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第一章 晩春

はじまりの日 前

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 五月。
 朝、掲示板の前に人が集まっていた。
 未だ紙ベースの資料というものはゼロにはならない。とくに重要な資料については、相変わらず紙上へのアウトプットが好まれる。
 その掲示板に貼り出された紙――新人の辞令もある意味重要な資料だと言えるに違いない。
 紙面には私の名前もあった。

 三小田みこだ真藍さあい、配属先は警視庁刑事部情報統括捜査課情報分析係。あらかじめ通達されていた内容と相違ないことを確認の上、エレベーターに乗り込んだ。

 六階に到着して、案内図を頼りに廊下を歩いていたのだが、……迷った。このビル、案外広い。
 ぐぬぬとうなりながら現在地を手元の端末で確認しようとするが、ちょうど階段を登ってきた男性がいたので、その人に聞くことにした。

「おはようごさいます、ちょっと伺いたいのですが、情報分析係のオフィスはどちらでしょうか」

 声をかけて、失敗したと思った。
 階段を登り終えて私に目を合わせた彼は、とにかく強面だった。ここにいなければそれこそその道の人かと思うほどに。
 まず目つきが悪い。右眉を縦断する傷が額からこめかみに抜けていて、口は硬く引き結ばれている。その上でかい。一八〇センチはある。もしかすると、一八五あるかも。姿勢がやたら良くて、スーツの上からでも広背筋がぴしっと伸びているのがわかる。
 年齢は私と同じか少し年上くらいか。たぶん、三十代前半。
 彼はこちらをじろりと睥睨した後、低くてハリのある声で告げた。

「おはようございます。分析係なら角を右に曲がって、突き当りを左です」
 彼は足も止めずにそう言って、すたすたと歩き去った。
「あ、ありがとうございます!」
 礼の言葉は完全に無視された。
 おっかない。なんだろう、あの百戦錬磨感。気後れしてしまう。
 数か月前までしがない会社員だった私にとっては、あまり関わったことのない人種だった。警察学校の教官も、もう少しにこやかだったくらいだ。

 朝っぱらから怖い思いをしたなあと、どきどきしている心臓をなだめすかして、教えてもらった順路で歩く。
 情報分析係という札のついた部屋のドアが見えて、ほっとした。

 オフィスにはざっと見て五十人を越える人が詰めていた。
 白と明るいグリーンを基調にした内装で、デスクの上に必ずモニターが載っている。その前に座って作業している人は、裸眼で作業している人もいれば、フルフェイス型のヘッドセットを使っている人もいるという感じだ。後者のほうがやや多い。
 私はきょろきょろと自分の席を探した。すると、挙動不審な人間に気づいたらしい女性が近づいてきて敬礼した。

「おはようございます、私は久慈山です。新人さんですね?」
 敬礼を返し、私も名乗った。
「はい、三小田真藍です。よろしくお願いいたします」

 彼女はにこっと微笑んで歩きだす。その後ろに続いた。
 とっても可愛い人だ。小柄で、色白。栗色の髪の毛をハーフアップにして、小さな石のついたピアスをつけている。チャコールグレーのペプラムのスーツに、エナメルの黒いパンプス。爪は硬化蛋白質キュアド・プロテインで飾り付けられている。
 地味で無難なグレーのパンツスーツの私とは比較にならない華やかさ。私は爪なんて何年もろくにいじっていない。

「三小田さんの席はこっちね。あとで朝礼で挨拶したり、新人向けのオリエンテーションがあるから。もしなにかわからないことがあれば、私にでもいいし、指導担当の神前かんざきくんにでもいいから、適宜聞いてね」
「ありがとうございます」

 話し方もハキハキしていて聞き取りやすい。仕事できそうだなあ、この女性。如才ないという感じがする。年齢は同じくらい……だと思う。
 分析係では、新人はしばらくの間、決まった指導員と組んで仕事をすることになっている。つまり神前さんという人が、私を指導してくれるというわけだ。どんな人だろうと、期待と不安が胸に生まれた。私はあんまり覚えるの早くないから、せっかちじゃない人がいいなあ。

「神前くん、三小田さんだよ」
 久慈山さんが私の席の隣に座っている人物に声をかけた。
 私は固まった。
 そこにいたのは、さきほど道を教えてくれた男性だった。
 彼は私をじろりと見上げたあと、徐に立ち上がり敬礼した。今度は私が彼を見上げる形になった。やっぱりでかい。つい及び腰になる。

「神前氣虎きとらだ。指導担当になる」
「さ、先程はありがとうございました。三小田真藍です、よろしくお願いします」
 だめだ、動揺して声が裏返る。なにこいつって感じで注がれる視線が痛い。
「神前くん、三小田さんのこといじめちゃだめだからね。せっかく来てくれた女子なんだから、もし泣かせたら許さないから」

 不穏なことを言って、久慈山さんは胸の前で腕を組んだ。頼む久慈山さん、嘘だと言ってください。『私が本当の指導員でした』と言うなら今です。

「それじゃ、資料置いてあるから、読んでおいてね」
 久慈山さんはまたにこっとして、いなくなってしまった。

 神前さんはむすっとした顔のまま椅子に座って、デスクの上に広げた資料を読んでいる。紙の資料でちょっと古そうだった。過去の事件の報告書なのかもしれない。

「なにか足りない物があったら言え」
 視線を紙に落としたまま言われた。きっと私に対しての言葉だ。
「はい、ありがとうございます」
 二人の間に沈黙が降りた。
 他のデスクでは、同期たちが先輩と和やかに話しているのがチラチラ見える。一緒に警察学校で研修を受けていた人たちだ。

「あの、神前さんはここにもう長いんですか?」
 場を和ませようとして必要もないことを問いかけた。
「ここには一年だ。トータルで五年」
 一応、答えてはくれたがこちらを見ようともしない。座っていても姿勢はお手本のようだ。
「あ、じゃあ、私と同じように、外部から?」
「じゃあってなんだ。俺は新卒採用だ」
「し、失礼しました」

 まさかの年下の可能性が浮上してきた。

 新卒で五年目というと、ストレートで大学を出ていれば、今年で二十七。二才も年下。
 嘘だよね……。どう見ても、私より年下ってことはないよね、その顔で。言われてみればたしかに肌はきれいだけど。
 ものすごくキツく睨まれて、泣きたくなる。
 なんだか最初の一歩で大きく躓いてしまったような気がした。
 
 × × × × ×
 
 初日はほとんどがオリエンテーションだ。
 施設の説明や、各種資格の案内、研修などなど。色々な制度の説明を受ける。

 すでにわかっていたことだが、十人ほどの新人のなかで女性は私だけ。あんまり、女性人気のない職だから仕方ないけど。やっぱり同性がいないとちょっと疎外感を覚える。
 でも、ぽつんと端っこの方に座っていたら、にこにこして声をかけてくれた人がいた。
「三小田さん、どうですか、初日の感触は」
 山本さんという、研修のときも少し話したりした人だ。柔和な顔立ちをしていて、細身で色白。黒縁メガネをかけている。
 たしかすごくいいところの会社から転職してきた上に、ASSISのランクがAとかで、同期のエース候補だ。年齢は今年三十歳とかそのあたりだった気がする。

「まだ仕事って感じしないですね。オリエンテーションだけだから」
 私は笑顔を返した。
「そうですね。きっとしばらくそうでしょうね。事件を担当できるようになったら、初めて半人前というか」
「独り立ちしたら一人前ですか?」
「そうです。誰が一番に捜査に入れるか、みんなそわそわしてますね」
「やっぱり皆さん、そうなんですか」

 そのへんはよくわからなかった。事件を担当するってことがまだピンとこないし、それで一番を争う気にもならない。やっぱり手柄とかほしいものなのだろうか、他のみんなは。
 正義感とかそういったもので転職してきた人とのモチベーションの差に、なんだか引け目を感じる。

「それにしても三小田さん、大変ですね。あの神前さんが指導員だなんて」
「大変、ですか? どうして」
 まああの威圧感だけでも大変といえば大変だが。
「彼の噂、もしかして、知らない?」
 なんだか嫌な予感がした。聞きたいような、聞きたくないような。
「いえ、なにかあったんですか?」
 周りの視線を気にするように、彼は声を潜めた。
「もともとは、所轄の刑事だったのに、同期を殴って怪我させて、転属になったんですよ。分析係の問題児として有名ですよ」
「え」

 がんと横面を打たれたような気がした。
 あの風貌にあの態度。ありえないとは言い切れない。

「それは、なんで」
「なんだか、女性関係でもめたということでしたよ。相手と示談になって、起訴はされなかったようです。親御さんが上層部にいるからと聞きました。気をつけたほうがいいですよ、どうやら女性に手を出すの早いみたいですから。久慈山さんって知ってますか? あの人といまお付き合いしているようです」

 久慈山さん。朝、挨拶してくれた女性だ。明るい笑顔の、とても感じのいい人。
 彼女と神前さんが付き合ってる。それはいいとして、問題はその前だった。
 相手に怪我を負わせた。怖すぎる。

「怪我をさせたって、どの程度の……」
「骨を折ったようですよ、首の」
「……ううん?」

 死ぬわそれ。示談どころの話ではない。

 盛ってあるのだろうが、火のないところに煙はたたないという。
 顎の骨を折るくらいはしたのかもしれない。
 それにしても、とんでもない人に付けられてしまったものである。
 ついてないや。
 なるべく、穏便に研修期間を終えて、彼と距離をとるべきだろう。殴られては困る。
 しかし、要領がよくない私が彼を怒らせずに、うまくやっていけるだろうか。そう思うと、かなり不安だった。
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