【完結】姫の前

やまの龍

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第五章 明石

第42話 縛

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 気付いたら、暗闇の中にいた。何が起きたのかわからない。

「やっと手に入れたぞ」

 耳元で聞こえるねっとりとした声に怖気が立つ。迂闊だった。胸元に入れていた護り刀に手を伸ばそうとするが、その手が捻じ上げられる。

「諦めよ。そなたは私の物。そして江間義時は晒し首だ」

——晒し首。何の罪で?

胸を焦がす怒りの念。

頼家への。そして迂闊な行動を取った自らへの。護り刀の鞘を口に咥え、無理矢理に引き抜く。

——穢されるくらいなら、自死するまで。

 だがその時、闇の一部がグニャリと溶け、声が聞こえた。

「お助けしよう。但し、後に私の願いを聞いていただく」

 聞いたことのない、まだ若そうな男の声。

——誰?

 問う間もなく気配は溶け消え、ヒメコを掴んでいた頼家の手が緩んだ。その機を逃さず、ヒメコは腕を取り戻す。

と同時に大量の光が射し込んだ。そしてなだれ込む人の気配。



「無事か?」

低い声と陽の光。吹き込む風。ヒメコに覆い被さっていた黒い影が揺らぐ。

「コシロ兄!」

 伸ばした手が掴まれる。強くあたたかな手に引っ張られ、夢中で抱き付く。

「殿!殿、ごめんなさい。私」

 しっかりと抱き寄せられ、やっと周りの風景が見えてくる。固く閉め切られていたらしい戸が開け放たれ、その向こうに幾人かの気配。


「おのれ、江間義時。そなた、自分が何をしているか分かっているのか?私は将軍だぞ」

 部屋の中央で頼家は肩で荒く息を繰り返していた。見れば、その背に何か細い銀の串のような物が刺さっている。頼家は腕をガクガクと揺らしながらもヒメコに向かって手を伸ばす。

「江間義時は謀叛の罪で晒し首だ。これでお前は私の物になる」

毒か薬が全身に回りつつあるのだろう。大きく身体を震わせながら嘔吐を繰り返す頼家の横に誰かが立った。

「二代目将軍家、源頼家。ぬしを捕縛し、連行する。悪ぅ思うなや」

 その声は、先程暗闇で聞いた若い男のもの。頼家が吼えた。

「江間義時!お前の命令か。従順な弟の顔をして母上を騙し、幕府を乗っ取るつもりだな?だが、そうは行かぬぞ。ここは比企の隠れ砦。すぐに弥四郎たちが駆け付ける。これで北条征伐の大義名分も揃ったわ。ざまを見ろ。北条時政、江間義時。そなたらは終いだ。これからは誰にも文句を言わさず、新しい鎌倉をつくってやる。この私の手で」

 そう言って、ゆらりと立ち上がる。その足はガクガクと震えているものの、恐ろしいばかりの殺気を放ったその肢体にヒメコは恐怖を覚える。

 自分は北条と比企の戦の火種を切ってしまったのだろうか?

だが、その頼家が真横に吹っ飛んだ。

——ダァン!

物凄い音を立てて壁にぶち当たる。

 蹴り飛ばしたのは、先の若い男だった。

「あぁん?比企の腰抜け共なら、今頃屋敷のお庭で仲良ぅねんねしてますわ。蹴鞠の会の夢でも見ながらね」

 ゆるゆるとした不思議な音程の声。東国の者ではない言葉回し。

 頼家がサッと右膝を立て、腰の太刀を抜き放った。銀の刀身が男の身を斜めに切り裂く、と思った刹那、男はその風に乗るようにして飛び上がってクルリと中空で回転し、頼家の背へと回ると、鎧通しで頼家の肩を刺し貫いた。響く叫び声。噴き出す赤い血。

——何が起きてるのか、鎌倉はどうなるのか、アサ姫は——。

 目を閉じることも出来ずにひたすら息を詰めるヒメコの耳に、やがて若い男の淡々とした声が届いた。

「はい、これで両腕ともしまいだ。では、私はこれにて。江間殿、後は任せる。兄者らによろしく」

 そんな言葉を残してその男は悠然と去って行った。

 後に残されたのは、コシロ兄とヒメコと庭の幾人かの気配。

「コシロ兄、いえ、殿。今のは?」

 ヒメコの問いにコシロ兄は答えず、ヒメコを抱え上げると外へと出る。

「尾藤太郎、次郎。将軍家を固く縛り上げ、修善寺へ。これは尼御台様の命である」


——え?

「尼御台様の命?」


アサ姫が頼家を縛るように言ったということ?

——信じられない。

 コシロ兄を黙って見上げるヒメコにコシロ兄は目を合わさず言った。

「屋敷に着くまで黙ってろ」

 いつもは心落ち着く低い声が、この時ばかりは恐ろしく冷たく固く感じた。
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