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第五章 明石
第40話 すれ違い
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やがて体調の戻ったヒメコは阿波局と共に鎌倉へと戻った。
「まぁ、お方様。まだ江間にいらっしゃるのかと思っておりました。お身体はもう宜しいのですか?」
フジに迎えられ、曖昧に頷く。コシロ兄の許しは得ていなかった。
「殿は?」
「参内なさっておいでです」
阿波局と目を合わせて頷く。その足で阿野の屋敷へと向かった。全成殿が処刑された後、屋敷や子らがどうなっているのかを探る為だった。阿野の屋敷が見えた辺りで阿波局が足を留める。
「父上」
目を上げれば、北条時政の姿があった。時政は阿波局の姿を認めるや駆け寄ってきた。
「戻ってきたか」
「父上、全成様のことは聞きました。四郎は?今、何処にいるのです?また、他の子らも」
「四郎は私が保護した。屋敷でお前を待っている。他の子らも。ただ、京にいた頼全殿は謀叛の疑いありとして追われている」
「謀叛?だって、僧となっていたのに」
時政は苦々し気げな顔をした。
「阿野殿に罪があったと主張する為だろう。他の子らはお咎めなしだ。無論、お前も」
「私も?将軍様は私の身柄を要求したと聞いてましたが」
「尼御台がお諌めしたのだ。元より、千幡君のお立場を悪くする為だけの比企の一方的な謀りごと」
そう言って時政はヒメコをギロリと睨んだ。
「おや、比企の」
その鋭い視線にヒメコはギクリと身を固める。確かに自分は比企の血を引いている。でもコシロ兄に嫁いで、気持ちでは江間の者だった。でも今の彼にとって、娘婿だった阿野全成殿を陥れ、千幡君より一幡君を立てようとする比企は忌むべき相手、仇となっていることをありありと感じる。
だが、時政は突然その表情を一変させ、朗らかな笑みを湛えて親しげに口を開いた。
「ところでトモは元気かな?あやつはなかなか太刀の筋も良く威勢が良くて将来が楽しみだと五郎や小四郎から聞いておる。今度名越に連れて来てくれ」
「はい」
ヒメコはその変貌に面喰らいつつ、返事して頭を深く下げた。でも、「比企の」と言った時の嫌悪を含んだ声色と鋭い眼差しが焼き付いて残ってしまった。そして、ガラリと顔を変えて何事も無かったように振舞う様も。コシロ兄が時政と距離を置こうとする理由が少し分かったような気がした。
その後、ヒメコは阿波局と別れ、足早に御所へ向かった。だが、門をくぐる所で中から出て来た初老の御家人とぶつかりそうになり、驚いて笠を落としてしまう。相手は笠を拾って渡してくれた。礼を言ったら驚いたように顔をまじまじと見られる。
「もしや、姫御前殿、比企の姫様ではありませんか?」
言われて、相手の顔を改めて見れば、確かに見憶えのある顔だった。
「糟屋有季です。お父君、比企朝宗殿には大層良くしていただきました」
「糟屋殿」
男が嬉しそうに頷く。糟屋有季。過去、父の比企朝宗が戦に出る時にはいつも付いてくれていた人だ。ヒメコが出産前に父の屋敷にいた時に、父の元を訪れた彼と挨拶を交わしたことがあった。
「江間に嫁がれて御所勤めは下がられたと聞いておりましたが、また参内なさるのですかな?」
問われ、ええ、まぁと言葉を濁して御所の内へと入る。勝手知ったる御所の内。女官部屋へ向かいつつ、奥のアサ姫の居るであろう部屋の様子を窺う。その途中、目当ての人物を見つけて袖を引っ張った。
「あれ、姫御前。あんたさん、戻ってきたんかいな?」
久々に聞く攝津局の言葉に少しホッとしつつ、ここもまた曖昧に濁して、それより尼御台様は?と急いた。
「尼御台様なら将軍様とあっちゃで何やらえらい勢いでやり合っとるで、今は近付かん方がええわ」
「やり合ってる?」
「なんや領土がどうやら守護がかにやら。だけどな、結局はあれや。あかんヤツやねんからほっとくのがいっちゃんやで」
「あかんヤツ?」
「ああ、親子喧嘩や。結局なぁ、子どもちゅうもんは兄弟の誰がいっちゃん愛されてるか、親を試してまうもんなんやろうなぁ。あほんだらやな。どの子にも一番て答えるの決まってんのになぁ」
「はぁ」
ヒメコは摂津局の勢いに呑まれつつ、ぼんやり考えた。
———答えるの決まってる。ということは答えと気持ちは実は違うということもあるのだろうか?例えばトモとシゲにどっちが一番かと聞かれたらどうするだろうと考えてヒメコは首を横に振った。どちらも一番に決まってる。比べようもない。
それから気付く。今は目の前のことをやらなくては。
パンと頬を叩いてアサ姫の声が聞こえる部屋の前に立つ。
「失礼します。姫御前にございます。尼御台様、宜しいでしょうか?」
束の間、しんと静まった部屋の中から頼家の声が入れと応じる。ヒメコは戸を開けて中へと足を踏み入れた。
中ではアサ姫と頼家が黙ったまま向かい合って座していた。ヒメコが入ったのを見て頼家が口を開く。
「姫御前、来たか。しかし母上は駄目じゃ。頭が固くて話にならん」
言い捨てる頼家に、アサ姫は脇息にもたれて渋い顔をした。
「だから頼家殿、よくよくお考えなさいと言ってるだけです。この鎌倉は御家人ら、それも力ある諸氏の協力に支えられて成り立っているのです。彼らにとって利のない話が通る筈がないでしょう。先の将軍様がどれだけ苦心して御家人らを取り纏めてこられたか。彼らは貴方の家臣ではないのですよ。それぞれに独立した武士団であり、祖先や自らが血を流して勝ち獲ってきた土地を誇りに思っている。それを取り上げるようなことをするなら、彼らはあっという間に掌を返して、自らに都合の良い主を立てようとするでしょう」
「都合の良い主?それは千幡のことですか?」
「何を言っているのですか!」
「だって、そうでしょう?千幡なれば大人しくて聞き分けが良く、母上の言うまま、時政の思いのままに操れる」
「頼家!祖父上を呼び捨てにするとは礼を失しているにも程がある!比企能員殿に何を吹き込まれているのです!乳母夫といえ、貴方は彼に丸め込まれ過ぎです!」
「母上こそ、時政爺に何故あんな大きな顔をさせているのですか。元来、国守は源氏の血筋の者にしか与えないと父上は決めていたのに北条時政は遠江守となった。それこそ御家人らの反発を受けるべきこと」
「そういう貴方こそ比企の一族に甘過ぎます。近習らが村で罪を侵しても咎めてはならぬとは、あまりに軽率。民人らにも呆れられてますよ」
「それは仕方ない。比企は昔からの土着の有力御家人らに比べて勢力が弱い。北条と同様にね。だから私が守らねばならぬのです」
「守ると庇うは違います。貴方は乳母子達を甘やかして好きに遊び回り、その上、側室の産んだ子を跡継ぎにと狙う乳母夫の企みに乗って、貴方の叔父にあたる阿野全成殿を謀叛の疑いで処刑させた。その結果として何が起きるかまで考えて動いてるのですか?」
「ええ。阿野全成は北条とつながっている。千幡を将軍にと推す北条にとっては痛手。鼠が猫を噛みに来るやも知れませんな」
「鎌倉に戦を起こすつもりですか?」
「頭が固くて腰の重い宿老達を排除するには戦に巻き込むという手も止むを得ないかも知れませんな」
「そんなこと許しませんよ!貴方は将軍として一体何がしたいのです!」
アサ姫の剣幕に、頼家はそっぽを向いたまま、あーあと大きく伸びをした。
「母上は私の言葉には否と首を横に振るばかり。そんなに私が気に入らぬなら、千幡を将軍にすれば良い。母上の思い通りになりますよ。私と違って可愛がって育てたのです。母上の言う事なら何でも聞くでしょう」
「頼家殿、貴方はどうしてそんなに千幡を目の敵にするのです。私が千幡ばかりを可愛がってると思ってるのですね。千幡は貴方の弟ですよ。どちらの方が可愛い可愛くないなどと思ったことなど、ただの一度もありません。どちらも比べようなく愛しい子です」
頼家は返事をせずに脇にあった膳に手を伸ばし、その上の豆を摘み、口に放り投げるとコリコリと歯音をさせながら続けた。
「ああ、あと姉上ですね。姉上は病弱だし、夫を殺された可哀想な子だからと父上も母上もそれは大事にしておられた。私は健康に生まれたゆえに二人に大事にされたことはない」
「何ですって?その言葉、お父君が聞いたらどれだけ悲しまれましょう」
悔しそうに唇を噛み締めるアサ姫に頼家は酒を煽り始める。
「聞きゃしませんよ。もう死んでるのですから」
「頼家殿!口をお慎みなさい!」
続く応酬にヒメコはそっと嘆息した。
———あほんだらやな。
摂津局の言葉を思い出した。兄弟というものはそんなに難しいものなのだろうか。でも。このままでは埒があかない。
「まぁ、お方様。まだ江間にいらっしゃるのかと思っておりました。お身体はもう宜しいのですか?」
フジに迎えられ、曖昧に頷く。コシロ兄の許しは得ていなかった。
「殿は?」
「参内なさっておいでです」
阿波局と目を合わせて頷く。その足で阿野の屋敷へと向かった。全成殿が処刑された後、屋敷や子らがどうなっているのかを探る為だった。阿野の屋敷が見えた辺りで阿波局が足を留める。
「父上」
目を上げれば、北条時政の姿があった。時政は阿波局の姿を認めるや駆け寄ってきた。
「戻ってきたか」
「父上、全成様のことは聞きました。四郎は?今、何処にいるのです?また、他の子らも」
「四郎は私が保護した。屋敷でお前を待っている。他の子らも。ただ、京にいた頼全殿は謀叛の疑いありとして追われている」
「謀叛?だって、僧となっていたのに」
時政は苦々し気げな顔をした。
「阿野殿に罪があったと主張する為だろう。他の子らはお咎めなしだ。無論、お前も」
「私も?将軍様は私の身柄を要求したと聞いてましたが」
「尼御台がお諌めしたのだ。元より、千幡君のお立場を悪くする為だけの比企の一方的な謀りごと」
そう言って時政はヒメコをギロリと睨んだ。
「おや、比企の」
その鋭い視線にヒメコはギクリと身を固める。確かに自分は比企の血を引いている。でもコシロ兄に嫁いで、気持ちでは江間の者だった。でも今の彼にとって、娘婿だった阿野全成殿を陥れ、千幡君より一幡君を立てようとする比企は忌むべき相手、仇となっていることをありありと感じる。
だが、時政は突然その表情を一変させ、朗らかな笑みを湛えて親しげに口を開いた。
「ところでトモは元気かな?あやつはなかなか太刀の筋も良く威勢が良くて将来が楽しみだと五郎や小四郎から聞いておる。今度名越に連れて来てくれ」
「はい」
ヒメコはその変貌に面喰らいつつ、返事して頭を深く下げた。でも、「比企の」と言った時の嫌悪を含んだ声色と鋭い眼差しが焼き付いて残ってしまった。そして、ガラリと顔を変えて何事も無かったように振舞う様も。コシロ兄が時政と距離を置こうとする理由が少し分かったような気がした。
その後、ヒメコは阿波局と別れ、足早に御所へ向かった。だが、門をくぐる所で中から出て来た初老の御家人とぶつかりそうになり、驚いて笠を落としてしまう。相手は笠を拾って渡してくれた。礼を言ったら驚いたように顔をまじまじと見られる。
「もしや、姫御前殿、比企の姫様ではありませんか?」
言われて、相手の顔を改めて見れば、確かに見憶えのある顔だった。
「糟屋有季です。お父君、比企朝宗殿には大層良くしていただきました」
「糟屋殿」
男が嬉しそうに頷く。糟屋有季。過去、父の比企朝宗が戦に出る時にはいつも付いてくれていた人だ。ヒメコが出産前に父の屋敷にいた時に、父の元を訪れた彼と挨拶を交わしたことがあった。
「江間に嫁がれて御所勤めは下がられたと聞いておりましたが、また参内なさるのですかな?」
問われ、ええ、まぁと言葉を濁して御所の内へと入る。勝手知ったる御所の内。女官部屋へ向かいつつ、奥のアサ姫の居るであろう部屋の様子を窺う。その途中、目当ての人物を見つけて袖を引っ張った。
「あれ、姫御前。あんたさん、戻ってきたんかいな?」
久々に聞く攝津局の言葉に少しホッとしつつ、ここもまた曖昧に濁して、それより尼御台様は?と急いた。
「尼御台様なら将軍様とあっちゃで何やらえらい勢いでやり合っとるで、今は近付かん方がええわ」
「やり合ってる?」
「なんや領土がどうやら守護がかにやら。だけどな、結局はあれや。あかんヤツやねんからほっとくのがいっちゃんやで」
「あかんヤツ?」
「ああ、親子喧嘩や。結局なぁ、子どもちゅうもんは兄弟の誰がいっちゃん愛されてるか、親を試してまうもんなんやろうなぁ。あほんだらやな。どの子にも一番て答えるの決まってんのになぁ」
「はぁ」
ヒメコは摂津局の勢いに呑まれつつ、ぼんやり考えた。
———答えるの決まってる。ということは答えと気持ちは実は違うということもあるのだろうか?例えばトモとシゲにどっちが一番かと聞かれたらどうするだろうと考えてヒメコは首を横に振った。どちらも一番に決まってる。比べようもない。
それから気付く。今は目の前のことをやらなくては。
パンと頬を叩いてアサ姫の声が聞こえる部屋の前に立つ。
「失礼します。姫御前にございます。尼御台様、宜しいでしょうか?」
束の間、しんと静まった部屋の中から頼家の声が入れと応じる。ヒメコは戸を開けて中へと足を踏み入れた。
中ではアサ姫と頼家が黙ったまま向かい合って座していた。ヒメコが入ったのを見て頼家が口を開く。
「姫御前、来たか。しかし母上は駄目じゃ。頭が固くて話にならん」
言い捨てる頼家に、アサ姫は脇息にもたれて渋い顔をした。
「だから頼家殿、よくよくお考えなさいと言ってるだけです。この鎌倉は御家人ら、それも力ある諸氏の協力に支えられて成り立っているのです。彼らにとって利のない話が通る筈がないでしょう。先の将軍様がどれだけ苦心して御家人らを取り纏めてこられたか。彼らは貴方の家臣ではないのですよ。それぞれに独立した武士団であり、祖先や自らが血を流して勝ち獲ってきた土地を誇りに思っている。それを取り上げるようなことをするなら、彼らはあっという間に掌を返して、自らに都合の良い主を立てようとするでしょう」
「都合の良い主?それは千幡のことですか?」
「何を言っているのですか!」
「だって、そうでしょう?千幡なれば大人しくて聞き分けが良く、母上の言うまま、時政の思いのままに操れる」
「頼家!祖父上を呼び捨てにするとは礼を失しているにも程がある!比企能員殿に何を吹き込まれているのです!乳母夫といえ、貴方は彼に丸め込まれ過ぎです!」
「母上こそ、時政爺に何故あんな大きな顔をさせているのですか。元来、国守は源氏の血筋の者にしか与えないと父上は決めていたのに北条時政は遠江守となった。それこそ御家人らの反発を受けるべきこと」
「そういう貴方こそ比企の一族に甘過ぎます。近習らが村で罪を侵しても咎めてはならぬとは、あまりに軽率。民人らにも呆れられてますよ」
「それは仕方ない。比企は昔からの土着の有力御家人らに比べて勢力が弱い。北条と同様にね。だから私が守らねばならぬのです」
「守ると庇うは違います。貴方は乳母子達を甘やかして好きに遊び回り、その上、側室の産んだ子を跡継ぎにと狙う乳母夫の企みに乗って、貴方の叔父にあたる阿野全成殿を謀叛の疑いで処刑させた。その結果として何が起きるかまで考えて動いてるのですか?」
「ええ。阿野全成は北条とつながっている。千幡を将軍にと推す北条にとっては痛手。鼠が猫を噛みに来るやも知れませんな」
「鎌倉に戦を起こすつもりですか?」
「頭が固くて腰の重い宿老達を排除するには戦に巻き込むという手も止むを得ないかも知れませんな」
「そんなこと許しませんよ!貴方は将軍として一体何がしたいのです!」
アサ姫の剣幕に、頼家はそっぽを向いたまま、あーあと大きく伸びをした。
「母上は私の言葉には否と首を横に振るばかり。そんなに私が気に入らぬなら、千幡を将軍にすれば良い。母上の思い通りになりますよ。私と違って可愛がって育てたのです。母上の言う事なら何でも聞くでしょう」
「頼家殿、貴方はどうしてそんなに千幡を目の敵にするのです。私が千幡ばかりを可愛がってると思ってるのですね。千幡は貴方の弟ですよ。どちらの方が可愛い可愛くないなどと思ったことなど、ただの一度もありません。どちらも比べようなく愛しい子です」
頼家は返事をせずに脇にあった膳に手を伸ばし、その上の豆を摘み、口に放り投げるとコリコリと歯音をさせながら続けた。
「ああ、あと姉上ですね。姉上は病弱だし、夫を殺された可哀想な子だからと父上も母上もそれは大事にしておられた。私は健康に生まれたゆえに二人に大事にされたことはない」
「何ですって?その言葉、お父君が聞いたらどれだけ悲しまれましょう」
悔しそうに唇を噛み締めるアサ姫に頼家は酒を煽り始める。
「聞きゃしませんよ。もう死んでるのですから」
「頼家殿!口をお慎みなさい!」
続く応酬にヒメコはそっと嘆息した。
———あほんだらやな。
摂津局の言葉を思い出した。兄弟というものはそんなに難しいものなのだろうか。でも。このままでは埒があかない。
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