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しおりを挟む随分と懐かしい夢を見ていたような気がする。しかし、幸福な記憶ほどかき消してしまいたくなるものだ。
ソフィアは、心の最も奥に隠された優しい思い出に似た匂いを感じて、ゆっくりと瞼を開いた。
開けた視界の中に、グレイの瞳が映る。その瞳を持つ者は、ソフィアが目を覚ましたことに気づくと、つまらなさそうに寝台の上に乗せていたあごを持ち上げて、ぱたぱたと尻尾を振った。
友人は、ソフィアが眠る寝台の横に立ち、じっと彼女の寝顔を見つめていたらしい。
久々に会う狼が嬉々として顔を寄せてくるのを見たソフィアは、寝ぼけながら手を伸ばして、その毛に触れる前に、はたと動きを止めた。
期待が外れてソフィアが触れてくれなかったことに気づいた狼が、勝手に彼女の手のひらに頬を押し付けてくる。
「触れても問題ない」
遠慮のない狼の行動に呆気にとられていたソフィアは、背後から低い声が発せられたのを聞いて、勢いよく上体を起して振り返った。
月の光に照らし出された窓辺の椅子に、男がどっかりと座っている。足を組んで座る男の手には、一冊の本が挟まれていた。分厚い古書でさえ、彼の手にはあまりにも小さく見える。男はその本を無造作にテーブルの上に置いて、やおら立ち上がった。
「記憶はあるか」
淡々と問うてくる男に、己の純潔が散らされてしまったことを思いだしたソフィアは、満足な反応を返すこともできずに顔を背けた。
悪女らしからぬ行いだと理解したときには、ルイスはすでに彼女の目の前に立ち、その姿を見下ろしていた。
ソフィアの身体には、黒いシャツがかけられている。特に前を隠しきれていないことに気づいた彼女は、即座にシャツを掻き抱くように胸元を隠した。
その姿は、悪女というよりも、恥じらう乙女のようだ。ソフィアの初心な反応を見たルイスは、無意識のうちに目を細め、彼女へと手を伸ばしていた。
そうしてルイスがソフィアの頬に触れかけた時、二人の間にするりと一匹の狼が入り込み、ルイスの手を阻んだ。
「ライ」
ルイスに呼ばれた狼は、なおも彼とソフィアの間から離れようとはしない。まるで、ルイスからソフィアのことを守っているかのような振る舞いだ。ソフィアはその狼の名がライであることを知ると同時に、ようやく目の前の男が、己の秘密を暴くことができたわけを知った。
よくよく考えればわかるようなことだ。ソフィアの友人はよく知りもしない間柄の者に身体を触れさせるような者ではない。つまりソフィアの友人は、ルイスとそれなりの関係性を築いているということだ。
ソフィアが事実を噛み砕いている間、全く引くつもりのない狼を見下ろしたルイスは、彼女に伸ばしかけていた手を取りやめて、気まずげに視線をそらした。
「……体調は」
ソフィアは生まれてこの方、ユリウスとテオドール以外に自身の体調を気遣ってくるような奇特な人間に出逢ったことがなかった。吃驚して声を失くしていれば、わずかに眉を顰めた男が、表情を覗くようにソフィアへ視線を戻してくる。
闇に輝く琥珀の瞳は、少し前に見た黄金色の煌めきに比べ、静謐な美しさを宿していた。真摯な瞳に覗き込まれたソフィアは、居心地の悪さに瞬時に視線を逸らす。
どれくらい眠ることができたのだろうか。ソフィアはその身体に、まだほとんど魔力が戻っていないことを察して、盛大なため息をつきたくなった。
この男と縁を深めるわけにはいかないが、記憶を奪うことができるほど、魔力が残っているわけでもない。
ルイスの問いに答えることはなかったが、ソフィアは全ての出来事を記憶していた。
この寝台の上で何が起こったのかも、鮮明にその瞳に焼き付いている。——だからこそ、男の顔を見返すことができないのだ。
だが、稀代の悪女がまさか、そのような振る舞いをするわけにも行かない。眠っているふりを続けていればよかったのだ。後悔しても遅い。
視線をそらした先に立つ狼が、ちらりとソフィアの顔を振り返って瞳を見つめている。まるで、ソフィアの身体を心配しているかのような瞳だ。ソフィアにはなぜか、その目がどこか、ルイスのものに似ているように見える。
「悪かった」
ソフィアが友人の瞳を見つめながらどのようにしてこの難局を乗り越えるべきかと画策しているそのとき、低く、腹を痺れさせるような声が静かなる謝罪を囁いた。
「貴女の意思に反して無体を働いた」
ソフィアが声を返す間もなく、男の謝罪の言葉が続けられる。ライと呼ばれた狼は、ゆったりと寝台の上に乗りあがり、ぴったりとソフィアの隣に寄り添い座った。
ソフィアを慰めるような行動だ。
ライを見下ろしたルイスは僅かに眉を顰めたように見えたが、次の瞬間には、すでにいつもの真顔に戻ってしまっていた。
獣人の仇である稀代の悪女の純血を散らしたのだと嘲笑えば良いものを、この男には、まったくもってそのような考えはないようだ。
相変わらず清廉潔白な騎士だ、と内心ソフィアは呆れつつ、努めてその顔を見ぬようにしながら、身体を動かした。
——己の純潔に価値があると思ったことは一度もない。
ソフィアは口に出す必要のないことを頭の中に思い浮かべながら、ルイスが立つベッドサイドとは反対方向へと身体を寄せる。
「何をしている」
即座にルイスの尋問が飛んでくるのも無視しつつ、彼女は目眩しの魔法程度であれば1分ほど行使することができることを確認していた。
会話をする必要はない。
この分なら、ルイスはソフィアとの間に起こった過ちを口に出すこともないだろう。明日、万全の状態でこの男の頭に幻惑をかければいい。ソフィアはただそれだけを思いながらベッド脇に足を下ろし、立ち上がろうと体に力をかけた。
「っ、あ……!」
「っおい!」
彼女が簡素な寝台の上から抜け出そうと床に足をつけた瞬間、かくり、と身体が崩れ落ちた。まったく力が入らないのだ。ソフィアは何が起こったのかもわからぬまま地面に倒れ落ちそうになり、誰かの腕に背後から支えられた。
腹に回った熱は、覚えのある引き締まった腕だ。触れ合った瞬間、えもいわれぬ刺激に襲われて、ソフィアは耐えることもできずに喉を鳴らす。
「っ、ん」
少し前に感じていたほどの陶酔ではないが、思わずぴたりと身体を寄り添わせて、彼の胸に抱きついてしまいたくなるような心地よさが身体を支配していた。
「離し、てくださいまし」
おかしな感覚に怯えたソフィアは、結局抵抗も虚しく、ソプラノの声をあげてしまった。背後から覆い被さるように彼女の身体を抱き起している男が、僅かに息を呑む。
「離し、」
「離せば貴女はこの床に転げることになるが」
ソフィアの足腰が立たなくなるほどに激しく身体を暴いた男が、脅すように囁いた。
ソフィアは男の言葉の通り、足どころか、全身に力が入らないことに気づいてしまった。
逃げ出す術もないとなると、ソフィアはこの、最も苦手とする男と対峙しなければならなくなる。どうにかその腕を掴もうと手を添えれば、後ろから喉を鳴らすような笑い声が響いた。
まるで、愛い物を可愛がるかのような声だ。
「戯れのような抵抗だな」
くつくつと喉を鳴らした男に囁かれた瞬間、ソフィアは顔に熱が集まるのを感じて、瞬時に男の手を突っぱね振り返った。
「近寄らないで! 穢らわしい!」
ソフィアは勢いのまま右手を振り上げて、思い切り振りかぶった。
ソフィアを抱き起すために身体をかがめていた男の頬を打つつもりで手を振り上げた彼女は、その男が瞬き一つせずに彼女の瞳を見つめているのを知って、彼の頬に触れる寸前でぴたりと動作を止めた。
「何故殴らない」
まるで、罰せられることを望んでいるかのような言葉だ。
ソフィアは思わず眉を顰めかけてしまったが、その表情は、彼女が再び体勢を崩しかけたことで、ルイスの目に晒されることはなかった。
挑発した通りに反応を示した悪女があっさりと腕の中に戻ってきた感触を掴んだルイスは、その華奢な身体を断りなくベッドの上に戻して、きつく睨んでくる瞳を見下ろした。
「これ以上触らないで。ただではおかないわ」
「貴女が罰したいならそうすれば良い」
だが、ソフィア・フローレンスは、ルイスを罰する気などない。
これまでのソフィアの行動をじっくりと眺めたルイスは、とうにソフィアが彼への害意を持っていないことなど、容易に想像できていた。
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