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しおりを挟むテオドール・フローレンスは、ソフィアが調べるだけでも帝王と同じく100年近く生き続けている男だ。
彼は実際にフローレンス家の悲劇を目撃した張本人でもある。悲劇の令嬢は、テオドール・フローレンスの実の妹だ。だからこそ、社交界はその恨みを消すことのないテオドールに苦言を呈することもできずにいる。
実際に可愛い妹を失った男に向かって、獣人嫌いを直せと言うのはあまりにも不躾だ。100年が経過した今もなお、テオドールの心には激しい怒りが残っている。
それは、己の娘たちを、たびたび見殺しにしてしまうほどに。
「ユリウス様も私も、ほとんど同じ境遇にいるの。殿下は、どれほど愚かしく取り繕おうと20の生誕の日には必ず処刑される。私も、貴方たちと心を通わせたことが知られれば……、生きてはいられない」
フローレンス家の男たちは、なおのこと、惨い目に遭う。今、ソフィアの目の前に現れる兄はたった2人だが、以前は数人兄らしき男が居た。
それも、テオドールの不興を買えば、あっさりと消されてしまうのだ。そうして二人の兄を残し、全ての兄弟が抹消された。
兄たちは、女であるというだけでテオドールの寵愛を受ける妹の姿が気に食わない。だからこそ、くだらない嫌がらせをしてくる。
ルイスは、ソフィアの口から語られる真実に息を殺し、ただソフィアの身体を静かに抱きしめた。華奢な身体にどれだけの恐怖が詰まっているのだろうか。想像さえできない話だ。
確かに、フローレンス家の男児は、ある一定の若さを超えたあたりから、急に社交界を遠ざかっていくとの噂を耳にしたことがある。その噂を口にするほとんどの者がフローレンス家の裏家業に足を染めたのだと信じて疑わなかった。
「それほどテオドールが怒り続けているというだけの話よ」
強烈な怒りを持ち続ける男のもとに生まれてもなお、ソフィアは獣人のために戦おうとしている。
そのことを知ったルイスの胸に、激しい熱が生まれた。
番はやはり、彼の思う通り、心の清らかな女人であった。それを確認したルイスは、ますますその手に力をこめてソフィアを抱きしめ続ける。
「……フィア」
「なにかしら」
「なぜ貴女はそうまでして、俺たちを救おうとする?」
躊躇わずに問いを立てられたソフィアは、静かに笑いながら、ゆっくりと口を開く。
「大切なお友達との、約束を守るための手段よ。救うなんて、そんな崇高な願いではないわ」
ソフィアは、ただ、ミュリとの約束を叶えたかっただけだ。
「サクラをね、見に行きたいの」
2人で行くと約束した。しかし、それは叶わぬ願いとなった。
立派な淑女にも、おそらくソフィアはなることができていない。ただ一つだけでも良いから、ソフィアはあのうらぶれた邸で起こった全ての苦しみを濯ぐ、優しい思い出を彼らに捧げたかった。
「それが、約束なのか」
「ええ。……ふふ、素敵でしょう」
ソフィアの目に、深い悲しみが浮かぶ。
ルイスはゆっくりと腕の力を緩めながらその瞳を見つめ直し、静かに唇に口づけた。見つめ合った二人が、曖昧に微笑む。
「……100年も生き続けられる魔力を持つ者なんて、そうそういないわ。あまりにもおかしい。しかも、テオドールと帝王は知己の関係。この2人が何かを仕組んでいるとしか思えないわ。強大な魔法を使うには、強い魔力が必要。けれど、それほどの魔力を持つ人間はどこにもいない。だから初めからこの魔の森を怪しんでいたの」
「なぜ……いや。フィアが話していた魔石というものか?」
「そう」
賢い生徒を褒めるようにルイスの頬を撫でたソフィアは、もう一度たっぷりと息を吸って口を開く。
「この森のどこかに、きっと魔石が埋まっているわ。それも驚くほど大きなもの。それが何らかの魔力を吸って、あの二人に力を付与している」
王家の領地である北の魔の森へは、そう簡単に足を踏み入れることができない。そこでユリウスとソフィアが計画したのは、フローレンス家の当主が指揮を取ってたびたび行っていたという合同訓練を復活させることであった。
通常であれば、この訓練には必ずテオドールが参加していた。しかし、それもソフィアの振る舞い次第で機会を作ることができる。ソフィアとユリウスは、ずっとその好機を待ち望んでいた。
2人が悪辣に振る舞うほど、帝王はユリウスに興味を失くし、逆にテオドールはソフィアを信頼するようになった。
「その魔石さえ壊すことができれば、じきに二人が持つ強大な魔力も消えていくはず。けれど、ただ革命を起こすだけでは国が揺らいでしまうわ。だからユリウス様は、より強力な力を求めて貴方たちと共生しようとしていらっしゃるの」
古きを重んじる議会員より、この国に力を与える者たちがいる。ユリウスは誰を味方につけるべきか、よく理解していた。
「たしかに、復権を叶える王子なら、俺たちも異存なく従うだろうな」
「ええ、そうでしょう。実際に、今この国で最も産業に貢献しているのはおそらく貴方たちだわ。もちろん魔法の力が不要だとは言わないけれど、二つの力を持った種族が手を取り合える未来を、ユリウス様は望んでいらっしゃる」
「貴女はどうなる」
鋭い質問に、ソフィアはゆったりと笑みを浮かべた。
「この森がなくなれば、きっと、寒冷な気候が解消される。そうなれば、私の目的は簡単に果たされるわ」
春が訪れれば、サクラは咲くはずだ。それが楽しみなのだと言わんばかりの笑顔に触れたルイスは、ソフィアの無欲な願いを聞き届け、深く息を吐いた。
「この森が、気候の変動にかかわっていない可能性もある」
「それは……まあ、そうね」
「このまま森を越えてフェガルシア領へ行けば、すでに雪が解けているやもしれん」
ルイスにしては希望的観測だ。ソフィアはわずかに吃驚しつつ、切なげに彼女を見下ろす瞳を見つめていた。
「ルイス……」
「——このまま俺と逃げるか?」
突拍子もない提案だと一笑するには、2人はあまりにも多くの障害を抱えすぎている。
たった2人、このまま先へ進めば、おそらく死体の上がらない遭難事故として扱われることになるだろう。
フローレンスとフェガルシアの因縁も忘れ、ソフィアはただ一人の乙女として、目の前の男の腕に抱かれる暮らしを送ることができる。
「何も考えず、2人で生きてもいい」
ソフィアの耳に囁かれた言葉は、何よりも熱く優しい愛の言葉のように聞こえた。
ルイスもまた、全てを捨てて側にいることになる。築き上げた地位も名声も捨てて、ただ一人を選ぼうと言っている。
ソフィアは、その意味がわからぬほど、愚鈍な乙女ではない。
ルイスは、ソフィアの過酷な半生を少ない話の中から感じ取り、こうしてソフィアを助け出そうとしている。ミュリ以外に、ソフィアに手を伸ばし、ともに逃げようと誘ってくる者など一人もいなかった。
逃げ出してもいいのだと、許されている気がする。
それがどれだけ、ソフィアの心を優しく包んでいるか、ルイスは知らないだろう。
ソフィアは目の前の男の胸に抱かれて、全てを手放してしまいたくなった。
美しく、温かく、愛おしく、そして最も優しい。
泣き出したくなるような感情を押し殺し、ソフィアは静かに息を吸った。
ソフィアがただ単に、ミュリの約束にこだわっているだけならば、この手を取ることができた。だが、しかし、ソフィア・フローレンスは——。
「行かないわ。……私、行けないの」
ソフィア・フローレンスは、あまりにも、多くの犠牲を生み出しすぎた。
ソフィアは、その者たちの死を背負ってこの場に生きている。己の誕生の日のたびにむざむざと殺されて行く命たちを、ソフィアは忘れたことがない。
だからソフィアは、逃げ出すという選択肢を選ぶことができない。
ルイスは初めから、ソフィアがこの誘いに乗らないことを理解していた。それでも彼は、あえてソフィアに問うた。その覚悟を示したかったのだろうか。
ルイスは己の心に燃える、強い欲求に逆らうことなく声を上げた。
「わかった。それなら俺がその魔石を破壊する」
ソフィアが思う通り、眩しいほどにまっすぐな男だ。
難なく、目論見の通りに動くと言い出したルイスを見つめて、ソフィアはたまらずその身体に抱き着いた。ユリウスが生誕の日を迎えてしまうまで、ほとんど時間がない。
しかし、明日魔石を探り当てることができなくとも、近いうちにルイスと2人で再びこの森に忍び込むことは難しくないだろう。
ソフィアは何としても、この魔石を破壊する役割を、ルイスに任せる必要があった。
「では、明日早速探しましょう?」
「ああ。わかった。だが、まずは貴女の身体が問題ないか確認してからだ」
優しいものに触れるのは、酷く恐ろしい。
ソフィアは、ルイスの瞳に見つめられるたび、常に同じ恐怖に苛まれていた。失うのは恐ろしい。だが、ソフィアは、彼女がこの先、全てを失うことを理解していた。
「今日はしっかり休め」
ソフィアは、ルイスに扮した男が何者であるか、既に見当がついていた。
あれは、オリバー・マクレーンだ。しかし、彼がソフィアと同じ環境下で、彼女以上の魔力を持っているはずもない。つまりあの男は——。
「ルイス」
「どうした」
ルイスは番を寝台の上に眠らせるため、彼女の身体を静かに持ち上げた。
ゆっくりと歩きながら、ソフィアの声に応える。
簡素な造りのセミダブルベッドにソフィアを下ろし、その髪を撫でた。
「……もしも判断に迷ったら、ユリウス様を頼って。私の部屋の机の引き出しに、便箋が入っているわ。あれに文字を書いて封筒に入れれば、手紙は勝手にユリウス様に届くの」
「俺はフィアにしか判断を仰ぐつもりはない」
そうできなくなる可能性がある。
ソフィアはあえて心に浮かんだ言葉を囁かず、静かにルイスの唇に口づけた。
どうせ、全ての記憶を操作する。
ソフィアは、ルイスと密かに心を通わせる演技を始める当初から決めていたことを思い返しつつ、もう一度ルイスの唇に自身の物を押し付けた。誘うように唇を食めば、ベッドに手をついたルイスが、睨みつけてくる。
「休めと言った」
「いつももっと遅くまで、意地悪するくせに」
「フィア」
「今日は触ってくださいませんの?」
いつ最後になるかわからない。ソフィアは胸が焦げ付くような痛みを無視して、ルイスの胸にそっと手を這わせた。
ソフィアの薄い恰好と違って、ルイスは今日もきっちりと制服を着こんでいる。あまり見ない冬の装いの手触りを楽しんだソフィアは、黙り込んでいた獣がぎらりと目を光らせたのを見た。
「ルイ、」
「貴女が望むなら、全て与える」
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