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第二章 初夏
傷痕 前
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居酒屋の壁掛けディスプレイで流れていたニュース放送のなかに、最近オープンした都内の水族館の催しものの紹介があった。
何気なくそれを見ていた私に向かって、神前さんがこういった。
「土曜日、そこ行こうぜ。予定空いてるか」
「へっ」
「なんでそんなに驚くんだよ。嫌なのか」
目を眇められて、私は慌てて顔の前で手を振った。
「嫌なわけないじゃないですか。予定も開いてるので、ぜひ」
「なんだその取り繕ったような笑いは」
「いえ、あまりにもそういう展開がなかったので、あはは」
訝しむ彼の視線から逃げるように、私は烏龍茶の杯を煽った。
退院してもうすぐ二月になる。
まさか未だにキス以上の関係になってないなんて、あの日の私は想像もしなかったわけだが。
この人、見た目に反して奥手なのか。いや、一度そうなりかけたけど、ハプニングがあって、それから慎重にそういうのを避けられてる気がする。
あれはたしかにまずかった。グロさ満点の傷口をうっかり晒してしまった。
やる気が削がれても仕方ない状態だったことを認めざるをえない。わかりやすく萎えてたしなあ。
だからよくぞ誘ってくれましたと、心のなかで小躍りしてしまう自分がいた。
神前さんが空になったタバコの箱を握りつぶして、灰皿に乗っけた。
「メシに行ったりはしてただろ」
「そういうんじゃなくて、その……ちゃんとしたデートというか」
彼は意地悪そうに口の端を吊り上げた。
「期待してたのか」
その顔よくない。知らない人が見たら、臓器とか違法薬物の売買の元締めやってる人と間違えられかねない。
もう見慣れてしまった彼の顔にそんなことを思うのは、ちょっと腹が立っているから。
「いけませんか。せっかく込み入った案件もなくて時間あるのに、全然そういうお誘いがなかったので、自分から誘うか検討していたところです」
ひょいと唇を塞がれて、驚いて身を引こうとすると、二の腕を掴まれた。左の。
慌てて周囲に視線を配るが、個室だったことを思い出し、ほっとして目を閉じた。
密着していた唇が離れた。
「……急にどうしたんですか」
普段はこういう場所でキスしたりしないのに。
「別に」
再び口付けられて、私は黙った。
顔が離れる直前、こっそり目を開けて、彼の表情を伺う。
間近にあるものには焦点が結びづらい。だから見間違えだろうか、せっかくキスしているのに、嬉しくなさそうな顔だった。
なんならそのままうちに上がっていかないかなと期待したが、彼は今晩も私のマンションのエントランスで踵を返した。いつか彼が私の部屋に来ることはあるんだろうか。
× × × × ×
そんなこんなで土曜日。午前中、カウンセリングがあり、私は朝一番にそれを終えて帰宅し彼の迎えを待っていた。
今、私には、職員がもともと課されている定期のカウンセリングとは別に、ケアを受けることが義務付けられている。あの駒田の事件で、被害者の一人と見做され、それが国が定める高ストレス事例と合致してしまったからだ。
まだあと四回の診療が残っている。そのために仕事を抜け出したり、時間によっては残業申請して終業後に通院するのだ。ちゃんと受診したという証明も提出しなければならない。面倒極まりない。
しかし、公務員として、日本の全労働者の健全な職場環境のモデルケースにならなければいけないという、政府の号令のもと行われている取り組みなので抗えない。
高ストレス事例に合致する状況――離婚や重大な病気への罹患も含む――に陥ると、赤紙みたいな出頭命令が――もとい受診指示の紙が届く。紙ということはもれなく正式な書類であって破って捨てる訳にはいかない。
あの夜を思い出すと、今でも胃の腑が縮むような気持ちになる。
だがそれでパニックを起こしたり、具合が悪くなったりはしないのに。
現行制度にぼやきながら、鏡を覗き込んでため息をつく。
右のこめかみのあたりに、四センチほどの裂傷の痕がある。怪我をした直後はメイクで隠せるかと思ったが、こうしてみるとなかなか目立つ。なるべく痕に残らないよう日に当てない努力をしたが、やっぱり限界はあったもよう。
右上腕も、ミミズ腫れのような傷跡は全く薄くなっていない。こちらは日光を避けるため、絆創膏を貼って上着を着込んでいる。暑くても我慢だ。もう、変な汁が出たりはしなくなったし、良くはなってきているから、痕も少しずつ薄くなる、……はず。
そんなことより、今日は初デートである。
この日のために服を新調し、美容院にも行った。気合い入り過ぎだろうか。引かれたら嫌だあ。
よく考えると、ちゃんとしたデートなんて年単位でご無沙汰。最後の相手はもういない。彼のことがあってから、どうしても恋愛から遠ざかってしまっていた。
昨日はあまり眠れなかった。楽しみだけど、緊張もする。いつも顔をあわせているのに、変なの。
端末が鳴った。ツーコールほどで切れたので、到着したという合図だ。
荷物を持ってマンションの前に向かう。彼の車が路肩に停まっていた。
仕事の時と同じテンションで挨拶を交わし、車に乗り込んだ。
運転席の神前さんを見る。
ハンドルを握る手、そこから肩までつながっている彼の左腕には、肘に近い前腕の部分に生々しい傷痕がある。赤っぽく盛り上がった、ミミズ腫れのような。
私を助けるために負ってしまった彼の傷をこうして改めて見ると、申し訳ない気持ちになった。
「なんか疲れた顔してんな。クマできてるぞ。腹でも下したのか」
「あー、ちょっと、今日のこと考えたら眠れなくて」
くそう。念入りなメイクよりそっちのほうが目につくとは。失敗した。
神前さんはぷっと吹き出した。
「子供かよ。遠足前に眠れないみてえな」
「私だいたいそれで熱出して、遠足当日行けなかった子供でした。結局、保育園の遠足は一度も行けなかったんですよね。動物園楽しみだったのに」
「ああ、動物園な。俺も遠足で行ったわ」
「マヌルネコが好きなんです。今度一緒に見に行きましょうよ、可愛いですよ」
「あー、そのうちな」
あまり気乗りしない様子だった。
「もしかして動物嫌いですか?」
「一度怪我してから積極的に行きたいと思わない」
「まさかヤギにお尻に突撃されたとか」
「馬から落ちて額割った」
私は目をしばたたかせた。
「え、まさかそのおでこの怪我って」
「落馬して腕折って、その上頭蹴られた。九死に一生を得た。救急車乗ったのはあれが初めてだ」
思わずまじまじと彼の顔を見てしまった私は、悪くないと思う。
「死ぬとこだったんだぞ」
そんなこと言われても、笑いは止まらなかった。
「怪我は過去のやんちゃのせいかと思ってたんですけど」
「八歳のときのな。あの時はいつも豪胆なジイさんが血相変えて飛んできて。むしろその顔を見て、俺はもうだめかもしれんと思った」
「いや、血相変えますよ。そりゃ。死ぬかもしれないですからね」
笑いすぎて涙が出てくる。治ったはずのお腹の傷が引きつる気がした。こんなにお腹の底から笑ったのは、久々だ。
機嫌を損ねてしまったのか、彼は手を伸ばして私の髪の毛をぐちゃぐちゃにかき回した。
「ぎゃあっ! やめてやめてっ、せっかくセットしたのに!」
「バイザーに鏡ついてる」
「そういう問題じゃないですよ……」
ああ、手間暇かけたのに。恨みがましい気分になりながら、鏡を覗き込むと髪の毛はくちゃくちゃになっていた。ひいひい言いながらピンを外して直す。
「言い忘れたが、その服似合ってるぞ」
「……そう思うんだったら、髪の毛ぐちゃぐちゃにしないでください」
呻くように言って、私は作業を再開する。
悪い、と言いながらも彼の声音は笑いを含んでいる。
ミラーを覗き込みながら、私は髪の毛ではなくて顔を見た。
赤い。そして動揺している。
似合ってるとか、言われると思わなかった。動揺しすぎて素直にありがとうと言えなかった。不覚だ。
何気なくそれを見ていた私に向かって、神前さんがこういった。
「土曜日、そこ行こうぜ。予定空いてるか」
「へっ」
「なんでそんなに驚くんだよ。嫌なのか」
目を眇められて、私は慌てて顔の前で手を振った。
「嫌なわけないじゃないですか。予定も開いてるので、ぜひ」
「なんだその取り繕ったような笑いは」
「いえ、あまりにもそういう展開がなかったので、あはは」
訝しむ彼の視線から逃げるように、私は烏龍茶の杯を煽った。
退院してもうすぐ二月になる。
まさか未だにキス以上の関係になってないなんて、あの日の私は想像もしなかったわけだが。
この人、見た目に反して奥手なのか。いや、一度そうなりかけたけど、ハプニングがあって、それから慎重にそういうのを避けられてる気がする。
あれはたしかにまずかった。グロさ満点の傷口をうっかり晒してしまった。
やる気が削がれても仕方ない状態だったことを認めざるをえない。わかりやすく萎えてたしなあ。
だからよくぞ誘ってくれましたと、心のなかで小躍りしてしまう自分がいた。
神前さんが空になったタバコの箱を握りつぶして、灰皿に乗っけた。
「メシに行ったりはしてただろ」
「そういうんじゃなくて、その……ちゃんとしたデートというか」
彼は意地悪そうに口の端を吊り上げた。
「期待してたのか」
その顔よくない。知らない人が見たら、臓器とか違法薬物の売買の元締めやってる人と間違えられかねない。
もう見慣れてしまった彼の顔にそんなことを思うのは、ちょっと腹が立っているから。
「いけませんか。せっかく込み入った案件もなくて時間あるのに、全然そういうお誘いがなかったので、自分から誘うか検討していたところです」
ひょいと唇を塞がれて、驚いて身を引こうとすると、二の腕を掴まれた。左の。
慌てて周囲に視線を配るが、個室だったことを思い出し、ほっとして目を閉じた。
密着していた唇が離れた。
「……急にどうしたんですか」
普段はこういう場所でキスしたりしないのに。
「別に」
再び口付けられて、私は黙った。
顔が離れる直前、こっそり目を開けて、彼の表情を伺う。
間近にあるものには焦点が結びづらい。だから見間違えだろうか、せっかくキスしているのに、嬉しくなさそうな顔だった。
なんならそのままうちに上がっていかないかなと期待したが、彼は今晩も私のマンションのエントランスで踵を返した。いつか彼が私の部屋に来ることはあるんだろうか。
× × × × ×
そんなこんなで土曜日。午前中、カウンセリングがあり、私は朝一番にそれを終えて帰宅し彼の迎えを待っていた。
今、私には、職員がもともと課されている定期のカウンセリングとは別に、ケアを受けることが義務付けられている。あの駒田の事件で、被害者の一人と見做され、それが国が定める高ストレス事例と合致してしまったからだ。
まだあと四回の診療が残っている。そのために仕事を抜け出したり、時間によっては残業申請して終業後に通院するのだ。ちゃんと受診したという証明も提出しなければならない。面倒極まりない。
しかし、公務員として、日本の全労働者の健全な職場環境のモデルケースにならなければいけないという、政府の号令のもと行われている取り組みなので抗えない。
高ストレス事例に合致する状況――離婚や重大な病気への罹患も含む――に陥ると、赤紙みたいな出頭命令が――もとい受診指示の紙が届く。紙ということはもれなく正式な書類であって破って捨てる訳にはいかない。
あの夜を思い出すと、今でも胃の腑が縮むような気持ちになる。
だがそれでパニックを起こしたり、具合が悪くなったりはしないのに。
現行制度にぼやきながら、鏡を覗き込んでため息をつく。
右のこめかみのあたりに、四センチほどの裂傷の痕がある。怪我をした直後はメイクで隠せるかと思ったが、こうしてみるとなかなか目立つ。なるべく痕に残らないよう日に当てない努力をしたが、やっぱり限界はあったもよう。
右上腕も、ミミズ腫れのような傷跡は全く薄くなっていない。こちらは日光を避けるため、絆創膏を貼って上着を着込んでいる。暑くても我慢だ。もう、変な汁が出たりはしなくなったし、良くはなってきているから、痕も少しずつ薄くなる、……はず。
そんなことより、今日は初デートである。
この日のために服を新調し、美容院にも行った。気合い入り過ぎだろうか。引かれたら嫌だあ。
よく考えると、ちゃんとしたデートなんて年単位でご無沙汰。最後の相手はもういない。彼のことがあってから、どうしても恋愛から遠ざかってしまっていた。
昨日はあまり眠れなかった。楽しみだけど、緊張もする。いつも顔をあわせているのに、変なの。
端末が鳴った。ツーコールほどで切れたので、到着したという合図だ。
荷物を持ってマンションの前に向かう。彼の車が路肩に停まっていた。
仕事の時と同じテンションで挨拶を交わし、車に乗り込んだ。
運転席の神前さんを見る。
ハンドルを握る手、そこから肩までつながっている彼の左腕には、肘に近い前腕の部分に生々しい傷痕がある。赤っぽく盛り上がった、ミミズ腫れのような。
私を助けるために負ってしまった彼の傷をこうして改めて見ると、申し訳ない気持ちになった。
「なんか疲れた顔してんな。クマできてるぞ。腹でも下したのか」
「あー、ちょっと、今日のこと考えたら眠れなくて」
くそう。念入りなメイクよりそっちのほうが目につくとは。失敗した。
神前さんはぷっと吹き出した。
「子供かよ。遠足前に眠れないみてえな」
「私だいたいそれで熱出して、遠足当日行けなかった子供でした。結局、保育園の遠足は一度も行けなかったんですよね。動物園楽しみだったのに」
「ああ、動物園な。俺も遠足で行ったわ」
「マヌルネコが好きなんです。今度一緒に見に行きましょうよ、可愛いですよ」
「あー、そのうちな」
あまり気乗りしない様子だった。
「もしかして動物嫌いですか?」
「一度怪我してから積極的に行きたいと思わない」
「まさかヤギにお尻に突撃されたとか」
「馬から落ちて額割った」
私は目をしばたたかせた。
「え、まさかそのおでこの怪我って」
「落馬して腕折って、その上頭蹴られた。九死に一生を得た。救急車乗ったのはあれが初めてだ」
思わずまじまじと彼の顔を見てしまった私は、悪くないと思う。
「死ぬとこだったんだぞ」
そんなこと言われても、笑いは止まらなかった。
「怪我は過去のやんちゃのせいかと思ってたんですけど」
「八歳のときのな。あの時はいつも豪胆なジイさんが血相変えて飛んできて。むしろその顔を見て、俺はもうだめかもしれんと思った」
「いや、血相変えますよ。そりゃ。死ぬかもしれないですからね」
笑いすぎて涙が出てくる。治ったはずのお腹の傷が引きつる気がした。こんなにお腹の底から笑ったのは、久々だ。
機嫌を損ねてしまったのか、彼は手を伸ばして私の髪の毛をぐちゃぐちゃにかき回した。
「ぎゃあっ! やめてやめてっ、せっかくセットしたのに!」
「バイザーに鏡ついてる」
「そういう問題じゃないですよ……」
ああ、手間暇かけたのに。恨みがましい気分になりながら、鏡を覗き込むと髪の毛はくちゃくちゃになっていた。ひいひい言いながらピンを外して直す。
「言い忘れたが、その服似合ってるぞ」
「……そう思うんだったら、髪の毛ぐちゃぐちゃにしないでください」
呻くように言って、私は作業を再開する。
悪い、と言いながらも彼の声音は笑いを含んでいる。
ミラーを覗き込みながら、私は髪の毛ではなくて顔を見た。
赤い。そして動揺している。
似合ってるとか、言われると思わなかった。動揺しすぎて素直にありがとうと言えなかった。不覚だ。
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