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#100 サフィール 約束

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 私の理解を待つように、ハイリーは次の言葉を発さない。

 レクト・メイズとの口約束を思い出す。彼は、私を利用するかわりに、私と甥を国から逃してくれると言った。そのとおり、国境を越えるまで特別な困難はなかった。

 国を出てしばらくして、自分がどのように扱われているかを、風のうわさで知ったのだ。

 私がヨルク・メイズを殺害したことで、国を囲む結界は崩壊し、魔族の襲撃に遭った。皮肉にもその影響もあってイスマウルの大軍は撤退を決めた。ただし、そのせいでたくさんのプーリッサ兵は犠牲になり、……騎士姫と国民に慕われていたハイリー・ユーバシャールも戦の最中に落命した。

 ヨルク・メイズを殺害した不届き千万な暗殺者は、兄の処遇に腹を立てたのだと言われていた。彼の兄、宰相補佐のクラウシフ・シェンケルはヨルク・メイズの使者を名乗る男に暗殺されたのだ。

 ヨルク・メイズはマルート鋼の輸入制限の緩和を推し進められたことによって、メイズの権力を脅かされたと憤慨し、利害が一致した教会と結託し、魔族入りの魔石を用意した。それをクラウシフに贈ったのだと、レクト・メイズは説明したらしい。

 いずれ、国の中枢を担うだろう人材を、国主が私情で暗殺する。しかも、マルートとの関係強化を、国全体が目指していこうという機運が高まっているときに、その紐帯になる人間を殺したのだ。酷い方法で。
 
 その浅はかさは度し難く、卑怯の極みだ。普通、いくらなんでもそんな話を聞かされて、信じるわけがないだろう。国主がそのような、国益無視の愚かしい行為をするわけがないと。周囲の人間が諌めないわけがないと。

 それが、周囲の者が「あああのヨルク・メイズならやりかねない」と思うのだから、日頃の行いというものは恐ろしい。事実、ヨルク・メイズは一度、体調不良を理由にしてマルート鋼の輸入制限緩和条約の調印式を無断で欠席している。それは動かない過去だし、マルート鋼の輸入に反対だったのは明らかだ。クラウシフとの確執を否定する人はきっといないだろう。

 レクト・メイズの作り話では、結界が解けてしまったあたりの時系列が事実とズレているが、それが彼が考えた筋書きなのだろう。情報の掌握と改変は彼の得意とするところ。戦争状態にあった国内の混乱を考えれば、簡単に違いない。

 その内容については、言いたいことも山程あるが、どうしてそうしたかについては理解できなくもない。

 突然、他国に攻め入られ、柱にすべき国主を失ったプーリッサ国民には、まさか当の国主が自分たちの生殺与奪をなんの信念も倫理もなく弄んでいただなんて知らせるべきではない。イスマウルに攻め入られているという国難の真っ只中で、その侵略のきっかけが国主の気まぐれにあったなんて知らされたら、おそらく国は立ち直れまい。民の求心力は望めない。

 だから、時系列を意図的にずらした上で、かねて行き違いがあった卑怯な男に、前国主は殺害されたとしたのだ。

 そして時期を見て違う発表をした。それが今回の無罪放免だ。

 おそらく、彼の判断では一段落したのだ。玉座に新しい国主の尻がなじんだ。だからこそ、兄とは違う公正で冷静な国主なのだと主張するために、私を無実にすると決めた。国主殺害を実行したのは、プーリッサ征服を企てていたイスマウルの刺客であって、アンデル・シェンケルは兄を前国主に殺されたという事情があるから、体の良い身代わりに仕立て上げられてしまっただけ。調査したら、違う事実がわかったのだと。いつになっても私が『容疑者』扱いになっていた理由がここにあった。

 きっと、どんな人間だって彼の言葉を信じる。ヨルク・メイズの放埒を知っていたら、その影で目立たなくとも堅実な働きをしてきた弟の言葉を疑うはずがない。もし、それを嘘だと知っていたところで、彼の流布した情報を否定する者はいないだろう。国難のときを乗り越えさせた有能な新国主を擁立するために。

 レクト・メイズの号令のもと、クラウシフ暗殺に関与したとされる教会の国費運営は見直され、規模の縮小も決定したという。

 実際に教会が魔石の調達を手助けしたかは、……怪しいところだ。クラウシフをはじめとする宰相派との対立やずさんな管理体制の暴露で、周囲から厳しい目を向けられ、運営費も削られて力を弱めていた教会が、そんな危ない橋を渡るだろうか。魔石なんていう、教会に縁のあるものが用いられて、クラウシフになにかあったら、疑われるのは確実だ。組織の命脈を保つために、軽はずみな決定はしないのではないだろうか。たとえ一枚岩ではないとしても。

 おそらくはレクト・メイズが、マルートとの関係改善によって、祝福の付与という役目を終えていくだろう教会を、メイズ家としての罪滅ぼしや、新しいプーリッサという印象づけに利用したのだ。
 レクト・メイズの本音は、実兄と癒着していた古い体質の団体が、思い描く未来のプーリッサには不要だから、うまい理由をつけて消し去りたかったのだろうと思う。国費を食うだけの、不要な組織だ。

「……レクト・メイズはたぶん、僕を呼び戻したいんだろうね。利用価値がまだあるんだろうと思う」

 頭を整理しながらの言葉に、ハイリーはじっと耳を傾けてくれる。

 実は、叫び出したいほど……腹が立っていた。

 私の罪をなかったことにするということは、あの復讐もなかったことになってしまう。クラウシフをはじめとするたくさんの人がヨルク・メイズにされた仕打ちをも闇に葬る行為だ。まるで私が、それらのことを甘んじて受け入れたように取られかねない。そしてまた、悲劇的な三英雄の末裔としてメイズに利用される。断じて、そんなことは許せない。それは私の思うプーリッサへの贖罪には当たらないし、そもそもメイズに対して贖う理由が思いつかない。

 もちろん、国主という立場で、国をまとめあげたいレクト・メイズが考えだした結論なのだとわかっている。だから否定も糾弾もしないが、そのまま受け入れるつもりなどない。相変わらず、メイズはメイズだ。自分以外はただの駒。

「三英雄の末裔たちを和解させ、強い国の芯にしたいのかもしれない。
 あるいは、マルートとの国交を深めるきっかけになったクラウシフの弟を呼び戻して、親交を深めたいと表明しその象徴にしたいのか。今のメイズ家はマルートとの関係を良くしたいのだと主張したいだろう。マルートの庇護があれば、イスマウルもチュリカも容易にプーリッサには手出しできないと、三年前にわかったわけだから。
 レクト・メイズには国境の結界を独力では張りきれない。それゆえに、魔族の攻め手に消耗しきらないようにするためにも、いっそうマルート鋼の輸入は増やしたいだろうし、マルートとの関係は強くしたいはず」

 他に考えられるのは、シェンケルのギフトを使いたいか、レクト・メイズが本当に慈悲深く同情的で、ああいう行動をとった私を哀れんでいるという場合だが――後者は万に一つもないだろう。あの人は強かだ。ヨルク・メイズより。本人もそれを自覚していたに違いない。

 ――兄を弑した弟に、誰が付き従う?

 クラウシフから読み取った記憶で、ひときわ鮮明だったレクト・メイズの言葉。とても冷徹で計算高く思えて、気おくれするほどだった。
 けれども、頼もしくもある。私がめちゃくちゃにしてしまったプーリッサも、きっと、あの人ならまた軌道に乗せるだろう。
 
「……それで、どうするの? 君はプーリッサに戻る?」

 小さな声で、ハイリーが問うた。じっと、緑の目がこちらを見つめている。
 灯りが揺れるせいだろうか、彼女の双眸もかすかに揺れているように見えた。

「戻らないよ」
「どうして? 残してきた人もいるんじゃないか」

 そういう彼女の方こそ、そうなのではないだろうか。戦友や、生き残ったわずかな血族たち。行方はわからないが、テリウスは確実に生きているだろう。
 私も、バルデランのことが気になっていた。そしてクラウシフやイェシュカの墓地――クラウシフに至っては、花を供えたことすらない――、父母の墓の様子が知りたい。

「ヨルク・メイズを殺すとき、すべてを諦めたんだ。
 そして、国を出て決めたんだよ。僕がプーリッサを、ヨルク・メイズを殺してめちゃくちゃにしてしまったんだ。クラウシフがギフトに頼らない国を作るために、必死に軌道に載せようとしていたのに、台無しにしてしまった。……だから、僕は、それを実現するまでは国に戻れない。
 それに戻らないほうが国のためだとも思うんだ。
 もちろん、正直に言えば、……戻りたい気持ちもあるよ。でも、そのためには決めたことをやらなきゃ。
 今日の今日までまったく手応えがなくて、不安しかなかったけれど、ちょっとだけ前進したから。また頑張るよ」

 まばたきもなしに、じっと見つめられるものだから、気恥ずかしくなって、ごまかすために彼女の頬にキスをした。それでもハイリーは身じろぎしない。

「だから、ハイリー。いつか、帰るときがきたら、あなたにも着いてきてほしい」
「それは無理だよ」

 きっぱり言い切られ、私は言葉に詰まった。それなりに覚悟を持っての発言だったから。

「私は死んだことになっているんだよ。そうじゃなければまずいから。
 家はどうなったかわからないし、これでも多少顔を知られている」
「変装して、目立たないようにすればいいのでは」
「君ね。自分も、良くも悪くも有名人だって自覚はないのかな。一緒にいたら目立たないわけないでしょうに」

 苦笑されてしまった。彼女の言うとおりだ。

「じゃあ、……そのときになったら、考える。そもそもそんな、一年二年のうちに結果がでるともわからない。ふたりともしわくちゃになったころに、すっかり忘れられてしまったころに結果がでるかも」
「そんなお年寄りになって旅に耐えられないよ。とくに君の場合」
「どうあっても、一緒にいてくれないの。それならなおさら、僕はプーリッサに戻るべきじゃない」

 恨みがましかっただろう。なのにハイリーはふふ、と吐息をもらして、それからあらためて長いため息をついた。
 
「あのね、アンデル。本当はね、この話は夕食の後にするつもりだったんだ。話を聞けば、きっと君は甥っ子を連れて国に帰ると言い出すだろうから……その……また離れ離れになる前に一夜の情けを請おうと思って、あとから届いた君の手紙を無視して来てしまったんだこの家に」
「手紙、届いていたんだ」

 ハイリーが恥ずかしげに顔を伏せる。

「嘘をついてごめんね。でも、こんなきっかけがなければ、それこそ、おばあちゃんになるまで進展しないかもしれないと思って。……おばあちゃんになったら進展もなにもないわけだろうけれど」

 うすうす感じていたが、ハイリーはもしかしたら年齢を気にしているのかもしれない。だとしたら私たちは互いに同じものに引け目を感じて、近づく機会を遠ざけていた可能性がある。少しもったいない気持ちになった。

「また間に合わなかったのかと思った」
「……ごめんね。
 けれどね、わかってくれたら嬉しいな。離れ離れになりたくなかったんだよ私だって。
 いつも私は遠くにいて、肝心なときにみんなのそばにはいられなくて、気づいたら置いてけぼりにされていた。仕方ないことだとは納得していたけれどね。そうじゃなかったら望まぬ道に進まなければならなかったから。それでもやっぱり寂しいし、ときどきとても窮屈だった。
 ギフトと腕を失ってしまって色々と不便で、国に戻れないのも母に会えないのも寂しいけれど、その結果、今はこうして君の隣にいられるんだから、それも悪くないなと思うんだ。重苦しいものすべてを捨てて、君と旅に出るなんて昔の私の憧れの生活だったんだから。
 ねぇ、その時が来るまで、こうしていて。すぐに帰るって言われなかっただけでも、私は嬉しいんだ」
「ハイリー……」

 にこりとして、ハイリーがうつ伏せで頬杖をついた。
 彼女が祖国に捧げた腕の替わりの、つるつるした金属の骨を、私はそっと撫でる。

「君はわくわくしない?
 二人とも、五百年も続いた三英雄の面倒くさいしがらみから解放されて、なにをするのもしないのも本当は自由なんだよ。これほど素敵なことがある? なんでもできるんだ。
 そうだ、旅行につきあってほしいな。ちょっとだけ遠出して、ふたりで海を眺めてのんびりする。君、覚えているかな、いつかルジットの異国情緒を味わうために旅に出たいって手紙に書いたんだけれど」
「もちろん、覚えているよ。あなたの手紙は、どれも忘れるわけがない」
「大丈夫。君の研究に影響のないよう短期間の旅程にするから」
「それは、助かるけれど……」
「……ふふ。逃げ出してもいいのに、最後はちゃんと自分で決めたことに向かい合おうとする。君たちはやっぱり兄弟なんだね」

 声音がかすかに寂しそうだったから。
 それでも……こんなときに他の男のことを連想してほしくなくて、白い肩に落ちた赤い髪を指で払って、その丸みに口付けた。

 裸のままでどうかと思うが、今言わなければ。

 ベッドの上で脚を折りたたんで座って、姿勢を正しくする。うつ伏せになっていたハイリーはきょとんと私を見上げてくる。

「ハイリー。あなたのことをずっと愛している。これまでもこの先も変わらず。それは純粋な本音だけど、一緒にいたら絶対に苦労させてしまう。僕はしなきゃいけないことがあるんだ。
 それでも、もう二度と離れ離れにならないと誓うから、そばにいてほしい。
 僕は必ずすべきことを済ませる。そして、いつかあなたをプーリッサに連れて行くよ。
 だからそんな寂しいことをいわないで」

 返答がない。
 きっと昨日の私だったら、この沈黙だけで不安に心をぐらつかせたに違いない。自信のなさは私の欠点のひとつだった。

 ただもう違う。

 絶対に、そうするのだ。
 ハイリーが好きと言ってくれたのだから、それに応えたい。今度こそ彼女を守りたい。自分にできる最善の方法で。

「やっぱり。君は私のナイトだよ、アンデル」

 差し伸べられたハイリーの手の甲に額を押し当てたあと、私はそっとキスを落とした。
 そのあとで、ハイリーの眦にもキスをした。ちょっとしょっぱいよ、と指摘すると、ハイリーは朗らかに笑ってくれた。
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