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 聖ルチア教会はサンクトリウス公爵領の北部に位置するカナリル地方唯一の教会だ。公爵領のなかでもとくに貧しい者が多く住むカナリル地方は、王都から馬でも一時間程度でたどり着ける場にありながら、その様相は王都と全く異なる。

 フェルナンドも国の各所に出向くことはあるだろうが、サンクトリウス公爵領の中に足を踏み入れる機会はほとんどないだろう。この国の主要な大神官を輩出するサンクトリウス公爵家は、領地へ貧しい民を受け入れ、支援を続けている。そのため全国各地からサンクトリウス公爵領に様々な貧民が集まるのだ。その中でも聖ルチア教会は、とくに支援を必要としている貧民のために開かれている。

「公爵領の領民は皆、朝それぞれに神への祈りの時間を持ち、働くことのできぬ者は炊き出しを利用し、働くことのできる者は畑を耕しますわ。もちろん富を持つ者も居住しているでしょうけど、この領地は稼ぐことには適していないの」
「まさに救済のための地というわけだね」
「ええ」

 フェルナンドの馬に乗り、二人でゆっくりと道を進んでいく。後ろにはダリウスをはじめとする数名の騎士がついているだろうが、私とフェルナンドの前に姿を現さないようにしているらしい。

「……本当に、公爵と教会へ訪問の先触れを出さなくてよかったのかな」
「ええ、問題ありません。聖ルチア教会は私の故郷のような場所ですし」

 万が一サンクトリウス公爵がこの訪問を知れば、理由をつけて私とフェルナンドの訪問を断っただろう。

 フェルナンドははじめ、公爵領に入る前までは朗らかに笑みを浮かべながら道の周囲に見える物についてあれこれと口を開いていたが、それもカナリル地方に入ってからすっかり鳴りを潜めてしまった。

「こちらへは、初めてお越しに?」
「うん、そうだね。……私とあなたの関係が近しいのは問題だろうと思っていたし、何より大神官を輩出するサンクトリウス公爵家の領内は、王族としても踏み入れがたい場だよ」

 ディアドレもそのように考えていたのかは知らぬところだが、たしかに彼も一度としてこの領内に足を踏み入れたことはない。

「では、私がご案内いたしますね。……フェルは九歳のとき、どちらで洗礼を受けたのかしら」
「私はルデルディア大聖堂だね。あなたは?」
「私はこの聖ルチア教会よ」

 答えを返しながら視線を向けると、フェルナンドは息をのんでその教会を見上げた。

 聖ルチア教会は決して力ある教会ではない。この場所はとくに重い罪を犯した者に施しを与える場である、と言えば美談に聞こえるだろうが、その内情は、重罪人を収容する地獄だ。

 何も言わずにセオから降りたフェルナンドが手を差し出し、私をそっと地面へと下ろしてくれる。それに礼を言いつつ笑みを向けると、彼はやはり複雑そうな表情を浮かべていた。

「……これは」
「案内するわ。ここが私の故郷。……私の一番の欠点を隠している場所よ」

 重く口を閉ざしたフェルナンドとともに聖ルチア教会に足を踏み入れる。

 聖ルチア教会は、積み上げられた石畳で作られた教会だ。夏はじめじめと湿気に覆われ、カビのような臭いを発し、冬には凍傷で死ぬ者が出るほど冷え込む。食事は固いパンと冷え切った塩水のようなスープが一日に一度。それ以外の時間は、ひたすらに神への祈りを捧げさせられる。私がこの世に百以上ある聖書の物語とその祈りの詞を暗唱できる理由は、この教会にある。

 教会内部は外観から思い描く以上に広く、この場所にきた貧民たちはすべて個別に部屋を与えられる。残念ながらその部屋は、小さな子どもであったとしても、少し足を屈めなければ到底眠ることさえできぬようなものだが。

「重そうな扉でしょう。……実際、子どもの力ではびくともしないのよ」

 一つひとつの部屋の扉は重苦しい石畳でできており、力のある大人ならばまだしも子どもには到底開けられない。石畳の扉に触れようとしているフェルナンドに説明すると、彼はその手を止めて私に視線を向けた。なぜそのようなことを知っているのかと、問うようなまなざしだった。

 その目は彼の頭に浮かんでいる想像を、どうしても否定したいように見えた。だがおそらく、聡いフェルナンドの考えは間違っていない。

「ユフィ、これはまるで、あなたがここに……」
「洗礼を受けるまでのことよ」

 静かにその言葉を打ち明けると、フェルナンドは一度きつく瞼を瞑って隠すように息を吐いた。

「……あなたの秘密を聞かせてほしい」

 ――ミハエル・サンクトリウスは不貞を嫌う。それは、憎悪と呼べるまでのものだ。

 ミハエルはサンクトリウス公爵家の嫡男として生まれ、マリエラという名の女性を娶った。マリエラはサンクトリウス公爵家の傍系の家の生まれであり、微力な聖力を持つ聖職者でもあったという。しかし、元来恋とは人を狂わせるものなのだ。マリエラはミハエルとの婚姻後も熱心にサンクトリウス公爵領内の教会で奉仕活動を続け、次第に公爵邸を留守にするようになる。

「そうしてマリエラは悪魔への道を進んだのよ」

 ゆっくりと寂れた廊下を進みながら話を続け、一つの部屋の前に立つ。独房のように狭いその石畳の部屋にはよく見覚えがあった。

「悪魔への道……」
「マリエラは子どもを身ごもったわ。けれど彼女は聖女ではないし、処女懐胎を想定させられるほど聖力があるわけでもなかった。つまり平凡な女が、夫と寝室を共にすることなく子を身ごもるということはその女が悪魔である証拠なのよ」

 積み上げられた石でできた堅牢な扉に触れ力を込めて開こうとすると、後ろから白く節くれだった手が私の手に触れた。

「私がやろう」
「……ありがとう。それで……、そう、サンクトリウス公爵は規律を重んじ、とくに不貞を嫌うお方。だからこそ、公爵様はその悪魔を厳しく罰した。その罪を贖うためにあるのがこの教会なの」

 フェルナンドの手によって開かれた扉を見つめ、ゆっくりと中に入る。

 扉が開かれていても、ひとたび中に入れば異様な閉塞感が肌を撫でつけ、ざわめく気を落ち着けるように小さく息を吐いた。

「フェルもいらっしゃる?」
「あなたがいいなら、もちろん」

 差し出した手に臆することなく触れたフェルナンドは、その体をかがめて部屋に入り、私と同じように小さく息を吐いた。私一人でもひどく重苦しく感じられたが、二人になるととても狭い。背の高いフェルナンドは、私以上に窮屈さを感じているだろう。

 部屋の中に置かれているのは、石造りの重い机が一つ。それ以外は四方が石の壁に覆われ、入口正面の壁の上部に換気口のような小さな鉄格子の窓が見える。その窓からは微かな光が差し込んでいた。

「女性……、というよりも悪魔の懺悔のために作られているから、殿方には少し手狭かもしれないわね」
「……ここに、レディ・マリエラが?」

 フェルナンドには珍しく険しい表情だ。これまでの話を聞いて、フェルナンドなりに思うところがあるのだろう。しかし、その答えはノーだ。

「いいえ。ここは私が九歳まで過ごした部屋。マリエラというご令嬢が懺悔しながら朽ちていった部屋がどの部屋なのかは私にもわからないわ」
「ユフィ」
「私が知っているのは、マリエラが悪魔であり私の母であるということ。そして悪魔の身を清めるため、私を産んだ後はこの教会でその命が尽きるその日まで祈りを捧げ続けたということ。……悪魔の胎から生まれた私が、生まれながらにして悪魔であるということ。ただそれだけよ」

 サンクトリウス公爵は決して不貞を働く悪魔を許そうとしなかった。しかしそれとは別に、妻に不貞を働かれたからと言って、別の者を妻とするつもりもなかった。

 彼は神前で立てた運命の誓いを破ることもまた大罪であると考えているのだ。だからこそ、サンクトリウス公爵は死別したマリエラ一人を生涯の妻とし、その悪魔の子を自身の娘として教育を施すこととした。

 エズオスパルド王国では、九歳になると教会にて洗礼を受けることになる。その際、特別に神に愛された子であれば聖力を受けることができる。そこでサンクトリウス公爵は、悪魔の子が洗礼を受け、仮に聖力を神から授けられたのならば、その子の罪が贖われたとしてよいだろうと、そう考えたのだ。

「そうして私は聖力を授けられ、罪は贖われた。……けれど、一度悪魔に身をやつした者が罪深き者であることには変わりはない。公爵様は一度として失敗を許さなかったわ」
「……それであなたは」
「九歳まではここでひたすら神に祈ったわ。週に一度、必ず公爵様は私の前にきて、私の罪を語るの。その日が一番質素な食事になるから、私は毎週公爵様が訪れないことを願っていた。……今にして思えば、私は本当に悪魔と呼ばれて然るべき者なの。信仰心などまるでない。だってそうでしょう? 信仰すると、己が悪魔であると認めることになるのよ?」
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