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#82 ハイリー 待ち人は目覚めない
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アンデルは目を覚まさない。
金属が等しく赤く錆びついてしまった部屋のベッドの上で、青ざめたまぶたを降ろし、弱々しい寝息をたてている。こけた頬を撫でたい衝動にかられたが、自分が彼の身体に触れるていいのかためらわれ、迷った挙げ句に手を引っ込めた。
この数年、顔もあわせない間に彼に降り掛かった数々の変化を思うと、胸が潰れそうになる。
きっと、苦しかったと思う。クラウシフもそうだったろうが、アンデルだってそうだ。
助けてやりたいと、力になりたいと思ってここに駆けつけて、結果として彼を傷つけることになってしまった。
いつ、目を覚ますのだろう。彼に謝りたい、懺悔したい。
医師によれば、いつ目を覚ますかはわからない。このまま衰弱して死ぬかもしれないという。身体の損傷もあるが、それは軽度で、それよりも精神的なものが大きいのではないかというのだ。
目覚めを拒むほどの精神的打撃に、私がしたことが含まれていない、なんて楽観的には考えられない。
昨日、遅れて、前線から転送されたアンデルの手紙が手元に来た。警告の文章だった。わずかに私が向こうを出立する時間を遅らせれば、アンデルの手紙を読むことができたのに。
目の奥がぐっと熱くなった。
傷つけたくなかったとアンデルは泣いたけれど、それは私だって一緒だった。たぶん、クラウシフだってそうしたいと思ったことは一切なかっただろう。なぜこうなってしまったんだろう。
廊下をばたばたと慌ただしく人が行き交う音がする。当主が亡くなったのだ、無理もない。この状況のこの場に、アンデルを置いていかなければならないことが辛い。
だが、私にできることといえば、彼を介抱することでも、クラウシフの骸にしがみついて泣くことでもない。
毛布の上に出ているアンデルの手を一度だけ握って、私は部屋を出た。
◆
夜半、基地の玄関口に到着すると、時間を予想していたのか、サイネルが待っていた。そして他にも数人、男たちの姿。非常時だとすぐにわかる、武装。
通ってきた外堀の内側に、人の気配が集まっていた。兵士が待機しているに違いない。
「隊長、我々ハイリー・ユーバシャール隊は、本日をもって、北軍指揮下に収まることが決定しました」
硬い表情、硬い声でサイネルがそう告げる。
周囲にいた男たちに連れられ、私は慌ただしく会議の席に誘導された。彼らはどうやら私の到着を待っていた北軍の下士官たちらしい。
ここにくるまでに、何度か隼の文を受け取っていた。その文で、今日の……いや、すでに日付は変わった。昨日の昼過ぎ、キューネル山脈を下ってきたイスマウル軍は、宣戦布告なしにプーリッサの国境を越えてきたことを知っている。敵兵は、練兵の具合は低く、山越え後ということもあって疲労しているが、数が数だった。見立てでは全体の数は十万にのぼるだろう。
現在、プーリッサ側で割ける迎撃の人数は二万。いくら常に戦闘状態にあって戦い慣れているとはいえ、プーリッサ軍に対人戦の経験がある将はなく、相手軍の威容に気圧されて、普段の訓練の成果を発揮することができなかった。
平たくいえば、先鋒として突っ込んだ部隊は、あえなく敗走の憂き目にあった。
前線基地まで追撃されなかったのは、まだイスマウル軍が後続の部隊の到着を待ち、体勢を整えている最中だったからだ。
夜が明けたら、いよいよ、全軍激突だろう。
慌ただしく、互いの状況報告と損害報告をしあいながら、私は深く息を吸う。
――帰ってきたな。
◆
長い会議が終わり、いったん自分の部屋に引っ込んだ。東軍の所属だったときの部屋だから、いずれここも引き払わなければならない。だが今は先にやることがある。
「長距離移動のあとの、長時間の会議は疲れる」
「しばらくは待機とのことですから、ゆっくり休んで準備していてください」
「そうしよう」
当たり前のように部屋まで入ってきたサイネルは、私が着替えはじめたのに気づいてドアを閉めた。自分は出ていかないつもりらしい。
「これからどうなさいますか」
「明け方まで寝る。お行儀よく、夜が明けてからの出陣だそうだから、それまでは休めるだろう。部隊のものたちも休ませておけ。あれだけ吠えたんだ、リャーケント殿がきっとなんとかするさ」
会議の場で、あの失礼で鬱陶しいヨナス・リャーケントが私の意見にすべて反対反対で通そうとし、他の男達も同調した。私の意見は何一つ通らなかった。別に、私のものより優れた策があるならそれでいいのだが、聞いてるとどれもこれも頭が痛くなるような愚策ばかり。
もちろん、北軍の所属に――ヨルク・メイズ直々のお声がけで急遽、死んだ指揮官の代替え、そして潰走した部隊の補完のために異動となったらしい。異例の部隊ごとの配属転換はどういう裏があったか、東軍以外の将軍全員の賛成で決定した――本日もって相成った新参者の女の言葉がすんなり受け入れられるとは思わなかったが、それにしても、もっと現実的な判断を下すんだと思った。勝算を最優先にして。
それがそうではなかったし、ついにリャーケントの阿呆に「女は黙っていろ」と命じられたので、黙ることにした。お前、そういう話し方ではなかったろう、他の男の前で強いところを見せたいのか、と呆れてものも言えなくなっただけだが。そしてリャーケント以外の男たちは、自分こそがこの状況を打破する能力があると豪語して一番槍を譲らなかった。
一度痛い目を見ればわかるんだろう。わからないならそれでもいい、どうせここには戻ってこれまい。早いうちに馬鹿が漉されていなくなれば、精鋭だけであとは円滑にことが進むと期待できる。
強引に割り切ろうとしても晴れぬもやもやした気持ちのまま、旅装をようやく解いて、ブーツを脱ぐ。
「言っておきますが、あの男が根性出して自分の言ったことを遂行と楽観視する、という別名・自殺行為に走るのはおやめくださいね。
道中、隼の文で命令いただいたとおりに、すでに部隊の者たちは用意ができています。モノももちろん、ぬかりなく。渋っていた研究所の連中は、顔と名前を覚えていますが」
「研究者との嫌がらせの応酬は暇ができたときにしてくれ。私は寝たい。ただでさえ馬鹿な男たちのくだらない意地の張り合いにつきあわされて、辟易しているんだから。寝て気持ちを切り替えたい。どうして男は馬鹿ばっかりなんだとイライラするのにほとほと疲れた」
「男が馬鹿だって十把一絡げにするのは止めていただきたいですね、とばっちりです」
「知るか。女は引っ込んでろとか、ここは男に任せておけだとか全部つまらない意地だの誇りだののためだ。それで、あとから守りたかっただとか、そんなつもりはなかっただとか。勝手に失敗の理由にされる側にもなってみろ。頼んでないのに尊い自己犠牲を払ったふうに振る舞われるのは、もうたくさんだ。舐めてるのかお前ら!」
胸にたまっていた澱を吐き出した。洗いざらいだ。
基地に戻るまでの道中、何度も何度もクラウシフの最期を思い出した。見ていてこちらが苦しくなるような発作があって、もがき苦しみ、気休めの別れのキスだけ受け取って、何も言わずに死んでいった。
まさか看取るのが私になるとは。
そしてすぐに出立しなければならない私は、挨拶もそこそこにシェンケル家を出てきたのだ。
あとを任せてきたバルデランは、私の言葉に返事をしながらも打ちひしがれていた。彼にとってクラウシフは自分の息子のような存在だったに違いない。
見ろクラウシフ。お前がヨルク・メイズと戦うなんて、黙って格好つけて背負いきれないものを抱え込んだ結果、一番ひどい結末に落ち着きそうだぞ。
守りたかっただとか、聞きたかったのはそんな言葉じゃない。
ただ一度、助けてくれと言ってほしかった。
そうしたらいつでも手を貸したのに。お前が他の人間を守りたいと思ったなら、なぜ、他の人間がお前に対してそう思っているかもしれないと思いつかないんだ馬鹿が。庇護者になってくれなんて、私もアンデルも一度も願ったことはない。その上イェシュカまで巻き込んで、翻弄されるだけされて、むごたらしい死を与えられて子供たちを置いて逝く。それで納得できたわけないだろう。
そしてヨルク・メイズ。いま国境に攻めてきているイスマウル兵と同じように、他人の領分に踏み込むことに何の抵抗も覚えない男。いや、イスマウルはまだわかる、食えなければ死ぬ、死活問題を抱えているからだ。
だがヨルク・メイズはどうだ。自分のただの欲を満たすために、人をこけにして自分は玉座でのうのうとしている。私が、前線に残りたいと便宜を図ってもらいに行った時、きっと腹の中では大笑いしていたことだろう。クラウシフや父の努力を踏みにじる物分りの悪い奴だと。
ああ、腹が立つ!
なにに一番腹が立つって、クラウシフと同じ幻想を抱いていた自分にだ。
もしかすると、助けられたかもしれない。守れたかもしれない。そんなたらればの驕った考えが次々でてきて、きっとクラウシフと同じ立場に立たされたら、私も同じく自称庇護者になっていたんだと確信しているところが許せない。気の利いた打開策なんて思いつかず、ついたところで実行できず、みっともなく死んでいく自分がありありと想像できる。
つまり私は一等自分に腹が立っていた。どうしようもなかっただろうとわかっているのに、もしこうしていたらと後悔することが止められない。知人を送り出した時恒例の意味のない問答を繰り返している。進歩しない。進歩しない。いつになってもひとつも成長していない。助けてほしいといわれなければ気づけなかった時点で、たいていの戦局は覆せなくなっているのだ。そのくせ、その程度の実力のくせに、自分が向かえば助けられたかもしれないなんてくだらない妄想を止められない。
怒りで頭がクラクラして、目の奥が熱くなった。これまでずっと我慢してきた涙がこぼれ、手で拭うのも癪でそのままサイネルをにらみつける。
すると、サイネルはぱちぱちまばたきをして、ため息をついた。
「なんだか怒ってます?」
「見ればわかるだろ!」
「八つ当たりはよしてください。やる気が削がれる」
「知るか! お前は私の副隊長だろう?! どうにかしろ」
「むちゃくちゃですね。うわ、面倒くさい。
……まあ、上司が戦える状態かどうか判別し、その状態に持っていくのも補佐の役目というのならそうでしょうね。
隊長、明日、呼び出しがかかった時点で、あなたが指揮できる状態なのか、あらためて判断させていただきますよ。もし無理そうでしたら、私が指揮します」
「うちの隊員をみなごろしにさせられない」
「失礼な。三割減くらいでなんとかとどめますよ。
それに、それが嫌だというなら、なんとか調整することです。あ、酒は禁止ですよ。酔わないと知ってますが、臭いがしたら隊員に示しがつかない」
「寝る!」
ベッドにごろりと横になり、掛布を頭の上まで引き上げた。これじゃ子供のようじゃないか。また情けなくなって、涙がこみ上げてくる。
「隊長」
「うるさいな、寝るんだ私は。出て行け」
「ご友人の件、ご愁傷様です。気を落とさぬように」
返事を待たずに、背後でドアが閉まる音がした。
ご愁傷様。
ああ、クラウシフはやっぱり死んでしまったんだ。
声を殺して泣いていたはずなのに、強行軍続きで疲労していた私の身体は、いつの間にか眠りに落ちていた。
◆
明け方、荒々しくドアを叩かれ意識が浮上する。
サイネルだった。やはり、夜明けとともに出陣した先鋒のヨナス・リャーケントはあっさり敗走しそうな勢いだそうだ。助けに向かった他二隊も怪しい。北軍将軍がさすがにこれ以上の失態はということで、我が隊にお呼びがかかりそうだという。
サイネルが用意してくれたぬるま湯で顔を洗い、腫れた目をどうにかごまかして、髪を結ぶ。
夢も、見なかった。
クラウシフのやつ、きっぱりしてる、夢にも現れなかった。そう思うと、――幾分気持ちがしゃんとした。
支度を整え終え、頬を両手でぱんと叩く。
「どうですか、隊長。いけそうですか」
「実はまだ腹が立ってぐらぐらしているんだが、それをイスマウル兵にぶちあてても誰も文句は言うまい」
「そうですね、大いに喜ばれるでしょうが、くれぐれも冷静に」
「わかっている」
向かい合ったサイネルは、見定めるように私の顔をじっと見つめていたが、ふっと小さくうなずいた。
「さて、行きましょうか」
基地の廊下は伝令などでばたついているが、私の心は昨晩よりずっと落ち着いていた。
ちゃんと睡眠をとったし、これまでの経験で親しい人を送りだすのも慣れているはず。ギフトの影響で、行動に支障がでるような情動も抑えられている。おそらくは。
兵士としての経験から、強制的に意識が戦闘に向いている。集中力を欠いたら死が待っている。
サイネルと並んでくぐったドアの向こう、基地の門前に整列した千名の兵士たちが私の方をぞろりと振り返った。
しろがね色の甲冑が、赤い夕日を反射して網膜を焼く。
金属が等しく赤く錆びついてしまった部屋のベッドの上で、青ざめたまぶたを降ろし、弱々しい寝息をたてている。こけた頬を撫でたい衝動にかられたが、自分が彼の身体に触れるていいのかためらわれ、迷った挙げ句に手を引っ込めた。
この数年、顔もあわせない間に彼に降り掛かった数々の変化を思うと、胸が潰れそうになる。
きっと、苦しかったと思う。クラウシフもそうだったろうが、アンデルだってそうだ。
助けてやりたいと、力になりたいと思ってここに駆けつけて、結果として彼を傷つけることになってしまった。
いつ、目を覚ますのだろう。彼に謝りたい、懺悔したい。
医師によれば、いつ目を覚ますかはわからない。このまま衰弱して死ぬかもしれないという。身体の損傷もあるが、それは軽度で、それよりも精神的なものが大きいのではないかというのだ。
目覚めを拒むほどの精神的打撃に、私がしたことが含まれていない、なんて楽観的には考えられない。
昨日、遅れて、前線から転送されたアンデルの手紙が手元に来た。警告の文章だった。わずかに私が向こうを出立する時間を遅らせれば、アンデルの手紙を読むことができたのに。
目の奥がぐっと熱くなった。
傷つけたくなかったとアンデルは泣いたけれど、それは私だって一緒だった。たぶん、クラウシフだってそうしたいと思ったことは一切なかっただろう。なぜこうなってしまったんだろう。
廊下をばたばたと慌ただしく人が行き交う音がする。当主が亡くなったのだ、無理もない。この状況のこの場に、アンデルを置いていかなければならないことが辛い。
だが、私にできることといえば、彼を介抱することでも、クラウシフの骸にしがみついて泣くことでもない。
毛布の上に出ているアンデルの手を一度だけ握って、私は部屋を出た。
◆
夜半、基地の玄関口に到着すると、時間を予想していたのか、サイネルが待っていた。そして他にも数人、男たちの姿。非常時だとすぐにわかる、武装。
通ってきた外堀の内側に、人の気配が集まっていた。兵士が待機しているに違いない。
「隊長、我々ハイリー・ユーバシャール隊は、本日をもって、北軍指揮下に収まることが決定しました」
硬い表情、硬い声でサイネルがそう告げる。
周囲にいた男たちに連れられ、私は慌ただしく会議の席に誘導された。彼らはどうやら私の到着を待っていた北軍の下士官たちらしい。
ここにくるまでに、何度か隼の文を受け取っていた。その文で、今日の……いや、すでに日付は変わった。昨日の昼過ぎ、キューネル山脈を下ってきたイスマウル軍は、宣戦布告なしにプーリッサの国境を越えてきたことを知っている。敵兵は、練兵の具合は低く、山越え後ということもあって疲労しているが、数が数だった。見立てでは全体の数は十万にのぼるだろう。
現在、プーリッサ側で割ける迎撃の人数は二万。いくら常に戦闘状態にあって戦い慣れているとはいえ、プーリッサ軍に対人戦の経験がある将はなく、相手軍の威容に気圧されて、普段の訓練の成果を発揮することができなかった。
平たくいえば、先鋒として突っ込んだ部隊は、あえなく敗走の憂き目にあった。
前線基地まで追撃されなかったのは、まだイスマウル軍が後続の部隊の到着を待ち、体勢を整えている最中だったからだ。
夜が明けたら、いよいよ、全軍激突だろう。
慌ただしく、互いの状況報告と損害報告をしあいながら、私は深く息を吸う。
――帰ってきたな。
◆
長い会議が終わり、いったん自分の部屋に引っ込んだ。東軍の所属だったときの部屋だから、いずれここも引き払わなければならない。だが今は先にやることがある。
「長距離移動のあとの、長時間の会議は疲れる」
「しばらくは待機とのことですから、ゆっくり休んで準備していてください」
「そうしよう」
当たり前のように部屋まで入ってきたサイネルは、私が着替えはじめたのに気づいてドアを閉めた。自分は出ていかないつもりらしい。
「これからどうなさいますか」
「明け方まで寝る。お行儀よく、夜が明けてからの出陣だそうだから、それまでは休めるだろう。部隊のものたちも休ませておけ。あれだけ吠えたんだ、リャーケント殿がきっとなんとかするさ」
会議の場で、あの失礼で鬱陶しいヨナス・リャーケントが私の意見にすべて反対反対で通そうとし、他の男達も同調した。私の意見は何一つ通らなかった。別に、私のものより優れた策があるならそれでいいのだが、聞いてるとどれもこれも頭が痛くなるような愚策ばかり。
もちろん、北軍の所属に――ヨルク・メイズ直々のお声がけで急遽、死んだ指揮官の代替え、そして潰走した部隊の補完のために異動となったらしい。異例の部隊ごとの配属転換はどういう裏があったか、東軍以外の将軍全員の賛成で決定した――本日もって相成った新参者の女の言葉がすんなり受け入れられるとは思わなかったが、それにしても、もっと現実的な判断を下すんだと思った。勝算を最優先にして。
それがそうではなかったし、ついにリャーケントの阿呆に「女は黙っていろ」と命じられたので、黙ることにした。お前、そういう話し方ではなかったろう、他の男の前で強いところを見せたいのか、と呆れてものも言えなくなっただけだが。そしてリャーケント以外の男たちは、自分こそがこの状況を打破する能力があると豪語して一番槍を譲らなかった。
一度痛い目を見ればわかるんだろう。わからないならそれでもいい、どうせここには戻ってこれまい。早いうちに馬鹿が漉されていなくなれば、精鋭だけであとは円滑にことが進むと期待できる。
強引に割り切ろうとしても晴れぬもやもやした気持ちのまま、旅装をようやく解いて、ブーツを脱ぐ。
「言っておきますが、あの男が根性出して自分の言ったことを遂行と楽観視する、という別名・自殺行為に走るのはおやめくださいね。
道中、隼の文で命令いただいたとおりに、すでに部隊の者たちは用意ができています。モノももちろん、ぬかりなく。渋っていた研究所の連中は、顔と名前を覚えていますが」
「研究者との嫌がらせの応酬は暇ができたときにしてくれ。私は寝たい。ただでさえ馬鹿な男たちのくだらない意地の張り合いにつきあわされて、辟易しているんだから。寝て気持ちを切り替えたい。どうして男は馬鹿ばっかりなんだとイライラするのにほとほと疲れた」
「男が馬鹿だって十把一絡げにするのは止めていただきたいですね、とばっちりです」
「知るか。女は引っ込んでろとか、ここは男に任せておけだとか全部つまらない意地だの誇りだののためだ。それで、あとから守りたかっただとか、そんなつもりはなかっただとか。勝手に失敗の理由にされる側にもなってみろ。頼んでないのに尊い自己犠牲を払ったふうに振る舞われるのは、もうたくさんだ。舐めてるのかお前ら!」
胸にたまっていた澱を吐き出した。洗いざらいだ。
基地に戻るまでの道中、何度も何度もクラウシフの最期を思い出した。見ていてこちらが苦しくなるような発作があって、もがき苦しみ、気休めの別れのキスだけ受け取って、何も言わずに死んでいった。
まさか看取るのが私になるとは。
そしてすぐに出立しなければならない私は、挨拶もそこそこにシェンケル家を出てきたのだ。
あとを任せてきたバルデランは、私の言葉に返事をしながらも打ちひしがれていた。彼にとってクラウシフは自分の息子のような存在だったに違いない。
見ろクラウシフ。お前がヨルク・メイズと戦うなんて、黙って格好つけて背負いきれないものを抱え込んだ結果、一番ひどい結末に落ち着きそうだぞ。
守りたかっただとか、聞きたかったのはそんな言葉じゃない。
ただ一度、助けてくれと言ってほしかった。
そうしたらいつでも手を貸したのに。お前が他の人間を守りたいと思ったなら、なぜ、他の人間がお前に対してそう思っているかもしれないと思いつかないんだ馬鹿が。庇護者になってくれなんて、私もアンデルも一度も願ったことはない。その上イェシュカまで巻き込んで、翻弄されるだけされて、むごたらしい死を与えられて子供たちを置いて逝く。それで納得できたわけないだろう。
そしてヨルク・メイズ。いま国境に攻めてきているイスマウル兵と同じように、他人の領分に踏み込むことに何の抵抗も覚えない男。いや、イスマウルはまだわかる、食えなければ死ぬ、死活問題を抱えているからだ。
だがヨルク・メイズはどうだ。自分のただの欲を満たすために、人をこけにして自分は玉座でのうのうとしている。私が、前線に残りたいと便宜を図ってもらいに行った時、きっと腹の中では大笑いしていたことだろう。クラウシフや父の努力を踏みにじる物分りの悪い奴だと。
ああ、腹が立つ!
なにに一番腹が立つって、クラウシフと同じ幻想を抱いていた自分にだ。
もしかすると、助けられたかもしれない。守れたかもしれない。そんなたらればの驕った考えが次々でてきて、きっとクラウシフと同じ立場に立たされたら、私も同じく自称庇護者になっていたんだと確信しているところが許せない。気の利いた打開策なんて思いつかず、ついたところで実行できず、みっともなく死んでいく自分がありありと想像できる。
つまり私は一等自分に腹が立っていた。どうしようもなかっただろうとわかっているのに、もしこうしていたらと後悔することが止められない。知人を送り出した時恒例の意味のない問答を繰り返している。進歩しない。進歩しない。いつになってもひとつも成長していない。助けてほしいといわれなければ気づけなかった時点で、たいていの戦局は覆せなくなっているのだ。そのくせ、その程度の実力のくせに、自分が向かえば助けられたかもしれないなんてくだらない妄想を止められない。
怒りで頭がクラクラして、目の奥が熱くなった。これまでずっと我慢してきた涙がこぼれ、手で拭うのも癪でそのままサイネルをにらみつける。
すると、サイネルはぱちぱちまばたきをして、ため息をついた。
「なんだか怒ってます?」
「見ればわかるだろ!」
「八つ当たりはよしてください。やる気が削がれる」
「知るか! お前は私の副隊長だろう?! どうにかしろ」
「むちゃくちゃですね。うわ、面倒くさい。
……まあ、上司が戦える状態かどうか判別し、その状態に持っていくのも補佐の役目というのならそうでしょうね。
隊長、明日、呼び出しがかかった時点で、あなたが指揮できる状態なのか、あらためて判断させていただきますよ。もし無理そうでしたら、私が指揮します」
「うちの隊員をみなごろしにさせられない」
「失礼な。三割減くらいでなんとかとどめますよ。
それに、それが嫌だというなら、なんとか調整することです。あ、酒は禁止ですよ。酔わないと知ってますが、臭いがしたら隊員に示しがつかない」
「寝る!」
ベッドにごろりと横になり、掛布を頭の上まで引き上げた。これじゃ子供のようじゃないか。また情けなくなって、涙がこみ上げてくる。
「隊長」
「うるさいな、寝るんだ私は。出て行け」
「ご友人の件、ご愁傷様です。気を落とさぬように」
返事を待たずに、背後でドアが閉まる音がした。
ご愁傷様。
ああ、クラウシフはやっぱり死んでしまったんだ。
声を殺して泣いていたはずなのに、強行軍続きで疲労していた私の身体は、いつの間にか眠りに落ちていた。
◆
明け方、荒々しくドアを叩かれ意識が浮上する。
サイネルだった。やはり、夜明けとともに出陣した先鋒のヨナス・リャーケントはあっさり敗走しそうな勢いだそうだ。助けに向かった他二隊も怪しい。北軍将軍がさすがにこれ以上の失態はということで、我が隊にお呼びがかかりそうだという。
サイネルが用意してくれたぬるま湯で顔を洗い、腫れた目をどうにかごまかして、髪を結ぶ。
夢も、見なかった。
クラウシフのやつ、きっぱりしてる、夢にも現れなかった。そう思うと、――幾分気持ちがしゃんとした。
支度を整え終え、頬を両手でぱんと叩く。
「どうですか、隊長。いけそうですか」
「実はまだ腹が立ってぐらぐらしているんだが、それをイスマウル兵にぶちあてても誰も文句は言うまい」
「そうですね、大いに喜ばれるでしょうが、くれぐれも冷静に」
「わかっている」
向かい合ったサイネルは、見定めるように私の顔をじっと見つめていたが、ふっと小さくうなずいた。
「さて、行きましょうか」
基地の廊下は伝令などでばたついているが、私の心は昨晩よりずっと落ち着いていた。
ちゃんと睡眠をとったし、これまでの経験で親しい人を送りだすのも慣れているはず。ギフトの影響で、行動に支障がでるような情動も抑えられている。おそらくは。
兵士としての経験から、強制的に意識が戦闘に向いている。集中力を欠いたら死が待っている。
サイネルと並んでくぐったドアの向こう、基地の門前に整列した千名の兵士たちが私の方をぞろりと振り返った。
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