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 獣軍にも、魔術師にも可愛がられるシェリーは危険などそう多くないだろうが、ソフィアは違う。ましてや彼女は今、呪いに侵され、いつ何時でも容易く手折られてしまいそうなほどか弱い。熱に浮かされるソフィアは、儚い花のようなものだ。

「心配です」
「シェリー。お前の司令官はそれほど頼りないか」
「……そうではない、です、けど」

 歯切れの悪い部下の言葉に苦笑したルイスは、周囲が困り顔を浮かべて自身を見つめていることに気付いた。

「まあまあ! シェリーちゃん、その、あの方のことは、私もたくさん目をかけておくから!」
「そ、そうだよ! 魔の森は夜空がすっごくロマンチックなんだってね! 僕とマリアも協力するから、夜はルイスさんも暇になるかもしれないし!」

 ルイスが夜、暇を持て余すことはないのだが、それを知る者はこの場にはいない。

 シェリーの期待のこもった目を見た彼は、わずかに薄く口を開きかけ、躊躇った後、口にしかけていた言葉をすり替えた。

「シェリー、任務は遊びじゃない」
「……はぁい」

 シェリーがルイスに対してここまで積極的なアプローチを仕掛けてくるようになったのは、彼がソフィアと密かな関係を築き始めてからのことだ。

 シェリーは愛らしい性格で親しまれる女性ではあるが、多くの学者を輩出した家系の生まれで、彼女自身も聡明な頭を持っている。

 間違いなく、シェリーは、ルイスとソフィアの間に何らかの関係が築かれていることを察しているのだろう。

 最近はルイスもソフィアに触れた後必要以上に森の中を警邏し、鍛錬を行ってから自室に戻るようにしている。シェリーにはライの存在も知られていることから、ソフィアの寂しそうな顔を知りつつ、ルイスはライをソフィアの前から隠していた。

 シェリーは引く気のないルイスの瞳を見つめ、切なげな表情を浮かべつつ、すぐに気持ちを切り替えて、いつも通りの笑みを作ってみせた。

 健気な姿にその場に立つ全ての者が心を惹かれたわけだが、悪女にただならぬ熱情を燃やすただ一人の男だけが、何の感情もなくその光景を見下ろしていた。


 ルイスは当初、悪女の監視はライに任せきりにしていた。ルイスの使い魔であるライはその目で見た記憶をルイスに見せることができる。しかし、ライは気まぐれな狼で、その記憶を見せてくることは稀だ。

 ただ、ソフィアが悪しき者であり、悪い企みをしていることがあれば、ライも即座にルイスに報告をしてくるだろう。

 ルイスに使役されるライは、実のところ怪我をしても、一時的に倒れるだけで死ぬことはない。使い魔は、その主である者が死すとき以外はどのような怪我を負っても致命傷に至ることはないのだ。

 フェガルシアの王族にのみ許された力であるため、ルイスはその事実を口外していない。

 ライが使い魔であることは隠し、獣軍が持つ索敵のための魔獣としてプラチナバングルを嵌めさせている。

 バングルは王宮から支給されるもので、それを嵌めていない魔獣が現れた場合は討伐対象になる。無論、これは獣人にも同じことが言える。

 その腕輪を、まさか、悪女が外そうと試みているとは思いもしなかった。

 ルイスが初めに違和感を覚えたのは、ライがたっぷりと甘い匂いをつけて帰ってきた時だ。

 噎せ返るような甘い香りは、花の蜜に似ている。

 思わずライに近寄りかけたルイスは、自身の使い魔が、初めのころソフィアが怪しげに温室に閉じこもっている姿を見せてきて以来、彼女の動向に関する記憶を何も見せてこないことを不審に思っていた。

「ライ、ソフィア・フローレンスはどうなっている」

 簡潔に問いを立てれば、しばらくうろうろと部屋を歩き回ったライが、仕方がなさそうに一つの記憶を見せつけてきた。

 悪女ソフィア・フローレンスが、ひっそりと獣人の子どもを救い出そうとした記憶だ。ライがそのとき、酷く彼女に懐いたらしい感情まで流れ込んできたところで記憶が途絶えた。

 それ以降の記憶を見せようとしないライに呆れつつ、ルイスは自身の感情が、向いてはならない方向に興味を惹かれていることに気付いている。

 ライを温室に招くソフィアの姿を遠く離れた場から射抜くように見やったルイスは、ようやくソフィアの本質が、獣人を嫌っていないらしいことを認めた。


 己がソフィア・フローレンスに嫌われていないのだと知ったルイスは、一日に数えられる程度しか見ることのできない相手に酷く焦がれた。

 感情を律することがこれほどまでに難しいとは知りもしなかったのだ。相手は人族の魔術師で、さらに、フェガルシア先王の因縁の家の生まれだ。彼女がいかに獣人を嫌っていなかろうと、決して結ばれる相手ではない。

 叶わぬ相手なのだと理解すればするほどに、ルイスの胸の内にほの暗い感情が燻った。

 その身体が呪いに侵されていると知った時、ルイスはその呪いをかけた者が、自分自身であったのではないかと錯覚したほどだ。

 悍ましい本能に逆らうように血を差し出したはずが、ソフィアの可愛らしい誘惑に、あっけなく感情を引き摺られてしまった。

 ソフィアが拒絶しないのなら、何を躊躇う必要があるのか。

 人族は、番を追い求める本能を持ち合わせない。つまり、ルイスがどれだけソフィアを番と認め、その身を欲したところで、ソフィアにはその感覚がわずかにも伝わらない。

「今日はもう、安心ですね。フローレンス様は今頃ユリウス殿下とお会いしているでしょうし」
「殿下とお会いしている?」

 昨夜もたっぷりと愛でた番を思い返していたルイスは、聞き捨てならない言葉に、僅かに眉を動かした。声を発したダニエルは、ルイスの反応に首をかしげて、静かにうなずく。

「ええ、今日は登城の予定があるとかで……。ほら、お二人はその……、婚約関係ですし、お会いになった日のフローレンス様のお帰りはいつも深夜ですから」

 昨夜、ルイスの腕の中でくたりと力を失って眠りついたソフィアは、一言もそのような話をしていなかった。努めて平静を装ったルイスは、ただ一言「そうか」と言葉を返す。

 番への本能に振り回される己を浅ましく思っている。それと同等に、手放しがたい存在を手中に収めようと躍起になっている。

 ルイスはここのところ、手を貸さなければ死に至るうら若き乙女を救いたいがために行動を起こしているのだと、自身に言い聞かせていた。血を見た瞬間に青ざめ、魔力が枯渇しかけていてもなお回復魔法を使ってくるような淑女に、最低限の触れ合いで済ませるよう、心を配っていた。

 言葉を交わすこともない。

 ただ寝室に忍び込み、寝台に寝そべるソフィアの髪を撫でて、夢の国へと舟をこぎかけている乙女の唇を吸う。そうして僅かに意識を覚醒させたソフィアの髪を弄び、ゆっくりと唾液を含ませる。

 甘えるようなソフィアの匂いに脳が陶酔しかけても、ただ髪を撫でてあやしてやるだけにとどめていた。

 まだ引き返せると思い込んでいた。

「ふしだらだわ」

 眉を顰めるマリアの声に、ルイスが反応を示すことはなかった。


 ルイスは、彼以外の者にその身体を触れさせるなと、ソフィアに忠告したはずだ。

 その可能性が限りなく低いと知りつつ、ソフィアの身体が、ルイス以外の何者にも触れられぬようにと、呪いが移ることがあるかもしれないなどと恫喝した。

 ソフィア・フローレンスは、ルイスがしてはならないと言えば言うほどにその道を進むような女だ。

 ユリウスと戯れるソフィアを想像したルイスは、その表情が底冷えしてしまいそうなほどに冷たく歪んでいることを知らない。

 普段よりも早くに自室を出ようとしたルイスは、その足に使い魔が纏わりつくのを見て、静かに笑った。

「お前は俺より、フィアが可愛いらしいな」

 その腕に嵌められたバングルを嫌っていたはずのライは、今では自身で取り外すこともできるはずのバングルを大切そうにその腕に輝かせている。美しい花の模様が描かれたライのバングルには、やはり、悪女の密やかな甘さが感じられる。

 ルイスの声を聞いたライは、臆することなくルイスの軍服の裾を噛んで、彼を部屋にとどまらせようとする。

 ソフィアに纏わりつくのは常に男ばかりだ。

 雄を誘う色香を漂わせる番の悪癖を思いつつ、ルイスはとうとうライの制止を無視して部屋を出て行ってしまった。
 
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