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STEP 2 「なかなか信じてくれない」
しおりを挟むこのフロアには、総務部一課のほかに、営業一課のデスクと役員室が配置されている。昼間、営業一課の社員はほとんど外勤に出ているため、昼休憩後の時間は、ちょっとした総務一課女子のお喋りタイムになる。
まさか、八城の話題が出ている時に、会話に巻き込まれるとは思わなかった。私と八城の関係性がどこかで露見してしまったら一大事だ。そうならないよう、細心の注意を払って交渉を持ち掛けたはずなのに、結果として、かなり心臓に悪い状況が続いてしまっている。
気持ちを落ち着けようと手を止めて、横に置いたタンブラーを持ち上げた。一口飲んで、すこし前に木元に手渡された回覧物を見下ろす。
「役員面談?」
「ひっ」
「ひっ……って」
テノールの軽い声が耳に響いて、思わず飛び上がりかけてしまった。音が鳴りそうなほど高速で振り返れば、私と同じく驚いた顔をした中田がいる。
「中田くん、……びっくりしました」
「俺もびっくりしたあ」
中田は片手に書類を持ったまま、両手を上にあげて降参のポーズを取っている。中田は木元と同じく私の同期だ。
ひょうきんな性格の彼は、私のような社交性がいまいちの人間にも声をかけてくれる優しい人だと思う。半年前からは、私の担当する営業社員でもある。
「面談、事務系の人たちはこれからなんだ?」
「え? ああ」
ちょうど私が握っている回覧版を、中田がまじまじと見つめている。同じく書かれている内容を見て、小さくうなずいた。
「そうみたいですね。中田くんは、もう終わったんですか?」
「うん。終わった。営業一課の次が俺たちだったみたい」
わが社では年一回、役員との面談が行われる。業務に関する悩みや提案を直接役員に話すことができる機会だ。取締役は数名いるから、その中の誰かがランダムで当たる形になっている。もちろん一般社員から面談相手を選ぶことは出来ない。
担当する役員によってはかなり丁寧にしてもらえるけれど、まれに、役員の自慢話を聞くだけで終わることもある。人事部では、毎年この面談の有効性に関して疑問の声が上がっている。
「俺、今年まさかの社長面談引き当てたわ」
「え、社長?」
「そうそう。もしかしたら小宮もあたるかもなあ~? めちゃくちゃしっかり聞いてくれた」
「そうなんですね。……社長との面談は、ちょっと嫌だなあ」
「え、小宮も嫌なこととかあんの」
「あ、嫌というか、うーん、緊張しそうで」
「たしかに。小宮なんてぷるぷる震えてそう」
「震えはしない、ですけど……」
私が社長の前で震えているところを想像したらしい中田に、けらけらと笑われてしまった。
「木元に守ってもらいな?」
「オーイ! 中田! 私は珍獣扱いか~?」
「うわ、地獄耳」
「よし、今日はノー残業デーだ。中田、飲むぞ」
「木元ザルだからやだ」
「あーん?」
「まあまあ……」
私が宥め役に入っても、まったく効果がないことを知っている。2人の会話はテンポが速いから、私がぼうっと聞いている間に流れていく。気を取り直して、本題を引き出そうと口を開いた。
「ええと、中田くんは何か用があってきてくれたんですよね?」
「ん、ああ、そうそう。小宮にお願いあって」
「はい。伺います」
「あは。伺ってください。んーとね、さっき外回りしてきた新規案件なんだけど、プレゼンすることになって、資料集めがさあ~」
ぽりぽりと頭を掻いている中田から書類を受け取って、目線を紙の上へと落としかけたところで、握っていたはずの紙が消えてしまった。
「あ、れ」
「中田、それは自分で頑張るんじゃなかった?」
「うわ、八城さん」
忽然と姿を消した書類の先を追って、背の高い男性の姿が視界に入り込んできてしまった。
「うわってなんだ」
書類の内容を確認した八城は、呆れ顔で、私の隣に立っている中田を見下ろしている。中田も背が高いほうだけれど、八城と並ぶと、そんなに高くないように見えてしまうから不思議だ。
八城は外勤から帰って来たばかりなのか、鞄を片手に握ったまま、書類を握る手を中田に突き返した。
「うわあ、八城さんにばれた~」
「ばればれだっつの。さっきまで『俺、頑張ります!』って言ってただろうが。小宮さんに迷惑かけんな」
「いやあ、思ったより、難しそうで……」
「無理なら俺が手伝ってやるから」
「イケメンっす。ついてきます」
「お前に言われても嬉しかねえよ。ほら、小宮さんも忙しんだから絡むな」
今日の中田の外勤は、確か八城が同行していたはずだ。今更思い出して、動揺して俯きかけた顔をぐっと固定する。
「ういーす。じゃあ、死にかけて、八城さんが助けてくれなくなったら、小宮にまた泣きつく」
「泣きつくなよ、ったくお前は」
乱暴な言葉を使っているのに、まったく威圧感がない。八城は常に笑顔の絶えない人だから、すでに、中田を見る目は楽しそうに笑んでいた。
中田は人の懐に入り込むのが上手な人だ。断らせない力を持った人だとも思う。本人は、営業は向いていないと何度も言っているけれど、同期の花岡があまりにも有能すぎるだけで、中田自身もかなり成績のいい社員だ。
ひょうきんな性格がゆえに、あまり正面から褒め言葉を伝える人もいないようだけれど。
「じゃあ、中田、まずは孤立無援で頑張ってきまあす」
「表現が悪いなお前は」
「絶対八城さんに泣きつきに行きますからね」
「今日はノー残業日だから、泣きつくなら早めにしてくれよ」
「もちろんっす。定時で上がって木元と飲むんで」
「はいはい。しっかり働け」
「ういーす」
営業社員にとっては、適度な息抜きができることも一つのセンスだと思う。人事部で働いていた間に何度も感じたことだ。とぼとぼと歩いていく中田の後ろ姿に、小さく笑ってしまった。
——なんて、私が現実逃避をしていられたのは、そのときまでだ。
私の隣に立つ男性が、動きだす気配を感じられない。中田が視界から途切れるまでじっと待ってみて、結局視線を向けた。八城の瞳が私を見つめる。息の仕方を忘れかけて、最も基本的な挨拶の言葉を探している。
「……外勤、お疲れ様です」
無難そうな言葉だと思って口に出したわりに、フォローをしてもらった礼を言い忘れていたことに気づいてしまった。慌ててお礼を言いかけた時には、すでに八城からの言葉が返ってきてしまっている。
「ありがとう。……勝手に間入って、大丈夫でしたか」
例えば私は、八城のこういうところが、どうしようもなく好きで、困っている。自然に間に入ってきて、簡単に相手の心を掬い上げてしまう。それが当たり前のことのように呼吸をするみたいに自然に、手を差し伸べる。眩しい、優しい、強い人だ。
「大丈夫、です」
「本当? 節介してない? 仕事取るな~! とか」
「あはは。大丈夫です。ありがとうございます」
つねに相手のこころの機微に気遣っている人だ。
正しい行いをしようにも、相手が嫌がっていないか適宜確認していると思う。そういう他者への思いやりが丁寧にできる人だからこそ、営業成績はいつもトップだ。仕事が多すぎると言いながら、木元と間瀬が、八城のバックアップに全力を注いでいるのも、その人望が故だと思う。
私がこの会社を志望した理由も、この人と働きたいと思ってしまったからだ。本人に伝える勇気はもちろんないから、私だけの秘密だ。
「同期だからって優しくしなくていいよ、あいつは」
「ええ?」
「その分俺に優しくしてください」
八城の言葉で、思考が散らばってしまった。思わず息を呑みかけて、小さく息を吐き出す。とんでもなく思わせぶりな言葉に聞こえるけれど、八城のこれは、通常運転だ。
「もう、そうやって揶揄うんですね」
「あはは。半分以上本気です。いつも案件多くてすいません。総務一課の皆さんには迷惑をかけて」
「私は全然。……すごいのは木元さんと間瀬さんです。それに、八城さんこそ、いつも頑張っていらっしゃるだけです」
「ありがとう、小宮さんに癒された」
八城は私ですら無防備だと思ってしまうほど、屈託なく笑う人だ。眩しい笑みに目が潰れてしまいそうで、助けを求めるように後ろを振り返る。この労いを受けるべき相手は私ではない。その相手2人を探し当てて、どちらも電話応対中らしいことに、期待が砕かれてしまった。
今日は私が、八城の丁寧な誉め言葉をしっかりと受け取らなければならないらしい。困り果てて、なくなく言葉を返す。
「……冗談が上手すぎます」
「なかなか信じてくれない」
あっさりと会話のラリーが続いてしまう。うっと声に詰まれば、八城の目がいっそう楽しそうに微笑んだ。これは、もしかすると面白がられてしまっているだろうか。
どうにか言葉を返そうと思案して、後ろから、声がかけられた。八城のそばに居ると、本当にたくさんの人に声をかけられる。
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