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第六章 宇津田姫
第18話 君が代
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「冬の黒姫が私?」
問い返したら、具親は頷いた。
「貴女はあの寒い日、私の前に黒い衣を翻して現れた」
言われて思い出す。確かに京へ入った時、コシロ兄に被せて貰った黒い直垂を羽織っていた。
「宇津田姫は、冬の終わりに田を打って返す『打つ田』に所縁があるのでしょうか。お田植え前の神事として残っている土地もあり、歌に詠み込まれることもあります」
「お田植え」
思い出されるのは、伊豆北条での廣田神社でのお田植え神事。そして、鎌倉で大姫の部屋の前で行われたお田植え祭。
時は流れ、所も変われど、変わらず日の光は地に降り注ぎ、土は耕され、水は山から川となり田に流れ込み、やがて金色に育った稲穂が風に揺らされる。実った米は刈り取られて人々の手に渡り、暫くすると土はまた踏み固められて寒い冬を眠って過ごし、春の訪れと共に掘り返される。そうして繰り返される人の生の営み。その様子を天から見守る龍神。その姿が目に浮かんで、ヒミカはそっと目元を緩ませた。
「そう言えば、前に鐘を鳴らすコツは風を呼ぶことだと仰っていましたが、具親様は風や雨を起こす龍を呼べるのですか?」
具親はヒミカを見た。
「貴女も呼べるのではないかと思っていますが。違いますか?」
ヒミカは頷いた。
「ええ、一回微かに鳴りました。特に何かをしたわけではないので、はきとはわからないのですが、そう感じられたというか」
「それで正しいのだと思います。私が幼い頃に出逢った僧は教えてくれました。あれこれ考えずに素直に感じろと」
「考えずに素直に感じる」
その言葉に、ヒミカは不思議な符合を感じた。
「私の祖母も似たようなことを言ってました。人は皆、それぞれ神であり仏であり龍であり、草や木と同じと。その自然の気を皆が素直に感じて受け入れて一体となれば、泰平の世がやってくるのだと」
「泰平の世。キミの代ですね」
「キミのヨ?君が代ですか?以前に愛の歌だと仰っていた」
——君が代は 千代に八千代に さざれ石の 巌となりて 苔むすまで
「ええ。国生み神話の話になりますが、キは伊奘諾伊弉諾、ミは伊弉冊を表すそうです。キミとは、男と女を表すとも言えるそうです。また陰陽道では男と女は陽と陰だとか。だから君が代の歌は、男と女、陽と陰、白と黒、光と陰。相剋するものが調和して愛を育み、結晶たる子を成し、その小さなさざれのような子——石の欠けらが増えて寄り集まって固まっていき、やがて強固で立派な巌となって、柔らかな苔をその身に生すまで永く命を繋いでいく。そんな幸せな世が千代に八千代に続きますようにという願いが込められている大きな愛の歌なのだと」
「巌となりて 苔むすまで。それは随分長い時を必要としますね」
そう言ってヒミカは具親を見上げた。
「具親様はまこと不思議な方ですね。歌人なのに武人で、修験者のように気を操り、知が豊か。そして心が分からないと仰りながら愛を語ることがお出来になる」
すると具親は、いいえと目を落とした。
「分からないから知りたくて、どこかに書いてあるのではないか、誰か教えてくれるのではないかと様々なことを手当たり次第に学びました。学ぶは楽しい。武でも文でも、努めれば努めた分だけ身につく。でもそうして学んで身に付けても、小手先の知識や技が増すばかりで、本当に欲しいものは見当たらなかった」
——見当たらないのは当たり前のこと。だって、それは既に彼の内にあるのだから。
昔、中原の山伏に聞いた愛と恋の漢字の意味を思い出す。恋の心は下心。対して、愛の心は中心にあって足を持ち、自ら動いて愛するものを護ろうと、愛を与えようと自ら動き出す力を持つ。
——ああ、そうか。
その時、様々なことが繋がった。
——自分は愛されている。そして、その愛を受けて返したいと思っている。具親に。母や子らに。コシロ兄に。アサ姫や鎌倉の皆。そして、龍やお日さまや山や川。草木やあらゆる生き物。そう、自分を取り囲む全ての存在に返したい。与えたいと。でも。
ううん、だから、先ずはこの人に今の自分に出来る精一杯の愛を——。
ヒミカは具親にしかと目を合わせた。
「前に具親様は私にお聞きになりました。何の為に京に来たのかと。今、分かった気がします。きっと貴方に会う為です」
そう言ったら、具親はその大きな手でヒミカの腕を掴んだ。
「それはどういう意味ですか?私の都合の良いように受け止めて良いのですか?まこと、私の妻になっていただけると」
ヒミカは頷いた。
「はい。具親様は既に恋も愛もお持ちです。恋とは乞い。相手の心を乞うこと。そして、愛とは自らが最も大事とするもの、心を身体の中心に置き、その心に添って大切とするものを護る為に自ら動くこと。貴方様は私を乞い、愛して下さっている。そして私、ヒミカは今、貴方に恋しています」
「貴女が私に恋を?」
ヒミカは頷いた。
「はい、心惹かれております。でも、恋の漢字は下心。ころころと迷い、転がりがちだと。そして、これまた定まりきらない相手の心を乞おうとする揺れる心」
「定まりきらない?私の心は定まっております。私の心は貴女を望んでいる」
ヒミカは具親の手を取った。
「はい。貴方様は恋も愛もその身に宿しておいででした。でも、それに気付いておられなかっただけ。どうぞ私を貴方様の妻にして、私のこの恋を愛へと変えさせて下さい」
その時、コシロ兄の顔が一瞬浮かんで消えた。
——神罰は全て私が受ける。だからお前は生きろ。善のまま。穢れのないままに。
ヒミカは心の中で頷いて風を返した。
——はい、私は生きます。だから貴方も生きてください。思うままに貴方の道を。
問い返したら、具親は頷いた。
「貴女はあの寒い日、私の前に黒い衣を翻して現れた」
言われて思い出す。確かに京へ入った時、コシロ兄に被せて貰った黒い直垂を羽織っていた。
「宇津田姫は、冬の終わりに田を打って返す『打つ田』に所縁があるのでしょうか。お田植え前の神事として残っている土地もあり、歌に詠み込まれることもあります」
「お田植え」
思い出されるのは、伊豆北条での廣田神社でのお田植え神事。そして、鎌倉で大姫の部屋の前で行われたお田植え祭。
時は流れ、所も変われど、変わらず日の光は地に降り注ぎ、土は耕され、水は山から川となり田に流れ込み、やがて金色に育った稲穂が風に揺らされる。実った米は刈り取られて人々の手に渡り、暫くすると土はまた踏み固められて寒い冬を眠って過ごし、春の訪れと共に掘り返される。そうして繰り返される人の生の営み。その様子を天から見守る龍神。その姿が目に浮かんで、ヒミカはそっと目元を緩ませた。
「そう言えば、前に鐘を鳴らすコツは風を呼ぶことだと仰っていましたが、具親様は風や雨を起こす龍を呼べるのですか?」
具親はヒミカを見た。
「貴女も呼べるのではないかと思っていますが。違いますか?」
ヒミカは頷いた。
「ええ、一回微かに鳴りました。特に何かをしたわけではないので、はきとはわからないのですが、そう感じられたというか」
「それで正しいのだと思います。私が幼い頃に出逢った僧は教えてくれました。あれこれ考えずに素直に感じろと」
「考えずに素直に感じる」
その言葉に、ヒミカは不思議な符合を感じた。
「私の祖母も似たようなことを言ってました。人は皆、それぞれ神であり仏であり龍であり、草や木と同じと。その自然の気を皆が素直に感じて受け入れて一体となれば、泰平の世がやってくるのだと」
「泰平の世。キミの代ですね」
「キミのヨ?君が代ですか?以前に愛の歌だと仰っていた」
——君が代は 千代に八千代に さざれ石の 巌となりて 苔むすまで
「ええ。国生み神話の話になりますが、キは伊奘諾伊弉諾、ミは伊弉冊を表すそうです。キミとは、男と女を表すとも言えるそうです。また陰陽道では男と女は陽と陰だとか。だから君が代の歌は、男と女、陽と陰、白と黒、光と陰。相剋するものが調和して愛を育み、結晶たる子を成し、その小さなさざれのような子——石の欠けらが増えて寄り集まって固まっていき、やがて強固で立派な巌となって、柔らかな苔をその身に生すまで永く命を繋いでいく。そんな幸せな世が千代に八千代に続きますようにという願いが込められている大きな愛の歌なのだと」
「巌となりて 苔むすまで。それは随分長い時を必要としますね」
そう言ってヒミカは具親を見上げた。
「具親様はまこと不思議な方ですね。歌人なのに武人で、修験者のように気を操り、知が豊か。そして心が分からないと仰りながら愛を語ることがお出来になる」
すると具親は、いいえと目を落とした。
「分からないから知りたくて、どこかに書いてあるのではないか、誰か教えてくれるのではないかと様々なことを手当たり次第に学びました。学ぶは楽しい。武でも文でも、努めれば努めた分だけ身につく。でもそうして学んで身に付けても、小手先の知識や技が増すばかりで、本当に欲しいものは見当たらなかった」
——見当たらないのは当たり前のこと。だって、それは既に彼の内にあるのだから。
昔、中原の山伏に聞いた愛と恋の漢字の意味を思い出す。恋の心は下心。対して、愛の心は中心にあって足を持ち、自ら動いて愛するものを護ろうと、愛を与えようと自ら動き出す力を持つ。
——ああ、そうか。
その時、様々なことが繋がった。
——自分は愛されている。そして、その愛を受けて返したいと思っている。具親に。母や子らに。コシロ兄に。アサ姫や鎌倉の皆。そして、龍やお日さまや山や川。草木やあらゆる生き物。そう、自分を取り囲む全ての存在に返したい。与えたいと。でも。
ううん、だから、先ずはこの人に今の自分に出来る精一杯の愛を——。
ヒミカは具親にしかと目を合わせた。
「前に具親様は私にお聞きになりました。何の為に京に来たのかと。今、分かった気がします。きっと貴方に会う為です」
そう言ったら、具親はその大きな手でヒミカの腕を掴んだ。
「それはどういう意味ですか?私の都合の良いように受け止めて良いのですか?まこと、私の妻になっていただけると」
ヒミカは頷いた。
「はい。具親様は既に恋も愛もお持ちです。恋とは乞い。相手の心を乞うこと。そして、愛とは自らが最も大事とするもの、心を身体の中心に置き、その心に添って大切とするものを護る為に自ら動くこと。貴方様は私を乞い、愛して下さっている。そして私、ヒミカは今、貴方に恋しています」
「貴女が私に恋を?」
ヒミカは頷いた。
「はい、心惹かれております。でも、恋の漢字は下心。ころころと迷い、転がりがちだと。そして、これまた定まりきらない相手の心を乞おうとする揺れる心」
「定まりきらない?私の心は定まっております。私の心は貴女を望んでいる」
ヒミカは具親の手を取った。
「はい。貴方様は恋も愛もその身に宿しておいででした。でも、それに気付いておられなかっただけ。どうぞ私を貴方様の妻にして、私のこの恋を愛へと変えさせて下さい」
その時、コシロ兄の顔が一瞬浮かんで消えた。
——神罰は全て私が受ける。だからお前は生きろ。善のまま。穢れのないままに。
ヒミカは心の中で頷いて風を返した。
——はい、私は生きます。だから貴方も生きてください。思うままに貴方の道を。
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