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第六章 宇津田姫
第7話 しきたへの
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翌朝、ヒミカは起きて身支度を整え、髪を束ねると襷を掛けて湯巻きをつけた。
「さぁ、皆。お掃除をしに行きますよ」
はぁいと元気に返事をする子らの後ろから、寝ぼけまなこの具親が出て来る。
「おや、もう行くのですか?」
「はい、とても良いお天気ですから。佐殿はどうぞまだお休みなさってて下さいませ。今日も午後から出仕されるのでしょう?」
「その予定ですが、昨晩はよく眠れたので平気ですよ。朝飯前に一働きしましょう」
子らが居てあまり眠れなかった筈なのにそう言ってくれる具親。初めは裏表のある信の置けない人かと思ったけれど、案外良い人なのかも知れない。
そう言えば、最初は京言葉を使っていたけれど、それ以降はあまりそれが強く出ていない。言葉尻の上がり下がりは西国特有のものだけれど、語尾が違うだけで受ける印象は大分違う。
「さて、此方が今日からお使いいただく邸です。父のものですが、妹が人の居ない所で落ち着いて和歌を詠みたいと一人で使っていました。でも身体を壊して空き家になってしまい、無用心だからどうしようかと思っていたのです。皆さんに使っていただけるなら助かります」
そこは具親の屋敷よりは少し小さいけれど、充分に立派な屋敷だった。
「まぁ、素敵なお邸。では早速お掃除しましょう」
子らを引き連れてうきうきと門をくぐって行く母。ヒミカは少し引いて具親の横に並んだ。
「どうしてここまで親切にして下さるのですか?」
「どうして?それはあなた方が困ってらしたからです。そして私も困っていた。困った者同士、助け合えば上手くいくと思うのは間違いですか?」
それは正しいと思うけれど、それだけでここまでするだろうかと思ってしまうのは自分の中にどこか後ろ昏いものがあるからだろうか。ヒミカはこの具親という男に対してどこか気が引けていた。でもその所以が分からず、ただ胸の中がざわざわとして落ち着かないのを堪えていた。
「昨晩は休めましたか?」
「はい、お陰様で。有難う御座います」
身体は横たえていたものの眠れはしなかったのに平然とそう答える自分が嫌でそっと息を吐く。
「それで、鎌倉の尼御台様のお文には何とあったのですか?」
「え」
単刀直入な問いに、ヒミカは虚をつかれて具親を見上げた。
「貴女は中原殿に江間の方と呼ばれていました。江間殿は尼御台様の弟君とか。つまり、貴女は尼御台様の義理のお妹ということですよね?」
「はい。でも夫とはもう離縁しました」
するすると聞かれ、咄嗟に真正直に答えてしまう。そう、離縁した。それは間違いではない。けれど、まだヒミカの左手薬指にはくすんだ青の組紐が結わえてある。本当はこれも外してコシロ兄に返さなくては。そう思いながらも踏ん切りが付かずにいた。まだ鎌倉に戻れる日があるのではないかと。
「離縁。そうなのですか。お子らは皆、江間殿のお子か?」
「いえ、ヨリは違います」
こちらも答えてしまってから、しまったと思う。詮索されたらどうしよう?
でも具親はさらりと続けた。
「ああ、似てないと思いました。あの子は口がきけないけれど、絵は巧みですね。私の母方の祖父は絵師です。絵師として生きるのも良いかもしれませんね」
「絵師?」
「ええ。彼は昨晩はずっと筆を手に、楽しそうに絵を描いていました。何気ない餅の絵でしたが、とても旨そうに描けていた。才があると褒めたら、またとても良い笑顔を見せるのです。絵師ならば、喋れなくても字さえ書ければ独り立ち出来ましょう。習わせてみるのはいかがですか?」
——喋らなくても生きていく道。
ヒミカは後ろを振り返って、おずおずと付いてくるヨリの姿を確かめた。ヨリカなら何と答えるだろうか?
「はい、そうですね。もしもヨリの気が向くのであれば」
ヨリは本当はどう思っているのだろうか?京に来たことも父母と別れたことも。でも彼の居場所はもう鎌倉にはないのだ。
「ええ。向くといいですね」
具親はそうにっこり笑うと隣の屋敷の戸を開けて皆を通した。ヒミカはそれを追いつつ、具親の隣で足を留め、声をかける。
「あの。京極の藤原定家様とはどういったお方なのかご存知でしょうか?」
具親は戸を押さえたまま大きな目でヒミカを見下ろした。ヒミカはそれを受け止めて真っ直ぐ見返す。藤原定家。泰時の和歌の師。どんな人なのか具親は知っているだろうか?
「もしや、尼御台様は定家殿を頼れと仰せですか?」
ヒミカは曖昧に頷く。アサ姫からの文に羅列してあった名前。その中で、ヒミカに覚えがあったのは泰時の和歌の師の藤原定家だった。具親はヒミカを見たまま僅か黙したが、ややして軽く首を傾げた。
「確かに定家殿は、鎌倉殿と懇意だった九条関白家の家司をしておられた。ただ、土御門通親殿とのことがあってより、九条家は降盛してしまった。それは定家殿とて同じ。というより、更に厳しい。お子らを連れて頼るのは難しいのではないかと」
「では三条公佐殿は?」
三条公佐は阿波局の娘が嫁いだ相手。阿波局は、そちらを頼れと文に書いてくれていた。
「三条殿は定家殿の姉君をお母上に持つ。鎌倉の初代将軍がご存命の頃は権勢を振るわれていたが、今はどうでしょうか。また、あそこは北条殿と何かと近しいと聞く。近付いて平気ですか?」
ヒミカは黙った。すると具親は少し身を屈めてヒミカの顔を覗き込んだ。
「貴女はこの京で何をしたいのです?」
「え、京で?」
具親は頷いた。
「追い出されたにせよ自ら選んだにせよ、貴女はここ京にやって来た。貴女はここで何をしたいのですか?どう過ごすおつもりですか?」
大きな丸い目に真っ直ぐ見つめられてヒミカは答えに窮する。
——何をしにやって来た?
——何か出来ることがあるのか?
と、具親が唐突に歌を口ずさんだ。
「しきたへの枕の上に過ぎぬなり 露を尋ぬる秋の初風」
言い終えた後、口を噤んで何かを探るようにじっとヒミカを見据える具親。ヒミカは困惑した。
「しきたえ?しきたえとはどういう意味ですか?」
「敷くもの、枕にかかる言葉です。しいて堪ええようとする心のあり様も示しているのだそうです。私は昔にそう習いました。先の歌は私が数年前に読んだ歌で、此度の勅撰集にも選ばれている。だが、私はこのしきたへという言葉をただ何となく言葉遊びとして用いただけで、その心がまるで分からないのです」
「わからない?意味がわからなくても和歌とは詠めるものなのですか?」
言葉遊びとして捉えて良いのなら、和歌は意外に楽しいのかも知れない。そう思ったヒミカの前で具親は溜息を吐いた。
「ええ。それもまた和歌の一つの楽しみ方。でも私はそういう言葉遊びのような和歌しか詠めない。その奥の心はまるで理解が出来ないのです。分かった振りをして言葉をあちこち繋ぎ合わせているだけ。だから私は和歌が苦手なのです」
苦い声だった。
「貴女はあの時、意識を失いながら涙を流しておられた。余程辛いことがあったのでしょう。私はその理由を、またその感情を知りたいと思った。だから貴女を半ば無理矢理に屋敷にお連れしたのです。私には心がない。いえ、心がわからないのです。苛立ち、憤りは分かる。でも、淋しい、切ないという、古人が大切にしてきた歌の心が分からない。泣くという心情も分からない。それを貴女に聞きたかった」
——泣くが分からない?
その言葉自体が、ヒミカには分からなかった。
「さぁ、皆。お掃除をしに行きますよ」
はぁいと元気に返事をする子らの後ろから、寝ぼけまなこの具親が出て来る。
「おや、もう行くのですか?」
「はい、とても良いお天気ですから。佐殿はどうぞまだお休みなさってて下さいませ。今日も午後から出仕されるのでしょう?」
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子らが居てあまり眠れなかった筈なのにそう言ってくれる具親。初めは裏表のある信の置けない人かと思ったけれど、案外良い人なのかも知れない。
そう言えば、最初は京言葉を使っていたけれど、それ以降はあまりそれが強く出ていない。言葉尻の上がり下がりは西国特有のものだけれど、語尾が違うだけで受ける印象は大分違う。
「さて、此方が今日からお使いいただく邸です。父のものですが、妹が人の居ない所で落ち着いて和歌を詠みたいと一人で使っていました。でも身体を壊して空き家になってしまい、無用心だからどうしようかと思っていたのです。皆さんに使っていただけるなら助かります」
そこは具親の屋敷よりは少し小さいけれど、充分に立派な屋敷だった。
「まぁ、素敵なお邸。では早速お掃除しましょう」
子らを引き連れてうきうきと門をくぐって行く母。ヒミカは少し引いて具親の横に並んだ。
「どうしてここまで親切にして下さるのですか?」
「どうして?それはあなた方が困ってらしたからです。そして私も困っていた。困った者同士、助け合えば上手くいくと思うのは間違いですか?」
それは正しいと思うけれど、それだけでここまでするだろうかと思ってしまうのは自分の中にどこか後ろ昏いものがあるからだろうか。ヒミカはこの具親という男に対してどこか気が引けていた。でもその所以が分からず、ただ胸の中がざわざわとして落ち着かないのを堪えていた。
「昨晩は休めましたか?」
「はい、お陰様で。有難う御座います」
身体は横たえていたものの眠れはしなかったのに平然とそう答える自分が嫌でそっと息を吐く。
「それで、鎌倉の尼御台様のお文には何とあったのですか?」
「え」
単刀直入な問いに、ヒミカは虚をつかれて具親を見上げた。
「貴女は中原殿に江間の方と呼ばれていました。江間殿は尼御台様の弟君とか。つまり、貴女は尼御台様の義理のお妹ということですよね?」
「はい。でも夫とはもう離縁しました」
するすると聞かれ、咄嗟に真正直に答えてしまう。そう、離縁した。それは間違いではない。けれど、まだヒミカの左手薬指にはくすんだ青の組紐が結わえてある。本当はこれも外してコシロ兄に返さなくては。そう思いながらも踏ん切りが付かずにいた。まだ鎌倉に戻れる日があるのではないかと。
「離縁。そうなのですか。お子らは皆、江間殿のお子か?」
「いえ、ヨリは違います」
こちらも答えてしまってから、しまったと思う。詮索されたらどうしよう?
でも具親はさらりと続けた。
「ああ、似てないと思いました。あの子は口がきけないけれど、絵は巧みですね。私の母方の祖父は絵師です。絵師として生きるのも良いかもしれませんね」
「絵師?」
「ええ。彼は昨晩はずっと筆を手に、楽しそうに絵を描いていました。何気ない餅の絵でしたが、とても旨そうに描けていた。才があると褒めたら、またとても良い笑顔を見せるのです。絵師ならば、喋れなくても字さえ書ければ独り立ち出来ましょう。習わせてみるのはいかがですか?」
——喋らなくても生きていく道。
ヒミカは後ろを振り返って、おずおずと付いてくるヨリの姿を確かめた。ヨリカなら何と答えるだろうか?
「はい、そうですね。もしもヨリの気が向くのであれば」
ヨリは本当はどう思っているのだろうか?京に来たことも父母と別れたことも。でも彼の居場所はもう鎌倉にはないのだ。
「ええ。向くといいですね」
具親はそうにっこり笑うと隣の屋敷の戸を開けて皆を通した。ヒミカはそれを追いつつ、具親の隣で足を留め、声をかける。
「あの。京極の藤原定家様とはどういったお方なのかご存知でしょうか?」
具親は戸を押さえたまま大きな目でヒミカを見下ろした。ヒミカはそれを受け止めて真っ直ぐ見返す。藤原定家。泰時の和歌の師。どんな人なのか具親は知っているだろうか?
「もしや、尼御台様は定家殿を頼れと仰せですか?」
ヒミカは曖昧に頷く。アサ姫からの文に羅列してあった名前。その中で、ヒミカに覚えがあったのは泰時の和歌の師の藤原定家だった。具親はヒミカを見たまま僅か黙したが、ややして軽く首を傾げた。
「確かに定家殿は、鎌倉殿と懇意だった九条関白家の家司をしておられた。ただ、土御門通親殿とのことがあってより、九条家は降盛してしまった。それは定家殿とて同じ。というより、更に厳しい。お子らを連れて頼るのは難しいのではないかと」
「では三条公佐殿は?」
三条公佐は阿波局の娘が嫁いだ相手。阿波局は、そちらを頼れと文に書いてくれていた。
「三条殿は定家殿の姉君をお母上に持つ。鎌倉の初代将軍がご存命の頃は権勢を振るわれていたが、今はどうでしょうか。また、あそこは北条殿と何かと近しいと聞く。近付いて平気ですか?」
ヒミカは黙った。すると具親は少し身を屈めてヒミカの顔を覗き込んだ。
「貴女はこの京で何をしたいのです?」
「え、京で?」
具親は頷いた。
「追い出されたにせよ自ら選んだにせよ、貴女はここ京にやって来た。貴女はここで何をしたいのですか?どう過ごすおつもりですか?」
大きな丸い目に真っ直ぐ見つめられてヒミカは答えに窮する。
——何をしにやって来た?
——何か出来ることがあるのか?
と、具親が唐突に歌を口ずさんだ。
「しきたへの枕の上に過ぎぬなり 露を尋ぬる秋の初風」
言い終えた後、口を噤んで何かを探るようにじっとヒミカを見据える具親。ヒミカは困惑した。
「しきたえ?しきたえとはどういう意味ですか?」
「敷くもの、枕にかかる言葉です。しいて堪ええようとする心のあり様も示しているのだそうです。私は昔にそう習いました。先の歌は私が数年前に読んだ歌で、此度の勅撰集にも選ばれている。だが、私はこのしきたへという言葉をただ何となく言葉遊びとして用いただけで、その心がまるで分からないのです」
「わからない?意味がわからなくても和歌とは詠めるものなのですか?」
言葉遊びとして捉えて良いのなら、和歌は意外に楽しいのかも知れない。そう思ったヒミカの前で具親は溜息を吐いた。
「ええ。それもまた和歌の一つの楽しみ方。でも私はそういう言葉遊びのような和歌しか詠めない。その奥の心はまるで理解が出来ないのです。分かった振りをして言葉をあちこち繋ぎ合わせているだけ。だから私は和歌が苦手なのです」
苦い声だった。
「貴女はあの時、意識を失いながら涙を流しておられた。余程辛いことがあったのでしょう。私はその理由を、またその感情を知りたいと思った。だから貴女を半ば無理矢理に屋敷にお連れしたのです。私には心がない。いえ、心がわからないのです。苛立ち、憤りは分かる。でも、淋しい、切ないという、古人が大切にしてきた歌の心が分からない。泣くという心情も分からない。それを貴女に聞きたかった」
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