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1章 見知らぬ世界にくの一'葵’見参!

20 死力を尽くせば!!

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「後ろ、糸がある! 気をつけて!」

「了解!」


 草を刈るような大振りの一撃を、身を捻って避けて、指示通り着地点を変更する。
 緊張感は人生でも初めてというぐらいに達し、全身は汗ばみ息つく暇もない。
 たった数回食らっただけで死ぬのだから当然だ。
 でも闘争心に陰りはないし、集中力やパフォーマンスは全員が最大限に発揮していた。

 トラップとして撒かれる糸はピーキーで、高粘着質な性質のせいか数分で溶けるように消える。
 足場や動作を確認し合い、攻略は綱渡りながら何とか進んでいた。

 感覚を研ぎ澄ませ。発する音を、相手の目線を、刺さる殺意を、全て知覚しろ。
 思考も動きも止めるな。走れ、踊れ、刻め。
 おそらく大和伝でプレイしていた時よりとは、比べ物にならないほどの没入感に達していた。そもそもそれぐらいしないと三人での攻略なんて不可能だ。
 二分の一を百回当てるほどの難題。いつ崩れてもおかしくない砂上の楼閣。無数にある針山から正解の穴に紐を通す偉業。それを自分たちの手と根性で無理やり保ち続けている状態。
 
 逆説的だが子蜘蛛がいないことがそれを可能にしていた。土蜘蛛姫の脅威は、やはり無限に湧く手下たちによる妨害がかなりのウェイトを締めていることを実感する。
 一体一体は大したことがなくても、その数で間断なく攻め立てられると集中力が削がれ、隙が増えて直撃を食らってしまう。だから戦力を分散してくれたあっちのおかげで結果的には助かっている。
 とは言え、それでもまったく安定なんてしやしない。

 土蜘蛛姫が思い付くままに色々やろうとするからだ。木を引っこ抜いて投げ回したり、糸で足を引っ掛けたり、好き放題やってくれる。
 その度に新しく対応しなければならなかったが、むしろ私たちの連携度合いはその都度上がってきた。
 それでもスリリング過ぎる戦闘はまだようとして知れず、いたずらに時間が過ぎていき、苛烈さは徐々に増していく。


『ソラソラ、セイゼイ気ヲ付ケロ。触レタダケデ鉄ヲモ溶カスゾ―【等活地獄】鉄腐てつぐされノ刃―』


 さらに土蜘蛛姫の手には禍々しい長大な武器が生まれる。
 それは彼女の血液が凝縮し、形作ったかのような妖しい紫紺の薙刀。
 切れるどころか触れるだけで状態異常を高確率で付加し、こちらの武器や防具の耐久値を削るメインウェポンだ。
 序盤こそはそれなりに斬りつけることもできたのに、これを出されると弱点であるダメージが最も通りやすい生身部分を易々と傷付けることが難しくなる。


「はっ……はっ……はっ……」


 呼吸は荒い。張り詰める耐え難いプレッシャーは容易に体力を奪ってくる。
 体感でもう数十分以上は戦い続けていた。
 少しでも玄武に注意がいくと、虎視眈々とすぐさま肉薄し、手に持つ炎の爪で多脚を削り取りHPを消耗させる。
 時には土蜘蛛姫の下に潜り込み真下からめちゃめちゃに引っかいてやった。
 だが痛がる素振りは見せても一向に終わる気配は見せない。

 辺りの景観は無茶苦茶で、地面は陥没が起こったかのようにボコボコにめくり上がり、木や建物も戦いの余波に煽られいくつも倒壊し、この戦闘の凄まじさを物語っていた。
 
 それに私たちの身なりも土埃や引っかき傷で見る影もない。
 一度アイテムストレージに入れ直せば耐久は減ったままでも、見た目だけは回復するんだけど、そんな暇なんてあるわけもなかった。

 大和伝では一回でも倒した敵はHPが表示されるようになるのだが、どうやらこの土蜘蛛姫は今まで倒したのとは別枠として認識されているようで、憎らしいことに表示されていない。
 せめて今の自分たちの状況が分かれば良かったんだけど、終わりが見えない戦闘は時間が消費されるごとにゆるゆると体と心の疲れが蓄積されていく。
 それでも誰も折れないのは勝利を信じているからだ。


『土は土に還るがよい! せやぁぁぁ!!』


 剛槍が唸りを上げ、持ち手が猛る。
 玄武も慣れてきたのか守りだけでなく、攻防の隙間から自慢の槍を繰り出し、脚やそれこそ弱点部分の人型の部分にも果敢に挑戦するようになった。
 私のDPS一秒あたりのダメージと比べれば半分以下だけど、アタッカーが私しかいない今、この援護はかなりありがたい。
 本来、人が握るのすら難しいほどのあんな太い槍で突かれれば、たいていの生き物なんて即死だというのにままならないものだ。


『痴レ者共ガッ……』
 
「とぅりゃっ!」


 玄武の突き刺しで、一瞬、土蜘蛛姫の体勢がよろめいたので側面から攻勢に出る。
 
 けれど、


『羽虫ガ粋ガルナッ!!』

「くぅっ!?」


 すかさず行ったつもりだったが、薙刀を断頭台の鎌のように頭上から振り下ろされる。
 変わり身もすでに使い切り肉体以外での緊急回避は不可能。
 無理やり急ブレーキを掛けると筋肉が軋む。それでも直撃されるよりは何千倍もマシだと体を強引に捻って回避した。無傷とはいかず、腕に薄い裂傷が刻まれ、髪が少し舞い散った。
 

『【ステート異常:毒】レジスト抵抗成功』

 痛い。だけど最初ほどのショックは感じなかった。もはや私の気力も闘志もこんなことでは揺らがないし削られない。
 毒も耐性の高いマスクに変えて抵抗値は上がっているようだ。


『ソコダッ!! チィッ、煩ワシイ!!』


 体勢が崩れたところに前脚を押し出し弾いてくる。さっきは無防備に食らってしまった。今回はしっかりと二刀で遮り自分から上空へ飛んだ。結果、力は分散されダメージは微々たるものだ。
 そしてお返しに空中でくない三本を指に挟み投擲とうてきする。死角となる上空からの三点同時攻撃だ。全て命中し、土蜘蛛姫が苦悶の表情を浮かべ、突き刺さったくないを忌々しげに引き抜き怪力で磨りつぶした。


「いけっ!」


 景保さんは凡字が書かれた回復効果のある扇を振るう。
 その扇からはキラキラと緑のエフェクトが生まれ、それは大きな蝶のように象ると着地した私や玄武に纏わりつき傷を肩代わりして消えていく。
 それの回復効果は微々たるもので、パーティー戦ではそうそう見ないものだけど、ここではアイテム使用に制限があるため少しでも節約しようとする工夫だった。 

 ぎぃん、と大盾と薙刀がぶつかり一際大きな衝撃音がして玄武が距離を取る。その顔や首筋には大粒の汗が生まれ苦痛に歪んでいた。
 傷や体力がアイテムや符術で癒えても蓄積された‘痛み’や‘疲れ’はおそらく骨身に、魂に残る。こびり付いた垢みたいなそれはきっと時間経過じゃないと回復しきれないのだろう。
 私たちの中で玄武の負担が最も大きい。それでも彼女に信頼を託すしかなかった。


『忌々シイ。貴様ラハ何ナノダ? 勝テモシナイ戦イヲ延々ト続ケルツモリカ? コノヨウナ過酷ナ闘争ニ身ヲヤツシテモ、ソレニ見合ッタ名誉モ報酬モ無イデアロウ。無価値ナ戦イダ』


 土蜘蛛姫は実力や思想からいってファンタジー世界に突如誕生した魔王みたいなものだ。しかしその脅威を正しく判断できる人はいないだろう。おそらく私たちがここで戦っても誰もちゃんと評価してくれない。それどころか村人が全滅してしまい、褒められるどころか罵声を浴びせられるかもしれない。ヘタをすると無能のそしりを受ける可能性だってある。
 けれどそれがなんだっていうのさ。今、私はそんなものを目当てにここに立ってはいない。私の背中の後ろには生身の人間が生きている世界があるんだ、彼ら彼女らを守るために私は戦っている。見過ごせるわけがないじゃない。


「勝てないって誰が決めた? 価値が無いって誰が決めた? そんなこと言ってるのはあんただけだよ! ここにいるみんな、勝てることを疑ってる人なんて誰もいない!!」

「報酬がどうとかじゃないよ。やると決めたからにはやる。思えばどこでも逃げてばかりだった。僕はもう逃げるとか言わないよ。どれだけ道のりが遠くても与えた傷一つ、回復した傷一つが先に進む一歩に繋がるなら諦めない! 乗り越えてみせる!」

『そうだ! 拙らの手には脅威を打ち砕く大義がある! 信義と忠誠を預けるに足る仲間がいる! 流す血にはその先に平穏があるのだ! これ以上他に求めることなどない!!』


 虚勢じゃない、心からの本心だ。
 決して物理的ダメージにはなりはしないけど、自分たちの想いをぶつける。


「体中引っ掛かれて実は内心焦ってんじゃないの? 降参するなら許してあげるわよ」

『カカ、小気味良ク吠ヨル。コノ程度、転ンダ内ニモ入ラヌワ』

 
 土蜘蛛姫の言うことを信じるつもりはないけど、実際のところあとどれぐらい続けなければいけないのかは確かに不明だった。
 五人いれば倒せるぐらいの時間はとっくに過ぎている。それでも倒れないのは私の攻撃力不足のせいで、とても口惜しかった。
 たぶんだけど、まだ二割ほどしか削れていない。楽観的に見積もっても三割いったかどうか。


「せめて『蜘蛛切り』持ちの【侍】がいたらね」


 景保さんが零すのは、名前の通り蜘蛛や、あと昆虫類に特攻がある武器のことだ。
 種別は刀。かつて源氏の侍たちの手を渡り、その都度、名と主を変えた継承刀で、かの源義経も携えていた。フレーバーテキストには一刀の元に化物の正体も暴くとも書かれていた名刀だ。
 それがあればダメージ二割増しで相当に心強いんだけど、あいにく侍専用装備で私には縁が無い。


「そもそも、呼ばれてもいないのにしゃしゃり出てきてあんた何がしたいの?」 

『妾ハ狂乱ヲ望ム。神ヤ英傑ノ時代ハ終焉ヲ迎エ、殺戮ト欲望ダケガ蔓延スル地ヲ望ムノダ。恭順スル者ダケハ餌トシテ生カシテオイテヤロウ。妾ハオ前タチノ屍ノ上ニ、ココニ大和ノ国デハ成シエナカッタ千年続ク都ヲ築クノダ!』

「妄想に取り憑かれたやつって厄介よね! っと!」


 言って足元に張り付いて攻撃を仕掛けていた私を振り払うように豪快に振り回してくる尾を、足に力を込めて躱す。着地までの合間に『―【風遁】―切り裂き燕』を放ち、浅い裂傷を生ませて少しでもダメージを稼ぐ。
 そりゃこのステータスと子分を無限生成できる力があれば、世界征服なんて可能なのかもしれないけど、そんなの今時流行らないっての。
 大体この手のやつは何も考えていないことが多い。生前だって設定通りならただの姫で、政治とかしたこともないくせに何が千年続く都よ。


『ぐぁっ!』


 私たちだけでなく、土蜘蛛姫の激しい攻めも止まらない。なおもヘイトを取り続ける玄武に、私が抱え込むほどの太い前脚や薄気味悪い薙刀が体力、気力をえぐり取ってくる。
 そんな頭上からの体の芯に響く速く重い一撃を、もう何百発も耐え反らし続けてきた彼女の努力は賞賛されるものだ。一流のプレイヤーに負けず劣らずどころか、それ以上の奮闘ぶり。
 やがて玄武がまともに脚の攻撃を盾で受けてしまい数メートルを転がった。
 

「バックアップ!」

「はい!」


 でもすぐに景保さんと私は立ち位置を変え、忍術や符術を使い時間を稼ぐ。
 実は私も短時間であれば回避タンクとして機能する。ただしヘイトそのものを稼ぐ技がなく、一発でもまともに被弾すれば瓦解するので格下や攻撃が遅いボスにしか通用しなく、対土蜘蛛姫では推奨されない。だけどそのちょっとの間が重要だ。符術によって回復した玄武が復帰する。
 もう何度も私や玄武が攻撃を食らい崩れそうになるピンチはあったけど、こうしてリカバリー対応が可能になっていた。痛みに対するショックも多少は慣れた。本当に人の適応能力ってすごい。


「範囲毒霧が来るよ!」


 景保さんの声に反応し瞬時に後退する。数秒の遅れがあって土蜘蛛姫の下半身の蜘蛛の口から毒霧が吐かれ視界いっぱいに蔓延した。
 人型の口から出る場合は個別で、下半身の蜘蛛から噴出する場合は範囲攻撃という按配だ。
 目線を傾けると玄武も難なく逃れたようだった。
 ゴリ押し状態なら食らっても攻撃を続けるという手もあるけど、そんな無理がやれるはずもなく、やがて土蜘蛛姫を隠すほど周りに立ち込めた濃い紫の霧が晴れていくのを待つ。
 濃い毒が薄くなってタイミングを窺っていると、煙を割いていくつもの何かが飛び出してきた。


「なに!?」

 
 その飛来物たちは直線的に玄武を狙う。
 けれども玄武は冷静に見極め対処した。数は多いがその大半は玄武に当たらないコースだ。自分や後方にいる景保さんに直撃するものだけ盾で弾き他は見送る。
 その物体の正体は‘岩’だった。
 おそらく戦闘の途中で割れた土くれや岩の破片だ。それらが無造作に戦場に散らばった。
 
 こんなものをわざわざ投げてくるほど、しぶとく倒れない私たちに苛立っているのだろうか。しかもほとんどが大外れ。
 こっちがストレスを感じているように、あっちもなかなか死なない私たちに内心焦っているのかもしれない。
 そう考えればちょっとだけ希望も見えてくる。


『モウ飽イタ。ソロソロ終ワラセルトシヨウ』

「何言ってんのもっと付き合ってもらうわよ。もちろんあんたが死ぬまでね」


 煙の隙間から見え隠れする土蜘蛛姫に居丈高に言い放った。
 にも拘らず反応が薄い。


『……大和デハ思考ガ阻害サレテイタカノヨウニ何モ考エラレナカッタガ、今ハ清々シイ。小娘ドモ意味ガ分カルカ?』
 

 どう言い返してやろうかと巡らせていると、土蜘蛛姫が無造作に手を振る。その挙動の意味が分からず小首を傾げる。
 突然、斜め後ろから景保さんの「あ」という間の抜けた声がして振り返った。
 それで目撃したものは、景保さんの後ろから岩が迫っている場面だった。


「なっ!?」


 少し離れていたから私にはそのからくりが解ったが、彼からすると自分の眼前に突然上半身ほどある岩が急追してきて、何がなんだか分からなかったに違いない。
 その岩には糸が引っ付いていた。目を凝らさないと見落とすほどの極細の数本の糸。
 おそらくさっきの毒霧と岩投げはこれを隠すための目くらましだったのだ。そのほとんどがダミーで、本命の一つだけを後衛の景保さんのさらに後ろに潜ませ、意識の埒外から引っ張って攻撃するための。

 たぶん疲労もあったと思う。意表を突かれたショックで体が硬直し景保さんはその岩の直撃を食らった。
 頭部を強かに打ち烏帽子が身代わりになるように地面に落ちた。
 こちらまで痛みが伝わってきそうな鈍痛に、額がぱっくりと裂け血が流れ出る。
 倒れはしなかったがダメージの衝撃からか片膝をついていた。


『今マデ妾ハオ前タチニワザト付キ合ッテヤッテオッタダケダ。糸ノヨウニカ細イ望ミニ縋ル様ガ何トモ滑稽デ哀デナ』

『貴様ァッ!』


 玄武が毒婦により弄された一手で、自分の守りを通り抜け主を傷付けられてしまったことに激高する。
 槍を腰だめに構え突撃した。


「ちょっと!」


 胸騒ぎがして控えるように言おうとしたけど止められなかった。
 だけど罠ではなかったらしい。
 代わりに土蜘蛛姫の体が宙に浮いた。


『カカカ、怖イ怖イ。地ベタヲ這イつくばル亀ト違ッテ妾ハ優雅ニ散歩デモスルカノ』


 するすると巨体が空に上がっていく。
 そのせいで玄武の特攻は空振りし中断させられる。なにせ相手はもう見上げるほどの位置だ。 
 

「あぁ、そういうこと」


 不自然に足の三本が何かを掴んでいるみたいだったから目を凝らすとそれも糸だった。
 紅いドーム型の天井にまで伸びている。全く今まで気にしなかったけど、天井まで百メートル以上はあるか。そこに糸を飛ばし物語のような『蜘蛛の糸』とした。
 これも毒霧の間に仕込んだのだろう。新しいモーションとかいう次元ではなく、もう戦法を自分で考えてきてるってことか。面倒だ。
 っていうかこれどうしよう。


『蜘蛛女! 降りて来いッ!』


 すごい剣幕で玄武が叫ぶ。
 私も降りてきて欲しい。だって刀が届かない。忍術はいけるけど消費も激しいし飛び道具の専門職じゃないし。


『愉快愉快、シカシノ、妾ハモウ飽イタノダ』

「だからどういう意味よ!」

『コウイウコトダ』


 首が痛くなりそうなほど頭を反らして上を見上げていると、土蜘蛛姫が天井に足をつけ逆さになり止まった。
 にたぁと邪悪に笑う顔がこちらを見据えてくる。胸がざわつきいつでも動けるように膝を屈めた。
 直後、土蜘蛛姫が大きくなる。いや違う、天井を蹴っての垂直落下だ。


「逃げ――」


 咄嗟に足元を蹴って離れながら注意を促すが、地面が粉砕される大爆音にかき消された。
 数百キロはある重量級の激突だ。しかも足で反動を付けている。百メートルの距離など一秒にも満たずに消失した。
 そして爆弾が爆発したみたいに陥没し土がめくれ上がる。砕かれた岩片が飛んできて体を打ちすえ、風と衝撃で粉塵が舞い何がなんだか分からなくなった。

 上空からの突進。単純、それ故に阻みようがない。
 あまりにも瞬間的過ぎて迎撃など無意味。受けた途端にぺしゃんこになって即死は必定。着地の隙を攻撃しようにも、吹き飛ばされかねない風圧や振動が邪魔をして詰め寄る間に逃げられる。それを掻き分けてようやく近付いても跳んで逃げられれば一気に百メートル頭上だ。

 ふざけんな。移動方法として使うことはあったけど、こんな強烈なジャンピングプレスやってくるなんて聞いてないっての。
 こんなの防ぎようがないでしょ。こんなの私以外に避けようが――。
 
 心の中で毒づきながら土煙が収まり、思考の終着点と玄武がうつ伏せに倒れているのを見つけたのはほぼ同時。私のように敏捷が高くなく頭に血が上っていたせいで直撃を食らったのは明白だった。ただの人間なら身体を粉微塵にされるほどの恐るべき一打に生きているだけでもすごいのだが、残念なことにそれで事態が好転したりはしない。
 意識があるけどかなりの痛手だったらしく立つこともままならないようで、短い髪も乱れ全身はぼろぼろだった。自慢の盾はへしゃげてガラクタのようになって近くに転がっている。
 しかし必死で震える指を握り締め、力を振り絞り上半身を起こして立ち上がろうとしていた。


「玄武!?」


 この中で一番レベルが低いといえども防御型の玄武が一発で瀕死とかどれだけの威力なのか。もし私が食らったら……そう考えると戦慄し肌が粟立つ。
 すぐに駆け寄る。けれど、私が一歩踏み出す前に何かが玄武の背中に生えたのを見た。
 
 違う! 違う! これは――


『がぁああああああああああああああああああああ!!!』


 玄武の命の絶叫がその場に轟く。
 煙からぬっと現れたのは土蜘蛛姫。その脚先の爪が玄武の背中を腹部からやすやすと貫いていたのだ。
 

「このぉぉおおおおおおおおおおおおおおお!!」」


 瞬間、血と思考が沸騰する。声を荒げ憤怒を抱いて加速した。 
 丸太のような脚を挟み込み切断する勢いで二刀を力任せに振う。だけど紅の軌跡は空を切る。


『カカ、モットダ、モット怒レ恐怖シロ。貴様ラガ艱難辛苦かんなんしんくニ引き裂カレル声ハ心地良イ。黄泉よみノ淵ハスグソコゾ?』


 また空に逃げられた。
 でも今はあんなのに構っている暇はない。
 ウィンドウに手を掛け回復アイテムの一覧を呼び出していると、足をぐっと掴まれる感触があった。
 手は弱々しいのに一途にひたむきで力のある双眸が真っ直ぐにこちらを見上げる。


「玄武、今助け――」 

『主を……頼む……』


 それだけだった。光の粒子が舞う。それが死ぬときに出る燐光だと気付き、瞬きを三回した頃にはすでにそこに誰もいなくなっていた。
 無念があったろう、嘆きがあったろう、怒りがあったろう、でも彼女はそれを選んだ。たったそれだけ言い残して玄武はこの空間にあっけなく溶け消えたのだ。

 今、本当にここに玄武という存在がいたのか確証が持てずおぼろげになるほどの幕切れ。
 でも、足にあった感触と温もりだけはまだ残っている。

 この世界でNPCが死ぬとどうなるのかは不明だ。本当の死かもしれないし、一時的に呼び出せなくなるだけかもしれない。しかし今、目の前で悪意によって死んだのは紛れも無い事実。
 悲哀と憤りと後悔が頭の中でぐちゃぐちゃにせめぎ合う。


「ぁぁぁぁああああああああああああああああっ!!!」


 どうしようもない濁流のように次々と溢れてくる感情のわだかまりと激しい動悸を、何とかするために口から吐き出す。
 初めての仲間の『死』に、そうしないと私が耐え切れなかった。


「玄武……」


 怪我は符術で治したようで、景保さんが後ろから血を袖で拭いながらよろよろとやってくる。
 私よりも彼の方が辛いはずだ。その悲痛な表情を見たらはっと我に返った。頭上に目をやると土蜘蛛姫が再び嘲笑し天井からこちらを見下ろしている。
 感情が飽和していた頭に最大級の危険信号が走り、一気に体の血の気が引いた。


「くそぉぉぉぉぉ!!」 


 即座に体が動く。
 刀は鞘に戻し右肩に景保さんを無理やりに担ぎ込み、荷物を運ぶみたいにして連れ去る。
 この体なら大人一人分ぐらいの重さなんてあってないようなものだ。


「うわっ!?」


 戸惑い手足をバタつかせる彼を無視して疾走する。
 
 ――直後、背後が炸裂した。
 
 風圧で背中が押される感触を受けながら顔だけ振り返るとやっぱりさっきの攻撃だ。
 玄武の死にショックを受けた心の隙間を狙って襲ってきた。
 彼女の遺言を守るべく景保さんを守って走る。 
 意思があるならもうNPCではなく彼女は尊重すべき一人の生命体だ。だから息が切れそうになっても託されたものを絶対に守りきる。 


「玄武どうなっています?」

「分からない! ゲーム通りなら倒れれば丸一日は呼び出せないし、そもそも明日になっても再召喚できるかも分からない。どちらにせよ今は無理だ。くそっ! これ以上打つ手が無い!」


 陰陽師が呼び出せる式神で盾役タンクが務まるのは玄武だけだ。他は攻撃や回復、または支援専門。もしそれらを呼び出したところでまたすぐに倒されるのがオチ。
 残された戦力でおそらく甘く見積もってもまだ三割も減っていないHPをどうやって削り切る? そんなものありはしない。
 そもそもここまで舐めプレイをされてようやく拮抗していたんだ。例えば自動回復に任せて全回復するまで手の届かない場所に逃げられればそれで私たちは詰む。とっくにあいつはそれに気付いていて弄ばれていたんだ。
 山盛りの絶望にさらに拍車が掛かり、肩の上で悔しそうに歯を食いしばる景保さんと同じ結論に達してしまう。
 
 その間も地を蹴り高速で疾駆する。
 せめて考える時間が欲しくて身を隠すため家を遮蔽物にしたが、胸騒ぎがしてすぐに横を通り過ぎるとまた土蜘蛛姫が仕掛けてきた。
 まるで玩具でできたかのように家がバラバラに爆散する。
 

「隠れる場所も無い!」


 建物が障害物として機能しなければ、落ち着けるどころか視線を遮る場所すらもなかった。
 こうして逃げ回れば時間は多少稼げるが、そうなればあの性格だ、アレンたちに目標を変える可能性も容易に考えられた。だからこの逃走劇もただ走ればいいというものでもなく、土蜘蛛姫の攻めっ気が失われないよう多少セーブする必要もあり余計に気が割かれる。
 間断なく降り注ぐ敵意から絶妙な速度で逃げ続けるしかない。
 

「もう無理なのか? くそっ、何にも浮かばない……どうしたって勝ち目がないっ! これじゃ玄武はなんのために……」


 肩からする忸怩じくじたる想いを零す景保さんの声に、さっきの玄武の言葉が蘇った。
 『主を頼む』と。

 ここで諦めるわけにはいかない。何かないか……何か……。まともな戦いじゃだめだ。あっちはますますずる賢くなっていく。私たちが曲がりなりにも戦えたのはあくまでゲームと同じパターンをなぞった動作をするからに過ぎないんだ。それにあぁして逃げられたら回復される一方で手が付けられなくなっていく。
 付け加えるなら今はあっちがまだ余裕があるせいで弄ぶために手を緩められている節があるけど、追い詰められれば何をしでかしてくるかも分からない。だから一気にケリをつけなきゃいけない。
 今更ながらに驚異的な戦いへ身を投じてしまったことを、嫌が応にも再び自覚させられる。

 長期戦では知恵を付けられ回復されるので勝てない。
 私と景保さん二人だけでも勝てない。
 きっと追い詰め掛けても本気を出されて勝てない。

 幾度もゲームで倒したことがある敵だからと侮っていたのは私たちの方だったのだろうか。
 漫画のようになんとかなると子供のような甘い幻想を抱いていたのだろうか……。

 ――違う。
 違うんだよバカ葵! 勝てないことばかりじゃなく、勝てる方策を考えろ!
 私ができることを。私にしかできないことを!

 自分を鼓舞し持っているスキルやアイテムを急速に羅列し思い出していく。そして思案の末、脳裏に一つだけ閃くものがあった。
 でもこれは……。
 逡巡して速度が鈍る。そこにさらに上空からの襲撃。


『カカカカカ、足ガ止マッテオルナ? 黄泉比良坂ヘノ道ハスグソコゾ』

  
 割れた瓦礫の破片が飛んできて頬を打つ。直撃はしなかったけどヒヤヒヤものだ。
 慌しい攻めのせいで熟考ができず、苛立ちだけが募っていく。


「うるさい、黙ってろ!」

『愚鈍デ非力ナ大和ノ民タチヨ、オ前ラノ肉ヲ豚ノ餌ニナルマデ刻ミ込ンダラ、ソノ後ハアッチニイル人間ト連レテイタ小動物タチヲ食ラッテヤロウ。皮ヲ剥イデ骨マデシャブリ尽クス。臓物ハサゾ美味デアロウナ?』

 
 土蜘蛛姫は首をもたげて大きく口を開け、舌で自分の指をしゃぶる仕草をする。
 ぞっとした。冗談ではなく、こいつは本気でやるやつだと直感したからだ。
 すぐに訳も分からず涙が出て、次に腹から怒りが湧いてきた。
 それはある意味では蠱惑的で艶めかしいポーズだが、私にとっては烈火に油を注ぐがごとく許しがたい勘気に触れる言動だった。

 は? なんだと?
 豆太郎を殺すだと? 食うだと? 何言ってんだこいつ。一瞬でも想像しちゃっただろ。どうしてくれんだ。
 何かがキレた気がした。


「ふざ――ふざけるな!! このでかチチ蜘蛛女!! 言うに事欠いて豆太郎を食うだって!? あれは私のだ。私んのだ! あの愛らしい瞳も肌触りの良い毛も私を慕ってくれる気持ちも全部私んのだ!! 一ミリだってお前になんて分けてやるものか! もしお前のその指が毛先ほどでも触れてみろ、顔も手足も再生できなくなるまでぐちゃぐちゃに切り刻んではらわたを口からぶっ込んで殺してやるぞこの気狂い女!!!」


 気炎を吐く勢いで癇声を浴びせた。
 もういい。もういい。もういい。悩んでる場合か。後のことなんて知ったことか!
 もうあのにやけ面をヘコませないと気が済まない!!

 
「一個だけ……手があります」

「お、おう。……え、あるの!? 忍者にそんな逆転技あった? 【背水】? じゃないよね」


 背水とは【背水の陣の心得】というパッシブスキルのことで、HPが残り三割以下になると発動し攻撃力やクリティカル率が上がるものだ。
 素早さの高い忍者ではこれを使って瞬間火力を底上げする戦法がある。ただしそれは十分に避けられる自信があるのと、死んでも蘇生ができる環境において発揮される。現状のように一度食らったら即死ではとうてい使えるものではない。


「いえ。ここからは守備は要りません。ちょっとの間だけでもいいからあいつを地上に下ろして動きを止められませんか?」

「それで勝てるのかい?」

「……ええ」


 嘘だ。確証は無く賭けだった。
 でも本当のことを言ってどうなる?
 私のガチ怒りにドン引きしている景保さんに、努めて平静に答えた。

 怒りを抑える頭の中のイメージは、一本の槍だ。自分は冷たく無機物の槍になったと錯覚させる。
 トゲトゲとした攻撃的な感情を尖った金属部分の刃に薄く何重にも重ね、硬度と鋭さを増大させるのだ。
 誰にも気付かれないよう静かに穏やかに胸の内で研いで研いで研ぎまくり、研磨した玉鋼は極細でそれでいて固く、時が来れば何でも貫く矛とする。


「分かった。降ろしてくれ。玄武の無念もこの戦いの命運も全部ベットする」

「お願いします。まずはあいつを落とすところから!」

「任せてくれ、あいつを倒せるならなんだってやってやる! 玄武の仇を討ってくれ!」


 肩から降ろした景保さんが攻撃的な眼差しで指を弾き符を取り出す。


「―【青龍符】招来―」

 
 宣言コールと同時にこの世界に顕現した青龍は、さっき見たときよりも眉間が険しく髭が激しく逆立っていた。口からは息荒く白いダイヤモンドダストが大気に散っていく。
 そして怒気が大気を凍らせた。


『蜘蛛女ぁぁぁぁぁぁ!! 我が同胞をよくもやってくれたなぁぁぁぁ!!!』

「行くぞっ!! ―【青龍符】雨霰あめあられ―」 


 村の外で見た氷弾の嵐が焼き回しされる。
 土蜘蛛姫の攻撃が大砲の砲撃ならこれはガトリングだ。
 逆鱗に触れられた青龍の全てを貫く氷結の魔弾は、上空に向けて重力を振り切りこれでもかと発射されていく。
 
 しかし数百の蜘蛛を蹂躙した必殺の氷の弾丸を、土蜘蛛姫は糸を巧妙に使い虚空を我が物顔で闊歩かっぽし避けていった。
 

『カカカ、マダ妾ヲ飽キサセナイカ。面白イ余興ダノ。ソレ、妾ハコッチダゾ。鬼サンコチラ手ノ鳴ル方ヘ。カカ、稚気ヲ思イ出ス』


 動物的な勘を駆使しているのか、あざ笑いながら縦横無尽に結界上部を滑空し、なかなか命中しない。
 その空中遊泳する跡を氷が遅れて着弾し続け、無残に砕け散っていく。
 だめだ、これじゃ賭けにすらならない。
 
 さらに、光るものが空中から投擲された。その飛礫物は景保さんに向かう。


「なにこれ!? 爪!?」


 すかさず護衛するため紅孔雀で弾くと硬質な感触があった。
 地面にめり込み突き刺さる凶弾は薄透明で細長い。当然見覚えがある、これは土蜘蛛姫の爪だ。
 こんなのも使ってくるの!?

 空いた口が塞がらないとはこのこと。次々としてくる新しい行動に対応が着いていけない。
 こっちがまるで戦いの中で成長しながら新しい技を繰り出してくる少年漫画の敵役の気分だ。
 ただでさえ手が付けられないのに怪物が進化する恐怖は心底肝が冷える。
 これ自体はまだ何とかなるけど、これ以上は正直対処できるか怪しい。

 その苦心は景保さんに目で伝わった。
 ぎゅっと目蓋まぶたをつむり、そして彼は大きく見開いた。


「くそっ! 青龍絶対に当てろ! 精神力を全部使い切ってもいい! 全力だぁぁぁぁぁ!!」

『良い覚悟じゃ我が盟主。あの糞蜘蛛に氷の鉄槌を食らわせるぞっ!!』


 気迫いっぱいに叫ぶ景保さんに応じる青龍も鼻息を荒くする。
 瞬間、浮かぶ氷の数が一気に増殖した。一時的に射出は停止され、それは徐々に横に膨れ上がっていき空を覆っていく。
 景保さんも必死にアイテムでSP回復をしているも、すでに飲食物を大量に消費した満腹状態で実際に入る量は少ない。やがて急激に目減りしたSPが底を突く。
 SPが空っぽになった反動からか、景保さんはふらっとよろけた。

 大量の弾丸のストックは確保できたが、それでも命中できるかどうかは不明だ。ここからは腕前を信じるしかない。
 しかし景保さんは不調に苦しい顔をしながらも、まるで不満げに青龍を見た。


「青龍……全力だと言ったはずだぞ? 仲間を無残に殺されたお前の怒りはそんなものか? 神居古潭カムイコタン水冷洞すいれいどうの主の力はこんなものなのか!!」

『――盟主、本気じゃな?』

「最初から言ってる!!」


 二人の間に何が為されているのかは分からない。
 ただその荒々しい表情での遣り取りに、これから何かが起こることだけは予測させられた。


『良かろう。喧嘩も多かったがここにきて盟主と我の思いは合致した。ならば存分に使わせて頂こう。――死ぬなよ? 悲しむ者がおるでな』
 

 この言葉を皮切りに、再び空に浮かぶ氷の数が激増を始める。作られていくスピードはさっきよりも格段に速い。
 明らかにSPの消費量が合わずウィンドウを覗くが景保さんのSPはやはりゼロのままだ。
 だというのに、それでもなお氷の巨弾が怒涛の勢いで生成され続けていく。

 ――ありえない!

 肝を冷やす思いでもう一度見返すと、SPを肩代わりするかのようにHPゲージが減少を始めていた。
 その現象に愕然と目を剥く。
 そしてそれは残り一割のレッドゾーンを割り込み、尚も止まらない。


「景保さん!?」


 叫ばずにはいられなかった。
 一体彼らは何をしようとしているのか。もしやりたいことがあったとしてもこれでは自爆だ。なのに起こした撃鉄を元に戻す気配がない。
 玄武に続き、景保さんまで失う恐怖に身が竦み震えがくる。

 だがそれは杞憂で終わる。残りワンドットだけ残り、無情なゲージはようやくそこでストップした。
 ほっとしても自分の心臓の鼓動音がうるさく鳴り止まない。 

 顔を上げるとすでに頭上の氷弾の数は、数百を軽く越え、数千を通り越し、万にまで達していた。
 誰もが呼吸を忘れて感嘆をもらすような圧巻の神秘がそこにできあがっていたのだ。
 
 ぶるりと体が震える。これは恐れでも、圧倒される目の前の現状でもなく、現実的に体が冷えていたからだ。
 お腹の中に霜が生えたんじゃないかというほど寒く、口から白いもやがもれ、体中の血管もぎゅっと収縮するのを感じる。
 無数の氷に冷やされ周辺の気温が一気に下がり、季節が突然の冬に突入した。もはやこの場は冷凍庫の中と変わらない。


刮目かつもくせよ! 我らが怒りは万の牙の如く! 立ちはだかる怨敵を完膚なきまでに飲み込み仇花あだばなを咲かせよ! ―【青龍符】万本氷龍まんぼんひょうりゅう―』


 極寒の中、青龍が引き金を引いた。技の宣言と同時に氷の戦列が始動する。
 中心から飛び出し円柱状に集束していく氷の槍の束は、規則正しく連なり重なっていった。今までと似ているようにも思ったが、これは違う。
 さっきと同じように糸を用いて回避しようとする土蜘蛛姫に、氷の群れの先頭が生き物のようにぐんと角度を変え追い掛けたのだ。
 
 意思を持っているかのごとく執拗に土蜘蛛姫を補足し逃がさない。先は尖りまるで氷の龍だ。
 空一面に無数の氷の牙が、幻想的な煌きを持って憎き敵を噛み砕かんと乱舞する。

 こんな技、ゲームにはなかった。青龍と景保さんは土壇場で新しい技を作り上げたらしい。
 あなたが主人公ですか!?


『オノレェェ! オノレェェェェェ!!』


 景保さんと青龍の怒りを体現して目標を狩りたてる超ド級の氷龍は、哀れな蜘蛛を追い込んでいく。必死の形相でそれから逃げ惑うも、空はすでに龍の胴体がひしめいていて逃げ場はどんどんと無くなっていった。
 さっきの爪を飛ばして相殺しても一つや二つ氷が砕けるだけで、何の成果も上がらない。やがて追い込まれた土蜘蛛姫に凶悪な氷の顎が鮮烈に襲い掛かる。
 一度当たれば天井に縫い付けられ、龍を象っていた万本すべての氷槍がその顔を、手足を、胴体を、存在そのものを、魂すらも穿ち氷結せんと暴風雨のごとく次々と雪崩れ込む。
 

『ギャァァァァァァァァァァァァァァァァ!!!』


 土蜘蛛姫の吐き気を催すような、耳をつんざく金切り声が周囲に轟く。
 脳まで揺るがし、悲鳴ですら生命を脅かそうと蝕んでくるのは厄介が過ぎる。
 

「よし!」


 対象の血の一滴すらも凍り付かせ、鼓動を止めさせようと猛襲する氷龍。その氷龍が構成されている万に至る一本一本が役割を果たす様を眺めて私は拳を握った。
 あり余る氷の衝突に白い冷気が頭上をもうもうと覆っていき、痛切な絶叫と氷結がぶつかる音が止むことなく木霊する。
 
 いつ終わるのかと思うほどだったその異常な光景は、傍若無人な憎き仇に万回の裁きを受けさせ、ついに終わりを迎えた。
 やがて完全に龍が無くなり白い霧が晴れると、静寂と共にそこには巨大な氷柱が天井から逆さまに出来上がっていた。
 氷のひつぎ、いやその形はおぼろげながらも見惚れるような咲き誇る花弁を形成しており、知らず呆然と息を呑む。


「はぁはぁ……やっ……た……」


 景保さんは精神力SP生命力HPをほぼゼロまで使いきった反動からか、額に脂汗を滲ませ肩で荒く呼吸しながら地面に両膝を付く。
 
 平穏はつかの間、もちろんこれで終わるはずもない。
 鼓膜にはパキパキと氷が割れる嫌な音が今も流れてきていて、気を緩める暇も与えてくれず頬が強張る。
 そして不快を感じる音は最大にまで達し、氷花は儚く粉々に粉砕された。
 
 ずるりと上空から氷の破片と共に落下してくるのは土蜘蛛姫だ。
 景保さんの決死の覚悟で放たれた魂を削るような猛攻も、当然倒しきるには至らない。

 かなりの高度からの不時着なのに、怪我一つせず地面に脚を着ける。
 しかしながら体中から、それこそ平気な箇所がどこにも無いぐらい紫色の血が痛々しく垂れていた。

 八本の足のうち二本はヒビが入り、女の顔は右目の一つに強烈な傷跡が刻まれている。
 部位破壊だ。ゲームのままであればこれは自動回復でも治らず、このおかげで攻撃方法と敏捷が減り、命中力減少の恩恵が入る。

 それでもまだ駄目だ。弱っているように見えてもまだ根源的なHPはきっとまだ半分以上残っていて、まだ倒すのには至らない。


『キ、キサン貴様ラァァァァァァァァァァァ!!!』


 片目が潰れた彼女はだらりと全身をよろけさせ怨嗟の声を張り上げた。もはや取り繕う余裕も無いのか、吐く言葉は薩摩訛りの色合いが濃い。
 鬼気迫る凄惨なその姿にゾクゾクするものが込み上げてきて私は武者震いをした。
 けれど意識の埒外で、すでに足が動いていた。

 最速、最短、全速力で。
 ここまで溜めに溜め、磨きに磨いた気力を解放する。
 私は今、全てを貫く槍だ。


「消えろぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!」 


 助走を付け腕を振り姿勢を低くして、目にも止まらぬ神速で一気に懐に入る。そして吼えながら踏み込み、紅孔雀を二本とも右側面に構えた。
 応えろ――紅孔雀。その深紅の爪でこいつの命を狩り取れ。二刀から呼応するように炎が吹き荒れる。

 そしてありったけの思いと力を込めて地面を蹴り上げ爆発するように跳ぶ。見上げる位置にあった土蜘蛛姫の首を目掛けて横一文字に全力で降り抜く。
 感触はあった。その渾身の斬撃は何かをちゃんと切断した手応えがあったのだ。絶対的な勝利の確信。 

 だというのに空中で後ろを振り向くと、火炎のエフェクトに紛れて土蜘蛛姫の右手の手首から先が無くなっているのが見えた。首はまだ繋がっている。
 失敗だ。寸でのところで腕でガードされていた。

 ちっ、首を刎ねれば終わるかもしれないと思ったのに。
 でも鬱憤は晴らせた。ざまぁみろ。去来する悔恨を置き去って私は離れた場所に足を着けた。
 手や体はもう再生を始めている。これはもう頭を潰してもダメかもしれない。

 それならそれでいい。予定通り大詰めを始める! 
 

「景保さん! 動きを止めて!」


 無茶振りだ。もうHPもSPもカラカラで衰弱して立ち上がることすらままならない彼に、それでも貪欲に私は結果を求めた。


「……青……龍!」

『一命を賭してお主らの期待に応えようぞ!』


 されど景保さんはうずくまったまま頷き、憔悴しきった体で苦しそうに肺を振り絞り青龍の名を呼ぶ。
 青龍はそれだけで察してくれた。速攻で龍の体が駆ける。目指すは土蜘蛛姫そのもの。
 地を這うように低く飛び地面を凍てつかせながら接近し、自身の肉体でとぐろを巻いて土蜘蛛姫を拘束し抑えつけた。


『離セェッ!! ヨクモアテニ傷ヲツケテクレタナァァァ!!!』

 
 土蜘蛛姫の苦しげな呪詛の呻きが聞こえてくる。まともな状態じゃ無理だった。ここまで一時的にでも弱っている今だから縛り上げられ生まれたチャンスだ。
 これでオーダー通り。ここからは私の仕事だ。


「ありがとう!」


 感謝を述べながら私も加速し距離を詰める。
 青龍の体を足場にして跳ぶと、足裏から不気味な振動と軋む音が伝わってきたのが感じられた。土蜘蛛姫が力ずくで内側から縛りを解こうとしているらしい。青龍の渾身の巻き付きもそう長くは保たないことが知れる。
 紅孔雀を納刀してから、すかさずウィンドウを操作して目的のものを取り出す。

 握る手には神様からもらった『』があった。

 そう、このポーションが私の切り札だった。
 確かメールには『あなたがいた元の世界に戻れることを保証』と書いてあったはずだ。ならこいつだって戻れる……かもしれない。
 もし景保さんが危惧しているように嘘っぱちだったとしたら私たちは終わりだ。
 正直自信は無いけど現状を凌ぐにはこれしか浮かばなかった。本当に『賭け』だ。
 あっちに戻ったら誰かがパーティー組んで退治してくれると思う。後のことは知らない。上手くいくならなんでもいい。


「これでぇ!」


 コルクの栓を抜き、青龍に締め上げられている本体の女性の口に目掛けて突貫する。
 上から覗くとちょうど手が届くほどの距離に、血走った目で憎々しげにこちらを睨む女体の顔があった。苦しそうにもがく土蜘蛛姫の恨みがましそうな目と合う。
 四方が遮蔽しゃへいされ鼻息すらも感じられそうな至近距離で、彼女にポーション瓶を飲まそうと腕を伸ばす。
 しかし――


「っくああああああぁぁぁぁぁぁっ!」


 熱いものが二の腕を貫く。
 もうあとほんのちょっとのところで土蜘蛛姫の再生した右手が拘束から外れ、長々と伸びた麻痺毒のある爪が私の腕を拒否し引っ掻いたのだ。


『【ステート異常:麻痺】レジスト抵抗失敗』

 
 最悪のログが流れた。訴え掛けてくるのは体の異常。
 痺れ毒はその効能のおかげか痛みは薄いけど、代わりに麻痺したせいで急速に力の感覚を失いポーションを持つことすら難しくなっていく。
 毒が緩慢と体中を冒す不快感に反応し、ぶるりと怖気が走る。


ないヲサレソウニナッタ? ないヲシヨウトシテイタ? ……ソノ瓶は何ダ?』


 私の手のポーションに複眼が一斉に向く。
 最大級の戦慄が駆け巡り、私の反応を見て土蜘蛛姫の口の端が邪悪に吊り上がる。

 ここで零したらだめだ。奪われてもだめだ。何で最後の最後に詰めを誤った!? 片方の手が無いから、締め付けられているからとなぜ油断した!? あっちだって必死なんだ、千年王国とかいうバカげた妄執に取り憑かれた怪物を前にして!
 後悔してもしきれず、無念が針のように胸を刺激する。下唇を強く噛んで体を奮い起こすが、その感触すら希薄だった。

 ゲームのままであれば数分の間、麻痺は続く。言い換えれば数分で治るがここでその時間を稼ぐのはどんな虚勢を張ろうとも不可能に等しい。
 もはや為す術がなかった。


『ソノヨウナ薬デ何ヲシヨウトシテタノカハ知ラヌガ、コレデ終リダ!! 貴様ラハ地獄ノ釜ニ落トシテ煉獄ノ炎デ炭クズニナルマデ焼イテクレルワッ!!』

「ああぁあぁぁぁっ!!」


 首を掴まれた。万力のように強力な力で締め上げられ、痛みと呼吸困難に意識が遠のきそうになる。
 徐々に指も瓶を滑り、後悔を叫ばずにはいられない。
 万事休すかと思われたが、そのとき――

 ずぶり、と真上から剣が降ってきて土蜘蛛姫の肩に突き刺さった。
 しかしけっこうな勢いだったのにも関わらず刃先ぐらいしか肉に埋もれていない。今は傷口があったからそれでも少しめり込んでいるが、そうでなければ圧倒的な防御力の肌で弾かれていただろう。


『小ウルサイ、ウツケ共メ、ソンナニ死ニ急ギタイノナラ今スグ死ニいざなッテヤル!!』


 土蜘蛛姫は私の首を握り潰そうとしていた手でその剣を抜き、わずらわしそうに握って刀身を砕いた。鉄でできた武器がガラスに見える。
 だけど誰の仕業か知らないがチャンスだ。このおかげで、遮るものが無くなった。


「こんのぉぉぉぉぉおおおおおおおおおおおおお!!!」


 世界がスローモーションのように感じられ、そのまま倒れるように大きく開く口へとポーションをねじ込んでやった。
 直後、目を開けていられないほどの光が溢れ―― 
  
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