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#81 クラウシフ そして別れのときは来て
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翌日から二日間、ハイリーは昼前にうちにやってきて、夕食前に帰るというのを繰り返した。俺の部屋にきて、必要な書類を揃えたり、手続きを手伝ってくれたのだ。そして、今後の対策を一緒に練ってくれた。
あんなことがあったのだ、相当頭にきているだろうし、この家には来たくないと思っているだろうに、ハイリーは冷静すぎるほど落ち着いた様子で、対応してくれた。昔はすぐに感情が表に出て、それが好ましかったのに。大人になったというか――離れていた時間と距離を意識させられる。
ハイリーと頭を突き合わせてああでもないこうでもない、と議論するのは、短い時間ながら、久々に楽しかった。後ろ向きな話題だとしても。子供のころを思い出した。次はどこまで遠がけに行くか、地図を広げて指でなぞって、道を決めたっけ。
俺が発作でもがいているとき、ハイリーはじっとただそばにいてくれた。声をかけることも、介抱してくれることもないが、別室で待機している医師を呼んでくれた。それで十分だ。そこまでしてくれると勘違いするほど、厚かましくはない。
彼女は俺が落ち着くと、医師の確認を待って淡々と話を再開する。
窓から差し込むやわらかな太陽の光に、ハイリーの滑らかな白い頬が黄色く染まる時、随分昔に憧れた穏やかな生活とか、少しの間だけしか叶えられなかったイェシュカとの楽しい思い出が胸に蘇って、妙に寂しい気持ちになった。もう二度と、こういう日はこない。それがことさら寂しい。
虫のいい話だが、死にたくないと思ってしまった。
もう少しだけでいいから、こういう時間を味わいたいと。できれば子どもたちやアンデルと、そしてハイリーと話したい。
それが無理なことは、重々承知だ。
俺たちが相談を重ねているあいだ、アンデルは一度も目を覚まさなかった。考えられる理由は、無理なギフトの行使で脳に損傷があった、精神的なもの、魔力の使いすぎで消耗しきっている。そのどれか、もしくはすべて。考えても仕方ない。死ぬ前に一度、直接話したかったが、できない可能性も考慮しなければならないだろう。
ハイリーが打ち合わせにきた二日目。彼女の帰宅後、夜半、また発作がやってきた。
全身がこわばって、舌の根がぎゅっと縮む。勝手に筋肉が萎縮したようになって、息ができない。心臓を見えない手で握りしめられて、いたずらに揉まれているような苦痛。
恐ろしいことに、そんな状態だというのに、絶対に、最中には意識がとんだりはしない。いっそ気を失いたいが、いつもより鋭敏に俺の体は苦痛を享受する。余すところなく針を丁寧に丁寧に刺されたような鋭い痛みが、胸から四肢の末端へ向かって広がっていく。
発作は数分続く。終わった後の虚脱感や、激痛が抜けるときの別の痛みで視界が真っ赤に染まり、ようやく息を整えられるのだ。そのときになって意識がとぶ。遅えよ、と悪態をつきたくなる間の悪さだ。
その発作はそれまでとは違った。いつになっても苦痛が抜けない。書きものをするからと、付き添いを買って出てくれたバルデランを下がらせたのは間違いだった。椅子から落ちてしたたかに額を打ち付けるまで、いつもの倍は長い苦痛の時間をひとりで耐えることになった。終わったとき、俺は床に広がった自分の吐瀉物に頭を突っ込んでいた。
そのあと手紙を苦労して書き上げた。指先が痺れて、ろくにペンを持てなかったから、大儀だった。休みたいが、いつまでも抜けきらない痺れや全身の違和感に、いよいよ休んでいる場合ではないと焦ったのだ。おかげで一通書くだけで、夜が明けてしまった。代筆させられればよかったが、使用人に中身を見せられない。
封筒に、厚みを増したそれを押し込んで、宛名を書き、バルデランに託したあと、子どもたちを呼んだ。ケートリーは渋ったが、知るか。連れてこなければ憲兵を遣わすと脅したらようやく顔をだした。
「アンデルの言うことをよく聞くように」と聞かされても、双子は俺が死ぬということがまだぴんとこなかったようだ。だがユージーンは目を真っ赤にしていた。ろくに父親らしいことができなかった俺に、お前たちの大事な母親を殺した俺に、涙を流す必要なんかない。
ユージーンが、俺が頭を撫でようと伸ばした手をかいくぐって体当たりしてきたから、一度だけぎゅっと抱擁して、背中を押してやった。ユージーンは弟たちの手を引いて、ケートリーの屋敷に戻っていった。まだ小さな背中に、健やかに育ってほしい、とだけ祈って、俺は最後の面会を待っていた。
◆
ハイリーは昼過ぎにやってきた。
軍服姿。黒地に青の刺繍が施されたそれは、彼女の鍛えられて美しい身体の線を強調する。生命力を凝縮したようなその姿を見られただけで、少し元気が出た。
「招集がかかった。イスマウル側が山越えを開始した。数日で衝突するだろう。私も基地に戻らなければならない」
「そうか。くれぐれも、道中気をつけてくれ」
「言われるまでもない。あとは手はず通りやるから、お前は安心して死んでいい」
「そんな優しい言葉をもらうと、泣けてくるな」
はっ、と鼻で笑って、そのまま出ていくかと思ったら、ハイリーはどういうわけか俺の隣に突っ立ったままだ。
「覚えているか? アンデルの母上の結婚式で私が言ったこと」
「スカート破ったどうしよう、か?」
「馬鹿者。……悪いやつはみんな私がやっつけてやる、だ」
「むしろお前がそれを覚えていることが驚きだなあ」
噴き出す俺に、ハイリーは真剣な顔のまま告げる。
「お前、間違えたんだよ。私はあのときお前の手をとって一緒に逃げたのに。戦ったってよかった。その結果、死んだとしても悔いることはなかったと思う。
お前がもう少しだけ、私のことを信用してくれたら、……結果は違っていたかもしれない。
……今更言っても仕方ないな」
俺が、求婚の意思を翻した時、先に自分から断っておきながら、泣きそうな顔になったハイリーを今でも覚えている。鮮明に。
お互いに譲り合って、結果がこれだ。しょうもない。あのとき彼女の手を握りしめて、他のすべてをかなぐり捨てて逃げていたら、きっと違った未来があった。イェシュカもビットも死なずに済んだかもしれない。イスマウルの兵士がこちらがわに攻めてくることもなかったし、アンデルだって想い人の体を無理矢理暴くようなことはしなくて済んだ。
眉間に薄くシワを寄せ、ハイリーは静かに嘆息した。
こうして死に際まで誰かを傷つける。俺の手際の悪さは一級品だ。
また傷ついた顔をさせてしまったことを申し訳なく思いながら、そこの誤解だけは解いておくことにした。この機会を逃せば、もう二度と、彼女に言い訳することもできやしないのだから。
「お前たちを信用してなかったんじゃない。俺が間抜けで、守ろうとしても上手くできなかっただけだ」
ハイリーは深いため息をつく。
「ちょっと道を間違えたような口ぶりで言うことか? 親友の心を弄ばれて想い人を襲って、私は随分な目にあっている。本来、お前の言葉なんか信用する義理もないくらいだ」
「それに関しては、本当に、申し訳なかった。すまない。
むしろ、どうしてお前が俺に付き合ってくれるのか、こっちが不思議だよ」
「後見人を引き受けたからな。子どもたちの。そうやってアンデルの助けになることができたら、……罪滅ぼしのつもりだ。
私は、アンデルにはまたちゃんと会えずに出立することになるから、お前からよく言っておくように」
「俺も話す時間があるかどうか」
「あちらに着いたら、ヨルク・メイズのことを出迎えてやれ。きっとイェシュカとは会えないだろうからな、お前も、私も」
皮肉めいた笑みを浮かべ、ハイリーは肩をすくめた。
死者のうち、善行を積んだものは苦痛のない楽園へ、悪行を積み重ねたものはその汚れを落とすまで苦行を強いられる魔界へ誘われる、というのがチュリカ式の考え方で、プーリッサでもそれを信じている人は多い。
ハイリーがそうだとは思ってなかったが。いや、この顔を見ると信じているというよりかは、ただの嫌味だな。
「俺はともかく、お前はイェシュカ側にいけるよ」
「そんなわけないだろう。これからもたくさん殺すのに。しかも今度は人だぞ」
「んなこと言ったら、開国前の戦乱時代の人間は全員魔界行きに……っ」
ぴり、と指先がしびれた。背筋が緊張した刹那、胸に強烈な圧迫感。舌がこわばる。勝手に背筋が弓形になって、身体の自由が奪われる。
声も出せない。喉からひゅうひゅうと呼吸音が漏れているのだけがよく聞こえる。視界がどんどん赤く染まっていくのが怖い。
――ああ、ついに。
納得しつつ、後悔が湧き上がってくる。
まだ、バルデランには感謝の言葉も告げてないし、アンデルには肝心なことひとつ伝えられてない。イェシュカの墓に花を供えに行きたかったのにそれもできてない。
ヨルク・メイズのクソッタレには絶対、一矢報いたかったのに。
――そして、ハイリーに礼を言えてない。
そばにいるのに、声が届く場所にいるのに、言葉が出ない。もどかしさと苦しさで俺はもがく。
せめて彼女に、別れの挨拶をしたかった。こんなしょうもない男の頼みをたくさん聞いてくれた、ぶっきらぼうだが優しい幼馴染は、たぶん死後は楽園行きだ。だからこれが、本当に最後の会話になる。別れの抱擁をなんて贅沢は言わないから、ひとこと、ありがとうと言いたい。
だが、最後の最後まで、俺はなにもできずに終わるらしい。
開けっ放しの口を閉じることもできず、それをどこか客観的に見ながら、諦念に身を任せることにした。
「いつか私も死ぬ。今度はお前と一緒に悪いやつをやっつけてやる。だから安心して待ってろ」
なに言ってるんだよ、と笑い飛ばしてやりたかったが、身体の自由がきかなかった。
硬直した俺の手に、温かいなにかが触れる。ハイリーの手だ。
にっと唇の端をあげ、不敵に微笑んだハイリーの顔が目の前にあった。剣の試合で、俺から一本とったときの顔だ。目を伏せ、優しい口づけを額にくれた。餞別の品は温かかった、……気がする。
――よせよ、そういうのはアンデルにくれてやってくれ。これ以上あいつに恨まれたくないんだ。
間近で顔を覗き込んでくるハイリーが、微笑むイェシュカに見えて。
確かめる間もなく視界が完全に赤一色になり、端から白くなっていった。
あらゆる感覚が曖昧になる。誰か、――たぶんイェシュカが手を握ってくれている感覚が、最後まで残っていた。
俺は息を吐いた。
心から安堵して。
あんなことがあったのだ、相当頭にきているだろうし、この家には来たくないと思っているだろうに、ハイリーは冷静すぎるほど落ち着いた様子で、対応してくれた。昔はすぐに感情が表に出て、それが好ましかったのに。大人になったというか――離れていた時間と距離を意識させられる。
ハイリーと頭を突き合わせてああでもないこうでもない、と議論するのは、短い時間ながら、久々に楽しかった。後ろ向きな話題だとしても。子供のころを思い出した。次はどこまで遠がけに行くか、地図を広げて指でなぞって、道を決めたっけ。
俺が発作でもがいているとき、ハイリーはじっとただそばにいてくれた。声をかけることも、介抱してくれることもないが、別室で待機している医師を呼んでくれた。それで十分だ。そこまでしてくれると勘違いするほど、厚かましくはない。
彼女は俺が落ち着くと、医師の確認を待って淡々と話を再開する。
窓から差し込むやわらかな太陽の光に、ハイリーの滑らかな白い頬が黄色く染まる時、随分昔に憧れた穏やかな生活とか、少しの間だけしか叶えられなかったイェシュカとの楽しい思い出が胸に蘇って、妙に寂しい気持ちになった。もう二度と、こういう日はこない。それがことさら寂しい。
虫のいい話だが、死にたくないと思ってしまった。
もう少しだけでいいから、こういう時間を味わいたいと。できれば子どもたちやアンデルと、そしてハイリーと話したい。
それが無理なことは、重々承知だ。
俺たちが相談を重ねているあいだ、アンデルは一度も目を覚まさなかった。考えられる理由は、無理なギフトの行使で脳に損傷があった、精神的なもの、魔力の使いすぎで消耗しきっている。そのどれか、もしくはすべて。考えても仕方ない。死ぬ前に一度、直接話したかったが、できない可能性も考慮しなければならないだろう。
ハイリーが打ち合わせにきた二日目。彼女の帰宅後、夜半、また発作がやってきた。
全身がこわばって、舌の根がぎゅっと縮む。勝手に筋肉が萎縮したようになって、息ができない。心臓を見えない手で握りしめられて、いたずらに揉まれているような苦痛。
恐ろしいことに、そんな状態だというのに、絶対に、最中には意識がとんだりはしない。いっそ気を失いたいが、いつもより鋭敏に俺の体は苦痛を享受する。余すところなく針を丁寧に丁寧に刺されたような鋭い痛みが、胸から四肢の末端へ向かって広がっていく。
発作は数分続く。終わった後の虚脱感や、激痛が抜けるときの別の痛みで視界が真っ赤に染まり、ようやく息を整えられるのだ。そのときになって意識がとぶ。遅えよ、と悪態をつきたくなる間の悪さだ。
その発作はそれまでとは違った。いつになっても苦痛が抜けない。書きものをするからと、付き添いを買って出てくれたバルデランを下がらせたのは間違いだった。椅子から落ちてしたたかに額を打ち付けるまで、いつもの倍は長い苦痛の時間をひとりで耐えることになった。終わったとき、俺は床に広がった自分の吐瀉物に頭を突っ込んでいた。
そのあと手紙を苦労して書き上げた。指先が痺れて、ろくにペンを持てなかったから、大儀だった。休みたいが、いつまでも抜けきらない痺れや全身の違和感に、いよいよ休んでいる場合ではないと焦ったのだ。おかげで一通書くだけで、夜が明けてしまった。代筆させられればよかったが、使用人に中身を見せられない。
封筒に、厚みを増したそれを押し込んで、宛名を書き、バルデランに託したあと、子どもたちを呼んだ。ケートリーは渋ったが、知るか。連れてこなければ憲兵を遣わすと脅したらようやく顔をだした。
「アンデルの言うことをよく聞くように」と聞かされても、双子は俺が死ぬということがまだぴんとこなかったようだ。だがユージーンは目を真っ赤にしていた。ろくに父親らしいことができなかった俺に、お前たちの大事な母親を殺した俺に、涙を流す必要なんかない。
ユージーンが、俺が頭を撫でようと伸ばした手をかいくぐって体当たりしてきたから、一度だけぎゅっと抱擁して、背中を押してやった。ユージーンは弟たちの手を引いて、ケートリーの屋敷に戻っていった。まだ小さな背中に、健やかに育ってほしい、とだけ祈って、俺は最後の面会を待っていた。
◆
ハイリーは昼過ぎにやってきた。
軍服姿。黒地に青の刺繍が施されたそれは、彼女の鍛えられて美しい身体の線を強調する。生命力を凝縮したようなその姿を見られただけで、少し元気が出た。
「招集がかかった。イスマウル側が山越えを開始した。数日で衝突するだろう。私も基地に戻らなければならない」
「そうか。くれぐれも、道中気をつけてくれ」
「言われるまでもない。あとは手はず通りやるから、お前は安心して死んでいい」
「そんな優しい言葉をもらうと、泣けてくるな」
はっ、と鼻で笑って、そのまま出ていくかと思ったら、ハイリーはどういうわけか俺の隣に突っ立ったままだ。
「覚えているか? アンデルの母上の結婚式で私が言ったこと」
「スカート破ったどうしよう、か?」
「馬鹿者。……悪いやつはみんな私がやっつけてやる、だ」
「むしろお前がそれを覚えていることが驚きだなあ」
噴き出す俺に、ハイリーは真剣な顔のまま告げる。
「お前、間違えたんだよ。私はあのときお前の手をとって一緒に逃げたのに。戦ったってよかった。その結果、死んだとしても悔いることはなかったと思う。
お前がもう少しだけ、私のことを信用してくれたら、……結果は違っていたかもしれない。
……今更言っても仕方ないな」
俺が、求婚の意思を翻した時、先に自分から断っておきながら、泣きそうな顔になったハイリーを今でも覚えている。鮮明に。
お互いに譲り合って、結果がこれだ。しょうもない。あのとき彼女の手を握りしめて、他のすべてをかなぐり捨てて逃げていたら、きっと違った未来があった。イェシュカもビットも死なずに済んだかもしれない。イスマウルの兵士がこちらがわに攻めてくることもなかったし、アンデルだって想い人の体を無理矢理暴くようなことはしなくて済んだ。
眉間に薄くシワを寄せ、ハイリーは静かに嘆息した。
こうして死に際まで誰かを傷つける。俺の手際の悪さは一級品だ。
また傷ついた顔をさせてしまったことを申し訳なく思いながら、そこの誤解だけは解いておくことにした。この機会を逃せば、もう二度と、彼女に言い訳することもできやしないのだから。
「お前たちを信用してなかったんじゃない。俺が間抜けで、守ろうとしても上手くできなかっただけだ」
ハイリーは深いため息をつく。
「ちょっと道を間違えたような口ぶりで言うことか? 親友の心を弄ばれて想い人を襲って、私は随分な目にあっている。本来、お前の言葉なんか信用する義理もないくらいだ」
「それに関しては、本当に、申し訳なかった。すまない。
むしろ、どうしてお前が俺に付き合ってくれるのか、こっちが不思議だよ」
「後見人を引き受けたからな。子どもたちの。そうやってアンデルの助けになることができたら、……罪滅ぼしのつもりだ。
私は、アンデルにはまたちゃんと会えずに出立することになるから、お前からよく言っておくように」
「俺も話す時間があるかどうか」
「あちらに着いたら、ヨルク・メイズのことを出迎えてやれ。きっとイェシュカとは会えないだろうからな、お前も、私も」
皮肉めいた笑みを浮かべ、ハイリーは肩をすくめた。
死者のうち、善行を積んだものは苦痛のない楽園へ、悪行を積み重ねたものはその汚れを落とすまで苦行を強いられる魔界へ誘われる、というのがチュリカ式の考え方で、プーリッサでもそれを信じている人は多い。
ハイリーがそうだとは思ってなかったが。いや、この顔を見ると信じているというよりかは、ただの嫌味だな。
「俺はともかく、お前はイェシュカ側にいけるよ」
「そんなわけないだろう。これからもたくさん殺すのに。しかも今度は人だぞ」
「んなこと言ったら、開国前の戦乱時代の人間は全員魔界行きに……っ」
ぴり、と指先がしびれた。背筋が緊張した刹那、胸に強烈な圧迫感。舌がこわばる。勝手に背筋が弓形になって、身体の自由が奪われる。
声も出せない。喉からひゅうひゅうと呼吸音が漏れているのだけがよく聞こえる。視界がどんどん赤く染まっていくのが怖い。
――ああ、ついに。
納得しつつ、後悔が湧き上がってくる。
まだ、バルデランには感謝の言葉も告げてないし、アンデルには肝心なことひとつ伝えられてない。イェシュカの墓に花を供えに行きたかったのにそれもできてない。
ヨルク・メイズのクソッタレには絶対、一矢報いたかったのに。
――そして、ハイリーに礼を言えてない。
そばにいるのに、声が届く場所にいるのに、言葉が出ない。もどかしさと苦しさで俺はもがく。
せめて彼女に、別れの挨拶をしたかった。こんなしょうもない男の頼みをたくさん聞いてくれた、ぶっきらぼうだが優しい幼馴染は、たぶん死後は楽園行きだ。だからこれが、本当に最後の会話になる。別れの抱擁をなんて贅沢は言わないから、ひとこと、ありがとうと言いたい。
だが、最後の最後まで、俺はなにもできずに終わるらしい。
開けっ放しの口を閉じることもできず、それをどこか客観的に見ながら、諦念に身を任せることにした。
「いつか私も死ぬ。今度はお前と一緒に悪いやつをやっつけてやる。だから安心して待ってろ」
なに言ってるんだよ、と笑い飛ばしてやりたかったが、身体の自由がきかなかった。
硬直した俺の手に、温かいなにかが触れる。ハイリーの手だ。
にっと唇の端をあげ、不敵に微笑んだハイリーの顔が目の前にあった。剣の試合で、俺から一本とったときの顔だ。目を伏せ、優しい口づけを額にくれた。餞別の品は温かかった、……気がする。
――よせよ、そういうのはアンデルにくれてやってくれ。これ以上あいつに恨まれたくないんだ。
間近で顔を覗き込んでくるハイリーが、微笑むイェシュカに見えて。
確かめる間もなく視界が完全に赤一色になり、端から白くなっていった。
あらゆる感覚が曖昧になる。誰か、――たぶんイェシュカが手を握ってくれている感覚が、最後まで残っていた。
俺は息を吐いた。
心から安堵して。
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