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 シティの東部に、亜人研究所はある。人口の六割近くを占める、人に準ずる種族の発展に、医学的方面からアプローチする目的で、天然の純粋な遺伝子を持つ人間により設立された組織であり施設である。

 荒天の夜の雷鳴のなか、研究所の培養室で、娘は目を開けた。
 培養管から排水されていく人工羊水は、ねばついていて甘い香りがする。それが、体が感じた最初の刺激だ。

 彼女ははじめから、いろいろなことが理解できていた。言葉、概念、それからシンプルな感情などである。目覚めたときすでに成人していることが求められていた。

 まだ、一度も鏡を見たことはなかったが、自分の髪がはちみつ色で、スミレのような淡い紫色の瞳を持っていることも知っていた。体つきはすべてが平均値に収まるデザインであることも。

「SRT4567-M。自分のナンバリングを解説しなさい」

 スミレ色の目が、眼前に立つ人物に焦点を合わせた。白衣を身にまとった長身痩躯の男だ。問いは彼が発した。
 彼が自分の担当のドクターなのだと、彼女は認識した。はじめに声をかけたものの位置づけも、あらかじめ定義されていたのだ。

「はい、わたしはSRT4567シリーズ、23体目です」
「よろしい。では君には『イオ』という名を与えよう。人間は便宜的に個体名を必要とする。君もそれに倣う。なぜかわかるか」 
「はい。わたしは、人間社会で、天然の人間に混じって生活するようデザインされているためです」

 うなずいた男は、手元の板状のデバイスになにかを入力していく。

「さてイオ」
「はい、ドクター」
「……ふむ、自己の認識力チェック第一段階はクリア。
 これから俺は君のさまざまな反応を確認していく。学習能力の査定も行う。結果が基準値を超えれば、同ロットの他の個体はそのまま社会に出ることになる。下回ればまた別の個体をサンプリングすることになる」
「はい。ドクター」
「俺の個体名を教える。ヨシカ・シグニール。検査のとき以外は、そちらを使用すること。なぜかわかるかね」
「わたしは人間社会で――」
「応用力は平均値、……いや期待値以下か。君は人間社会に溶け込まねばならない。ドクターという職業名と、製造番号で呼びあうのは、一般的ではない。理解できたか? ならばよい。
 では、身体能力検査からだ。平均値をクリアしていれば通常の生活に適応できる。はじめに人工羊水まみれの体を洗浄しなさい。シャワーは裏手だ」
「かしこまりました、ヨシカ」
「身体能力と言ったな」
「訂正します、ドクター」
「よろしい。転倒に気をつけること。人工羊水は滑る」

 このような会話があって、彼女は――イオは、自分とドクター・シグニール、そして自分を取り巻く世界に出会った。

 様々な理由から生殖能力が衰えた天然の人間たちのために、社会に溶け込み、人口の増加に寄与する目的で秘密裏に作られた人造人間。イオはそれが自分だと理解している。
 いずれ社会に出て、恋をして、子どもをつくるのだ。
 だから外見も情動も天然の人間が生殖行為に及びやすいようデザインされている。奇抜ではなく平均値、好まれる穏やかさに。

 恋という概念も、知識としてはじめから頭の中にある。
 しかし、理解できるのと実感するのはまた違う。恋はするだけではなくて「落ちる」ことがあるというのはなぜだろう。いつか実感するときがくるのだろうか。

 夜眠る前、日課になった読書のあとにそういうことを何度か夢想した。自分はどんな相手に恋をするのだろうか、と。
 のちの問診で、ドクター・シグニールに、根拠薄弱な妄想をする癖があると分析されたとおり、彼女はよく無意味なことを考えることがあった。それを楽しんでもいた。

 そしてそのときは、ある日の午後、来客とともに訪れた。
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