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第三章 中秋

That’s that 後

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 夜風が冷たい。これにかこつけて隣の人に抱きつきたいくらいには寒い。顔見知りがいるはずもないし、くっついてもいいだろうか。
 そんな邪なことを考えながら神前さんと並んで夜道を歩く。
 時間もまだ早く、これからお茶するために私のマンションに向かっている。
 今回の事件の慰労会を口実に、ちょっと奮発してお寿司屋さんに行った帰り道だ。参加者は私達だけ。
 美味しかったなーと、先程まで舌鼓をうっていたお寿司の味を思い出して幸せな気持ちになる。

 それで急に思い出した。藤原のことだ。

「神前さん、イツシマケミカルの藤原さんから、伝言がありましたよ。濡れ衣が晴らせそう、ありがとうございますって。なんでも協力したいって言ってくれたらしいですよ」

 言いながら、彼の手に指を絡めた。彼の手は暖かかった。ゆるく握り返してくれる。

「あっそ。別に彼女のためにしたわけじゃねえし」

 そんなこと言われたら、また顔が緩んでしまう。

「で。それをお前は誰から聞いたんだ? イツシマケミカルに顔出したのか?」

 しまった。木下さんのこと、伏せてたのに。これじゃ説明せざるを得ない。
 やましいことはないはずなのに、なぜかとても後ろめたい。多分、相手が木下さんだから。
 口ごもっていると、神前さんが小さくため息をついた。

「木下からだろ。お前らが昼に連れ立ってどっか行くの見たぞ。エントランスのとこで」
「あの、公園でサンドイッチ食べながら話しただけですから。なんかよくわからない買収をかけられたんですけど、それはお断りしました」
「別になにも疑ってねえけど。というか、買収ってなんだよ」
「今後、色々仕事上で便宜を図ってほしいというような内容でした。二人で協力して事件を解決しようぜ、という……」
「アホくさ」

 鼻で笑われた。
 微妙な沈黙が降りて、私たちはろくに口もきかぬまま、マンションに到着した。

 彼を居室に促し、私はお茶とお茶菓子の用意をした。
 お茶菓子は、今日、久慈山さんに頂いた、彼女の旦那さんの新作のマフィンだ。栗と抹茶の二種で、箱でもらってしまった。一日中ずっと食べたかったのを我慢しきった私は偉い。
 それをお皿に乗せ、お茶のセットともにテーブルに運んだ。

 上着を脱いで楽な姿勢でソファに座っていた神前さんは、お茶をすすると、マフィンを口に放り込んだ。
 すぐに二個とも食べ終わった彼は、端末を操作し始めた。

 野球の結果でも見ているのかと思っていたのだが、どうも視線を感じる。
 気になってしまい、抹茶のやつを三分の二食べたあたりで、私は手を止めた。

「どうかしました?」
「いや。食えよ」
「いやいや、なにか言いたいことあるんですよね? なんですか」

 しばらく私を見つめていた彼は、やおら手を伸ばし私の頬に触れると、キスをした。軽く音をたて、唇同士をくっつけるとすぐに離れる。

 これがしたくて、じっと待っていたのだろうか。そう思うとかなり微笑ましいのだが。
 時々このでっかい人がたまらなく可愛く見えるのは、やはりフィルター効果だろうなあ。

 肩を掴んで引き寄せられ、抱きしめられた。冬場にお風呂に入ったときみたいな、リラックスした深い息とともに、肩口に顔を埋められる。これは私もぬくい。
 甘えられてるのかなと思い、広い背に手をまわして撫でる。

「会議のときに、野田さんに言われた、カミさん寝取った相手に情けをかけるかってやつ。あのときは何言ってるんだこいつって思ったが、今日、木下に連れられて歩いて行くお前を見たとき、意味がわかった。お前のこと信用してるが、もしそんなことあったら、本当に木下の首の骨折るかもしれねえ」

 ぶわっと自分の中でいけない喜びが生まれるのを感じた。嫉妬されて嬉しいなんて。

「そんな物騒なこと言わないでください。それに、もしそうなったら先にけじめつけますよ、私」
「おい。そこは、絶対にしないって言う場面だろ。適正な手続き聞いてるんじゃねえよ、ドライなこと言いやがって」
「あなたは意外とウェットですよね。ぐあああ、ギブアップギブアップ!」

 鯖折りにされそうになり、私は死にものぐるいでもがいた。解放されるころには、息が上がってしまっていた。
 彼が仏頂面でお茶のおかわりを淹れてくれたので、私は途中だったマフィンをまた食べ始めた。

 端末でニュースを確認すると、郡司美嘉の逮捕が報道されていた。
 複雑な三角関係、美人営業の悲劇というような下世話な見出しが嫌で、別の番組に変える。

 榎沢がどういう気持ちで郡司美嘉のことを庇ったのか、直接話をする立場にない私は、聞いた話をつなぎ合わせて推測するしかない。詳しくは今後の取り調べや、裁判ではっきりするのだろうか。
 彼女は、仕事では頼られ成績も良かったようだが、女性のコミュニティからは浮いてしまっていたらしい。理由はいくつかあるようだが、浮いた話が常にあった彼女は、それが事実かどうかはともかく、顰蹙を買いやすかったようだ。
 もともと社交的で、男女別け隔てなく接する性格が仇となったのか、社内で関係を囁かれた男性も複数いた。
 面倒見のよい性格だったのも裏目に出たようだ。
 彼女が仕事で男性をフォローすると関係を噂され、女性をフォローすると鬱陶しがられ、場合によっては見下していると悪く取られた。
 本人がどういうつもりだったかはわからないが、たとえ善意でもそうはとられないこともある。

 二度ほど、彼女のロッカーが荒らされたのだが、そのときはロッカーの扉部分に彼女と男性が並んで歩いている写真や、親しげに話している写真が貼り付けられていたそうだ。器物損壊や窃盗はなかったので、いたずらとして社内で処理し、抑止のために防犯カメラを設置した。
 だがそもそも、女子更衣室に入室するにも、社員IDでパスして解錠しなければならず、男性職員にはその権限がない。となると、女性職員もしくは清掃員がそれをしたことになるのだが――そのくらいにはやっかまれていたようだった。

 そんな彼女と、公私共に仲良くしていたのは、後輩として入社した郡司美嘉だった。
 郡司美嘉は仕事で世話になったり、郡司洋貴との仲立ちをしてくれた榎沢を慕い、周囲の評判に構わず付き合いを続けていた。

 郡司美嘉と郡司洋貴は、仲のいい夫婦だった。
 それが変質したのは、おそらく榎沢が郡司洋貴の不正を知った時期だろう。
 郡司洋貴と榎沢が、郡司美嘉を除いて二人で会う場面が度々目撃され、二人の関係が噂されるようになった。

 はじめは、郡司美嘉も気にしないでいたのだろうが、何度も人から同じ話をされれば、不安にもなる。
 榎沢は、したたかな女性だ。周りから邪険にされようとも、阿ることなく変わらぬ態度でやってきた。だが、その内面にはやはり孤独もあったはず。

 私は手の中のカップに息を吹きかけてから口を開いた。

「榎沢にとっての郡司美嘉は、私達が思っているよりもずっと大きな存在だったのかもしれないですね。隠蔽工作と取られれば、罪に問われる可能性もあったのに、それも顧みずに庇うなんて。並大抵の義理や情ではできません」
「かっとなってやったときに、いちいち刑罰のこと考えねえぞ。それと一緒でそこまで考えてなかったかもしれないだろ」
「もう。どっちがドライですか」
「否定してるわけじゃない。俺にだって榎沢の気持ちはわかる。きついときに手を差し伸べられたら、縋りたくなるし、逆に何かあったときは助けたいと思う。そういうもんじゃねえのか。程度の差はあるだろうが」

 神前さんは、首のうしろを手で撫で目を伏せた。

「うん。そうですね。私にも、それはわかりますよ」
「俺はお前に救われたと思っている」

 彼は私の視線に気付いているはずなのにこちらを見ようとしなかった。照れているのか、それとも何か別のことを考えているのか。

「……まさか刷り込みで、私のことを好きかもって勘違いしちゃったんですか、神前さん。ぎゃっ」

 鼻をつままれた。こういうボディタッチは求めてないんだけどな。

「やめてくださいよー。冗談ですよ、冗談」
「人が真面目な話をしているときに、茶化すのやめろ、ほんと腹立つ。感謝と恋愛感情の区別くらいつくわ。つーか鳥類と同じ扱いすんなよ」

 彼は渋い顔をしてぼそぼそ早口で言った。

「お互い、辛いときに出会ってこうして一緒にいるんだ、ドラマチックだろうが」

 私が、ぷーっと吹き出すと、彼は本気で怒った顔をして私の頭を掴んだ。アイアンクローだ。

「痛い痛い! ごめんなさい、だってまさか、ど、ドラマチックって言葉が神前さんの口から出るとは思わなくて、今年一番のツボというか、いたたたやめてー頭割れちゃう」
「うっせーな。他に言葉を思いつかなかったんだよ、笑うな」

 すねてしまったらしい。
 そっぽを向いてしまった彼の手に指を絡めると、しばらく無視されたが、やがて握り返してきた。

「私だって、別に神前さんに命を助けられたからって理由だけで、こうしているわけじゃないですよ」

 一緒にいて馬鹿な話をしたり、些細なことも楽しかったり、穏やかになれたり。
 気を揉むこともあるけど、それも嫌じゃない。
 ドキドキしたあとは、ああ、恋愛って楽しかったんだよなあとくすぐったい気持ちになる。
 付き合いが浅くて今が一番楽しい時期だからってこともあるかもしれない。それでもいいじゃないか。
 そもそも、命を助けられる前に、彼への気持ちは自覚していたし。

 私は、彼の手を握り直した。

「お昼の件、ですけど。改めて言います、絶対に大丈夫ですよ。木下さんのことはまず、お互い興味の対象外ですし。それに、ドラマチックな私たちには問題ないんじゃないですか、そんな瑣末事」

 ドラマチックという言葉を強調すると、さっとまた手を鈎の形に構えられたので、私は身を躱した。
 アイアンクローは回避したい。ツボに当って気持ちいいのは一瞬だけで後は痛いのを学んだから。

「お前、覚えてろよ」

 地を這うような低い声。怖い怖い、うっかり泣いちゃいそう。

「なかなか忘れられないと思いますよ、そのくらい衝撃ですもん、ドラマチ、ごめんなさい嘘です、嘘、嘘」

 私はすぐにまたアイアンクローを食らう羽目になった。つくづく、口は災いの元だ。自業自得だけど。
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