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#84 サイネル とある部屋(後)

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 会議はお開きになり、サイネルはしなければならないことの一覧を頭の中に作成しながら、ハイリーの後ろを歩いた。彼女のほうが頭半分背が低い。だから、急に止まられると鼻を彼女の後頭部に強打することになる。

 なんなんですか、と抗議しかけたサイネルは、どうして上官が足を止めたか気づいた。
 リャーケントが近づいてきた。そして、ハイリーの正面で立ち止まる。

「先程は失礼しました」

 男の顔に張り付いた卑屈な笑みが、サイネルの不快感を掻き立てた。
 言葉は殊勝だが、声にこもる陰湿ななにかがある。

「ついつい、熱くなってしまって。警護も大切な任務だとわかっているのですが、羨ましく思うのですよ、やはり軍人ですから、最前線で剣を振るいたい。縦横無尽に駆け巡るあなたの話をお聞きすると、いてもたってもいられなかった」
「お気持ち、お察しします」

 ちっとも察してないふうにそっけなく言い、ハイリーが彼の横を通り過ぎようとする。

「ユーバシャールの方々は、親しい人の弔いで前線に立つとお聞きしました。忘れていましたよ、ご友人の宰相補佐どののこと。葬儀に参列できなかったこと、さぞや悔しいことでしょう。存分に、イスマウル兵相手に憂さ晴らしをなさればよい。国のためにもなる」

 サイネルは反射的に、斜め前方にいるハイリーの肘を掴んでいた。
 だが、ハイリーはさらりと片頬で微笑んで、目を伏せた。

「友人へのお悔やみの言葉をどうもありがとうございます」

 ハイリーの手袋に包まれた右手は、拳すら作っていなかった。
 


 派手な音がして、ガラスがこなごなに砕ける。机上の水差しを、ハイリーが拳で叩き潰したからだ。水で濡れた手袋が、じわじわ赤く染まっていく。積まれていた書類にもしぶきが飛んだように見えた。

「……はあ。せっかく我慢しきったんだと褒めようと思っていたのに」
「知るか!」

 かっとなって吠える彼女の緑の目は、ぎらぎらと怒りで燃えていた。激情で涙ぐんでもいる。
 だが、それを見て、少しだけサイネルはほっとしていた。

 先日亡くなった彼女の友人の葬儀が、時期が時期なのでと遺族側の配慮で、地位に不釣り合いなほど小規模に催されたと聞いている。

 その友人に別れの挨拶をしに行ってから、サイネルはハイリーが不安定なのではないかと心配していた。
 帰ってきたときに感情的になって涙を流した彼女を見て、ぎくりとさせられた。これまでどれほど嫌な目にあっても、実の兄や友人が戦没しても、職場では涙を流さないでやってきた彼女が、制御しきれない激情に任せて当たり散らしたから、今回の戦は彼女抜きでやらなければならないかと不安になったくらいだ。翌日にはけろっとしていたので、時折、あの日のことはただの夢だったのではないかと思うこともあるのだが――。

「隊長、あの馬鹿野郎だったら、あの場で一発殴ってやってもよかったんでは? 昔はやっちまったんですよね? 今だったら、軍内はみんなあなたの味方でしょうし、ちょっとの不祥事、気が立っていたで済む時期では? ていうか、私がいっそ殴りたかったんですが。
 はい、どうぞ、返さなくていいですよ」

 言いながら、上官に懐から出したハンカチを手渡した。
 受け取って、ハイリーは肩で数度息をして、眉間のシワを薄くする。

 ――こうしてかっとなる元気があるだけ、よかった。

 このところ、彼女のする提案がかなり過激だったし、攻め方も今までになく危険を顧みないから、精神状態を心配していたのだ。なにも殺した敵指揮官の遺体を損壊する必要もあるまいと思ったが、……あれであちらがわの士気を下げ、結果として両軍の犠牲を抑えているのだと、これで良い方へ捉えられる。決して、彼女の気持ちが不安定だからというわけではない、と。

「ああいうのは、もう放っておくのがいいと思います。遅かれ早かれ自滅する。ようは、羨ましくて仕方ないんですよ、隊長が」
「自己評価を改めないのかあいつは。羨ましがるところまでもきてないだろうが」
「知能が低いほど実力と自己評価が乖離するという話を聞いたことは?」
「初耳だが、リャーケントが体現しているから薄々勘づいていた」

 手を拭いて、ハイリーは汚れたハンカチをぽいっとくずかごに捨てた。

「手袋、新しいのに変えたらどうです? 血が付いてますよ」
「……あとでする」

 面倒くさがりなのか、なんなのか。
 ちら、とサイネルはハイリーの手にはめられた手袋を見やった。先日、腕を切り落とされてから、彼女は手袋をするようになった。外しているところを見ていない。食事中も会議のときも、……戦場でも。

 不安が一つ。まさか、まだ全回復していないのではないか? これが彼女ではない人間だったら、そもそも、もう剣は握れないほどの重症、戦闘不能だったはずなのだ。
 しかしながら、さきほどの怪我はもう回復したようで、新たに血が滴りシミが広がるような様子はない。注意深く見守っているが、手を庇っている様子もない。

「なんだ?」
「いえ。それより、気を引き締めてください、あんな馬鹿のことは忘れて。翌朝は突撃ですよ。夜襲じゃない」
「わかっている」

 うなずいた彼女は、まだ不機嫌そうに頬を歪めていたが、語気はいつもの状態に戻りつつあった。
 気持ちが切り替えられなくてもいいが、必要なときはそれ以外目に入らないよう、集中してもらわねば、彼女も部下も死ぬ。

「サイネル」
「なんでしょう」
「この戦が終わったら、私は退役するつもりだ。そのとき、将軍にお前を後任に据えるよう進言してみる。そのつもりでいてくれ」
「……はあ?」

 爆弾発言にサイネルは思わず一歩ハイリーに歩み寄った。彼女はさっきの激情をすっかりひっこめて、凪いだ表情をしている。ランプの明かりが彼女の頬の柔らかな線を淡く染めていた。

「どうしたんですか、急に。この戦の手柄を考えたら、昇進間違いなしなのに」
「やることもやりたいこともたくさんあってね。それに、いささか疲れた、振り回されるのに。
 お前はもっと上を目指したいんだろう? 応援するぞ、お前ならできる」

 力強く言われても困惑するだけだ。
 たしかに常々、後任には自分をと言っていたが、それはなかば冗談である。誰かを補佐するほうが向いているとしっかり自覚しているし、その補佐する相手はなるべくなら自分が認めた相手であってほしいとも思う。そうでないと嫌気が差しそうだからだ。自分より明らかに無能な人間に仕えることになったら、うんざりしてしまうのがわかっている。
 サイネルの中で、今の所、ハイリー・ユーバシャール以上にやりやすい、そしてやりがいを求められる上官はいない。思いつかない。

 突然そんなことを言われても困る。このさきの計画だってしっかりたてているのに。そう反論しようとしたが、ハイリーの静かな眼差しに、言葉を飲み込んだ。

 疲れて当然だろう。親友を亡くし、配属が変わって人間関係もごたごたしていたし、たくさんの人間を殺している。殺人自体は慣れるだろうが、彼女が好んでそれをしているかはわからない。おそらくは、必要だから残虐な殺し方をし、自分を演出しているのだ。

 この戦が終わって落ち着いたら、彼女には一度里帰りを勧めてみよう。友人の墓参りもしたいだろうし。
 その日はそう遠くないだろう、とサイネルは期待する。だからただ「考えときます」と返した。
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