不埒に溺惑

藤川巴/智江千佳子

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STEP 6 「その生々しいのを、これから俺にされるんだよ」

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 頭の近くで、八城の笑い声が響く。低い音は、よく胸に響く。

「誘惑はお休み?」

 揶揄われているのだと分かっていても、反抗する言葉など浮かんでこない。

「八城さんに誘惑されすぎて、それどころじゃない」
「恋愛初心者には見えないんだけどな」

 八城に翻弄されて狼狽えてばかりいる私のどこを見れば、そんなお世辞が出てくるのだろうか。

 吃驚してしまった。私が八城と同じく恋愛上級者だったのなら、今すぐここで、八城をその気にさせられるはずだ。

「ほんとうですか」
「ん」
「……でも、全然エッチしてくれません」

 蚊の鳴くような声でぽつりとつぶやいた。

 これ以上好きになりたくない。

 優しい思い出なんて作らないで、ただ一度の熱だけを覚えて生きていこうと思っていたのに、八城のそばに居るとどんどん貪欲になってしまう気がする。

 間接照明だけが照らし出す八城の表情は、いつも以上に真剣な色をしているように思う。まっすぐに見つめあえば、瞳が熱く光った。

「本音では、今すぐ食いたいけどね」

 ストレートな言葉で、息の根が止められてしまいそうだった。呼吸を忘れた私の表情を見て、八城が手を伸ばしてくる。

 こめかみから零れ落ちていた私の髪を掬って、耳にかけなおす。その間、ずっと八城は私の瞳を見下ろしていた。

 この人にすべてを捧げた時、私は正気を保っていられるのだろうか。

 好きだと叫んで、八城を驚かせてしまいそうだ。きっと、罪悪感を持たせてしまうに違いない。

「どうされたい?」

 八城に意思を確認されるたびに、自分がひどくふしだらな人間になってしまったような気がして落ち着かない。

 優しい手つきが髪から首筋に流れて、皮膚をあまく引っ掻くように爪先でなぞられた。まるで、何かを唆すような手つきだ。

「このままここで、食われたい?」
「わ、たし」
「はは、冗談」
「……ええ?」
「あんまり無防備すぎるから、お仕置き」
「お、しおき……」

 けろりと口遊んだ男が、優しく私の頬を抓った。「ビビった?」と首をかしげられて、無意識に詰めていた息を吐き下ろす。

「しんぞうに、わるいです」
「あはは、ごめんごめん、寝よっか」

 けらけらと笑われて、今更に心臓がおかしなくらい鼓動していたことに気づいた。

 今日一日、お風呂に入ったあたりから、ずっとうるさかったのだろうか。それともその前からずっと、八城に酔っていたのだろうか。

 落ち着かせようと八城に背を向けて、ベッドの端まで身体を動かす。

「ん? 明菜ちゃん? 怒ってんの?」
「おこってないです」
「あはは、そのポーズは怒ってそうでかわいいんだけど」
「してくれるのかなって期待を持たされたので、落ち込んでいるだけです」

 すらすらと口に出しながら、うるさい心臓を丁寧にさする。

 これから、この人と一緒に眠って、朝早くに起きなければならない。なるべく八城が隣にいることを忘れようと瞼をぎゅっと瞑って、身体を縮込めた。

「あきな」
「っん、な、んですか」

 距離を取っていたはずなのに、背中にぴったりと誰かの熱が触れた。

 布団の中で後ろからお腹に腕が回ってくる。八城の腕の感触で、ぴくりと肩が上ずった。

「機嫌直して」
「おこ、ってませ、ん」
「今日は抱かない」
「わか、ってるので、離れて」

 初めから、知っている。

 この部屋から出ていくところを引き留めた時にも今日はしないと聞いていたから、私の緊張も、ふわふわと浮かんでいるくらいでどうにかなっていた。

 これが、今日抱くと宣言されていたら、私は緊張で壊れてしまっていただろう。ハートはばらばらだ。かき集めることもできずに途方に暮れるのだと思う。

 どうにか引き剥がそうとお腹に触れている八城の手を掴んだら、たっぷりと色気を孕んだ声に甘く囁かれた。

「ゴム持ってきてないし」
「……ご、」
「あはは、エッチしたいは言えるのに、ゴムは恥ずかしいの?」

 いつの間にか、私が掴んでいたはずの手に、指先を掴まれている。

 八城の手のひらが熱い。緊張で耳鳴りがしてきそうだ。耳元に八城の声が響いて、たまらず声をあげる。

「な、まなましい、と言いますか」

 下手な言い訳で、八城の声に熱がこもった。

「その生々しいのを、これから俺にされるんだよ」

 八城が男であることを思い知らせるように低く囁かれて、瞬時に彼の手に触れていた指先を引いた。ぱっと離れて安堵の息を吐く前に、今度はがら空きになったお腹に八城の手が這ってくる。

「や、」

 自分の声が、八城を呼びかけたのか、それとも、迫りくる予感に震えて拒絶の言葉を口にしたのか、判別がつかなかった。

 八城の手が、熱を宿すように下腹部をまるくなぞる。

「や、」
「ここ、ぐちゃぐちゃにされて、明菜は力で勝てないから、俺に食われ続けるしかない」
「や、しろさん」
「怖いって言ってもやめてもらえないかもしれない」
「まって、なんでそんな、」

 じわりと熱が灯されて、引きつった声が鳴った。こんなふうに触れられるなんて、知らない。

 何かを孕ませようとするような妖しい手つきで、背筋が勝手に痺れる。

 愛でるよりも、熱を滞留させようとする人の仕草に似ていた。足搔こうにも、がっちりと抱かれる身体は何一つ抵抗の形を作れない。混乱してじたばたと動かした足は、簡単に八城の足に絡めとられた。

 まるで八城の玩具だ。

「花岡も、中田も、男は全員そうだよ。こんな魅力的な女の子を前にして、途中でやめたりできない」
「ん、お、なか……っ、手、ぅ」
「悪いやつなら、酔わせて、好きなだけぐちゃぐちゃに抱く」

 ぞっとするほど低い声に、わけもわからずに何度も頷いた。

 八城は、手加減をしてくれている。何度も思い知らされていることにもう一度気づいてしまった。

 何度も頷くうちに、八城の手が下腹部からそっと離される。身体を拘束していた足の力も緩んで、ようやくすこしだけ呼吸ができるようになった。

 八城の本気の前で、私の抵抗など些末な児戯に等しい。

 熱を孕んだ指先がするすると私の手を探り当てて、優しくつなげられた。すこし前に感じた強引な熱とは違う感触に、心底安堵している。

 私の安堵が伝わったのか、八城に緩やかに抱きしめられる。

「心配だから、俺以外には頼まないでね」

 くつくつと笑いながら、形を確かめるように後ろから抱きしめられる。その熱に侵食されるように、少しずつ落ち着きが戻ってきた。

 ずっと高鳴りっぱなしの心臓を抱えているのに、どうしてこんなにも安心できるのだろうか。

「やしろ、さん」
「俺以外のやつにフラフラしたら」
「し、たら?」
「遠慮なくめちゃくちゃにする」
「めちゃくちゃ、」

 脅しのような言葉なのに、どうしてか優しい。

 胸がきゅっと詰まる甘い声に、身体の奥がじりじりと疼いた。抵抗せずに、八城に握られる手に力を込めたら、八城の額が私の後頭部に擦れる感触がした。

「でも明菜のはじめては、できるだけ優しくしてえし」

 珍しく葛藤するような声が聞こえて、ますます胸が甘く痺れてくる。

 ハートに砂糖を詰め込まれているような気がする。

 八城と一緒にいる時の自分は、砂糖菓子にでもなってしまいそうだ。八城に食べてほしくて、仕方がなくなる。

「やさしく、はたすかり、ます」

 手加減のない八城の熱では、たぶん、ばらばらに散らばってしまうだろう。盲目に好きになりすぎて、どうにかなってしまう。

 早く離れなければならないと思うのに、この熱に触れたら、どうしようもなく手放したくなくなる。

「ん、だから、こういうことされんのは、俺だけにしてください」

 八城さん、恋愛ゲームは難しいです。

 ずっと前から好きだったから、もっと好きになるしかないんです。ずっと私の負けだって、決まっているんです。どうしようもなくずるい嘘を吐いて八城の時間を奪っているから、本当のことなんて言い出せない。

 胸に痺れる愛おしさと苦しさを振り切るようにどうにか八城のほうを向き直して、目を見張っている八城を見た。

「言われなくても、八城さんだけです」

 だから、はやくこの人に抱かれて、全部を終わりにしなければならないと思う。真剣に思っているのに、瞼を三度瞬かせた八城が緩く笑った。

「あー、マジで」
「うん?」
「そういうこと言うのも、俺限定で頼む」
「……八城さんしかいないもん」
「キスしてえ」
「ええ?」

 今度は私が目をまるくしてしまった。

 私の反応を見た八城が小さく笑って掠めるように口づけてきた。間接照明に照らし出された光彩の淡い寝室で、八城の瞳だけがどろどろに甘く輝いていた。

「あきな、もう一回」
「ええ、やし、」

 もう一回と言いながら、何度も繰り返されて、唇が熱を持ってくる。

 眠ると言ってから、どれだけの時間が経っているだろう。何度も触れ合わされて、ふいに、燃えそうに熱い瞳と視線がかち合った。

「や、しろさ」
「あー、クソ」
「うん?」
「寝よ」
「は、い」

 視線を逸らした八城が、きゅっと瞼を瞑った。

 唇も、私を緩く抱きしめる八城の身体も、ぽかぽかと熱い。すぐに眠りに落ちてしまえそうな温かさなのに、八城を意識しすぎて、本当に眠れるのか、不安になってしまった。

 力を入れて瞼を瞑っていた八城は、暫くしてからぱっと目を開いて私を見下ろした。

 優しい腕にぴったりと抱き直されて、首の下に腕が入ってくる。痺れないのかな、と一人で思っているうちに、静かな声が響いた。

「おやすみ」

 八城の声は、いつも溌溂としている印象があるのに、二人の時の声は、どこか優しい。

 こんなにも丁寧に発音してくれるのだと知ってしまったら、本当に離れがたくなるからずるい。

 おやすみをしても、明日には、おはようがあって、八城の休日に、入れてもらえる。

 うれしい明日が待っていることを思い出して、勝手にわくわくしてしまった。

「おやすみなさい」

 私の声を聞いて瞼を下した八城をじっと見上げた。なめらかで綺麗な瞼だと思う。

 ふいに思いだして、何も言わずにそっと近づく。

 生命の鼓動が聞こえてきそうな瞼に静かに口づけて、すぐに八城の腕に戻った。何も言わない八城にもう一度抱き直されて、今度こそ瞼を下す。

 あんなに眠れないと思っていたはずなのに、八城の熱に包まれて、いつの間にか深い眠りの底に転がっていた。

 意識が途切れる前のあやふやな世界で、誰かが私の瞼に優しいキスを落としてくれていた、ような気がする。
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