不埒に溺惑

藤川巴/智江千佳子

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STEP 3 「子どもに見えるんだ?」

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 私たちは、疑似恋愛をしている。

 ノー残業デーの金曜日は、主に八城の部屋で料理を作っている。今日は初めて部屋の鍵を使って、八城よりも先にマンションの一室に足を踏み入れることになった。

「恋人、みたいだ」

 一人、おかしなつぶやきが出てしまった。私たちは週に一回、恋人のような時間を過ごしているけれど、実態は恋人などではない。

 会社のロッカーに洗って入れておいていたエプロンを紙袋の中から取り出して身につけ、髪を結ぶ。

 八城は、初めのうち、私が料理を作ると言うと、驚いた顔をしてそんなことはしなくていいと言ってくれていたけれど、最近では、かなり楽しみにされているような気がしてならない。

 揚げ物は、くたくたの金曜日にやるようなものではないと思いつつ、八城のマンションの広いキッチンと、すこし前に見た八城からの言葉を思いだせば、自然とこころが浮ついてしまうから、私は悪い人間だ。

 “あきなのめし、きぼうです”

 思いだすだけで、かなり胸が苦しい。きゅっと甘く痺れてきてしまうから、本当に前途多難なのだと思う。ジャガイモの下ごしらえをしながら、今日の誘惑作戦を考えてみている。私が八城の部屋に来る理由は、ただ一つ。

 私のこの身体を八城に貰っていただくことだ。

 料理をしているのは、そのための、細やかな恩返しのようなものでしかない。三か月前の私は、恥も外聞もなく、それはそれは無謀な一世一代の告白をした。負けが確定している交渉を持ち掛けたようなものだった。

『力になれなくて、ごめんね』

 あのときの八城は、やんわりと、非常に大人な対応で私の申し出を断ってしまった。本当に、思った通りにあっけなく振られた。もう、予想通り過ぎたから、驚くこともなかった。

 ——そのはずなのだけれども。

「明菜ちゃん」
「わ、」
「うわ、うまそ。良い匂いすんね」

 キッチンカウンター越しに、スーツ姿の八城が見える。どうやら、物思いに耽っている間に帰宅していたらしい。

「おかえりなさい」
「あ、それめっちゃイイ」
「それ?」
「おかえりなさいって、なんかグッと来た」

 八城のぐっとくるポイントは、いまいち掴み切れていない。こうして率直に表現してくれるから、一度言われたことはなるべく繰り返し行動するようにしているけれど、そのたびに八城は楽しそうに笑ってしまうから、何だか先生に進捗を見つめられているような落ち着かない気分になってしまう。

 もちろん、この部屋にいる間の私は、ずっと落ち着かない気分に取り憑かれているのだけれど。

「グッと来たなら、良かったです」
「あはは。ただいま。疲れてんのに、リクエスト聞いてくれてありがとう」
「……はい。お口に合えばいいんですが」

 たしかに、ただいまと言ってくれる人が八城なら、胸がきゅっと、甘く捻じれてしまいそうだ。私が口にした「おかえりなさい」が、そういう衝撃を八城に与えられているのかどうかは分からないけれど、素直に、今度また機会があれば、誘惑として使ってみようと思いなおした。

 私が決意を固めている間に、八城は大きな手を器用に使ってネクタイを解いている。

「合う合う。明菜ちゃんの料理すっげえすき。腹減った~」

 八城は言葉を選ばずに、率直に誉めてくれているような気分にさせるのが上手だ。本心から思ってくれているような気がしてしまう。思わず緩みかけた頬をやり過ごして、大げさに腹部をさする男の人の行動に、今度こそ笑ってしまった。

「あはは、子どもみたいですね」

 特に意味もなく伝えたつもりだった。私の言葉で、八城の口元がゆるく笑んでしまう。この笑みは、あんまり良いものではないと知っている。具体的に、良いものではないというのは、私の精神衛生に悪影響を及ぼすという意味だ。

 カウンター越しに見つめあっていたはずが、いつの間に、八城が隣に立っている。

 ちょうどすべてのコロッケを揚げ終わって、火を止めようとしていたところだった。私がガスレンジのスイッチに触れる前に、横から伸びてきた手がぷちりとぼたんを押して、火を止めた。

「子どもに見えるんだ?」
「やしろさ、」

 言葉を間違えてしまったと気づくのが遅い。

 八城は少年のように屈託なく笑う人だけれど、正真正銘、立派な男性だ。大人の男の人で間違いない。訂正を加える前に、後ろから優しく熱が乗りかかってくる。

「明菜、すっぽり身体埋まるからさあ、抱き心地、すっげえいいよね」
「やしろさん、」
「この間、映画観ながら気づいちゃった。マジで癒される」
「ちょ、っと」
「いい匂いしてるし」

 後ろから抱きしめてくる腕が、逃げられない程度に力を込めてくる。どうにもできずに立ち尽くしていれば、頭に鼻を擦られる感触があった。まだ、お風呂にも入っていない。そんなに汗をかいた記憶はないけれど、積極的に嗅いでほしい匂いではない。

 ぎょっとして身体を揺らせば、耳のすぐ近くで低い声が笑った。

「ん~?」
「いい匂いは、しないです」
「はは、顔あかい」
「からかって、ます?」
「いや? 癒されてるだけ」

 いつものからかっている調子の声だ。八城は、こうして私が動揺するところを見て、反応を楽しんでいる。理解していても、八城の思い通りの反応をしてしまう自分に呆れている。どうにか気持ちを落ち着かせたい。

 八城の逞しい腕が、当然のように私のお腹の前でクロスしている。ぎゅっと抱き寄せられているせいで、よりぴったりとくっつかれている感覚がある。私なんかよりも、八城の爽やかな香水の香りのほうがよっぽどいい匂いだ。

 おかしな考えを隠すように、声をあげた。

「マイナスイオンはでません」
「あはは。かわいい悪態つくんだ」

 どんな捻くれた言葉にしても、八城の前では腑抜けたものになってしまいそうだ。たじたじになりながら視線を動かして、揚げ終わったばかりのコロッケが視界の端に入る。

「八城さんのなかでは、コロッケもかわいいかも……」

 真剣に思ってしまった。しみじみとつぶやけば、八城が声をあげて笑った。

「俺のかわいい、あんま信用ないな」
「だって」
「だって?」
「呼吸するみたいに、誉め言葉が出てきてしまうので」
「それが本音と思っていいけどね」
「……もしかして」
「ん?」
「ゆうわく、はじまってますか」
「もちろん」

 たっぷりと色気を孕んだ声で囁かれてしまった。耳元に触れる声で、落ち着かない気分がすぐに蘇ってくる。慣れない低音に肩が上ずれば、それさえも楽しむかのように小さく笑われてしまった。

「ギブアップ?」
「……しきりなおし、したい」
「はは。マジでかわいいな。参るわ」
「参ってないです」
「そう?」
「そうです」
「余裕に見えんなら良かったっす」
「見えるというか」

 どう考えても、八城は余裕たっぷりだ。口に出すことができなかったのは、すこし前にスイッチを入れた炊飯器が軽快なメロディを奏で始めたからだ。ご飯が炊けたらしい。

「八城さん、ご飯、食べましょう」
「ん~」
「盛り付けるので、一旦誘惑終わりです」
「ん~、じゃあ、あと十秒」
「じゅうびょうも?」
「十秒しか、だろ」

 八城の言葉に合わせて口を開くと、ぽろぽろと考えなしの声が出てしまうから危険だ。

「いーち」
「ええ、ゆっくりすぎる」
「うん?」
「一秒の間隔が長いです」
「ばれましたか」
「ばれちゃってます」
「はは、まいりました。あとでめちゃくちゃ構ってもらいます」
「めちゃくちゃって」
「だから今は我慢するかな」

 ぱっと手を放した八城が、横から顔を覗き込んでくる。

「腹減った。手伝うことある?」

 すでに屈託なく笑っている人に、文句を言う気さえもなくなって、小さく「座っていてください」とお願いした。
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