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第五章 明石
第38話 傀儡
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ヒメコは耳を疑った。
「私のものとなって、私の子を産め。さすればその子を次の将軍にしてやろう」
「将軍様!次の将軍は一幡君です!」
先程ヒメコに凄んだ男が叫ぶ。頼家はそちらに向かって薄く笑った。
「分かっておる。この女に少し興が湧いただけだ」
ヒメコは真っ直ぐ頼家を見て毅然と顎を上げた。
「私は江間義時の妻。将軍様の物にはなりませぬ」
すると頼家は口を歪めた。
「そなたはどうせ父の愛妾だったのだろう?私は将軍家を継いだ者。父の物は全て私が引き継ぐのが道理」
手が伸びてくるのをパンと弾く。
「先の将軍様と私はそのような間柄ではございません。お父君を貶めるような発言はお慎しみなさいませ」
ガタッと音を立てて男らが立ち上がった。
「こやつ、先程から無礼極まりない。将軍様を愚弄するつもりか。斬り捨ててやる!」
刀に手をかける男をヒメコは睨み返す。
「あくまでもそなたが将軍様に歯向かうなら、江間義時は翻意ありとして阿野全成のように拘禁して、配流、処刑させるぞ」
———何てことを。どこの誰だろうと、そのようなこと許される筈がないのに。
強い憤りが湧き上がり、肚がドウッと燃え立った気がした。
ヒメコは男から目を離して頼家を見た。
「私は江間義時の妻ではございますが、その従属物ではありません。私は比企の血を引くただの女。私が将軍様に従わないから罰すると仰るのでしたら、比企の血族も共に罰して下さいませ」
「な、何を、こいつ!お前など比企の一族ではないわ!」
そう怒鳴る男の顔をヒメコはしっかと見据える。
「比企弥四郎殿、貴方が比企能員殿のお子であるなら、血は繋がってなくとも私たちは比企掃部允夫婦の孫。共に比企の血族です。頼朝公をお助けした比企の尼の縁者として頼朝公に信を置かれ、恩給を賜った身。その御恩に報いるには、将軍家をお継ぎになった頼家殿を支え、また時にお諌めしながら忠孝を尽くすべき。蹴鞠や酒のお相手をして追従するばかりが近習の務めではない筈です!」
それから頼家に向かう。
「上に立つ者は耳に痛いことを言う者も重用してこそ、真の君主となり得ます。先の将軍様は、鎌倉を武士たちの安住の棲家として、また帝の唯一の武としてこの国を泰平に導き、子孫が永代栄えるようにと、それを願っておられました。貴方様は、お父君のその御意志をこそ引き継いで下さいませ」
頼家がギリリとヒメコを睨み据える。アサ姫そっくりの少し吊り上がった目と眦がぶつかり、火花が散ったかのように感じる。
「先の将軍、先の将軍。先の将軍!皆、同じことばかり言いおって!」
頼家の声はひどく荒んでいた。
「広元も善信も親能も、先の将軍の前例を守れと言うばかりで、私の言葉には耳を傾けない」
ヒメコは眉を顰めた。
「それは、御家人らの領土を再分配することに関してですか?」
そう問うたら、頼家は僅か驚いたような顔をした。ヒメコは気にせず続ける。
「領土の件については、文官らよりもお母君とこそお話をなさいませ。将軍様がどうしたいのか、腹を割ってお話ししたらきっとお力になって下さいます。尼御台様は以前よりずっと将軍様のことを案じていらっしゃいました。なかなか顔を見せぬと寂しそうにしておられました。鎌倉をどうしたいのか、将軍様が目指す国のあり方を忌憚なくお話しして、ご協力を仰がれませ」
「だが、母上は千幡を跡継ぎにしたいのだろう?」
「いいえ。尼御台様は万寿の君こそ跡継ぎにと、頼朝公と御心を合わせておいででした。千幡君を跡継ぎにしたいとしたら、北条殿でしょう。でも北条殿は尼御台様のお父君。北条殿を止められるのは、尼御台様をおいて他にございません。どうかお母君と御心を通わされませ。尼御台様は将軍様が歩み寄って下さるのをずっと待っておいででした。本当は手元で育てたかった。でも将軍家を継ぐ子だから乳母に預けるのは仕方ないと歯痒そうにされていた。でもいつでも将軍様のことを気にかけておいででした。自らの腹を傷めて生んだ子です。それも初めての男児。お手元に置いて、もっと慈しみたかった筈。でも万寿の君のお側にはいつも比企殿がおられた。気安く親子の触れ合いが出来ないことに御心を痛めておいででした。でも今こそ、そのわだかまりをとかす時です。目指す道を真っ直ぐにお話しになり、後見になって頂けたら、将軍様の目指す道を進めることが出来ましょう。先の将軍様を超えることもきっと」
頼家は黙ってヒメコを見ていた。ヒメコは真っ直ぐ見返し続けた。
——どうか、通じて。
だが、頼家は次の瞬間にニヤリと大きく口を横に結んだ。
「やはり欲しい。私の耳に痛いことを言うのはいつもお前ではないか。共に来い」
右腕を掴まれ、引っ張られる。
ヒメコは引っ張られるまま前へと進んだが、咄嗟に左手が逆に頼家の手首を掴んで、頼家の背後へと回った。
「あいたたた」
腕をよじられた頼家がその場に前のめりになる。ヒメコは掴んでいた手を変え、ゆるりと身を廻らせて頼家の前へ回り込んで正面から目を合わせた。
「頼家殿。どうか勇気をお出し下さいませ。尼御台様は貴方様がお心を開いて下さるのをずっとお待ちなのです。私も尼御台様の元に、御所に出仕いたしますから。だから鎌倉の為に、この国の平安の為にお母君とお力を合わされませ」
幼いトモに言い聞かせるように言葉を紡ぎ、その頭を撫でるような気持ちで目を合わせる。頼家の目が揺れている。その目をじっと見つめながらヒメコは不思議な心地でいた。
———何だろう?頼家がまこと我が子のように愛おしく感じる。母の気持ちで対峙した頼家は、もう恐れの対象ではなかった。辺りの空気が和らぎ、あたたかく場を包んで広がっていく。そんな心地がする。頼家の全身から無駄な力みが抜けていくのを感じた。
「力を合わせる?そうしたら全てうまくいくのか?」
ええ、と頷こうとした瞬間、だがヒメコは髪を後ろから鷲掴みにされて引っ張られ、そのまま遠くへと放り投げられた。床に腰を強打して呻く。
「殿、騙されてはなりませぬぞ。こやつは北条時政の息子である江間義時の妻。耳打ちされているのです。殿を籠絡するようにと!後継は一幡君!父や若狭とそのようにお約束されていたではないですか!それに尼御台様は何と言っても、あの北条時政の娘。いざとなったら、やはり千幡君をと言い出すやも知れませんぞ!」
その言葉が終わった 次の瞬間、頼家は比企弥四郎へと飛びかかっていた。
「弥四郎、そなた母上を侮辱するか。許さぬぞ!」
馬乗りになって何度も何度も拳を振るう頼家。比企弥四郎は鼻血を出しながら謝罪の言葉を繰り返すが、頼家の拳は止まらない。飛び散る血飛沫。郎等らは怯えたようにその場に固まっている。その光景をヒメコは床に転がったまま見ていた。
やがて、頼家は肩で息をしながら立ち上がった。床で腹を抱えるヒメコをチラと見下ろす。だがその目はひどく虚ろだった。
「私は一幡に後を継がせる。それが父や母以上に私を可愛がってくれた能員と乳母への恩返しなのだ。後のことは知らん。どうせ私は傀儡。だがいつかお前を手に入れるぞ。私が傀儡から真の将軍へとなる為にな」
——傀儡?
その時、外から男の声が聞こえた。
「火事です!将軍様、火が出ております!急ぎ、馬の元にお戻りを!」
近習らが騒めき立ち上がり、彼らに急かされて頼家は出て行った。
遠去かる足音を聞きながらヒメコは身体中が軋むように痛むのを堪えていた。身体の中から溢れ落ちる血と気の塊。
——流れてしまった。ごめんね。ごめんなさい。
天へと還る小さな気を慰めるように、涙が一粒、ぽたんと床を鳴らす。
「ヒミカ!」
響いた母の声に張り詰めていた気の系が緩み、身体中の力が抜けゆく。ヒメコはそっと瞼を下ろして意識を手放した。
「私のものとなって、私の子を産め。さすればその子を次の将軍にしてやろう」
「将軍様!次の将軍は一幡君です!」
先程ヒメコに凄んだ男が叫ぶ。頼家はそちらに向かって薄く笑った。
「分かっておる。この女に少し興が湧いただけだ」
ヒメコは真っ直ぐ頼家を見て毅然と顎を上げた。
「私は江間義時の妻。将軍様の物にはなりませぬ」
すると頼家は口を歪めた。
「そなたはどうせ父の愛妾だったのだろう?私は将軍家を継いだ者。父の物は全て私が引き継ぐのが道理」
手が伸びてくるのをパンと弾く。
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「あくまでもそなたが将軍様に歯向かうなら、江間義時は翻意ありとして阿野全成のように拘禁して、配流、処刑させるぞ」
———何てことを。どこの誰だろうと、そのようなこと許される筈がないのに。
強い憤りが湧き上がり、肚がドウッと燃え立った気がした。
ヒメコは男から目を離して頼家を見た。
「私は江間義時の妻ではございますが、その従属物ではありません。私は比企の血を引くただの女。私が将軍様に従わないから罰すると仰るのでしたら、比企の血族も共に罰して下さいませ」
「な、何を、こいつ!お前など比企の一族ではないわ!」
そう怒鳴る男の顔をヒメコはしっかと見据える。
「比企弥四郎殿、貴方が比企能員殿のお子であるなら、血は繋がってなくとも私たちは比企掃部允夫婦の孫。共に比企の血族です。頼朝公をお助けした比企の尼の縁者として頼朝公に信を置かれ、恩給を賜った身。その御恩に報いるには、将軍家をお継ぎになった頼家殿を支え、また時にお諌めしながら忠孝を尽くすべき。蹴鞠や酒のお相手をして追従するばかりが近習の務めではない筈です!」
それから頼家に向かう。
「上に立つ者は耳に痛いことを言う者も重用してこそ、真の君主となり得ます。先の将軍様は、鎌倉を武士たちの安住の棲家として、また帝の唯一の武としてこの国を泰平に導き、子孫が永代栄えるようにと、それを願っておられました。貴方様は、お父君のその御意志をこそ引き継いで下さいませ」
頼家がギリリとヒメコを睨み据える。アサ姫そっくりの少し吊り上がった目と眦がぶつかり、火花が散ったかのように感じる。
「先の将軍、先の将軍。先の将軍!皆、同じことばかり言いおって!」
頼家の声はひどく荒んでいた。
「広元も善信も親能も、先の将軍の前例を守れと言うばかりで、私の言葉には耳を傾けない」
ヒメコは眉を顰めた。
「それは、御家人らの領土を再分配することに関してですか?」
そう問うたら、頼家は僅か驚いたような顔をした。ヒメコは気にせず続ける。
「領土の件については、文官らよりもお母君とこそお話をなさいませ。将軍様がどうしたいのか、腹を割ってお話ししたらきっとお力になって下さいます。尼御台様は以前よりずっと将軍様のことを案じていらっしゃいました。なかなか顔を見せぬと寂しそうにしておられました。鎌倉をどうしたいのか、将軍様が目指す国のあり方を忌憚なくお話しして、ご協力を仰がれませ」
「だが、母上は千幡を跡継ぎにしたいのだろう?」
「いいえ。尼御台様は万寿の君こそ跡継ぎにと、頼朝公と御心を合わせておいででした。千幡君を跡継ぎにしたいとしたら、北条殿でしょう。でも北条殿は尼御台様のお父君。北条殿を止められるのは、尼御台様をおいて他にございません。どうかお母君と御心を通わされませ。尼御台様は将軍様が歩み寄って下さるのをずっと待っておいででした。本当は手元で育てたかった。でも将軍家を継ぐ子だから乳母に預けるのは仕方ないと歯痒そうにされていた。でもいつでも将軍様のことを気にかけておいででした。自らの腹を傷めて生んだ子です。それも初めての男児。お手元に置いて、もっと慈しみたかった筈。でも万寿の君のお側にはいつも比企殿がおられた。気安く親子の触れ合いが出来ないことに御心を痛めておいででした。でも今こそ、そのわだかまりをとかす時です。目指す道を真っ直ぐにお話しになり、後見になって頂けたら、将軍様の目指す道を進めることが出来ましょう。先の将軍様を超えることもきっと」
頼家は黙ってヒメコを見ていた。ヒメコは真っ直ぐ見返し続けた。
——どうか、通じて。
だが、頼家は次の瞬間にニヤリと大きく口を横に結んだ。
「やはり欲しい。私の耳に痛いことを言うのはいつもお前ではないか。共に来い」
右腕を掴まれ、引っ張られる。
ヒメコは引っ張られるまま前へと進んだが、咄嗟に左手が逆に頼家の手首を掴んで、頼家の背後へと回った。
「あいたたた」
腕をよじられた頼家がその場に前のめりになる。ヒメコは掴んでいた手を変え、ゆるりと身を廻らせて頼家の前へ回り込んで正面から目を合わせた。
「頼家殿。どうか勇気をお出し下さいませ。尼御台様は貴方様がお心を開いて下さるのをずっとお待ちなのです。私も尼御台様の元に、御所に出仕いたしますから。だから鎌倉の為に、この国の平安の為にお母君とお力を合わされませ」
幼いトモに言い聞かせるように言葉を紡ぎ、その頭を撫でるような気持ちで目を合わせる。頼家の目が揺れている。その目をじっと見つめながらヒメコは不思議な心地でいた。
———何だろう?頼家がまこと我が子のように愛おしく感じる。母の気持ちで対峙した頼家は、もう恐れの対象ではなかった。辺りの空気が和らぎ、あたたかく場を包んで広がっていく。そんな心地がする。頼家の全身から無駄な力みが抜けていくのを感じた。
「力を合わせる?そうしたら全てうまくいくのか?」
ええ、と頷こうとした瞬間、だがヒメコは髪を後ろから鷲掴みにされて引っ張られ、そのまま遠くへと放り投げられた。床に腰を強打して呻く。
「殿、騙されてはなりませぬぞ。こやつは北条時政の息子である江間義時の妻。耳打ちされているのです。殿を籠絡するようにと!後継は一幡君!父や若狭とそのようにお約束されていたではないですか!それに尼御台様は何と言っても、あの北条時政の娘。いざとなったら、やはり千幡君をと言い出すやも知れませんぞ!」
その言葉が終わった 次の瞬間、頼家は比企弥四郎へと飛びかかっていた。
「弥四郎、そなた母上を侮辱するか。許さぬぞ!」
馬乗りになって何度も何度も拳を振るう頼家。比企弥四郎は鼻血を出しながら謝罪の言葉を繰り返すが、頼家の拳は止まらない。飛び散る血飛沫。郎等らは怯えたようにその場に固まっている。その光景をヒメコは床に転がったまま見ていた。
やがて、頼家は肩で息をしながら立ち上がった。床で腹を抱えるヒメコをチラと見下ろす。だがその目はひどく虚ろだった。
「私は一幡に後を継がせる。それが父や母以上に私を可愛がってくれた能員と乳母への恩返しなのだ。後のことは知らん。どうせ私は傀儡。だがいつかお前を手に入れるぞ。私が傀儡から真の将軍へとなる為にな」
——傀儡?
その時、外から男の声が聞こえた。
「火事です!将軍様、火が出ております!急ぎ、馬の元にお戻りを!」
近習らが騒めき立ち上がり、彼らに急かされて頼家は出て行った。
遠去かる足音を聞きながらヒメコは身体中が軋むように痛むのを堪えていた。身体の中から溢れ落ちる血と気の塊。
——流れてしまった。ごめんね。ごめんなさい。
天へと還る小さな気を慰めるように、涙が一粒、ぽたんと床を鳴らす。
「ヒミカ!」
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