不埒に溺惑

藤川巴/智江千佳子

文字の大きさ
上 下
16 / 52

STEP 4 「明菜のくち、うまそうに見えるから」

しおりを挟む
 許可を取るような口調で囁くくせに、その目のどろどろの熱を見せつけられたら、答えを返す方法すらあやしく歪んでしまう。

 私は今、一体何を、言われたのだろうか。

 つねに弧を描いている八城の唇が、私の名前をもう一度呼んだ。「あきな、」と囁かれて、小さく震えた声を吐き下ろす。

「き、す……って」
「ん」
「は、い?」
「今、ここで」
「い、ま?」

 足が地面に縫い付けられていく。じっと、身動きすら取れずに八城を見上げていた。八城が一歩分、身体をこちらに寄せてくる。ただ、抵抗さえも奪われて、八城の瞳を見つめていた。

「したい」

 囁きながら、八城が屈んで顔を寄せてくる。

 近づかれる瞬間に八城の香水が香って、ふと我に返った。後退りしようと足を動かした私の腰に誰かの腕が回って、真逆の方向につんのめりかける。

「逃げんな」
「業務時間中、です」
「俺はいま休憩中」

 すこし休憩していいとは言われた。けれど、絢瀬が用意してくれたコーヒーはきっと、私の知らないうちに冷めきって、飲むころには、すこし残念な温度になってしまっているだろう。八城の分も気を利かせて淹れてくれたはずなのに、ちっとも手を付ける気配がない。

 どこまでも近づいて来ようとする八城の胸を押し返そうと手を動かして、あっさりと熱に捕らわれる。

 私の指先を掴む八城の手が、燃えそうに熱い。熱い感触に吃驚しているうちに、小さく八城の唇が笑ったのが見えた。

「わたしは」

 肯定も、否定も、させる気がなかったのだろう。

 震える声が、柔らかく触れた何かの熱で、途切れてしまった。視界が曖昧になってしまいそうなほどに近くにいる人が、やはり唇を笑わせている。

「や、しろさん」
「……もうした」

 八城の囁きは、からかうような声だった。

 八城の家のソファでされたときは、一度も唇に触れられなかった。

 もしかしたら、この恋人ごっこのなかでは、キスはできないのかもしれないとも思った。けれど、八城は簡単に、私の唇に熱を移して笑っている。

 八城は、たぶん、はじめての金曜日に部屋を訪れた私相手にも、簡単にキスをすることができただろう。

 今更思い知った。八城の手腕の前で、私が逃げることなどできるはずもない。私に合わせて、可愛らしいままごとの恋愛をしてくれている。

 この人を、すこしでも誘惑しようと思った自分の浅はかさに、打ちのめされてしまいそうだ。

「いま、ゆうわく、してませ、ん」

 誘惑なんて、できていたことは、一度もない。

 どうして、今、このタイミングで八城がキスをしてきたのかもわからない。分からないことばかりで、私の頭はつねに八城に支配されている。

 これが相手に誘惑されて、陥溺させられた人間の頭の中なのだとしたら、私に同じことができるはずもない。

 八城は、私の精いっぱいの悪態にも楽しそうに笑っている。どうしてこんなにも、余裕なのだろう。いまだに腰に回された手のせいで、どこにも逃げられない。

「そ? じゃあ勝手に誘惑されたかも」
「勝手にって」


 誘惑をしなければならない。逃げるのではなく、今ここで、八城を誑かす何かを仕掛けなければならない。けれど、そんなことをしていたら、今日のこれからの仕事は、たぶん、何も手につかなくなってしまう。

「明菜のくち、うまそうに見えるから」
「くちは、ぜんぜん」
「食いたい」

 ストレートに誘惑されて、とうとう目が眩んでくる。ただ、逃げ出したい気分でいっぱいになって、とうとう逃げるように顔が俯いてしまった。

「し、ごとちゅう、です」
「ん?」
「あやせさん、もどって、きます」
「んー、まだ時間あると思うけど」
「こんな、ところで、」
「あと三分くらいは、俺と明菜だけ」

 俯く耳に、そっと囁き入れてくる。悪い言葉を使って、わざと揺さぶっているのだとわかってしまった。

「——どうする? 誘惑、してくれないの?」
「ゆ、うわくは」
「三分あったら、いっぱいキスできるけど」
「やしろさん、」
「したくないですか」

 したいなんて口に出したら、三分では終わってくれなさそうな声だった。

 触れられる手も、腰も、猛烈に熱い。何か知らない感覚を植え付けられているような気がして、必死で首を振った。

「……っだめです」
「あはは」
「八城さんっ」

 本気で困り果てて小さく叫んだら、私に熱を送り込んできていた手があっさりと剥がれた。瞬時に一歩後退りして、給湯室の入口を隠すように立っている背の高い男性を見上げる。

「はい。ごめんなさい。仕事戻ります」

 あっさりと謝罪されて、急に感情の行き場所をなくされてしまったような気分だ。八城は可愛らしく頭を下げて、顔をあげながら私の表情を覗き込んでくる。

「あ、怒ってなくてよかった」
「お、こっては、いないです、けど。……しんぞうにわるいです」
「はい。調子乗りました」
「会社で誘惑は、ずるいです」
「はは。ごめんごめん」

 けらけらと笑いつつ、「もう何もしないから横行っていい?」と聞かれて、乱れた拍動を整えながら頷く。

 さっきまでの意地悪な目を引っ込めた八城が優しく笑って、冷めきったコーヒーを掴んだ。躊躇いなくカップに口をつけて、運動後に水分補給をするかのようにごくごくと飲み下していく。

 しきりに運動する喉仏に唖然としてしまった。こんなにも、コーヒーを水のように荒っぽく、豪快に飲む人を見たことがない。

 八城の豪胆さを見ているような気分で、小さく笑ってしまった。

「何笑ってんすか」
「あ、ごめんなさい。豪快にお飲みになるから」
「さすがに一口も飲んでなかったら、絢瀬さんに、いかがわしいことしてたってバレるでしょ」
「あ……、飲みます」
「明菜ちゃんはゆっくりでいいよ」

 慌てて同じように飲みかけて、カップを手で塞がれてしまった。

 伸ばされた手を辿って八城の顔を見上げる。八城はすでに空にしたらしいカップを、シンクに置いて、私を見つめ返してきた。

「ごちそうさま」
「あ、いえ。これは絢瀬さんが」
「いや、さっきのこと」
「さっき、の?」
「わかんねえの? ここ、うまかったです。ごちそーさまって意味だけど」

 からかうように自分の下唇のあたりを二度指先で叩いて示してくる姿に、すこし落ち着きかけていた心音がうるさくなってしまった。八城の隣にいる間、平常心でいられたことがない。

「明菜ちゃんにずるいって可愛く睨まれても、やめる気ないから、覚悟してください」

 八城のスイッチの切り替わりの前で、常に目を回している。

 遠慮しない指先が、私の髪の表面を愛でるように優しく撫でる。耳をあらわにするように髪をかけられて、動揺している間に提案を吹き込まれた。

「明菜」
「ん、は、い」
「今日、明菜ん家、行っていい?」

 今日は金曜日だ。

 もちろん、八城の家に行く準備をしていた。

 まさか、私の家に来たいと言われるとは思ってもいない。わずかに目を見張っているうちに「行きたいんだけど」と追い打ちをかけられてしまった。

 すこしだけ顔を離して、私の表情を覗き込んでくる。

「いい、ですけど……、なにもない、ですよ」
「明菜が居ればそれでいい」
「……そうですか」
「明菜ん家行けると思って、あと四時間、死ぬ気でやります」
「死ぬ気は、やめてください」
「はは、明菜も残業禁止だからな?」
「がんばります」
「よし、いい子」

 ぐるりと私の頭を撫でた八城が笑って「先戻るわ」と告げてくる。黙って頷けば、満足そうにまた頭を撫でられた。

「小宮さんは、もうすこし休憩していいと思いますんで」
「……いつも、お気遣いありがとうございます」
「ん、素直な小宮さんに癒された」

 爽やかな捨て台詞に声をなくしているうちに、八城はあっさりと姿を消してしまった。

 絢瀬はほどなくして給湯室に現れたけれど、そのタイミングが、本当に八城が予測していたくらいの時間で、八城の観察眼に脱帽してしまった。

 あの八城の策略に初心者が勝てるはずもなく、誘惑ゲームは、今日も私の負けの予感がする。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

【R18】豹変年下オオカミ君の恋愛包囲網〜策士な後輩から逃げられません!〜

湊未来
恋愛
「ねぇ、本当に陰キャの童貞だって信じてたの?経験豊富なお姉さん………」 30歳の誕生日当日、彼氏に呼び出された先は高級ホテルのレストラン。胸を高鳴らせ向かった先で見たものは、可愛らしいワンピースを着た女と腕を組み、こちらを見据える彼の姿だった。 一方的に別れを告げられ、ヤケ酒目的で向かったBAR。 「ねぇ。酔っちゃったの……… ………ふふふ…貴方に酔っちゃったみたい」 一夜のアバンチュールの筈だった。 運命とは時に残酷で甘い……… 羊の皮を被った年下オオカミ君×三十路崖っぷち女の恋愛攻防戦。 覗いて行きませんか? ※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※ ・R18の話には※をつけます。 ・女性が男性を襲うシーンが初回にあります。苦手な方はご注意を。 ・裏テーマは『クズ男愛に目覚める』です。年上の女性に振り回されながら、愛を自覚し、更生するクズ男をゆるっく書けたらいいなぁ〜と。

隣人はクールな同期でした。

氷萌
恋愛
それなりに有名な出版会社に入社して早6年。 30歳を前にして 未婚で恋人もいないけれど。 マンションの隣に住む同期の男と 酒を酌み交わす日々。 心許すアイツとは ”同期以上、恋人未満―――” 1度は愛した元カレと再会し心を搔き乱され 恋敵の幼馴染には刃を向けられる。 広報部所属 ●七星 セツナ●-Setuna Nanase-(29歳) 編集部所属 副編集長 ●煌月 ジン●-Jin Kouduki-(29歳) 本当に好きな人は…誰? 己の気持ちに向き合う最後の恋。 “ただの恋愛物語”ってだけじゃない 命と、人との 向き合うという事。 現実に、なさそうな だけどちょっとあり得るかもしれない 複雑に絡み合う人間模様を描いた 等身大のラブストーリー。

【R18】エリートビジネスマンの裏の顔

白波瀬 綾音
恋愛
御社のエース、危険人物すぎます​─​──​。 私、高瀬緋莉(27)は、思いを寄せていた業界最大手の同業他社勤務のエリート営業マン檜垣瑤太(30)に執着され、軟禁されてしまう。 同じチームの後輩、石橋蓮(25)が異変に気付くが…… この生活に果たして救いはあるのか。 ※サムネにAI生成画像を使用しています

同居離婚はじめました

仲村來夢
恋愛
大好きだった夫の優斗と離婚した。それなのに、世間体を保つためにあたし達はまだ一緒にいる。このことは、親にさえ内緒。 なりゆきで一夜を過ごした職場の後輩の佐伯悠登に「離婚して俺と再婚してくれ」と猛アタックされて…!? 二人の「ゆうと」に悩まされ、更に職場のイケメン上司にも迫られてしまった未央の恋の行方は… 性描写はありますが、R指定を付けるほど多くはありません。性描写があるところは※を付けています。

私の心の薬箱~痛む胸を治してくれたのは、鬼畜上司のわかりづらい溺愛でした~

景華
恋愛
顔いっぱいの眼鏡をかけ、地味で自身のない水無瀬海月(みなせみつき)は、部署内でも浮いた存在だった。 そんな中初めてできた彼氏──村上優悟(むらかみゆうご)に、海月は束の間の幸せを感じるも、それは罰ゲームで告白したという残酷なもの。 真実を知り絶望する海月を叱咤激励し支えたのは、部署の鬼主任、和泉雪兎(いずみゆきと)だった。 彼に支えられながら、海月は自分の人生を大切に、自分を変えていこうと決意する。 自己肯定感が低いけれど芯の強い海月と、わかりづらい溺愛で彼女をずっと支えてきた雪兎。 じれながらも二人の恋が動き出す──。

冷徹御曹司と極上の一夜に溺れたら愛を孕みました

せいとも
恋愛
旧題:運命の一夜と愛の結晶〜裏切られた絶望がもたらす奇跡〜 神楽坂グループ傘下『田崎ホールディングス』の創業50周年パーティーが開催された。 舞台で挨拶するのは、専務の田崎悠太だ。 専務の秘書で彼女の月島さくらは、会場で挨拶を聞いていた。 そこで、今の瞬間まで彼氏だと思っていた悠太の口から、別の女性との婚約が発表された。 さくらは、訳が分からずショックを受け会場を後にする。 その様子を見ていたのが、神楽坂グループの御曹司で、社長の怜だった。 海外出張から一時帰国して、パーティーに出席していたのだ。 会場から出たさくらを追いかけ、忘れさせてやると一夜の関係をもつ。 一生をさくらと共にしようと考えていた怜と、怜とは一夜の関係だと割り切り前に進むさくらとの、長い長いすれ違いが始まる。 再会の日は……。

一夜限りのお相手は

栗原さとみ
恋愛
私は大学3年の倉持ひより。サークルにも属さず、いたって地味にキャンパスライフを送っている。大学の図書館で一人読書をしたり、好きな写真のスタジオでバイトをして過ごす毎日だ。ある日、アニメサークルに入っている友達の亜美に頼みごとを懇願されて、私はそれを引き受けてしまう。その事がきっかけで思いがけない人と思わぬ展開に……。『その人』は、私が尊敬する写真家で憧れの人だった。R5.1月

副社長氏の一途な恋~執心が結んだ授かり婚~

真木
恋愛
相原麻衣子は、冷たく見えて情に厚い。彼女がいつも衝突ばかりしている、同期の「副社長氏」反田晃を想っているのは秘密だ。麻衣子はある日、晃と一夜を過ごした後、姿をくらます。数年後、晃はミス・アイハラという女性が小さな男の子の手を引いて暮らしているのを知って……。

処理中です...