上 下
18 / 76
第二章 初夏

暑気 後

しおりを挟む
 夜十時半を過ぎて、神前さんがようやく足を止めた。
 時間的に民家を廻るのが難しくなってきたのと、会議のために捜査本部に顔を出すよう上から指示されたからだ。
 その時までに、私達四人は例の不審な男のおおよその足取りを掴んでいた。

 男は、昨日六月二十四日の午後四時ころ、中野駅から被害者宅に向かった。そして同じルートを通り、午後五時過ぎ、駅まで戻っている。駅構内のカメラ映像は既にバックアップデータを受け取ったし、クレジット情報の提出依頼も申請が通っている。あとはオフィスで確認するのみだった。

 現場の前に止められた警察車両の傍らで、鹿瀬さんたちと集合し、集めたデータを確認しあった。

「交代式にしよう。今晩は俺たちが会議に出て、帰りにオフィスに寄り、データをプログラムに仕掛けておく。明日朝、お前たちがオフィスでそれを確認し、俺達は現場に直行する。分析完了予定時刻は、あとで連絡するという形でどうだ」

 つまりは、今晩ぎっちり働く人と、明日早朝から動き出す人とで別れようという提案だった。
 私は後者の方がありがたい。今日はもうへとへとで、一刻も早く寝処に潜り込みたかった。足も限界だ。
 ただ、会議に出るとなると――神前さんは前者のほうがいいだろうな。

「わかりました。明日の朝、オフィスに向かいます」

 私は神前さんの顔を見た。流石に鹿瀬さんたちも疲れた顔をしているのに、彼は全くその疲労を感じさせない。

「三小田、お前はとくにしっかり休めよ! 明日はぶっ倒れないように」

 鹿瀬さんがにやっとして、私の肩を小突いた。

「はい、そうします」

 軽く手を上げて、鹿瀬さんと砂押さんは車に乗り込み、去っていった。
 彼らの乗った車が見えなくなると、神前さんが小さく息を吐いた。

「帰るぞ。鹿瀬さんの言うとおり、お前もさっさと帰って休め。送るから」
「えっ、いいですよ、悪いです。近いから歩いても帰れますし」
「物騒だろうが」

 腰に手を当てて、沈鬱なため息をつかれた。

「お前さ、一応女なんだから、少しは警戒心を持てよ」
「い、一応って失礼ですよ。これでも女としてのキャリアは三十年に届こうというのに」

 たしかに、時間的には結構遅いし、歩いて帰るとなると薄暗い道も多い。それでも、太い道を選べば大丈夫だとは思うんだけど。
 というか、急に親切にされると戸惑う。すごく。

「そこの角にいろ、車回してくるから」
「だからいいですって」

 なおも遠慮すると、彼は眉間に皺を寄せて腕を組み、私を見下ろしてきた。
 あああ久しぶりに威圧されている! いい具合に周りが薄暗くて、彫りの深い顔が影になるから、怖さ三割増しだ。

「つべこべ言うな。道端で倒れでもしたら、誰がお前を回収に行くんだよ」
「それは救急車が、って、ひゃあっ!」

 ひょいと奪われた端末を、頭めがけて振り下ろされて、慌てて手で受け止めた。平たい機体に傷がないか、急いで確認する。
 その隙に、彼は歩いていってしまった。

 なにこれ優しさの押し売り?
 困惑しつつも、こっそり逃げちゃおうかと考える。
 傷心の彼につきまとった前科が自分にあることを思い出した。そう邪険にもできないな……。

 指定された箇所で待っていると、神前さんが車でピックアップしてくれた。
 ここからうちまで、直線距離はかなり短いが、車では迂回しなければいけないところが多いので、到着予定時刻は徒歩と変わらない。

 シートに腰をかけると、歩き通しだった足が悲鳴を上げた。

「あいたた」

 パンプスを脱いでみる。踵と小指が盛大に靴ずれしていた。これはシャワーが滲みそうである。
 加えて腿もふくらはぎもすねもパンパン。明日が怖い。
 やっぱり、送ってもらえてよかったのかも。

「あの、神前さん、さっきのよかったんですか? 会議、出たかったんじゃ……」

 彼はじろっとこちらを睨んだ。

「先輩相手に、自分たちが会議行きたいですって挙手するってか。してもいいがお前はその分、次の作業でパフォーマンスを先輩たち以上に発揮できたか? そのボロきれの状態で?」
「ぼ、ボロ布? さすがにそこまでくたびれてませんけど、……でも、すみません」

 ああだめだ。体調管理の甘さで彼の足を引っ張るなんて、間抜けすぎる。
 ため息をついた私に、神前さんが追い打ちをかけた。

「ボロ布だろ、減量中なのかなんなのかしらねーが、げっそり痩せやがって」

 ぎくりとした。
 バレてる。
 このところ、食欲が落ちていて、昼以外はろくに食べていない。ウエストがゆるくなったなあと思いつつ、体重計がないので、どのくらい体重が落ちたかはわからない。

 まあそれでも誰にも痩せたと指摘されないし、神前さんは隣の席で毎日顔を合わせているから、逆に気づかないかなーなんて油断していたんだが。見てないようで見てるなこの人。さすが刑事。

「――とにかく、今晩はしっかり食って寝ろ」

 彼はナビの画面に触れて、近くの飲食店を検索した。大きな通りに出れば、数件の店がある。

「選べ。ラーメン、中華、焼肉、牛丼、蕎麦、ハンバーガー、串揚げ」
「蕎麦で」
「また麺即決かよ」
「えっ、選択肢に挙げたの神前さんじゃないですか! それに、この時間にがっつり脂と肉はちょっと……。なんなら私、コンビニでなにか買って帰りますから、無理に付き合わなくていいですよ」
「冗談だ」
「どういう冗談ですか」

 真顔で冗談言われると、わからないんだよな、真意が。
 悩む私をよそに、彼はさっさとハンドルを切って蕎麦屋に向かった。

× × × × ×

 私はマンション前の歩道に降りて、車内を覗き込み、運転席の彼に声をかけた。

「何から何まで、ありがとうございました」
「おう。さっさと寝ろよ。夜更かしすんな」
「しませんよ、子供じゃあるまいし」

 しかめっ面をすると、口の端だけ上げた笑みで応えられた。

「おやすみなさい」

 軽く頭を下げると、彼も頭を下げて「おやすみなさい」と言ってくれた。
 助手席のドアを閉めて、エントランスへ向かう。

 結局、なんだかんだで全部食べちゃったよ、ざる蕎麦。食べ過ぎでちょっと気持ち悪い。
 これ、長風呂したら具合悪くなりそうだな、今日はシャワーにしておこうかな。絶対靴ずれに滲みるから、先に手当をしないと、風呂場でのたうち回ることになる。それ用の絆創膏のストックあったかしら。
 そんなことを考えながら部屋に戻った。

 ヒイヒイ言いながら足を手当して風呂に入り、一息ついたころ、私用の端末に着信が入っていたことに気づいた。

 志音しおんからだった。
 彼女とは高校時代からの付き合いで、彼女は地元、私は東京の大学に進学した。私の帰省の度に顔を合わせていて、その関係は社会人になってからも続いていた。
 しかしそれも去年までのこと。一昨年からの一年半は私にとっては怒涛の日々で、彼女からの連絡に折り返すことを失念し、結果として無視してしまった。帰省もしてない。
 それでも懲りずにこうして連絡をくれたことに、感謝の気持ちが湧いてくるはずなのに。

 今回の話題を予想して、折り返すのを躊躇ってしまった。この時期に連絡があれば、絶対に拓人の話になるはずだ、と。

 しばらく悩んだが、故意に無視するのも気が引けて、端末を持ち上げた。すぐに電話はつながった。

「こんばんは、真藍です」
『おー、久しぶり! 元気だった?』
 志音の声は低くて少しハスキーだ。格好いい。
『電話したのはさ、ほら、お墓参り行くかなと思って。もうすぐ拓人の命日じゃん。三回忌も出る?』
「ううん、どっちも行けない。三回忌は呼ばれてないし、仕事あるから……お参りはまた別の日に」

 志音が電話の向こうでため息を着くのが聞こえた。

『……真藍さ、あれから全然連絡してこないから、心配してたんだよ』
「いや、ちょっと色々あって、転職したりしてたから。うっかり返信忘れちゃった、ごめんね。そうそう、今は公務員なんだよ私」
『え、そんな話してた? 前に会ったのいつだっけ』
「拓人の式のときだよ」
『そんなに前だっけ。ていうか、大変だったよねそんなことあったんじゃ。よかったよ再就職できたんだね』

 彼女はからっと笑ってくれた。私の無精を。その声を聞いていると、少し気分が明るくなる。

『拓人のこともあるけど、それ抜きでも久々に真藍に会いたいなって思ったの。だから連絡した』
「休みが取れたら帰省するよ。今はちょっと立て込んでるから、後日になるけど」
『そっか、……うん。日程決まったら教えてよ、ゆっくりお茶でもしよう』
「うん、ありがとう」

 何か言いたげな間を置いて、志音は電話を切った。私は端末を放り出す。
 ため息が出た。

 仕事。都合のいい言い訳ができたものだ。自分の薄情さに、嫌気がさす。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

JKがいつもしていること

フルーツパフェ
大衆娯楽
平凡な女子高生達の日常を描く日常の叙事詩。 挿絵から御察しの通り、それ以外、言いようがありません。

小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話

矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」 「あら、いいのかしら」 夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……? 微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。 ※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。 ※小説家になろうでも同内容で投稿しています。 ※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。

【R-18】クリしつけ

蛙鳴蝉噪
恋愛
男尊女卑な社会で女の子がクリトリスを使って淫らに教育されていく日常の一コマ。クリ責め。クリリード。なんでもありでアブノーマルな内容なので、精神ともに18歳以上でなんでも許せる方のみどうぞ。

ねえ、私の本性を暴いてよ♡ オナニークラブで働く女子大生

花野りら
恋愛
オナニークラブとは、個室で男性客のオナニーを見てあげたり手コキする風俗店のひとつ。 女子大生がエッチなアルバイトをしているという背徳感! イケナイことをしている羞恥プレイからの過激なセックスシーンは必読♡

寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい

白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。 私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。 「あの人、私が

車の中で会社の後輩を喘がせている

ヘロディア
恋愛
会社の後輩と”そういう”関係にある主人公。 彼らはどこでも交わっていく…

マッサージ師にそれっぽい理由をつけられて、乳首とクリトリスをいっぱい弄られた後、ちゃっかり手マンされていっぱい潮吹きしながらイッちゃう女の子

ちひろ
恋愛
マッサージ師にそれっぽい理由をつけられて、乳首とクリトリスをいっぱい弄られた後、ちゃっかり手マンされていっぱい潮吹きしながらイッちゃう女の子の話。 Fantiaでは他にもえっちなお話を書いてます。よかったら遊びに来てね。

処理中です...