとつ外して、ヨウルは失笑した。
「すっげー緊張してんな」
「そ、りゃあ、緊張するよ! ヨウルとは違って」
 何回ヤッたって、慣れない。特にヨウルとは、初めてだし、落ち着いてるなんて無理だ。
「いや、俺も緊張してるけど」
 ひょいと手を掴まれ、彼の硬い胸に押し当てられた。言葉通り、少し心拍が速いかもしれない。
「な。緊張するよ、普通は」
「緊張して、はきそうだよおお」
 本音を漏らすと、彼は笑った。
「じゃあ、少し、話でもしようぜ。たまにはルカのことも聞きたい。いっつも俺が話してばっかだったしな」
「う、うん」
 ヨウルはするするとわたしの髪の毛を撫でる。小さい頃、お母さんがしてくれたみたいな、その優しい感触に、少しだけ肩の力が抜ける。
 わたしは、ぽつぽつと話をはじめた。
 自分がこの世界に召喚されたとき、女神に世界を救ってくれと言われたこと。
 でも、本当はそんな大層な人間じゃなくて、どこにでもいる学生の一人だってこと。
 夢破れて、方向転換を余儀なくされていること。
「お前、すごいな」
 そんなこと言われて、わたしはきょとんとする。
「自分のこともそんな大変な状態なのに、急にこっちに連れてこられて、世界を救えって言われて。よく逃げ出さないでここに来たよ。お前、すごいよ」
 からかったり、嫌味だったり、という感じじゃなかった。心底からそう思ってるというように、彼は真剣な顔で、わたしの右手を両手で包んでくれていた。あったかい手。大きくて、包み込まれていると、安心する。
 気付いたら、ぼろぼろ涙がこぼれてた。ヨウルがそれを手でぐいぐい拭ってくれる。
 褒められるなんて、思わなかった。
 どれもこれもが中途半端で、人付き合いだってちゃんとできないわたしは、なにやってもだめで。見返してやろうっていう気力もなくて、できる友達を羨んだりするしょうもない人間だ。
「うぅううぅ……、わた、わたし、がんばる……」
 涙と鼻水を、ガウンの袖で拭ったわたしが、顔をあげると、キスが降ってきた。
 触れるだけの優しいキス。びっくりした。目を閉じる隙もなく離れる。
 わたしの目を覗き込むヨウルは、優しい笑顔。はちみつ色の目が、瞼の向こうに隠れ、わたしも目を閉じた。唇に、またふわりと柔らかい唇が触れる。その感触は繰り返すごとに強く、そして深くなっていった。 
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