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ダキネラル帝室アヴァトグルニ家は滅んだ。
レオは国王を名乗って即位し、アガットは王妃になった――王妃! 成り上がり子爵の娘が?
今も当時も変な夢を見ているとしか思えない。それでもこれが現実だった。
戴冠式で頭に王妃の冠を乗せられたとき、思わず笑ってしまった、あまりに現実味がなさすぎて。それについてくどくどとお説教してきた上、どうしてエレオノーラ姫様があんなことになって……こんなのが……と泣いた女官長は殺してしまった。彼女の味方をした侍女たちは震えあがり、今となってはアガットにとてもよくしてくれている。
この政変を好機とみて、ダキネラル帝国から領土を掠め取ろうとする国もあった。レオはそのたびに遠征軍を組織し自ら敵を滅ぼした。いつの間にか彼はアガットのように、自分の手で敵を殺さねば気が済まない性格になっていたのだった。
「きみのせいだよ」
と夫は笑い、アガットは肩をすくめる。
「あなたは最初からそうでしたわよ。自分で気づかなかっただけ」
アヴァトグルニ家が滅んだ日、レオに呼応した連合軍には呆れたことに隣国の正規軍と魔法使い部隊がいた。景気よく爆発を起こしたのもその一群で、なるほど他国の宮殿であれば敬う気持ちも少なく、思う存分大型魔法を試してみたくもなるのだろう。
「あとからどんな貸しを言われるかわかりませんのに……」
とアガットは呆れ、
「仕方がない。あのときはきみを早く腕に抱きたい一心だった」
とレオは飄々と嘯く。
――彼の本心がどこにあるどんなものなのか、アガットはいまだにわからない。真実を知りたい気持ちもあるが、わからないままでもいいと思うようになっていた。
即位式から一年が経ちある程度国境も落ち着いて、休めるかといえば決してそうではない。書類の山と会議と押印、外国大使との会合に、あらゆる種類の人々が催す夜会への出席。見た目ばかりは華やかで、その実気の抜けない仕事漬けの毎日だ。
とくにアガットは素養はともかく下地がなかったから、至らない王妃として受ける教育はレオの目から見ても質量ともに厳しかった。アガットはそれに食らいついた。王妃の地位というよりは、レオの隣に立てる権利を失いたくなかったのである。
周囲がそれとなく心配していたように、教師を殺すことはなかった。彼らの言うことは皆、的を得ておりアガットの足りないところを補うためのものだったからだ。
同じ寝台で眠りにつき、同じ部屋で寝起きする日々がこの一年、続いていた。
「あなた、他の人のところに行きたいときもあるんじゃないの」
と何の気なしにアガットが訪ねると、レオは塩漬けの魚の塩抜きを忘れて食べたような顔をして、
「それをしたらその女性は無事でいられるのかい?」
「いいえ」
「だよねえ」
くっくと喉を震わせて笑うのだった。
春の早朝だった。アガットはふと、料理がしたいと思った。今日は外国商人に会い、宮廷の予算を確認するため管財人と協議し、王のかたわらで終戦式典に参加する予定である。そんな暇はどこにもなかったが、とにかく何か手を動かしたくてウズウズする。
「刺繍でも始めようかしら」
「ふうん。いいじゃないか。私のハンカチでも縫っておくれ」
アガットは黙ったままレオの上着を侍女から受け取り、着させてやった。王と王妃の身繕いを手伝う身分の侍女や侍従たちがクスクス笑った。
終戦式典ではレオの功績が読み上げられ、参列する貴族たちにたくさんのことを念押しした――魔物との戦でその被害を食い止め続け人の世を守り切ったのは誰か。軍隊の強い指示を受け英雄となったのは誰か。その功績をお妬んだ先王が彼にどれほどのことをしたのか……家名を侮辱され名誉を剥奪され先祖の墓所までも荒らされ、その上妻を不条理なお題目で拘束された! 国に忠義を尽くしたレオは、そこまでされてようやく立ち上がったのだ、といったことを。
最後に、確かに最も輝かしい魔王討伐の功績を上げたのは勇者ジュリアンだったがと付け加えるのを忘れない。原稿を淡々と読みあげ続ける大司教の背後の一群の中、司祭の地位を司教にまで格上げされた魔法使いリュドヴィックが小さくなっている。
権威はあっても権力のない地位と同様に、リュドヴィックは知恵はあっても思慮深いわけではなかったのだと、今のアガットにはわかる。なんならレオとアガットを娶せたことでさえ本当に手の届く範囲で引き合わせたというだけ。それでもシャヴァネル家への忠節は確かに持っており、かつレオが彼に感謝しているから、まだこの場にいられるだけ。
続いて、人倫に悖る行いをしたため天の神に見放されたアヴァトグルニ家の面々の末路が仰々しく紹介された。
アヴァトグルニ先王は森の狩りで不慮の事故に遭い、死んだ。追従していた大臣も侍従も口を揃えて言った、あの方の馬が突然棹立ちになり、驚かれた拍子に崖に落ちてしまわれました。
真相を追求する者も、遺体を探す者ももういない。それをしようとした人間は皆死んだ、主と同じ不慮の事故や謎の病死だった。
エレオノーラ姫と勇者ジュリアンは手に手を取り合い帝国を出奔したのだ、というくだりに差し掛かると、麗しき姫君と農家出身の勇者の行く末に軽いどよめきが上がった。運命の恋人たちの物語に感じ入る者もいれば、我関せずを決め込む者、首を縦に振る者横に振る者、さまざまだった。
式典が終わり、夜会までの間に慌ただしく軽い食事を詰め込む夕暮れがきた。クラッカーにレバーペーストを乗せたのを紅茶で流し込みながら、レオはふと思いついたように、
「先王の姫はどうして殺してしまったんだい? きみに何かしたのか?」
緑の目をくるりと回して聞いてきたものだからアガットは笑い出し、ゆで卵を皿の上に落とした。パラパラと散った卵の殻をナディネがさっと掃除した。室内の使用人たちが聞いているのも承知の上で、
「だってあの人、あなたのことを好いておられたんですもの。許せませんでしたわ」
と、ころころ教えてやった。
「そんな理由で?――まるでうちの母上みたいだな」
「あら、あの方そんな感じでしたの」
「うん。私が同い年の侍従とあまりに仲良くしすぎたので、腹を立てて殺してしまったのだ」
窓の傍で夜会の手順書とそれに出席する隣国太子の所領の資料を持って立つミゲルが唇をひん曲げ、少し背の伸びたジョシュアがさっと目を逸らしたところからするに、それはレオにとって笑いながら話さなければならないほどの悲劇だったらしい。アガットはブドウの皮を剥きながら話題を逸らした。
レオの過去をアガットは詮索したことはない。彼が話したいと思った時に話してくれればいいと思っている。
自分の過去についても、もうすんだことだ。――どうしてあの人たちは私を殴り、ものを捨て、きょうだいと差をつけ、不幸のすべてを私のせいにしたのだろう、と物悲しくなるときは、レオの腕の中に潜り込んで早々に寝てしまうことにしている。自分もまた、彼にとってそんな腕であればいいと思う。
夜会ドレスに着替えるため自室に下がり、侍女に着付けてもらいながらふと昔のことを思い出した。姿見に映る自分の姿があんまりにも、思っていた未来と違っていたものだから。
まだ暑かった日のことだ。狩猟小屋の入り口で二人してまどろんだときがあった。わけもなく盛り上がってしまい、ミゲルも来ない日だったのでそのまま情熱に身を任せた。恥ずかしかったが、幸福だった。夕日がレオの金髪をオレンジに染めていた。
「私ができるけれどやれないことを、アガットは衝動的にやってしまうな。そのさまが――とても、いいと思うよ」
彼は裸足のつま先で雑草をつつきながら、くつろいだ満ち足りた様子で唸るように言い、少し照れた笑顔を見せた。
(レオ様の殺しには大儀があった。私の殺しにはないものが)
王妃という立場を得、冠を戴き調理器具に触れることもなく毒の生成も他人任せ、こんな生活をしている今となっては懐かしい思い出である。あの古い小さな小屋で、工夫しながら生活をこなしていったこと……。
自由、という言葉の甘露さを知った数か月だった。
アガットは今、あのときほど自由ではない。だがレオがいるので、幸せだと思うのだった。
レオは国王を名乗って即位し、アガットは王妃になった――王妃! 成り上がり子爵の娘が?
今も当時も変な夢を見ているとしか思えない。それでもこれが現実だった。
戴冠式で頭に王妃の冠を乗せられたとき、思わず笑ってしまった、あまりに現実味がなさすぎて。それについてくどくどとお説教してきた上、どうしてエレオノーラ姫様があんなことになって……こんなのが……と泣いた女官長は殺してしまった。彼女の味方をした侍女たちは震えあがり、今となってはアガットにとてもよくしてくれている。
この政変を好機とみて、ダキネラル帝国から領土を掠め取ろうとする国もあった。レオはそのたびに遠征軍を組織し自ら敵を滅ぼした。いつの間にか彼はアガットのように、自分の手で敵を殺さねば気が済まない性格になっていたのだった。
「きみのせいだよ」
と夫は笑い、アガットは肩をすくめる。
「あなたは最初からそうでしたわよ。自分で気づかなかっただけ」
アヴァトグルニ家が滅んだ日、レオに呼応した連合軍には呆れたことに隣国の正規軍と魔法使い部隊がいた。景気よく爆発を起こしたのもその一群で、なるほど他国の宮殿であれば敬う気持ちも少なく、思う存分大型魔法を試してみたくもなるのだろう。
「あとからどんな貸しを言われるかわかりませんのに……」
とアガットは呆れ、
「仕方がない。あのときはきみを早く腕に抱きたい一心だった」
とレオは飄々と嘯く。
――彼の本心がどこにあるどんなものなのか、アガットはいまだにわからない。真実を知りたい気持ちもあるが、わからないままでもいいと思うようになっていた。
即位式から一年が経ちある程度国境も落ち着いて、休めるかといえば決してそうではない。書類の山と会議と押印、外国大使との会合に、あらゆる種類の人々が催す夜会への出席。見た目ばかりは華やかで、その実気の抜けない仕事漬けの毎日だ。
とくにアガットは素養はともかく下地がなかったから、至らない王妃として受ける教育はレオの目から見ても質量ともに厳しかった。アガットはそれに食らいついた。王妃の地位というよりは、レオの隣に立てる権利を失いたくなかったのである。
周囲がそれとなく心配していたように、教師を殺すことはなかった。彼らの言うことは皆、的を得ておりアガットの足りないところを補うためのものだったからだ。
同じ寝台で眠りにつき、同じ部屋で寝起きする日々がこの一年、続いていた。
「あなた、他の人のところに行きたいときもあるんじゃないの」
と何の気なしにアガットが訪ねると、レオは塩漬けの魚の塩抜きを忘れて食べたような顔をして、
「それをしたらその女性は無事でいられるのかい?」
「いいえ」
「だよねえ」
くっくと喉を震わせて笑うのだった。
春の早朝だった。アガットはふと、料理がしたいと思った。今日は外国商人に会い、宮廷の予算を確認するため管財人と協議し、王のかたわらで終戦式典に参加する予定である。そんな暇はどこにもなかったが、とにかく何か手を動かしたくてウズウズする。
「刺繍でも始めようかしら」
「ふうん。いいじゃないか。私のハンカチでも縫っておくれ」
アガットは黙ったままレオの上着を侍女から受け取り、着させてやった。王と王妃の身繕いを手伝う身分の侍女や侍従たちがクスクス笑った。
終戦式典ではレオの功績が読み上げられ、参列する貴族たちにたくさんのことを念押しした――魔物との戦でその被害を食い止め続け人の世を守り切ったのは誰か。軍隊の強い指示を受け英雄となったのは誰か。その功績をお妬んだ先王が彼にどれほどのことをしたのか……家名を侮辱され名誉を剥奪され先祖の墓所までも荒らされ、その上妻を不条理なお題目で拘束された! 国に忠義を尽くしたレオは、そこまでされてようやく立ち上がったのだ、といったことを。
最後に、確かに最も輝かしい魔王討伐の功績を上げたのは勇者ジュリアンだったがと付け加えるのを忘れない。原稿を淡々と読みあげ続ける大司教の背後の一群の中、司祭の地位を司教にまで格上げされた魔法使いリュドヴィックが小さくなっている。
権威はあっても権力のない地位と同様に、リュドヴィックは知恵はあっても思慮深いわけではなかったのだと、今のアガットにはわかる。なんならレオとアガットを娶せたことでさえ本当に手の届く範囲で引き合わせたというだけ。それでもシャヴァネル家への忠節は確かに持っており、かつレオが彼に感謝しているから、まだこの場にいられるだけ。
続いて、人倫に悖る行いをしたため天の神に見放されたアヴァトグルニ家の面々の末路が仰々しく紹介された。
アヴァトグルニ先王は森の狩りで不慮の事故に遭い、死んだ。追従していた大臣も侍従も口を揃えて言った、あの方の馬が突然棹立ちになり、驚かれた拍子に崖に落ちてしまわれました。
真相を追求する者も、遺体を探す者ももういない。それをしようとした人間は皆死んだ、主と同じ不慮の事故や謎の病死だった。
エレオノーラ姫と勇者ジュリアンは手に手を取り合い帝国を出奔したのだ、というくだりに差し掛かると、麗しき姫君と農家出身の勇者の行く末に軽いどよめきが上がった。運命の恋人たちの物語に感じ入る者もいれば、我関せずを決め込む者、首を縦に振る者横に振る者、さまざまだった。
式典が終わり、夜会までの間に慌ただしく軽い食事を詰め込む夕暮れがきた。クラッカーにレバーペーストを乗せたのを紅茶で流し込みながら、レオはふと思いついたように、
「先王の姫はどうして殺してしまったんだい? きみに何かしたのか?」
緑の目をくるりと回して聞いてきたものだからアガットは笑い出し、ゆで卵を皿の上に落とした。パラパラと散った卵の殻をナディネがさっと掃除した。室内の使用人たちが聞いているのも承知の上で、
「だってあの人、あなたのことを好いておられたんですもの。許せませんでしたわ」
と、ころころ教えてやった。
「そんな理由で?――まるでうちの母上みたいだな」
「あら、あの方そんな感じでしたの」
「うん。私が同い年の侍従とあまりに仲良くしすぎたので、腹を立てて殺してしまったのだ」
窓の傍で夜会の手順書とそれに出席する隣国太子の所領の資料を持って立つミゲルが唇をひん曲げ、少し背の伸びたジョシュアがさっと目を逸らしたところからするに、それはレオにとって笑いながら話さなければならないほどの悲劇だったらしい。アガットはブドウの皮を剥きながら話題を逸らした。
レオの過去をアガットは詮索したことはない。彼が話したいと思った時に話してくれればいいと思っている。
自分の過去についても、もうすんだことだ。――どうしてあの人たちは私を殴り、ものを捨て、きょうだいと差をつけ、不幸のすべてを私のせいにしたのだろう、と物悲しくなるときは、レオの腕の中に潜り込んで早々に寝てしまうことにしている。自分もまた、彼にとってそんな腕であればいいと思う。
夜会ドレスに着替えるため自室に下がり、侍女に着付けてもらいながらふと昔のことを思い出した。姿見に映る自分の姿があんまりにも、思っていた未来と違っていたものだから。
まだ暑かった日のことだ。狩猟小屋の入り口で二人してまどろんだときがあった。わけもなく盛り上がってしまい、ミゲルも来ない日だったのでそのまま情熱に身を任せた。恥ずかしかったが、幸福だった。夕日がレオの金髪をオレンジに染めていた。
「私ができるけれどやれないことを、アガットは衝動的にやってしまうな。そのさまが――とても、いいと思うよ」
彼は裸足のつま先で雑草をつつきながら、くつろいだ満ち足りた様子で唸るように言い、少し照れた笑顔を見せた。
(レオ様の殺しには大儀があった。私の殺しにはないものが)
王妃という立場を得、冠を戴き調理器具に触れることもなく毒の生成も他人任せ、こんな生活をしている今となっては懐かしい思い出である。あの古い小さな小屋で、工夫しながら生活をこなしていったこと……。
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