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第五章 明石
第41話 拉致
しおりを挟む意を決して口を開く。
「尼御台様、将軍様は先の将軍様の後を継いで、争いのない公平な国をつくろうとお考えで、その一歩として、新恩された領土の一定以上の分を再分配される案をお出しになったのです。先祖伝来の領土を差し出すには諸氏の抵抗も強いでしょうが、新恩であればさほどではない筈」
言って頼家を見る。アサ姫も頼家を見た。
「頼家殿、そうなの?」
頼家が曖昧な顔をしたのでヒメコはヒヤリとする。違っていたのだろうか?勝手に喋ってしまった自分を悔いる。だがやがて頼家が仕方なさげに口を開いた。
「御家人連中の力の差が大き過ぎるのです。富む者は更に富むが、そうでない者らの不満は増すばかり。そんな些細な訴訟に時が費やされるのには飽き飽きした。そんなことより蹴鞠を通じて京の朝廷と親交を深めるべきなのに、つまらぬ雑務に邪魔されてそれがなかなか進まぬ。ならばいっそ、と思っただけです」
アサ姫は大きなため息をついた。
「蹴鞠は確かに京との親交は深めてくれるでしょうが、京ばかり見ていては足下を掬われますよ」
すると頼家は薄く笑った。
「ああ、父上はそうでしたね。母上も。父上との約束など無視すればよかったのに。そうすれば金品だけいいように持って行かれて三幡が殺されることもなかった」
「頼家殿!」
何故、彼はそのようなひねくれた言い方をするのか。それでは通る話も通らなくなるのに。歯痒い。でもこれは母と子の間のこと。そしてヒメコは一度は口を出してしまった。これ以上は分が過ぎる。
沈黙が支配する空間。頼家は背中を向けて身体を揺らしている。
「あーあ、つまらん。だから御所は嫌いなのじゃ。比企なら面白きことがたくさんるのに。ここはいつも辛気くさくてたまらん。もう帰って宜しいか?」
「帰る?ここが貴方の、将軍の御所ですよ」
「でもここは気が落ち着かぬ。不愉快になる。長居したくないわ」
アサ姫がため息をついた。
「やはり、手元で育てなかったからいけなかったのですね」
──それは今言ってはいけない言葉。
ヒメコはアサ姫の側へと駆け寄った。
「尼御台様、いけません!」
ヒメコの声に、アサ姫はハッとした顔をして口を覆った。でも。
頼家が振り向いた。ひどく白茶けた顔で。
やがて頼家は背を向けたまま笑い出した。高く引き攣れた笑い。
「そう。手元で育てなかったからですよ。もう結構です」
「頼家殿!」
頼家は高笑いを続けていたが、ややしてそれを収めるとヒメコに向き直った。
「権威無双の女房なり、か。確かにな。鎌倉の鬼も恐れた尼御台をも黙らせられるのは、姫御前ただ一人。これは面白い。やはり私はそなたが欲しい。私のものにしよう」
頼家はアサ姫に向かって口を開いた。
「母上、江間義時より正式に姫御前を貰い受けたく思います。姫御前は私の耳に痛いこともはっきりと口にし、目も逸らさぬ骨のある女。姫御前なら、若狭よりも御台所となるに相応しい。母上もそうお思いになるでしょう?」
「よ、頼家!貴方、何を言ってるのです!ふざけるのは止めなさい」
「ふざける?とんでもない。本気ですよ」
アサ姫が立ち上がる。ヒメコの前に立つと手を広げて庇うようにして頼家を阻んだ。
「義時は貴方の叔父ですよ。その妻を奪おうとは、正気とは思えません」
「叔父だから何なのです?阿野全成も私の叔父。古来より、叔父と甥とは相争うもの。天武天皇も甥の大友皇子と争った」
「そんな古代の話をしてるのではありません!」
「では近くでも、富士の巻狩で殺された工藤祐経は叔父で義父の伊東祐親と争っていた。叔父と甥とはそういうものなのでしょう」
ひどく淡々と言い継ぐ頼家。
「もう比企もそれなりに軍備を整えた。安達景盛の時のように母上が矢面に立って戦を止めようとしなくていいのですよ。江間とやり合ったって私は負けはしませんから」
「何を申される!叔父だろうと家臣だろうと、例え平民であっても、他人の物を欲しがるとは、幼く浅ましいにも程がある。施政者としての恥を知りなさい!」
激昂するアサ姫に頼家はあくまで飄々とした態度で答えた。
「文官らの話では、京の都ではよくあることとか。家臣の方から妻を差し出して代わりに官位を望む。実際、鎌倉でもそんな申し出が幾つかありましたよ。面倒だから大半無視しましたがね。差し出される物など詰まらぬ。苦労してでも望むものを獲た時の悦びの方が遥かに大きいではないですか。そう、狩と同じです」
そう言って、頼家はヒメコの手首を掴んだ。捻って逃げようとするが、ビクともしない。
「そうそう、同じ手にかかるわけもあるまい。私を誰だと思っている。拒まれようが戦になろうが、そなただけは逃さぬぞ」
ヒメコはそのまま連れ去られた。
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