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「いっそ、鎖で息の根を止めたほうがいいわ」

 静かに笑ったソフィアは、腕に絡まった鎖に触れる。

 ソフィアは己の身体が尋常ではない熱に浮かされていることをよく理解していた。ルイスが何度も言っていた通り、この状態で紳士と話そうとするのは得策ではない。特にソフィアを最愛の妹として見つめている男には、絶対に見せてはならないものだ。

 明日のソフィアは、間違いなく眠るふりをすることなどできないほどの熱に苛まれ、相手が誰であったとしても狂ったように身体を求めようとする。

 その日が迫っている事を知りつつ、ソフィアは無様にも生にしがみついていた。

 ソフィアは待ち続けているのだ。

 この狭く、光のない部屋で、ただひたすらにその男が訪れる日を、待ち構えていた。

「ルイ、ス」

 この部屋で初めて呼んだ男の名前は、どうしてか震えている。

 フローレンスの悪女が聞いて呆れる。

 ソフィアは小さく笑いながら、震える手で鎖を掴み取った。

 嫌われた悪女は神の裁きを受け、塔の最上階で鎖に巻かれて死んだ。

「悪くない筋書きだわ」

 くすくすと笑ったソフィアは、覚束ない指先で己の首に鎖を巻き付け、息を吐いた。

 死ねば、ルイスが革命を成功させる。

 ソフィアは自分の心に誰よりも信頼する男が一人存在している事に気付き、腹の奥からにじみ出る切なさにもう一度笑った。

「どうか悲しまないで」

 静かに囁いたソフィアが、ゆっくりと指先に力を込めた。

 ソフィアが細い指先にますます力を込めて鎖を掴む。そうして彼女がか細い首を締めようとした瞬間、部屋から一切の光が消え去った。

 ソフィアは吃驚して、遥か頭上にある天窓を見上げる。その窓には、少し前まで見せていた光を覆い隠すように何かが乗りかかっていた。

 ソフィアが目を凝らしてそれを見つめた時、天窓を覆い隠していたものが勢いよく窓をすり抜けて、室内に飛び込んできた。

「きゃっ……!? な」

 はめ殺しの窓は決して開かれないはずだ。そのはずが、ソフィアの目の前に飛び込んできたものは、窓のガラスを割ることなく室内に侵入している。

 部屋は塔の最上階だ。父がそのように言っていたことを聞いていたソフィアは、目の前の光景に、呆然としている。

「……ら、い?」

 グレイの艶やかな毛並みに、勝気な瞳の気高き狼が、ソフィアの前に佇んでいる。

 ソフィアは信じられない思いでその者の名を呼び、記憶にある狼よりも、随分と逞しい姿になったライと視線を合わせた。

「ライ? どう、やって」

 なおも吃驚するソフィアを見たライは警戒するようにピンと尻尾を立てて、ソフィアの側に近寄ってくる。

「ラ……」

 ソフィアはいつにないライの不機嫌そうな瞳に吃驚し、静かに唸るライがソフィアの首に牙を突き立てようとしているのを見て、目を見張った。

「ライ」

 金属を齧る鈍い音が響く。ソフィアはその時初めて、ライがなぜ機嫌を損ねたのか、その理由を理解した。

 ライは、ソフィアが今、この場で自死を図ろうとしていたことに気付いたのだろう。

「ライ、やめて。壊れないわ」

 がりがりと鋭い犬歯で噛みつけるライの背中を撫でたソフィアは、彼がソフィアに撫でられた瞬間にぴくりと身体を震わせるのを見た。

「ライ」

 もう一度名前を呼んで首を撫でれば、熱心にソフィアの首元の鎖に噛みついていたライがソフィアの顔を覗き込む。

「ごめんなさい、もう、しないから。怒らないで」

 ソフィアが心を込めて囁けば、なおも不機嫌そうにしていたライはぷいと顔を背けつつ可愛らしく尻尾を揺らし始めた。

 独りは恐ろしい。

 ソフィアは、ルイスとライに出会ってから、何度も思っていたことを思い出していた。

 独りは怖い。

 この部屋で、ソフィアはたった独りになってしまった。優しい温もりも、可愛らしい友人も、何一つない。その恐ろしさに、ついに心を折ってしまった。

 だが、ソフィアの愛する優しい者たちが、彼女を見捨てようとするはずがない。

「ライ、……会いたかったわ。よく、顔を見せて」

 ライが嫌がる鎖を首元から外したソフィアは、両手を広げてライを待った。彼はソフィアが熱に浮かされつつも自身を歓迎してくれていることを察して、ますます尻尾を振り乱しながらソフィアにすり寄る。

「ああ、温かい。……ライ、ライ」

 熱に浮かされているとは思えないほど、ソフィアには、ライの温もりが心地よかった。

 ライがこの場に居るということは、つまり、ルイスが生きているということだ。

 涙ぐんだソフィアは、隠すようにライの首元に額を押し付ける。そうしてしばらくの抱擁を楽しんだソフィアは、もう一度ライと正面から向き合った。

 北の魔の森には同行できず、部屋で留守番を頼まれていたライは、最後まで不機嫌をアピールしていた。可愛らしい気の引き方をするライともっと仲良くしておくべきだったと悔やんでいたソフィアは、一段と逞しくなった友人の凛々しい表情に頬を緩ませる。

「どうやってここへきたの? ルイスは?」

 答えがないことを知りつつ囁いたソフィアに、ライがグレイの瞳を細めた。

「魔法を使った。主とは別行動だ」
「……ライ、お話が、できるようになったの?」

 信じられないことばかりが起こる。ソフィアは吃驚に目を見張ってしまった。

「主が魔力を取り戻したゆえ、俺も使える」
「まあ……」
「フィアは驚く目もおいしそうだな」
「おいし……」

 まさか、おいしそうだと思われていたとは思わなかった。ソフィアはまたしても激しい衝撃を受けつつ、ライの喉を撫でた。

「フィア。俺の首に主からの贈り物がついている。取ってくれたまえ」
「ルイスから?」

 言われる通り、グレイの毛に隠れた小瓶を探り当てたソフィアは、丁寧にチェーンを取り外した。中にはカプセル錠剤が入れられている。

「伝言だ。“フィアは嫌がるだろうが、今はこれで耐えてくれ。必ず迎えに行く”と。……それには主の血が入っている」

 涼やかな声に促されたソフィアは、カプセル錠剤を取り出して、苦笑してしまった。

「ルイスは私を助けようとしているの?」
「俺が攫いだしてもいいがな」
「ライは本当にかっこいい狼さんね」
「……そう、でもない、が」

 勇敢な狼が急に照れて言葉に詰まってしまった。

 どことなくルイスに似た使い魔だ。使い魔も主に性格が似るのだろうか。

 ソフィアはようやく心の闇が消え失せ、心から笑みを浮かべた。ライはソフィアが心を取り戻したらしいことに密かな安堵を浮かべつつ、腕輪の隙間に挟んできたものを取り出す。

「やる」
「……まあ!」

 ソフィアは、目の前に放り出された野花を見下ろして、とうとう緩む表情を隠せなくなってしまった。ルイスに似ていると考えていたが、どちらかというとライのほうが女性の扱いを心得ている気がする。

「ライ、ありがとう。大好きよ」
「主よりか?」
「……難しい質問をするのね?」
「冗談だ。だが、主に飽きた時は相談してくれたまえ」
「相談ですの?」
「俺がもらう」

 冗談なのか本気なのか、判別がつかない言葉だ。ソフィアはまさか、あの可愛らしいライが、これほどまでに逞しくなって目の前に現れるとは思ってもいなかった。

「主の力がすべて回復すれば、俺も人型を取ることができるようになる」
「……それは、すごいわ」
「フィアの言う通り、俺の方がかっこいい」

 ルイスの力が増幅しているということは、彼が今、苦境に立たされてはいないということだ。

「ふふ、ルイスよりも先に、迎えに来てくださったものね」
「ふん。まあ、主も悪い男ではないがな」

 ライの可愛らしさは、彼が言葉を得ても変わらない。ソフィアは、彼女を自分のものにすると言い出したり、ルイスを持ち上げたりと忙しいライの頭をたっぷりと撫でて、ライに促されるままカプセルを飲み込んだ。

「フィア、いいか? もうさっきのようなことはするな」
「ええ。……ごめんなさい。すこし気が、滅入っていたのだわ」
「俺はあまり精神魔法に詳しくない。だが、何か術がかけられているようだ」

 ソフィアの身体をじっくりと検分し、匂いを嗅ぎまわったライは機嫌が悪そうに牙を見せた。

「その腕輪、壊そうとするなよ」
「どうして?」
「三度も倒れるフィアを見たくない」
「……わかったわ。どちらにしても、今は魔力が全くないからできないもの」
「そうか。しかし時が満ちれば、フィアも力を取り戻す。それまで早まるな」

 理知的な瞳に諭されたソフィアは、静かにうなずいてライに渡された花を握った。

「花瓶も水もないのが残念だわ」
「必要ない。枯れる前に主が来るだろう」

 きっぱりと言い切ったライは、ソフィアの頬を舐めて胸元に頬ずりしてくる。

 ソフィアはそれがライの別れの挨拶らしいことを感じ取って、同じようにライの鼻に唇を押し付けた。

「……無理はしないで」
「伝言か?」
「そう、ではない……けれど。……待って、いやだ。ライ、貴方ルイスに記憶を見せることができるって聞いたけれど、もしかして」
「ああ、今は会わずとも見せることができる」
「……まさか、今見せていると言わないわよね?」
「フィアは賢い女だな」

 誇らしげに立ち上がったライに、ソフィアは絶句してしまった。すべてを見られているとは考えてもいなかった。ソフィアは明らかに恋人を待つようなネグリジェを着せられていることを思い出し、無意味に胸元を隠す。

「なぜ隠す? なかなか魅力的な服だと思うぞ」
「……ありがとう」

 狼と人間とでは感性が違うのだろうか。しかし、ルイスでも同じ言葉を吐いてきそうだ。ソフィアはすっかりペースを乱されて、気の抜けた笑い声をあげた。

「フィアは笑っていたほうがいい」

 やはり、ライは紳士の鑑のような狼だ。ソフィアは静かに微笑んで、もう一度ライの身体を抱きしめた。

「……待っているわ」

 独り言のような声で囁いたソフィアは、ライが何も言わずに目を細めたのを見て、静かにうなずいた。

「暫しの別れだ」

 涼やかな声で囁いたライは、力強く地面を蹴って再び窓の上へと飛び上がる。鮮やかな力で飛び上がるライは、まるで羽の生えた狼のようだ。

 眩しい気持ちで見送ったソフィアは、ルイスとライから送られたプレゼントの違いにくすくすと笑いつつ、静かに決意を固めた。

 ——ここで死ぬわけにはいかない。

 その目に力強い決意を燃やしたソフィアは、ゆったりと寝台に上がって、その時を待った。
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