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第3話 蟹

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 頼朝は目だけを少女に向けた。少女は続ける。

「逃げたのだと思うわ。口から飛び出して」

 それから年かさの少女を見上げて同意を求めた。

「ね、八重さま?」

 年かさの少女も頷いた。

「ええ、そうね。狩野川にはカニの主様ぬしさまがいらっしゃるものね」

 聞き慣れない言葉に、つい聞き返す。

「カニの主様? 何だそれは?」

 年かさの少女が頷き、微笑んで答える。

「この狩野川には、カニの主様がいらっしゃると言われているんです」

 大真面目な顔で頼朝を見つめる少女達。


「主様はすごいのよ。身体の大きさが三尺もあって、こんな大きなハサミで鳥をやっつけてしまうの」

 そう言って大きく手を広げる幼い方の少女。

頼朝は呆れる。三尺なんて言ったら、この少女の背丈とも変わらないではないか。

 恐らく、どこの地にもある土地の動物信仰の一つなのだろう。

 黙る頼朝を気にせず、幼い少女は生き生きとした笑顔で続けた。

「主様以外のカニは小さいんだけど、主様と力を合わせれば、鳥だって蛇だってやっつけちゃうのよ。すごいでしょ?」

 そう言って、小さな拳を突き上げる。

 まるで自分も小さな蟹になった心持ちでいるようだ。

「主様なら、あの大鷹だってやっつけちゃうわ」

 そう言うと、少女は馬の手綱をぐいと引っ張った。

「さ、お家へ帰りましょ」

 途端、馬はその脚を泥の中から持ち上げた。

 小さな少女の力が馬の脚を動かす。

 跳ね返る泥を浴び、少女は楽しげに笑った。

「そら、ご褒美よ」

 言って、人参を馬に与える。

ゴリゴリと馬が人参をむ音が辺りに響いた。それは命の音。

「そなたの妹か?」

 呟いたら、年かさの少女は首を横に振った。

「いいえ、あの子は私の姪です。姉が北条に嫁いだので。姉は今、お産で伊東に戻っているので、預かっているのです」

 二人の会話が聞こえたのか、初姫と呼ばれた幼い少女が振り返った。

「私は初じゃないわ。政子と呼んでよ、八重さま」

 おしゃまな口調に、八重と呼ばれた少し年かさの娘が苦笑する。

「北条三郎時政の初姫だから政子なのだと申しているのですわ」

 そう話す八重の視線の先で、政子は「あ」と声を上げた。

「ほら、今日も富士のお山はとっても綺麗よ」

 政子の指差す方、白く冠を被った美しい山がそびえていた。

「ああ、あれが不二の山か」

 ぼんやりと答えた頼朝に、八重と呼ばれた少女は噴き出した。

 何故笑われたのかわからずに首を傾げたら、八重は笑いを収めて遠く西の方を指差した。

「だって京からいらしたのでしょう? 途中ではここよりもずっと大きく近く見えたはず。ご覧にならなかったのですか?」

 そう問われ、自分がずっと下を向いていたことに気付いた。

「ああ。きっと周りを見る余裕がなかったんだな」

「そんなに急いでいらしたの? 慌てんぼうさんね」

 おしゃまな声が被る。

「そうだな。急いでいたようだ」

 頼朝は笑った。

 そう、死に急いでいたのだろう。でも急がなくても良かったのだ。誰しもいつかは死ぬのだから。

 戦で敗れてから、やっと初めて笑うことが出来たような気がした。


 その時、後ろから声がかけられた。

「もしや源前右兵衛権佐殿ではございませんか?」

 振り返れば、そこには自分と同じ歳くらいの少年が馬を引いて立っていた。

「兄さま」

 八重が立ち上がり、笑顔を見せる。政子も立ち上がった。

 少年は深く一礼をすると名を名乗った。

「伊東次郎祐親の嫡男、三郎祐泰と申します。お迎えに参りました」

 武装していない。刀を帯びてはいるが、でもそこに殺気はまるでなかった。


「伊豆国へようこそ」

 からりとした笑顔で少年は手を差し出した。

「ようこそ」

「ようこそ」

 少女二人も声を合わせる。

 伸ばされた少年の手を掴んで、頼朝は答えた。

「源……いや、三郎頼朝だ。よろしく頼む」


 殺されるなら、きっとそれまでの運。

そして、生かされるなら、きっとそれも運。


「主様なら、あの大鷹だってやっつけちゃうわ」

耳に残る幼い少女の声。

 蟹は本当にやっつけられるのだろうか、小鷺を。大鷹を。


 それから二十年後、頼朝は伊豆で挙兵する。



源頼朝14歳。
北条政子4歳。


伊豆、蛭ヶ小島。
鎌倉以前のお話。

————了。
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