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 ライは、ソフィアがなぜ三日もこの部屋を出ることなく寝台の上に臥せっていたのか、その理由をよく知っているらしい。

 しきりにルイスからソフィアの身体を離そうとしているのを見て、ソフィアは小さく笑ってしまった。

「ライ、ありがとう。わたくし、お腹が空いちゃったわ」
「ライ、フィアは飯を食う。お前もそこで食っておけ」

 ソフィアはちらりと寝台から離された場に置いてある皿を見つめて、苦笑してしまった。中には肉と思しき塊が入っている。やはり、ライの好物はミルクではないようだ。

 ライは意図的に離れた場に皿を置いた主人に呆れつつ、ソフィアがくすくすと笑っている姿を確認しては、仕方なく寝台から降りた。

「ライは本当に可愛い」

 可愛らしい姿にうっとりと頬を緩めたソフィアは、隣に座る男にスプーンごとパンを差し出された。

「だが、フィアはライよりも俺を好いているんだろう?」

 ソフィアはまるで事実の確認のように囁いたルイスに吃驚して、隠すようにスプーンを口に含んだ。ゆっくりと咀嚼して、答えを待つ男の顔を見上げる。

 淡々と声をあげるくせに、ルイスの瞳は蜂蜜のように甘くソフィアを射抜いている。

「違うのか?」
「……違わない、わ」

 他者を欺き続けるためには、己の感情を欺くことだ。

 高鳴る鼓動を感じたソフィアは、その音を隠すことなくルイスの胸に頬を寄せて、瞼を下した。

 決して、本心ではない。言い訳のように胸のうちで呟いたソフィアは、ルイスに頬を撫でられ、顔をあげる。

「フィア」

 囁くように名を呼ばれて、口づけを受け入れる。

 触れるだけの口づけは、ルイスの愛情を示しているかのような優しさだ。武骨な騎士の唇がこれほどまでに甘く優しいものであることを、ソフィアの他に誰が知っているのだろうか。

「もう一口、食えるだろう?」
「ん、たべる、わ」

 ルイスに捧げられるまま、ミルクを含んだパンを飲み下し、ご褒美のようにもう一度口づけられる。

 たっぷりと甘い触れ合いを何度も繰り返したところで、ソフィアはようやく全てを腹に収めた。しっかりと食べ終えたソフィアは、やはり極上に甘い瞳を浮かべたルイスにたっぷりと頭を撫でられる。

「ライと同じ扱いだわ」
「俺はライに口づけたりしない」
「それは」
「フィアだけだ。わかるだろう」

 まったく口説くつもりなどなさそうな男が、事実の確認作業をしているかのように囁いてくる。目を回したソフィアは、とうとう口で悪態をつくことを諦めて、ぷい、と顔を逸らした。

 番の愛らしい表情を目にしたルイスは、ソフィアが見ていないのをいいことに、その髪を掴み寄せて、唇を触れさせる。

 全てを己の匂いに作り変えたい衝動に駆られ続けているのだ。

 ルイスの不埒な激情を知らぬソフィアは、ぺろりと食事を終えたらしいライに視線を戻していた。

 尻尾を振り乱すライは、ソフィアに呼ばれるその時を待ちわびているかのようだ。

「ライ」

 囁くように呼べば、やはりライは飛ぶように駆け出して、ソフィアの目の前に座り込んだ。

「お久しぶりね。ご飯はいっぱい食べなきゃだめよ」

 見たところ痩せ細ってはいないようだが、やはりソフィアは一言ライを諫めた。ソフィアの声を聞いたライは、なぜか嬉しそうに再び尻尾を振り乱している。

「注意をしているのに」
「フィアが心配してくれるのが嬉しいんだろうな」
「そう?」
「ああ、間違いない」

 ルイスが胸元を撫でまわせば、使い魔は満更でもなさそうに腹を見せてくる。

 なんだかんだと言いながら、ライはやはりルイスを主人として認めているらしい。可愛らしい仕草に胸を打たれたソフィアは、同じようにライの身体に触れて、小さく笑った。

「愛らしいな」

 ルイスから、愛らしいという言葉を聞くのは違和感がある。そのような言葉を口に出す男ではないと思い込んでいたソフィアは、なぜかこの時、ルイスの言葉の先に居るのがライだとは思えずに顔をあげてしまった。

「ルイ、ス?」
「どうした? フィア」

 ルイスの眼は、初めからソフィアを見つめている。その意味を察したソフィアは、言葉を返すこともできずに黙り込んだ。

「何だ?」
「なんでも、ない、ですわ」
「撫でてやってくれ。ライに噛まれそうだ」

 耳元に囁いたルイスの言葉で、ソフィアは顔を赤くしながら熱心にライの腹を撫でつけた。調子が狂って仕方がない。

 この男の隣に居る間、ソフィアは常におかしな感情に胸を掴まれていた。この感情の持つ意味を知るのが恐ろしい。

 ソフィアは次第に大きくなっていく柔らかな感情を隠すようにライの脚に嵌められたバングルに触れて、魔法で花の紋様を輝かせた。

「貴女が彫り込んでくれたそうだな。ライが喜んでいた」
「それは、よかったわ」
「羨ましいくらいだ」

 ルイスの直接的な表現にもう一度声を詰まらせたソフィアは、今度こそ彼の表情を見上げた。

「面白がっているの?」
「いや?」

 頬を赤く染めたソフィアを見下ろすルイスは、いつになく上機嫌そうだ。もはや、何を言っても全く歯が立たないことを察したソフィアは、魔法の力で少し前に遠ざけられたルイスの腕輪を呼び出して、ゆっくりと力を込めた。

「フィア、冗談だ。無理をするな」
「わたくしを誰だと思っていらっしゃるの? フローレンス家の傑作よ?」

 不名誉な通り名を囁いたソフィアは、余裕たっぷりに微笑んでいたルイスが焦ってソフィアの手首に触れてくることに気付きながら、あえて無視してバングルの表面に勇ましい大狼の模様を浮かび上がらせる。

 ルイスはその腕輪に番が触れているだけでも不安を掻き立てられるのだが、じっと瞼を瞑っているソフィアの手元が眩く輝くさまを見て、息をのんだ。

「できたわ。どうかしら?」

 ライのものとは違って、力強さを感じさせる紋様だ。それをルイスの手の上に乗せたソフィアは、ゆったりと微笑んで彼の顔を覗き込んだ。

「嵌めても問題ないのか?」
「え? ええ、それはもちろん」
「フィアの心を邪魔するものにはならないんだな?」

 ゆっくりと囁いたルイスは、ソフィアが虚をつかれたまま言葉を失くしているのを見て、静かに腕輪を自身の手に嵌め直した。

「貴女の考えを遮るものにならないのなら、死ぬまでこの腕につけておく」
「そ、んな。必要がなくなった時には、外していいのよ」
「貴女が俺に捧げてくれたものを外す理由がない」

 きっぱりと言いきったルイスは、描かれた模様を見下ろして静かに微笑んだ。

 無表情で居ることが多いルイスは、微笑んでいるだけで周囲の者の心を射抜いてしまう。その麗しい微笑みにあてられたソフィアは、やはり赤くなる頬を隠そうと顔を俯けて、ライの身体を優しく撫でまわした。

 ルイスは、ソフィアが何かしらの企みをしていることを理解していながら、それを聞くことなく、こうして隣に在る。ソフィアはそれが、ルイスの懐の深さを示しているように感じてならない。

 彼女はたまらず全てを打ち明けたくなるおかしな衝動を飲み込もうとしていた。

「腕輪を外してから、おかしなことは起きていない?」
「ああ。いや、そうだな。力が増幅しているように感じる。以前より、五感が研ぎ澄まされているな」
「……そう。つらくはない、の?」
「不調はない」

 ソフィアの想定の通りだ。ルイスの声を聞いたソフィアは静かにうなずいて、ようやく顔をあげた。

「抱きしめてもいいかしら」

 甘く囁いたソフィアは、一瞬目を丸くしたルイスに言葉もなく抱き寄せられ、その腕の中で静かに魔法を巡らせる。

 ルイスの言葉の通り、彼の身体には不調がなさそうだ。ソフィアはそれよりも大きな違和感に触れて、弾けるようにその胸から身体を突っぱねた。
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