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 生殖機能の検査のあとシャワーを浴び、イオは気持ちを落ち着けるため、日課をこなすことにした。読書だ。ところが手持ちの本は読み終えてしまっていたので、新聞を読むことにした。
 未読の昨日の分もあわせて読もうと思い、居間を探したがなかった。朝、新聞が来たら置いておくチェストの上はすっきりしている。ドクターが読んでどこかに放り出したのだろう。

 諦めて、お茶でも飲もうとキッチンへ向かった。ドクターが出しっぱなしにしたらしい、空になったコーヒー豆の袋をゴミ箱に片付けるとき、ふと、探していた新聞が無造作に突っ込まれているのを発見した。

 どうしてキッチンなんかに。イオは訝しく思いつつも、まあ、ドクターだからなあとも思う。というのも彼は、仕事以外は基本的に怠惰で大雑把、だらしない。イオが世話を焼くようになってから、家の掃除が楽になったし、ドクターの身なりがしゃんとしたと週に三回通いで来る家政婦に言われるくらいだ。

 引っ張り出した新聞には大きなしみができていた。コーヒーか何かをこぼしたのだろう。淹れたコーヒーをキッチンのカウンターに寄り掛かり、行儀悪く飲んでいるドクター・シグニールが想像できる。彼はコーヒーを淹れたあとの始末を忘れ、イオに注意されることもしょっちゅうだ。

 汚れているから読まずに捨ててしまおう、そう思ったイオだったが、小さな記事に目が留まり、手を止めた。


 ――亜人研究所の医師、失踪する。
 先月末から、亜人研究所の女性ドクターと連絡が取れなくなっていることが、当局への取材で明らかになった。件のドクターは、現在、新しい研究に携わっており、半年ほどまえから、被検者ひとりの検査を担当していた。
 この被検者とも連絡が取れなくなっており、研究所と当局は行方の確認を急いでいる――

「どうした。なにか不具合でも」
「うひゃああ! よ、ヨシカ!? びっくりさせないでくださいよ」
「君の声に俺のほうが驚いたという発想ができるようになると、報告書に付記する内容が増えるのだが」
「もう。すぐそういうこと言う! それより、この新聞に載っている記事、読みましたか。研究所のドクターが行方知れずって」

 ドクター・シグニールは、空のカップを返却しにきたらしい。彼のカップは、底についたコーヒーがかぴかぴになるまで、デスクの上で放置されていることが多かったが、近頃はそのまえにキッチンに戻されるようになった。たまにドクターが自分で洗浄もする。
 ただ今日は、ドクターの指に歯型があるので、イオが進んで代わりを務めることにした。といっても、洗浄機に放り込めば高温の蒸気が勝手にやってくれるのだが。

 イオの作業を観察しながら、ドクターが作業台に寄り掛かり腕を組んだ。

「新聞記事の件。もちろん読んだ。彼女は愚かなことをしたというのが感想だ」
「まさかお知り合いですか」
「君も知人だ。リオネロペを覚えているか。うちにきて、……そうだ、君にコーヒーの話をした」
「あの方が? 大変。ヨシカ、連絡はとれませんか? 亜人狙いの変な事件も起きているし、心配です」
「いや、心配には及ばないだろう。彼女は自分で姿を消したのだ。被検者を連れて、もう二度と戻らないと書き置きを残してな」
「どうして……」

 ドクターは肩をすくめた。

「リオネロペはちょうど今の我々と同じく、被検者の生殖機能の検査をしているところだった。嫌になったそうだ。他の女性と関係を持つ被検者を見ているのが」
「……その被検者というのは」
「君と同じSRT4567シリーズの16体目。違いは男性であることだけだ」

 イオは息を呑んだ。

「リオネロペの書き置きはこうだ。
『彼を愛したので、実験からは降りることにする。ある意味、自然に恋をして生殖するという、SRT4567シリーズの目標は、半分は到達できていたと言えるだろう。ちなみに、これは皮肉だ』
 まあ、彼女らしいと言えば彼女らしい」

 苦々しく言って、ドクターが深い息を吐いた。被検者自身も機密情報の塊であるし、ふたりに失踪されたことは、亜人研究所にとっても大きな打撃である。

「リオネロペさんは駆け落ちをしたんですね」

 胸がどきどきしている。イオは、興奮で上ずりそうになる声を意識して抑えた。
 まるで、映画みたいだ。そのために作られた存在ではあるが、まさか人造人間が実際に大恋愛をして、担当のドクターと書き置きひとつ残して、手に手をとって駆け落ちするなんて。
 いまなら、『サンプル』という言葉を発したときに、リオネロペの表情が和らいだ理由がわかった。彼女は、恋をしていたんだ。

「そういうことらしいな」

 はあ、とまたため息だ。

「まったく、愚かなことだ。情動的で、後先を考えていない。
 彼女と一緒に逃げた相手も、この分では不適合扱いになるだろう。彼の同一ロットの者たちが出荷される前に、また一通り別の個体の検査をしなければならないのだが、……適任者がいない。それなりにキャリアも必要な職務だと言うのに、途中で放り出して」
「リオネロペさんは、愚かじゃないです」
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