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第三章 中秋
Meet up again
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午後一、私達は榎沢の勤めるイツシマケミカルの本社へ赴いた。
虎ノ門駅が最寄りの高層ビル、その七階のワンフロアまるまるを借り上げており、本社の社員数は百人ほど。
この立地でこの規模のオフィスを構えられるのだから、体力のある会社なのだろう。創業から百年、ますます版図を拡大しているという。
視線は遮り光は通して明るい印象を与える、半透明で乳白色のアクリルの壁と、ブルーを基調にしたインテリア。近代的な印象のそこは、私たちが詰めているオフィスとは雰囲気が違う。
すれ違う社員たちも、隙がない。ぴしっとしている。
私達は、砂押さんが昨日イツシマケミカルに依頼していた、会社への入出記録を受け取った。それから、被害者の社内の連絡ツールのログと、面談等の記録を得た。
続いて、ビル管理会社から、ビルの入出記録やトラブルなどの記録を提出してもらった。これも、砂押さんが前日に手続きを済ませていてくれたので、必要なフォーマットで書き出ししたものを受け取るだけで済んだ。
作業のためにと、イツシマケミカルは会議室のひとつを我々に貸してくれた。テーブルも椅子もあって、ありがたい限り。立ったままでも端末で作業できるけど、座れた方が集中できる。
「神前さん、これ、ここに置きますね」
私は率先して持ってきた端末を二台並べて設置する。
受け取ったデータの記録媒体にラベリングしていくのは、神前さんの役目だ。私は字が汚いので、その役目は必要ない限り辞退させていただきたく。
黙々と作業していると、廊下から話し声が近づいてきて、ノックもなしにドアが開いた。
男性の二人組が、中にいる私たちに気づいて足を止めた。
一人は見覚えのある、すっと鼻筋の通った整った顔立ちの、木下さん。
もう一人は、背が低くて猫背の、頭髪の密度が低い眼鏡の男性。五十代くらいだろうか。どこかの学校の先生みたい。
「ああ、悪い。誰も居ないんだと思った」
木下さんは笑顔になって、軽く手を上げて挨拶してきた。
「今回、分析係ではお前たちがこの件の担当になったんだって? 神前、あと……ええと」
「三小田です。改めてよろしくお願いします」
敬礼し、名乗り合う。
背の低い男性は、田島さんといい、木下さんと組んでいるのだという。
お互いすることがあるので、同じ部屋でもとくに会話することなく作業をする。
私の気のせいかな、変な緊張感があるような。
神前さんの様子を盗み見るが、無表情だった。
まさか木下さんと火花散らしたりはしないだろう。仕事だし。それでも気にはなる。
ノックの音がして、木下さんがドアを開けると、スーツ姿の女性が立っていた。
「失礼します。あの、郡司美嘉と申しますが、面談はこちらでよろしいですか」
彼女のスーツは、私のように無難さ一辺倒のものではなくて、デザイン性の高いエナメルのボタンがついたクリーム色のジャケットに、落ち着いた赤のスカートという具合だ。左手の薬指に、華奢なゴールドの指輪をはめている。
後頭部でふんわりと結い上げた髪は、栗色。飾られた爪は控えめな桃色だった。年齢は、二十代の後半か、三十代の前半だろう。ややエラの張った、愛嬌のある顔立ちの人だ。
木下さんは彼女を室内に招き入れ、椅子に座るように促した。
あまりそっちを見ないほうがいいかな、と思いながら、私は昨日作成した被害者の連絡相手の一覧を開いた。
郡司美嘉。榎沢の、唯一と言える同性の友人。職場の後輩で、公私共に親しい。そういう備考が添えられている。
木下さんが口を開く前に、郡司が言葉を発した。
「その、……榎沢さんのお見舞にも伺ったんですが、面会謝絶でお会い出来なくて。私、榎沢さんにすごくお世話になっていて――。こんなことになったのが信じられなくて。榎沢さん、最近、新しい得意先を任されて、昇進の話も出ていて。それなのに」
郡司は顔色も悪く、追い詰められているように見えた。被害者の身に降り掛かった不幸を、自分の不幸のように感じているに違いない。動揺がこちらに伝わってくるほど、深刻に。
「犯人を逮捕するために全力で挑んでますので、ご協力ください。何か気になることはありましたか? 人間関係で相談を受けたりとか」
木下さんは、穏やかで優しい声を出した。いい声なんだよなあ、滑らかで。作り笑顔は優しげだし、こうしているとかなり人当たりは良さそうに見える。
私は神前さんが無言で差し出したカードを端末に取り込んで、データの中身を確認し始めた。
聴取は木下さんたちの仕事で、私達の仕事はこっちだ。
ビルのエントランスのカメラ映像を早回しで再生する。
榎沢の出退勤記録と紐付け、彼女の出入りの直前直後に不審な人物が映っていないかなどを、重点的に確認しなければならない。
数日ごとに切り分けたデータの残りを神前さんが確認し始めた。
意識の半分だけ、隣のやり取りに向けておく。
しばらく黙り込んでいた郡司が口を開いた。
「思いつくのは、アテリアメッキとのトラブルくらいでしょうか」
田島さんがメモをとりながら質問している。
「あの、不渡りがというやつですか」
「ええ。榎沢さん、事務のフォローしっかりしている方なので、そんな伝達ミスらしくないんです。あの会社は、本当はもう取引を切ろうという話しをしているくらいの会社で、業績もよくないって噂があるんです。古い付き合いだったのでここまで続いていたようなもので。それで、それとなく取引を減らしていこうという話が出ていて、榎沢さんが前担当者から引き継いで、ようやくその方向に話が進んできたところだったんですが」
「こういうことって、よくあることですか? すみません、私、経理とかの事情に疎くてですね」
木下さんが優しい声を出した瞬間、隣の神前さんが小さく身震いした。鼻にシワを寄せて、彼は手元の端末を睨んでいる。
……大丈夫かなあ。
「滅多にありません。もちろん、法を犯したわけではないですが、下手をすると、債権を回収できなくなりますから、約束した日付で銀行に小切手を持ち込むのがほとんどです」
「なるほど……。その、経理の方々ってお一人で仕事をなさっているわけではないんですよね」
「ええ。通常、複数人でチェックしていると思います。今回は、新人が伝達を仕損じてしまったようで、完全にうちのミスですね。普段であれば榎沢さんが必ず最終チェックをするんですが、ここのところ得意先の引き継ぎで出ずっぱりで、彼女に任せっきりになっていたみたいで。受け取った小切手の額面の差異にも気づかなかったようです」
「アテリアメッキとは今、どうなっているんでしょうか」
「事件のこともあって、ごちゃごちゃになっていまして。先方は怒り心頭です。刑事さんたちが捜索に入ったりなさって仕事ができないとか、全部うちのせいだと叱責されたそうです。私の夫が経理の課長なのですが、呼び出されて対応していました。昨日、だったと思います。しかも、請求金額が間違っていて、本来いただくより過入金になってしまったらしく、さらに返金しなければいけないという話まで出てきていて、もうしっちゃかめっちゃかです」
「それは、……お気の毒です」
心からそう思っている。そんな沈痛な色を含んだ木下さんの声だった。
「あの、刑事さん。私、なんでも協力します。だからなるべく早く、犯人を捕まえてください。本当にお願いします」
それからしばらく、事件当日の事に関する聴取が行われた。
× × × × ×
「神前、聞き耳立ててただろ。お前が聴取してもよかったんだぜ、やり方は知ってるだろ」
郡司が退室して数分。
にやにやと木下さんが言った。
田島さんが、先程、席を立ったので、木下さんは手持ち無沙汰なのかもしれない。
神前さんは完全に彼を無視し、映像を流しながら、並行して何かを検索した。
「三小田、これ見てみろ」
『グンジ』という読みで絞り込んだ、連絡先の一覧を彼は示した。二件ヒットしている。郡司美嘉、それから郡司洋貴。
私は『グンジミカ』で検索してしまったため、後者はヒットしなかったようだ。名前からすると男性。郡司美嘉とは、偶然同じ苗字なのか。先程、郡司美嘉が、会話の中で夫のことを話していた気がするが。
それだけだったら神前さんは私を呼ばなかっただろう。
郡司洋貴の行には、神前さんが記入した『頻繁にやり取り有り、関係性確認』との備考欄のメモがある。
彼はそこに紐付けていたメッセージのファイルを展開してみせた。
『頼む、もう一度、話をしたい。時間をくれ。今日の七時にA2会議室で待ってる』
『ミカにはまだ話していない。説明させてくれ、頼む。昨日と同じ時間に、B応接を押さえてるから』
メッセージは、一方的に送りつけられ、榎沢は返信してない。
「どう思う? これ。ミカってのは、郡司美嘉のことじゃねえのか」
「どう……と言われても。郡司洋貴は郡司美嘉の夫ということはわかります。あと、下世話なこと言ってあれですけど……不倫関係のようにもとれますね、榎沢との」
「何こそこそ話してんだよ。オレにも見せてくれよ」
突然、木下さんが肩口から端末を覗き込んできた。顔が近い。耳元に息がかかって、私はぎょっとした。
彼からは、香水のにおいがした。タバコのにおいも混じって、癖が強い。ちょっと苦手。失礼にならない程度の反射速度で距離をとる。
「こっちの話だ。お前には関係ねー」
しっしと、手で犬を追い払うような仕草をして、神前さんも木下さんから距離を取る。
「捜査情報は共有しようぜ。仕事だろ」
「……お前、さっき俺に向かってなんて言ったか覚えてるよな」
「聞き耳立ててるって指摘しただけだぜ」
それを禁止したわけではないとでも言いたそうな口ぶりだ。そのとおりだけど、なんというか、面倒くさいなあ。
ものすごく不快そうな顔をして、神前さんが木下さんの方に端末を見せた。
「郡司洋貴の聴取は午後だ。ちょっと聞くことが増えたな。お、その顔。オレに手柄取られて、腹立つか、神前。器がちっちぇえなあ。な、三小田」
そんなことを言いながら、何故か肩を叩かれた。距離が近い、距離が。
「私はそれより、アテリアメッキの件が気になるんですけど」
こっそり取っていたメモを広げながら、木下さんの手をどかす。
「字きったね……。三小田なにお前、芸術家なの」
「これは急いで書いたからで普段はもうちょっとましです」
私が言い訳すると、木下さんはにやにやした。
「三小田、こいつじゃなくて田島さんに情報共有しろ。もうしばらくすれば戻ってくるだろ」
神前さんが刺々しい声でそう言うと、木下さんは肩をすくめた。大仰な仕草だ。
「あー、無理無理。二十分くらいは戻ってこないだろ。トイレ行ってタバコ、その後コーヒーのコースだよ。あの人休憩長いから。ほら、三小田、さっさと話してみろ。気になることあるんだろ」
目をぎらぎらさせて、木下さんが食いついてくる。仕事には貪欲らしい。
「別に大したことじゃないですよ。小切手の額面違いと、請求書の金額の件が気になって。普通請求書もらったら、支払う前に金額確認しますよね。小切手も自分で金額確認してから渡すと思うんです。アテリアメッキ側は、それをしなかったのかなと思って。小切手の先日付の件は別として、なにか行き違いがあって金額に問題が生じたのか」
私の話を聞いて木下さんがあからさまにがっかりした顔をした。
「そんなのうっかり間違っただけじゃねえの」
「そうかもしれませんね」
事前に得た情報によれば、アテリアメッキは社員数三十名ほどの小さな会社だ。イツシマケミカルと違い、経理担当の人数が少なくて、チェック体制が脆弱な可能性もあった。場合によっては、一人で経理を担当していてもおかしくない社員数だと思う。
「榎沢は事務のフォローまでしっかりする人だったというのに、その人が担当している会社で、請求書の金額ミスってどうして起きたのかなと不思議で。本当に事務とちゃんとやりとりできていたのかな、とか」
「職務遂行能力を疑ってんのか、榎沢の」
神前さんの問いに、私は首を横に振った。
「いえ、社内の人間関係が上手く行ってなかったのかなと。もちろん、うっかりしていたってことは誰にでもあるので、事務側がやらかしただけの可能性も十分あるんですけど。……故意あるいは人間関係の摩擦で起こるべくして起きたミスとか」
「いくらなんでも、仕事にそんな私情持ち込むかあ?」
木下さんがそんなことを言うので、私はまじまじと彼の顔を見てしまった。全然伝わった気はしないが。
「同じ会社に対して、そんなにミスが重なるって、ちょっと気になって。あるいは、先方との関係がイマイチだったのかもしれませんが。いずれにせよ、ただの憶測ですが」
「ふうん……」
あ、もう全然興味ないって顔している。木下さんは自分のカバンのところまで行くと、タバコを取り出して、部屋を出ていった。
「なんか、自由な人ですね、木下さん」
「あれは放っておけ。それより、映像の確認済んだか」
「いえ、すみません、もうちょっとかかります」
作業を再開した私の肩を、神前さんが手で払った。縄張り主張してるのかな、と思うと微笑ましかったが、本人は心底から不機嫌そうだったので黙っておいた。
イツシマケミカルのオフィスには、いくらか薬品が置かれている。だがそれは得意先向けのサンプルであって、少量だった。
製品の出荷を行う部門は、神奈川県の工場にあるという。
辞去する前、木下さんたちがサンプルの在庫を確認したが、入出庫の記録とズレはなかったそうだ。
× × × × ×
帰宅後、砂押さんからメッセージがきた。
明日、アテリアメッキに直行しろという内容だ。アテリアメッキは、例の、榎沢が請求書等の件でトラブルになっていて、さらに塩酸を降ろしている得意先である。
所轄からも担当が出向くことになっている。つまり、田島さんと木下さんが。本来は彼らだけで塩酸の在庫の確認をするよう上からの指示がでていたらしいのだが、田島さんが手を貸してくれと砂押さんに頼み込んだようだ。
人数が少ないから、協力してやってくれと言われれば、断れるわけもない。
砂押さんが、あとで日本酒の美味しいお店に連れて行ってくれるそうなので、期待しておくことにする。
虎ノ門駅が最寄りの高層ビル、その七階のワンフロアまるまるを借り上げており、本社の社員数は百人ほど。
この立地でこの規模のオフィスを構えられるのだから、体力のある会社なのだろう。創業から百年、ますます版図を拡大しているという。
視線は遮り光は通して明るい印象を与える、半透明で乳白色のアクリルの壁と、ブルーを基調にしたインテリア。近代的な印象のそこは、私たちが詰めているオフィスとは雰囲気が違う。
すれ違う社員たちも、隙がない。ぴしっとしている。
私達は、砂押さんが昨日イツシマケミカルに依頼していた、会社への入出記録を受け取った。それから、被害者の社内の連絡ツールのログと、面談等の記録を得た。
続いて、ビル管理会社から、ビルの入出記録やトラブルなどの記録を提出してもらった。これも、砂押さんが前日に手続きを済ませていてくれたので、必要なフォーマットで書き出ししたものを受け取るだけで済んだ。
作業のためにと、イツシマケミカルは会議室のひとつを我々に貸してくれた。テーブルも椅子もあって、ありがたい限り。立ったままでも端末で作業できるけど、座れた方が集中できる。
「神前さん、これ、ここに置きますね」
私は率先して持ってきた端末を二台並べて設置する。
受け取ったデータの記録媒体にラベリングしていくのは、神前さんの役目だ。私は字が汚いので、その役目は必要ない限り辞退させていただきたく。
黙々と作業していると、廊下から話し声が近づいてきて、ノックもなしにドアが開いた。
男性の二人組が、中にいる私たちに気づいて足を止めた。
一人は見覚えのある、すっと鼻筋の通った整った顔立ちの、木下さん。
もう一人は、背が低くて猫背の、頭髪の密度が低い眼鏡の男性。五十代くらいだろうか。どこかの学校の先生みたい。
「ああ、悪い。誰も居ないんだと思った」
木下さんは笑顔になって、軽く手を上げて挨拶してきた。
「今回、分析係ではお前たちがこの件の担当になったんだって? 神前、あと……ええと」
「三小田です。改めてよろしくお願いします」
敬礼し、名乗り合う。
背の低い男性は、田島さんといい、木下さんと組んでいるのだという。
お互いすることがあるので、同じ部屋でもとくに会話することなく作業をする。
私の気のせいかな、変な緊張感があるような。
神前さんの様子を盗み見るが、無表情だった。
まさか木下さんと火花散らしたりはしないだろう。仕事だし。それでも気にはなる。
ノックの音がして、木下さんがドアを開けると、スーツ姿の女性が立っていた。
「失礼します。あの、郡司美嘉と申しますが、面談はこちらでよろしいですか」
彼女のスーツは、私のように無難さ一辺倒のものではなくて、デザイン性の高いエナメルのボタンがついたクリーム色のジャケットに、落ち着いた赤のスカートという具合だ。左手の薬指に、華奢なゴールドの指輪をはめている。
後頭部でふんわりと結い上げた髪は、栗色。飾られた爪は控えめな桃色だった。年齢は、二十代の後半か、三十代の前半だろう。ややエラの張った、愛嬌のある顔立ちの人だ。
木下さんは彼女を室内に招き入れ、椅子に座るように促した。
あまりそっちを見ないほうがいいかな、と思いながら、私は昨日作成した被害者の連絡相手の一覧を開いた。
郡司美嘉。榎沢の、唯一と言える同性の友人。職場の後輩で、公私共に親しい。そういう備考が添えられている。
木下さんが口を開く前に、郡司が言葉を発した。
「その、……榎沢さんのお見舞にも伺ったんですが、面会謝絶でお会い出来なくて。私、榎沢さんにすごくお世話になっていて――。こんなことになったのが信じられなくて。榎沢さん、最近、新しい得意先を任されて、昇進の話も出ていて。それなのに」
郡司は顔色も悪く、追い詰められているように見えた。被害者の身に降り掛かった不幸を、自分の不幸のように感じているに違いない。動揺がこちらに伝わってくるほど、深刻に。
「犯人を逮捕するために全力で挑んでますので、ご協力ください。何か気になることはありましたか? 人間関係で相談を受けたりとか」
木下さんは、穏やかで優しい声を出した。いい声なんだよなあ、滑らかで。作り笑顔は優しげだし、こうしているとかなり人当たりは良さそうに見える。
私は神前さんが無言で差し出したカードを端末に取り込んで、データの中身を確認し始めた。
聴取は木下さんたちの仕事で、私達の仕事はこっちだ。
ビルのエントランスのカメラ映像を早回しで再生する。
榎沢の出退勤記録と紐付け、彼女の出入りの直前直後に不審な人物が映っていないかなどを、重点的に確認しなければならない。
数日ごとに切り分けたデータの残りを神前さんが確認し始めた。
意識の半分だけ、隣のやり取りに向けておく。
しばらく黙り込んでいた郡司が口を開いた。
「思いつくのは、アテリアメッキとのトラブルくらいでしょうか」
田島さんがメモをとりながら質問している。
「あの、不渡りがというやつですか」
「ええ。榎沢さん、事務のフォローしっかりしている方なので、そんな伝達ミスらしくないんです。あの会社は、本当はもう取引を切ろうという話しをしているくらいの会社で、業績もよくないって噂があるんです。古い付き合いだったのでここまで続いていたようなもので。それで、それとなく取引を減らしていこうという話が出ていて、榎沢さんが前担当者から引き継いで、ようやくその方向に話が進んできたところだったんですが」
「こういうことって、よくあることですか? すみません、私、経理とかの事情に疎くてですね」
木下さんが優しい声を出した瞬間、隣の神前さんが小さく身震いした。鼻にシワを寄せて、彼は手元の端末を睨んでいる。
……大丈夫かなあ。
「滅多にありません。もちろん、法を犯したわけではないですが、下手をすると、債権を回収できなくなりますから、約束した日付で銀行に小切手を持ち込むのがほとんどです」
「なるほど……。その、経理の方々ってお一人で仕事をなさっているわけではないんですよね」
「ええ。通常、複数人でチェックしていると思います。今回は、新人が伝達を仕損じてしまったようで、完全にうちのミスですね。普段であれば榎沢さんが必ず最終チェックをするんですが、ここのところ得意先の引き継ぎで出ずっぱりで、彼女に任せっきりになっていたみたいで。受け取った小切手の額面の差異にも気づかなかったようです」
「アテリアメッキとは今、どうなっているんでしょうか」
「事件のこともあって、ごちゃごちゃになっていまして。先方は怒り心頭です。刑事さんたちが捜索に入ったりなさって仕事ができないとか、全部うちのせいだと叱責されたそうです。私の夫が経理の課長なのですが、呼び出されて対応していました。昨日、だったと思います。しかも、請求金額が間違っていて、本来いただくより過入金になってしまったらしく、さらに返金しなければいけないという話まで出てきていて、もうしっちゃかめっちゃかです」
「それは、……お気の毒です」
心からそう思っている。そんな沈痛な色を含んだ木下さんの声だった。
「あの、刑事さん。私、なんでも協力します。だからなるべく早く、犯人を捕まえてください。本当にお願いします」
それからしばらく、事件当日の事に関する聴取が行われた。
× × × × ×
「神前、聞き耳立ててただろ。お前が聴取してもよかったんだぜ、やり方は知ってるだろ」
郡司が退室して数分。
にやにやと木下さんが言った。
田島さんが、先程、席を立ったので、木下さんは手持ち無沙汰なのかもしれない。
神前さんは完全に彼を無視し、映像を流しながら、並行して何かを検索した。
「三小田、これ見てみろ」
『グンジ』という読みで絞り込んだ、連絡先の一覧を彼は示した。二件ヒットしている。郡司美嘉、それから郡司洋貴。
私は『グンジミカ』で検索してしまったため、後者はヒットしなかったようだ。名前からすると男性。郡司美嘉とは、偶然同じ苗字なのか。先程、郡司美嘉が、会話の中で夫のことを話していた気がするが。
それだけだったら神前さんは私を呼ばなかっただろう。
郡司洋貴の行には、神前さんが記入した『頻繁にやり取り有り、関係性確認』との備考欄のメモがある。
彼はそこに紐付けていたメッセージのファイルを展開してみせた。
『頼む、もう一度、話をしたい。時間をくれ。今日の七時にA2会議室で待ってる』
『ミカにはまだ話していない。説明させてくれ、頼む。昨日と同じ時間に、B応接を押さえてるから』
メッセージは、一方的に送りつけられ、榎沢は返信してない。
「どう思う? これ。ミカってのは、郡司美嘉のことじゃねえのか」
「どう……と言われても。郡司洋貴は郡司美嘉の夫ということはわかります。あと、下世話なこと言ってあれですけど……不倫関係のようにもとれますね、榎沢との」
「何こそこそ話してんだよ。オレにも見せてくれよ」
突然、木下さんが肩口から端末を覗き込んできた。顔が近い。耳元に息がかかって、私はぎょっとした。
彼からは、香水のにおいがした。タバコのにおいも混じって、癖が強い。ちょっと苦手。失礼にならない程度の反射速度で距離をとる。
「こっちの話だ。お前には関係ねー」
しっしと、手で犬を追い払うような仕草をして、神前さんも木下さんから距離を取る。
「捜査情報は共有しようぜ。仕事だろ」
「……お前、さっき俺に向かってなんて言ったか覚えてるよな」
「聞き耳立ててるって指摘しただけだぜ」
それを禁止したわけではないとでも言いたそうな口ぶりだ。そのとおりだけど、なんというか、面倒くさいなあ。
ものすごく不快そうな顔をして、神前さんが木下さんの方に端末を見せた。
「郡司洋貴の聴取は午後だ。ちょっと聞くことが増えたな。お、その顔。オレに手柄取られて、腹立つか、神前。器がちっちぇえなあ。な、三小田」
そんなことを言いながら、何故か肩を叩かれた。距離が近い、距離が。
「私はそれより、アテリアメッキの件が気になるんですけど」
こっそり取っていたメモを広げながら、木下さんの手をどかす。
「字きったね……。三小田なにお前、芸術家なの」
「これは急いで書いたからで普段はもうちょっとましです」
私が言い訳すると、木下さんはにやにやした。
「三小田、こいつじゃなくて田島さんに情報共有しろ。もうしばらくすれば戻ってくるだろ」
神前さんが刺々しい声でそう言うと、木下さんは肩をすくめた。大仰な仕草だ。
「あー、無理無理。二十分くらいは戻ってこないだろ。トイレ行ってタバコ、その後コーヒーのコースだよ。あの人休憩長いから。ほら、三小田、さっさと話してみろ。気になることあるんだろ」
目をぎらぎらさせて、木下さんが食いついてくる。仕事には貪欲らしい。
「別に大したことじゃないですよ。小切手の額面違いと、請求書の金額の件が気になって。普通請求書もらったら、支払う前に金額確認しますよね。小切手も自分で金額確認してから渡すと思うんです。アテリアメッキ側は、それをしなかったのかなと思って。小切手の先日付の件は別として、なにか行き違いがあって金額に問題が生じたのか」
私の話を聞いて木下さんがあからさまにがっかりした顔をした。
「そんなのうっかり間違っただけじゃねえの」
「そうかもしれませんね」
事前に得た情報によれば、アテリアメッキは社員数三十名ほどの小さな会社だ。イツシマケミカルと違い、経理担当の人数が少なくて、チェック体制が脆弱な可能性もあった。場合によっては、一人で経理を担当していてもおかしくない社員数だと思う。
「榎沢は事務のフォローまでしっかりする人だったというのに、その人が担当している会社で、請求書の金額ミスってどうして起きたのかなと不思議で。本当に事務とちゃんとやりとりできていたのかな、とか」
「職務遂行能力を疑ってんのか、榎沢の」
神前さんの問いに、私は首を横に振った。
「いえ、社内の人間関係が上手く行ってなかったのかなと。もちろん、うっかりしていたってことは誰にでもあるので、事務側がやらかしただけの可能性も十分あるんですけど。……故意あるいは人間関係の摩擦で起こるべくして起きたミスとか」
「いくらなんでも、仕事にそんな私情持ち込むかあ?」
木下さんがそんなことを言うので、私はまじまじと彼の顔を見てしまった。全然伝わった気はしないが。
「同じ会社に対して、そんなにミスが重なるって、ちょっと気になって。あるいは、先方との関係がイマイチだったのかもしれませんが。いずれにせよ、ただの憶測ですが」
「ふうん……」
あ、もう全然興味ないって顔している。木下さんは自分のカバンのところまで行くと、タバコを取り出して、部屋を出ていった。
「なんか、自由な人ですね、木下さん」
「あれは放っておけ。それより、映像の確認済んだか」
「いえ、すみません、もうちょっとかかります」
作業を再開した私の肩を、神前さんが手で払った。縄張り主張してるのかな、と思うと微笑ましかったが、本人は心底から不機嫌そうだったので黙っておいた。
イツシマケミカルのオフィスには、いくらか薬品が置かれている。だがそれは得意先向けのサンプルであって、少量だった。
製品の出荷を行う部門は、神奈川県の工場にあるという。
辞去する前、木下さんたちがサンプルの在庫を確認したが、入出庫の記録とズレはなかったそうだ。
× × × × ×
帰宅後、砂押さんからメッセージがきた。
明日、アテリアメッキに直行しろという内容だ。アテリアメッキは、例の、榎沢が請求書等の件でトラブルになっていて、さらに塩酸を降ろしている得意先である。
所轄からも担当が出向くことになっている。つまり、田島さんと木下さんが。本来は彼らだけで塩酸の在庫の確認をするよう上からの指示がでていたらしいのだが、田島さんが手を貸してくれと砂押さんに頼み込んだようだ。
人数が少ないから、協力してやってくれと言われれば、断れるわけもない。
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