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 修道女たちが帰らないのが不審に思われないわけがない。私は彼女たちの腰を探り鍵を取り出し、塔から脱走した。男の足とはなんて便利なことだろう、女の何倍も速い。

 どうやら私が得たミラーの読心・変身能力とは、大きく分けて三段階に分かれるようだ。

 相手の感情を読み取るのが一段階目。変身するのが二段階目。変身を固定しいつ解くのかを決めるのが三段階目。

 経験が足りなさ過ぎてすべての段階で能力が不安定だ。一段階目が制御できず、勝手に相手の心を読み取り、二段階目も同様に勝手に変身してしまうだろう。それがわかる。三段階目の変身解除に至っては、今この姿さえどうやって変身を解いたらいいかもわからない有様。

 厩から馬と馬具と失敬し、裏門から飛び出した。その間に聖堂からは修道女たちの合わせて歌う声。より表門に近い、大きく立派な大聖堂からは修道士たちのそれが合わせて聞こえる。同じ時間に同じ女神への讃美歌を謡っているというのに、その音は少しズレてきこえる。それほどにこの修道院は広く、歴史が古いのだ。陰惨な歴史が。

 私に気づいた合唱に参加する権利のない若い見習い修道女と聖堂騎士団の下っ端が、慌てて裏門を閉めようと飛び出してくる。それに構わず、一気に馬を飛躍させて門ごと塀を飛び越えた。

「きゃあああああっ、男の人があああああっ」

「誰だ!? ここは男子禁制の――」

 と姦しい若者たちには悪いけれど、私は謎解きなんぞしない。

 ぱっかぱっかと威勢よく駆ける馬は、思った通り元軍馬のようだ。若くなくなり見栄えが悪くなった馬は、修道院か平民に売られてさらに働かされる。

「お前もご苦労なこと、ね」

 とぽんぽん首筋を叩くと、馬蹄の音も高らかに馬は首を振りもたげた。馬は馬なりに、昔を懐かしんでいるのかもしれなかった。

 そうして駆けに駆け、王都に戻ったのは夕方になる頃だった。道を覚えていたアマルベルガの知能と、原作の地図を思い出せた過去の自分の記憶力を褒めたい。

 かわいそうだけど、その馬はそのまま道に放した。誰か親切な人に拾ってもらえますように。

 形式上の関所を難なくすり抜け、日が暮れなずむ中を進む。人目につかない王都の裏路地、そっと心を集中させた。わたくしの身体の中にみっつの魂がある。カムリとミラーと私。アマルベルガはどこにもいない。今の私は誰なんだろう?――でもこのふつふつ煮えたぎる憎しみは、シャルロッテへの尽きせぬ憎悪は本物だ。それだけで十分だ、これ以上の証明も事実も必要ない。

 私にあるのはこの身体と魂だけ。これからもずっとそうなのだ。でも、人間にとって必要なのはそれ以外に何?

 アマルベルガの持っていたどれほど豪奢なドレスでも、このわたくしがわたくしであるという自覚以上に大切じゃない。

 目の前に野良猫がいた。汚い路地裏のさらに汚い水たまりで汚れに汚れている。その心が私の心に入ってきて、気づけば私はその猫が恋焦がれる表通りの家の白い雌猫になっていた。

 にゃおおおおん、野良猫は目の色を変えた。私はぱっとしっぽを翻し、路地裏の猫だけが知る道を疾走した。

 王宮に入るのがめちゃくちゃ簡単だったのは、原作を読んでいて知った秘密の通路の知識以上に猫の姿だったからだ。衛兵は私を見ても鼻さえ鳴らさなかったし、キッチンメイドはちょっぴり肉のついた骨さえ投げてくれた。私はありがたくそれを頂戴した。

 この国の人たちは皆、犬猫に優しい。女神が小さき生き物を愛しなさいと教えたからだ。だからこそ、二十年前の宗教改革ではそうではない信仰を持った人々が犠牲になった。片や、王侯貴族は何十人もの侍女侍従を侍らせ手紙すら自分で書かない。片や、同じ人間に串刺しにされて死に、墓さえない人がいる。主人公の少年は、そういう軋轢を見逃さなかった。私は彼の高潔さをまばゆく思う。決して真似できないから、余計に。私の中でアマルベルガが言う――わたくしの無念を晴らしてちょうだい。生まれてから一度も、誰にも愛されなかったみすぼらしい少女に唯一残った激情を。

 するする、あっけなく私は進んだ。行きついたのは皇子の部屋である。何度か来たことがある、王宮の奥棟にある一室だ。軍国主義をとる国らしく質素で無骨な印象の部屋へ、私は潜り込んだ。大理石の張られた壁の裏には使用人の使う通路があり、さらにその脇には食事や小物を運ぶための小さなエレベーターがある。冬になればお湯を巡らせるためのパイプに、物置小屋同士を結ぶ小窓。あらゆる場所を猫の身体は通過した。

 さて。豪華な部屋である。アマルベルガのそれよりもはるかに広い。当然だろう、皇子様の部屋なんだから。ふかふかの赤の絨毯に黒檀の広々とした机、繻子張りの椅子と分厚い刺繍のカーテン。壁一面の本棚。天井は広く、男が三人肩車できそうだ。

 ディートリヒ皇子は銀に近い金髪、春の空の碧眼。父親譲りの酷薄な美貌と長身で、生まれながらに王者の風格があった。十五歳のときに中将の位を賜り、その黒の軍服を着ると恐ろしく威風堂々とした。

 彼は今、机について何か書き物をしていた。シャルロッテへの恋文だろう、と私はあたりをつける。

 彼らの恋愛は――なんとまあ、幼い女の子が夢見る物語そのものだった。人目を忍んでは抱き合い口づけ合い愛し合い。ときにはお茶会で、アマルベルガの目の前でさえ机の下で手を握ってこっそり微笑みあうのだから、主催のアマルベルガはいい面の皮である。

 彼女は苦しんだ、のだろうか。その部分の感情は霧の向こうのように感じ取りづらい。おそらくずっとそうやってきたのだ。彼女にベールをかけて、感じないようにして生きてきたのだ、この子は。

 私はそれが許せない。私を殺そうとしたディートリヒもシャルロッテも許せない。決して守ってくれなかった父親、見ているだけならまだしもシャルロッテに味方した男たち。

 絶対に代償を支払ってもらう。もはや心は決まっている。

 私は使用人が出入りする小さな扉の前に立った。これから何年もしてから、ここに付属する小部屋に主人公は隠れ潜み、ディートリヒとシャルロッテがアマルベルガを殺した話を盗み聞きする。そのとき彼はこう思うのだ――国の中枢にいる人たちはやっぱり腐っている。

 そうね、私もそう思うわ。

 私は前足で衝立をかたんと押した。その小さな音をディートリヒは聞き逃さず、ぱっと顔を上げる。彼の位置からは小さな猫の姿をとらえることはできない。

「シャルロッテ? シャルロッテか?」

 彼は上半身を起こしてにっこり笑った。私はアマルベルガがこんなふうに笑ってもらえたのを見たことがない。

「どうした? 何故出てこない。さあ、こっちにこいよ」

 おそらく今、彼は謹慎中だ。さすがに皇子といえど、あのように公衆の面前で婚約者に破棄を叩きつけ、その妹の手を取ったとなれば外聞が悪すぎる。

 ディートリヒは颯爽とこちらに歩き出した。

「恥ずかしがるな。よく来てくれた。俺にお前を抱かせてくれ」

 げえっと、猫のままべろを出した私である。そのまま毛が逆立って、ディートリヒの心がわかった――色ボケ、の一言で言い表せるような、ぬるい甘い仄暗いそしてきらきらと鱗粉がちりばめられた、ミルク色の夢だった。シャルロッテ、シャルロッテ、シャルロッテ、呼ぶ声さえ聞こえるよう。

 ぐるり、私の姿が反転する。能力の制御ができないことを悔しく思うヒマさえなかった。

 貴族の令嬢たるもの、やはりシャルロッテも胸元に短剣を携帯していた。しゃらり、それを抜いた。ディートリヒの足音はふわふわしている。片手の短剣をスカートのひだに隠す。

「――シャーリィ?」

 と彼は衝立をのぞき込み、私に向かって満面の笑みを向ける。

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