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しおりを挟むさて、結論から言えば母とその娘はリュシヴィエールに与えられた屋敷に住み着いてしまった。
経緯としてはこうだったらしい。母は父から解放されてすぐ王都の恋人と結婚したが破局。その後は恋人たちの家を渡り歩く生活を送り、やがて運命の恋人のセルジュと巡り合う。二人の間には愛しいサンドラが生まれた。
しかしセルジュにはいじわるな婚約者がおり、彼女の家格は高く、暗殺者でも雇いそう。このままでは命が危うい。二人は大事なサンドラちゃんのため、泣きながら愛の逃避行に至り、こんな辺境まで来るはめになってしまった、というわけである。
――どこからどう突っ込めばいいのかわからない。
セルジュはといえば、ある日ふらりと従者と一緒に馬で出かけてしまい、それ以降帰ってこない。母は気が触れたようになって罵詈雑言を浴びせたが、仕方がないものは仕方がないのだった。遠乗りに行ってくると言い置いての外出だった。はたしてどこまで駆けているのやら。
リュシヴィエールは父に現状を知らせる手紙を書いたが、返信はなかった。知らぬ存ぜぬを決め込みたくなるのもわかるから、責める気にはなれないし権利もない。
三か月が経った。年は明けて、アルトゥステア歴七百十五年の三月八日。エクトルは大丈夫だろうか? 便りがないのはいい便りというけれど。
母は自分と娘の世話をすることを要求した。
「結婚できないお前と違ってあたくしたちは人に世話される権利があるの!」
リュシヴィエールは機械的に侍女として母子に仕える。アンナは涙ぐみ、
「こんなの、聞いてません。あたしはお姫様のお世話するために来たのに……」
とヒックヒックしゃくりあげる。
「母上たちがご自分ではコルセットの鉤ひとつ止められないのは事実だわ」
とリュシヴィエールは苦笑する。すすんで母に自分の部屋を明け渡し、サンドラの頭を撫で、食べ物のいいところを差し出す。
「自分でも何やってるのかしらと思うわ。でも見捨てたら二人とも野垂れ死にだわ」
「なんでお姫様、あの母上のこと好きなんですか?」
と聞かれ、リュシヴィエールは目を逸らす。
母を――愛しては、いない。けれどもしリュシヴィエールが母に衣食住を提供できなくなれば、エクトルが金の無心をされかねなかった。彼女の貴婦人としての名誉はすでに地に落ち、失うものは何もない。家名も、若さも、美貌さえ衰えつつある。
(エクトルを巻き込ませてはいけない。サンドラには未来がある。性格も成長と共に改善するわ。クロワ侯爵家の名前がなくても生きていけるようにしてやらなくては。エクトルも、あの子も)
前世を含めれば精神年齢は母より高い。母の言う通り自分の子供を持つこともないだろう。行き場を失った母性愛が暴走でもしているのだろうか。リュシヴィエール本人にも、このくだらない自己犠牲の目的も結末もわからないのだった。
朝、リュシヴィエールは早く起き出し手早く身支度を済ませる。寝台のぬくもりが消えないうちに部屋を出て、母の部屋へ向かう。
母の部屋は、元はリュシヴィエールの部屋だった。つまりこの屋敷で一番奥まった、一番大きな部屋ということである。応接間より大きな暖炉があり、寒さとは無縁である。窓はないものの調度品もシャンデリアの魔法灯も申し分のない上等さで、寝台も大きい。
途中で使用人部屋から出てきたアンナと合流し、リュシヴィエールは母のものになった部屋の扉をノックした。
「母上、おはようございます」
返事はなかった。リュシヴィエールは中に踏み入った。寝台の上、母は愛娘と一緒に寝ている。母であろう大きなかたまりは動かなかったが、それにくっついた小さなかたまりはもぞもぞ動いて、やがてぴょこんと金の頭が覗いだ。
寝台の上にちょこんと座ると、サンドラは人形のように綺麗だった。彼女のにやにや笑いに最初は面食らったリュシヴィエールだったが、今ではそれが照れ笑いらしいとわかる。サンドラは母を揺り起こす。母は唸って抵抗したが、やがて観念して動き出した。
リュシヴィエールたちはその間、暖炉に石炭を足して湯を沸かし、着替えを用意しと動き回る。まるきり使用人の仕事をしていることに関して、リュシヴィエールに屈辱はなかった。何も思わなかった。無関心に近い、これさえしていれば近寄らないでくれるのならそれでいいわ、そんな気持ちだった。
「おはよう、サンドラちゃん」
母の声はとろけるような熱を帯びる。
「今日もとってもかわいいこと! ああ、かわいい娘っていいわね。かわいい娘はそれだけで世界一よ。愛する気にもなるわ!」
と、くすくすわざとらしい大声で笑うのだった。
母は復讐をしていた。つまりは、あの不幸な事故だということになっている不審火でリュシヴィエールが弟を助け、二人一緒に死んでくれていたら、彼女は思う存分嘆きの貴婦人になれた。生きているせいで、母親が放っておいたからこうなっただのだと周囲に責められ、どうして新しい婚家に子供たちを引き取らなかったのだと噂された。新しい夫に離婚されたのはそのせいだ――到底許せるものではない!
リュシヴィエールたちは母に嘲られながら朝の支度を手伝い、部屋をあとにした。
「散歩に行きましょう、アンナ」
「はい、お姫様」
と行ってさっさと外出する間も、母がのべつまくなし喋り続ける声、サンドラが相槌を打ち笑い転げる声が響いている。
「リュシヴィエールは馬鹿な子だったの! 顔がよくて若いからって殿方にちやほやされていい気になって――でももうお顔はねえ? もうだめよねええ? ふっしぎー! ああ、なんてこと! あんなにかわいい顔だったのに!」
「キャハハハハハ、キャハハハハハ!!」
扉を閉めながらリュシヴィエールは思う。
(おいたわしいこと。散歩にご一緒すればちょっとは気晴らしになるかしら?)
「お姫様?」
「今行くわ」
今度誘ってみよう。たぶん怒り狂うだろうけれど。
そして【暁の森】のかたわらの道を歩く道すがら、コーンウェール伯爵領シュロトカについてリュシヴィエールはアンナからさまざまなことを教わった。
口をきく魔法のリスが枝の王国と落ち葉の王国の戦争を止める話。森の中で永遠の冒険を繰り広げる夭折した子供たちの魂。泉の中から現れる女神。太古の伝説を歌う美しい少年の霊が森の中から手招きすること。森から彷徨い出てきた妖精たちが輪になって踊り、その輪の中にうっかり踏み込んでしまうと数十年は見つからない……。
「ここは神秘が残っているのね。【暁の森】の周辺には」
「はい。あたしたちは神様を信じてますが、精霊も妖精も信じてます。不信心って、言われるかもなんですが」
「そんなこと思いやしないわ。わたくしも目に見えないものがいて、助けてくれたらいいと思うときがあるもの」
と、ひそやかに秘密を分かち合うように囁きあった。アンナはリュシヴィエールの傷を、とろけて潰れた鼻や頬に空いた穴や垂れた瞼、ありとあらゆる皮膚の赤さと黒さを憐れんだが受け入れてくれたから、リュシヴィエールは彼女が好きである。
家に戻ると母とサンドラは誰かの悪口で盛り上がっていた。使いさしのコップや絵葉書や衣類がそこらじゅうに散らかっている。
父は彼女たちから逃げ続けるだろう。そもそも離婚したら責任も義務もなくなると法律で定められているのだし、サンドラは間違いなく父の子ではないからそもそもなんの制約もない。
リュシヴィエールまで逃げたらエクトルが代ろうとしてしまうかもしれない。それだけは……いやだ。
(わたくしの光、希望。わたくしの唯一。エクトル)
悲しみも汚れも苦しみも知らず、つらい思いなど何一つせずに生きていてほしいのだ。リュシヴィエールの身代わりとして。
一番広い窓のない部屋の中を覗くと、母がリュシヴィエールを見つける。ぱあっと顔を輝かせ、
「キャーアアアアアっ」
とわざとらしい悲鳴を上げた。
「キャー! キャアアア。鏡で顔をよく見てごらんなさい、リュシー! おまえなんかと肩を並べたいご婦人も騎士もいやしないわ!!」
……リュシヴィエールは火傷を負い、母は負っていない。これこそが、母がリュシヴィエールに負けていないという証明なのだった。
サンドラはひっくり返ってきゃらきゃら笑った。その声はあまりにカン高く響き、リュシヴィエールは頭がずきずきする。
その頭痛の中でそれが目に留まったのは何故だったのだろう――サンドラが何かを弄んでいた。ごく小さな薄っぺらいもの。ファッションのアクセントにするため手にもつ小物。
押し花の栞だった。……ヒトキミで見たことがある。エクトル攻略ルートの中盤で出てくるキーアイテムだ。
その栞はエクトルが母親にもらった思い出の品だった。エクトルと母親との唯一の心の繋がり。乙女ゲームの方でもエクトルの母親は彼を捨てて家を出ていってしまうのだが、こちらとは違ってエクトルが八、九歳くらいになるまでは一緒にいたようなのだ。
彼が栞をなくしてしまい半狂乱に探しているところに、偶然通りかかったヒロインが栞を見つけて手渡す。それがエクトルとの出会いイベントになる。
……といったことを、リュシヴィエールは一気に思い出した。
ゲームではヒロインと攻略対象が結ばれるのがラストスチルだが、ストーリー上の終着点は相手が違うだけで同一だ。
各キャラの攻略ルートを終えると、共通の物語の結末が流れる。【癒しの歌の聖女】となり、神殿の頂点に立ったヒロインを結ばれた攻略キャラは永遠に支えると誓い、彼女の専属護衛騎士となる。たとえ王太子キャラであっても地位を投げ捨ててヒロインを選ぶのだから、脚本家は筋金入りのハッピーエンド厨だと言われていた。
キーアイテムを取得できないとそのキャラの攻略ルートに入れない。また、ラストで【癒しの歌の聖女】の冠を被ったヒロインと攻略キャラが微笑むスチルの中にもひっそりと描かれる。そのくらい大事なアイテムなのだ。
「なぜ、あなたがそれを持っているの?」
と静かにリュシヴィエールは聞いた。サンドラはきょとんとしたあと、リュシヴィエールの醜さから我が身を守るようについと目を逸らし、
「あたしのおねえさまのくせにそんなことも知らないのぉ? なんで知らないの?」
と、にやにやするのだった。サンドラはよくリュシヴィエールを叩いたり蹴ったりしたが、今にもそうして行為に出そうな顔だった。
リュシヴィエールは母を振り返る。母は自分に近づく火傷まみれの顔を見てひいぃっと怯えた。
「近いわよ! 離れて!」
と肩を突き飛ばされたが、母より身長の高いリュシヴィエールは揺るぐことはない。杖はちょっと絨毯の上を滑ったものの、踏ん張って踏みとどまる。
「あれは……もしかしてお二人で、おつくりになったのですか? 手ずから?」
と聞きながらもほとんど確信していた。エクトルの過去エピソードはそうだったから。クロワ侯爵邸の中庭、降りしきるピンクの花、母と二人で一番見た目のいい花をえり分けて選んで、押し花にした。エクトルの唯一の、一番大事な思い出だ。
「はあ? 何わけわかんないことを……」
「お答えくださいまし。母上」
リュシヴィエールはあまりに鬼気迫っていた。母は気迫に押され、おそらくは傷口を直視しかねたのもあったのだろう、頷いた。
「そんな……」
へなへなと力が抜けて、寝台の端に腰かけた。サンドラは栞を取られないよう後ろ手に隠したが、リュシヴィエールは栞が欲しいわけではなかった。
この世界では、乙女ゲームではない、この現実である世界では……その思い出すらエクトルには許されないのか。リュシヴィエールはエクトルを殴らないけれど、母に捨てられ、父に暗殺者にされ、王立魔法学園に放逐され。
栄光のすべてを手に入れるのはヒロインだ。それはわかっている。ストーリーモードをクリアすると見れるスチルでは、ヒロインと攻略キャラが【癒しの歌の聖女】のひとつの冠を神像の前に掲げ、二人で永遠を誓う。その描写があるからこそ、『一つの冠をいっしょに~キミと運命の分岐点~』なのだ。
(わたくしだけでは足りなかった。他の人たちのくれる愛情も足りなかった。あの子には足りないものばかり)
もし世界の中心であるヒロインに選ばれ、彼女と一緒にいてエクトルが幸せだとしても。かつて母親に愛された記憶があるのとないのとじゃ、大違いだ――。
サンドラはにやにやしながら栞をぱたぱた動かして、
「おねえさまぁ、これほしい? ほしい? ほしいの? あーげないっ!」
と楽しそうにうねうね身体をくねらせる。
リュシヴィエールは立ち上がった。背中が硬くこわばり、火傷のひきつれと相まって老婆のような歩き方で彼女は扉へ向かう。
母が敏感に異変に気付いたのは、さすが王宮に仕えた侍女だっただけはある。だが残念ながら遅すぎた。もう。喧嘩を売る相手、虐げてもいい相手を母はよく見極めるべきだった。足蹴にする相手がいなければ立ってもいられない人であったなら。
――たとえ悪意がなかったからといって、エクトルに関わることであればリュシヴィエールは冷静ではいられない。
「待ちなさいよォ! 何しようとしてるわけぇ!?」
「この部屋は閉じます。少しの間、中でおふたり、静かにしていてくださいまし」
リュシヴィエールはごく平静に見えた。錯乱とも狂乱とも縁遠い令嬢に。傷のすべてが消えて、かつて美しかった頃に戻ったかに見えた。
リュシヴィエールは強引に扉を閉めると、外側からだけ操作できるノブの裏側の細工をいじって鍵をかけた。ゴン……っと大きな振動がして、壁の中に嵌め込まれた歯車が回り、頑丈な閂が扉を封鎖する。
元々、精神や立場に問題のある女性を閉じ込めるために建てられた屋敷である。このような仕掛けはいくらでもあり、窓がないつくりも、奇妙に豪華な内装もその仕掛けを目立たせないためにある。
扉ごしに母が扉をこじ開けようと奮闘する気配がする。彼女はこれまで以上に尖り切った声でリュシヴィエールへ叫んだ。
「母親を脅してタダですむとでも思ってるの!? 罰当たり!」
「しぃーっ。お静かに、お静かに。母上、お下品でしてよ」
「許されないわよ、許されない! あたくしの愛も恋も全部おまえが奪ったくせに!」
きゃいいいいい、と母が悲鳴を上げ、地団駄を踏む音。サンドラがきゃああああと叫び始めた。分厚い扉と壁はそれらを余さず吸収する。
「――あたくしの人生をおまえが壊したくせにぃいぃ!!」
リュシヴィエールはそこを後にした。
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