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番外編 初春

ユア・ハンズ・オン・マイン 1

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この章は動物実験的な内容を含みます。
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 対象を確認できたのは、一時間前。
 端末の地図上でその位置をチェックし、私は隣の副嶋そえじまさんと頷きあった。
 真っ直ぐな髪に櫛目を入れた、ひょろり長身の彼は、端末をかばんに仕舞いながら問うた。

「ところで、捕獲後、対象はどうなるんですか」

 捕獲依頼が港区の研究施設から届けられているのは、三歳のオスのシェパード犬、オパール号。写真で見ると賢そうな横顔をしており、三角の耳の付け根付近に、鈍色の外部装置を付けている。そこにコネクタを接続し、彼の脳内のインプラントにアクセスする仕様だ。

 この施設から延びる地下道を通り、区内地下施設に消えたその犬は、逃走時、一人の研究員に怪我をさせた。
 早急な捕獲を目指して研究員や所轄の警察官たちが彼を追いかけたが、複雑に広がる地下空間で犬一匹を探し出すのは容易ではなく、私が所属する分析係に声がかかったのだった。民間人に被害が出る前に捕獲せよ、と。それにお国から金が降りている研究対象を、餓死させるなと。

 そのオパール号に噛まれ、全治三週間の咬傷を負った研究員の梶本かじもとは、包帯の巻かれた腕をさすって言った。

「昔と違って、今は殺処分なんて簡単にはできませんからね。人を怪我させても。またラボに戻るだけですよ」

 ちょっとその処分を期待していたような口ぶりで、彼は肩をすくめた。薄めの頭髪が空調のかすかな風でふよふよ揺れる。

 私は、ちらっと副嶋さんの様子を見た。無表情だ。安堵する。
 私が副嶋さんと組んで、三ヶ月になる。秋異動で分署から分析係にやって来たこの人は、現在二十七歳。
 そのキツネ顔の後輩が、実は相当な愛犬家で、この件に入れ込んでいることを、私は知っている。
 そして、涼しい顔をしているように見えて、彼がかなりの激情家であることも熟知している。彼の短慮で頭を下げたことも二度ほどあるので。

 だから、梶本の言葉にどきどきした。この人を怒らせないでくださいよ、と心中でお願いする。
 そうでなくとも、副嶋さんが滔々と垂れ流すこの研究施設に対するぼやきを聞くのは辛い。その話題にストップかける役も、謹んで辞退したいところなのだ。

× × × × ×

 私は梶本の元を辞去し、副嶋さんとともに、捕獲班との待ち合わせ場所である芝署に向かった。
 芝署へは、この施設から、バス、もしくはちょっとかかるが徒歩でも行ける。途中で昼食を摂れば頭をクールダウンできる。時間もまだあるので、徒歩にしようと決め、私はてくてくアスファルトの上を歩いた。

 午前中の日射しは暖かい。今日は一月にもかかわらず、三月の平均気温まで上昇するという。コートの前を開けた。早速汗を掻きそう。
 振り返ると、天を衝くように伸びる白い外壁のビルがある。装飾が削ぎ落とされ、クリーンかつ冷たい印象を与える外観だ。この中に、たくさんの研究員と、その数を越す動物が収容されている。
 視線を下げれば、顔を歪めた副嶋さんが、ビルを忌々しげに睨んでいた。

「あり得ないです、こんな、こんな」

 あーあ、始まった。始まってしまった……。
 副嶋さんは、私が三歩で進む距離を二歩で詰めて横に並んだ。

「病気でもないのに動物の体にメスをいれて、あまつさえ意図的に病気にさせてその数値を計測するんですよ。あり得ない」

 言いたいことはわかるが、訴える先を間違えている。

「主任はなんとも思わないんですか」

 細い目が、上から私を見下ろして非難してくる。私はそれを受け止め、小さくため息をついた。

「副嶋さん、それを言及するのは、今すべきことではありませんよ」

 むっつり、副嶋さんは黙り込んでしまった。
 もう一つため息をついて、私は歩き続ける。

 彼の気持ちがわからないわけじゃない。私だって、初めて訪れたときは、ビル内の動物の処遇に衝撃を受けた。
 あそこで行われている研究の目玉に、動物のASSIS拡張手術と、同じく動物の無線でのネット接続手術がある。
 施設は設立目的を、その研究成果を人体でのそれの発展に寄与することとしている。副次的ではあるが、訓練された動物と、電気信号で意思疎通する技術の開発も視野に入れているとも聞く。
 動物と会話できるなんて、まるで夢のよう。

 しかし見学したラボでは、人体でも負荷があるとされる前者の手術を受け、ストレス値の急速な上昇に参って精神的に錯乱した動物たちが、少なくない数飼育されていた。お金もかかっているので、そうそう廃棄はできないのだと。かわりにその数値の変化、投薬のコントロールで得た情報が、他の研究の役に立つと。もっとスマートで穏便な文句で梶本に説明された。

 暗い気持ちになった。
 それでも、切り替えて対応しなければならないのは、百も承知である。

「主任は、動物飼ったことありますか」

 副嶋さんはアプローチの仕方を変えたらしい。

「昔、実家で猫を飼ってましたよ、母が。私には全然懐きませんでしたが、それなりに可愛がってました」
「今は?」
「なにも」

 虎を一頭、見た目怖いけど懐くとなかなか可愛いですよ。などとしょうもないジョークが浮かんで口にする前に消えた。本人に言ったら嫌な顔されるに違いない。
 もう半月以上会っていない人の姿が脳裏に浮かび、違う意味でため息をつきたくなった。

「だったら……」
「副嶋さん、お昼にしましょう。そこのレストラン、ハンバーグが安くて美味しいですよ」

 有無を言わせず入店すると、副嶋さんは憮然とした顔のまま着いてきて、四人がけの席の私の正面に腰を降ろした。注文して、サラダバーに料理を取りに行くころには、少し気が紛れたのか、表情が明るくなっていた。
 ほっとし、指導する相手の顔色を伺っていることに気付いて、かぶりを振った。……人を指導するのって、私には無理かもしれないな。

 ぐったりした気持ちで、端末を確認した。新着メッセージは一件、久慈山さんからだった。秋口に第一子を無事出産した彼女は、今は仕事を休んでいる。息子さんと旦那さんとのスリーショット写真が添付されていた。

 先日、氣虎さんと彼女の自宅に赴き、お祝いの品を届けてきた。久慈山さんは体調もいいみたいで、安心した。息子さんも健康そのものだとか。
 あの氣虎さんが、でっかい体を屈めて、ベッドで眠る赤ちゃんを見つめている姿は、おっかなびっくりで、傍から見てて微笑ましかったっけ。兄弟もいないし、年の近い親戚もいなかったという彼は、嬰児に接するのは初めてだったらしい。子供は得意じゃないと言いつつも、帰宅後はぼんやり物思いに耽っていた。あれは、私と同じく癒やされてしまった口だな。

 思い出すと、ささくれ立っていた気持ちが少しだけ均された気がする。
 
× × × × × 
 
 しかし、到着した芝署で、ちょっとだけ上昇した気分はまた下降の一途を辿った。

 張り切り動きやすい格好に着替えた木下さんが、オパール号捕獲のために割いてもらった他の人員とともに、駐車場にやってきたのだ。さっきの説明会で彼がいたような気がしたのは、目の錯覚じゃなかったのか。

「よっ、三小田。相変わらず湿気たツラしてるね。今日はよろしく」
「辛気臭い顔ですみません、よろしくおねがいします。ところで木下さん、一課はこの件の担当ではないですよね。なんで捕獲作戦に参加を」
「成り行きだな。本当は今日休みだったんだけど、夜中に引っ張り出されて明け方まで仕事してたから、どうせなら参加しておこうと思って。面白そうだし」

 運転を若手の男性制服警官に任せ、助手席に木下さんが着席した。
 私と副嶋さんは後部座席に乗り込む。副嶋さんが長い脚を鶴みたいに折りたたんで、奥に座った。窮屈そう。身長だけなら氣虎さんを凌ぐので、日常生活で不便もあるだろう。

「三小田、懐かしいだろこの席順」

 木下さんの言わんとしていることを察した。おそらく、野田さんと三人で挑んだ、自動運転システムのウイルスによる乗っ取り事件のことだと思う。

「あはは、思い出したくないですね」

 乾いた笑いが出てしまう。
 あの翌朝、ニュースで事件が取り上げられていた。それでつい、木下さんのことを称賛するために『はじめは私が乗り込むつもりだったんですが、木下さんが代わりを買って出てくれて』なんて言ってしまったから、さあ大変。インフルエンザで真っ赤な顔した氣虎さんに、リビングで正座で詰め寄られ、自分で乗り込もうなんて無謀過ぎだと小一時間説教されるという大惨事が待っていたのだ。出勤前にそれだ。思い出しても口がへの字になる。

「なんだよ、いい思い出だろ」
「いや、あんまり……」

 彼はあれで表彰されたしな。
 目を瞬かせている副嶋さんに対して、私は簡潔に説明した。

「以前、何度か一緒に捜査をしたんです」

 かいつまみ過ぎたかな。詳細は振り返りたくないので、許してください。
 はあそうですか、と頷いた副嶋さんに向かって、木下さんが体を捻った。

「今回もちゃんと世話してやるから、安心していいよ。ええと……」
「副嶋です」
「よろしくな。二人とも、夜空いてる? せっかくだから、後輩も連れて飲み行こうぜ」
「いえ、空いてません。お誘いは嬉しいのですが」

 相変わらずノリが悪いなお前、と木下さんがせせら笑った。なんとでもおっしゃってくださいませ。
 つっけんどんに応える私が珍しいのか、木下さんがやたら距離が近いのに慣れないのか、副嶋さんは怪訝な顔をしている。

「それで、オレたちはどうすればいいんだっけ」
「さっき、会議室で事前の説明させていただきましたよね。共有にも、詳細を上げてますが」

 じとっと私が半眼になると、木下さんは肩をすくめた。この人、この仕草が板についてるんだよなあ。

「飛び入り参加だからよくわかってない」

 はあ、と嘆息して、私は説明をはじめた。

「今回は、地下施設のいくつかのポイントに、捕獲用の罠を仕掛けています。そこに対象を追い込むわけです。オパール号は、試験的に乗せられた無線でのネット接続器官で、定期的にオンラインの地図にアクセスしているのがわかってます」

 地下施設は人でも迷う広大さ複雑さを備えている。地上から延びる交通機関や商業施設の地下設備、都民の非常時のシェルター、それからさらに深い部分ではコンビナートの計画に沿って掘削と建築が進められている。
 そのフィールドで犬が定期的に観測されている。
 観測と言っても、目視ではなく、彼のアクセスを確認できるのだ、研究施設の方で。
 地下深くや未整備の部分では電波が届かないが、条件が整っている場所に出ると彼は自動的にオンライン状態になる。
 その際は必ず、研究施設を経由する仕様なのだ。

 そしてアクセス先が、この地下施設の地図であることもわかっていた。おそらくは拡張された彼の無意識が、自身の置かれている状況に必要な情報を検索しているのだろう。
 捕獲計画は、物理的な罠に追い込むために、オパール号のその性質を利用して、偽の地図情報を噛ませるという段取りになっている。
 三時間ほど前にアクセスが確認できたので、ミスがなければあと数時間のうちに、オパール号がポイント周辺に現れるはずなのだ。

「なるほど、つまりオレたちは待ち伏せして、現れたわんこをとっ捕まえるわけね」
「そうです。ご協力よろしくお願いいたします」

 副嶋さんが何か言いたげな雰囲気だったが、きっとまたオパール号の処遇についてだろうから、あえて話は振らなかった。

「その地図情報っての、誰が用意したの」
「それは、自分と主任が」

 副嶋さんが軽く挙手すると、木下さんは大げさに顔をしかめてみせた。

「三小田、お前の作ったもの、信用していいんだよな」

 よくある木下さん流の冗談というか、親しみの表現らしいので、私は気にもとめず眉を上げて受け流した。
 反応したのは、副嶋さんだ。

「主任が、ほぼ徹夜で仕上げてくださったんです。大丈夫です」

 副嶋さんは胸を張って言うが、彼と比べると私の方がミスが少ないというだけのことである。彼は作業は速いが、どうにも取りこぼしが多い。落ち着いて、と何度言ったことか。
 とくに、長時間作業になって集中力が欠けてくると、ミスを連発する。パフォーマンスが下降し始めるのが、目視で確認できる気がするほどに。

 対して、拡張手術を受けていない私は、他の人より作業時間が長くなる傾向がある。
 ただ、統計を裏付けるように、長時間になればなるほど後者との作業効率の差は縮まっていくみたい。
 徹夜での作業ともなれば、顕著だった。その条件自体、推奨できたものじゃないが。

「えらく信用されてんな、三小田。てか、徹夜って、むしろ心配になるな、大丈夫なの」
「ご心配いただかなくても、長時間作業は慣れっこなので大丈夫ですよ。疲れはしますが」
「いや、そっちじゃなくて、心配なのは作ったものの精度の方ね」

 私は、苦笑した。

「上司にも確認してもらってますから、基準はクリアしてますよ。ご安心ください」

 昨晩の無理がずっしり、肩から背中から圧迫している気がした。氣虎さんに筋肉を解してほしい。彼の方もずっと泊まり込みで仕事をしているので、酷な要求かな。

 副嶋さんは渋い顔で、木下さんの後ろ頭を見つめている。あんまり深く考えなくていいよと心中で忠告して、私はシートに背中を預けた。もうすぐ、目的地周辺である。
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