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#91 サフィール ひとりの出立

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 ドニーの屋敷に到着するタイミングで、ハイリーの自己紹介は終わりだった。
 さほど長い時間ではなかった。

 ハイリーは、女性では非常に珍しい軍人で、腕は魔族との戦いで失ってしまったらしい。ユーバシャールの血統特有のギフトが特別強かった彼女だが、許容量を越えた負傷だったのだろうという。今はもう、ギフトを失ってしまって普通の人と同じなのだとか。

 シェンケル家とユーバシャール家はつきあいがあったから、幼いころから我々はよく顔を合わせていたのだということも教えてくれた。どういうことをして、彼女が子どもの私をあやしてくれたかも聞いた。ハイリーが下に兄弟がいないというわりに、子どもの相手に慣れている様子なのは、もしかしたら、私とのかかわりが下敷きにあったからだろうか。

 もっとたくさん話を聞きたかった。頼めば、ハイリーはそうしてくれただろう。だが、翌朝、一番早く出発する乗合馬車で、私はドニーの屋敷を離れると決めていたので、思い出話の先を催促することなく、荷造りを優先した。



 弟たちは、私の出発を泣いて拒んだ。一緒に行くと言ってきかない双子の後ろで、いつもは聞き分けの良いユージーンが大泣きして、ハイリーに私を止めてくれと頼む。
 彼らが眠っている間に出ていくつもりだったのに、こんな日に限って早起きしだして遊ぶ用意をはじめたジェイドに、旅支度を整えたところを見つかってしまったのだ。

 泣きじゃくる子どもたちを見て、ドニーとその妻ウェリーナが、目で問うてきた。
 本当に、ひとりでいくのか?

 彼らの養子になる手続きは済んで、弟たちはすでにこの国の戸籍を得ている。私は違う。プーリッサでは、私の顔は知られている。指名手配されているのだから。弟たちはこれから成長期をむかえ、顔も多少変わるだろうし、そもそもがあまり周囲に顔を覚えられていなかっただろう。一緒にいるだけ、彼らを危険に晒すのは言うまでもないのだから、彼らの身の安全を、健やかな成長を願うなら、私はこの優しい空気に満ちた家を去るべきだと考えていた。

 一応、旅にも慣れてきたし、目的もある。

「ユージーン、これを」

 シェンケル家から持ち出した首飾りを差し出した。琥珀色の石は、私が魔力をこめると赤く輝く。不思議な現象に、一瞬、弟たちの涙が止まった。

「もし、君たちのなかで誰かがこれを光らせることがあったら、ドニーに言って。ドニー、申し訳ないけれど、そのときは私に連絡を。もちろん、定期的にこちらから連絡するから」
「お願いアンデル、行かないで」

 ユージーンがはっとした顔をして、口をつぐんだ。丸い頬に涙がぽろぽろ溢れる。

 この子は幼くして、私の罪や、自分の不遇さもだいたい理解している。だからこそ、可哀想だった。申し訳なくて心がぐらつくが、結論は変えられない。これ以上、彼らを私の事情に巻き込めないのだから。

「ユージーン、もう字は覚えたでしょう。手紙を書くよ」
「そんなの、いらない。寂しいよ。一緒にいて、置いていかないで」

 追いすがる彼らを引き離し、ドニーとウェリーナ、そしてハイリーに挨拶をして門をくぐった。顔見知りになった門番たちが目礼してくれる。

 白い砂利道を歩き始める。堪らえていた涙がこぼれそうになって、しきりに瞬きすることでごまかした。

 乗り合い所のベンチには、もう、数人が待っていて、その最後尾に並んだ。まだ馬車は来ないらしい。
 うっかりすると、また涙が出そうになる。あわてて上を向く。それを繰り返していたら、そっと顔の前にハンカチが差し出された。びっくりして振り返る。

「ハイリー……」

 明るい紫色のワンピースに、白いボレロを羽織ったハイリーが、日傘を肩に差し掛けたまま、ハンカチを突き出していた。いつの間に追いついていたんだろう。
 そのハンカチを受け取った私の肩を、ハイリーが叩いた。

「ユージーンに頼まれて来たよ。
『僕たちは三人だ。サフィールだけが一人なんて可哀想だよ、ハイリーお願い、サフィールと一緒にいてあげて』とさ。
 そういうわけで、もう少し、同行しても構わないかな」

 きっと、ユージーンにもハイリーにも、私の気持ちなんか筒抜けだったんだろう。
 堪らえていた涙が目頭から流そうになって、私はまたも慌てて上を向いた。


 
 乗合馬車にはほかにも人がいたから、念の為、ハイリーと過去の話はしないようにしていた。なにも聞かずに、彼女は私の隣りに座って、窓の外を流ていく異国の景色を見つめていた。穏やかな時間。これまでの道中でこんなに不安のない時間はなかった。

 弟たちを守らなければという使命感は私に勇気と緊張感を与えてくれたが、その分、疲労と不安が常に寄り添っていた。今はそれがない。寂しくて胸に孔があいたようなのに、ほっとしてもいた。自分に課せられていた大きな仕事をひとつ、やり遂げた。

 ただし、まだ仕事は残っている。それも最大のものが手付かずだ。
 
 死ぬまでに遂げられるだろうか。



 昼過ぎに馬車を降り、向かった先は新居だ。海際の小高い丘の上にあるボロ屋で、海が見える以外に取り柄はない。その周辺が林になっていて、様々な動植物が見られることも、私にとってはそうかもしれない。

 小屋は、白っぽい木を使った壁なのか、風雨にさらされてそのようになってしまったのか、それすらわからない年季の入りよう。中の設備は手入れされているとだけ聞いている。

 ドニーが物件の賃借の手続きを代行してくれて、必要なものもほとんど先に運び込んでくれていた。ただ、掃除はまたしなければならない。少しばかりの家具の上にうっすらとホコリが積もり、暮らすのにはちょっと問題がある。

 これまで、掃除なんて、自分の机の上を、研究に支障が出てから羽箒で掃くくらいしかしてこなかった。これは大仕事になりそうだ、と覚悟しながら、家の前まで来てくれたハイリーに向き直った。

「ハイリー。送ってくれてありがとう。ここでしばらく暮らすつもりだけれども、子どもたちには内緒にしてほしい。いつまでいるかも決めてないんだ」
「それが君の判断なら、もちろん尊重するけれど……本当にここで一人で?」
「多少ホコリまみれでも、生きてはいけるよ。旅で慣れたから。目下の心配事は、食事かな。街へ行ってなにかまとめて買うことにする」

 ハイリーは眉根を寄せ、昼間でも暗い室内を見回した。

「……わかった。なにかあったらすぐに連絡を。私はもうちょっとドニーのところにいるから」
「ありがとう。街まで送っていくよ。女性の独り歩きは心配だ」
「いや、それには及ばない。やることもたくさんあるだろうし、ここで十分だよ。くれぐれも、体に気をつけてね」

 ハイリーは、あっさり踵を返して門すらない敷地をすたすたと戻っていった。
 
 薄暗い部屋に取り残される。彼女は昼の光の満ちた外へ。
 
 反射的に追いすがりそうになって、ぐっと堪らえた。

「サフィール。また来ても?」

 まるで私の心を読んだように、振り返ったハイリーは首をかしげた。

「……待ってる」

 軽やかに手を振るハイリーに手を振り返すこともできなくて、私はそこに棒立ちになっていた。決心がはやくも鈍りそうだ。彼女と一緒にドニーのところへ戻りたいと、強く強く思っていた。
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