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第五章 明石
第34話 罠
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やがて年が明けて暫くした頃、阿波局が江間の屋敷に駆け込んできた。
「うちの殿が駿河に下向してしまったので大姉上のお側に、と御所に居たのだけれど、将軍様が病に罹られてね。煙がこちらまで流れて来そうなので、こっそり逃げ出して来たの」
「煙?」
「火のない所に煙は立たないって言うでしょ。いよいよ御所内にも火の粉が降り注ぎ始めたのよ」
「火の粉?」
話がまるで見えずにヒメコは戸惑う。
「私にまで見張りが付けられているみたいでどうしようかと思ったんだけど、名越には今、近付くなと言われてるし、行く所が他に思いつかなかったの。悪いけど少しだけ匿ってちょうだい」
阿波局の顔色はひどく悪く、息も上がっていた。
ヒメコは立ち上がると開いていた蔀戸を閉じ、部屋の戸も全て閉めた。
「殿は御所に出掛けていて、この屋敷の中には私と子らしかおりません」
阿波局はそれでも身を縮こめてじっと耳を澄ましていた。
「御所で何があったのですか?」
ヒメコの問いに阿波局は目は合わせてはくれるものの、なかなか口を開こうとしない。外の物音が気になるようだった。
「警護のものは外におりますが、腕は立ちますし、口も固いのでご安心ください」
そう言って、ヒメコは阿波局に白湯を差し出した。
阿波局は椀をを受け取ったものの、一口だけ啜ると椀を置き、ヒメコににじり寄って耳に口を寄せた。
「頼家殿は亡き者にされるかもしれないわ」
「亡き者に?」
阿波局は頷いた。
「将軍様の病はそんなにお悪いのですか?」
阿波局は曖昧に首を捻った。
「嘔吐と下痢なのだけど、毒のせいではないかと言われてるの」
「そのこと、尼御台様は」
阿波局は首を横に振った。
「私、誰に何を言っていいのか悪いのかわからなくなってしまって」
普段の飄々とした彼女が嘘のように、阿波局は珍しくかなり興奮していた。
「毒だなんて、一体誰に?」
問うたが、逆に尋ねられる。
「今、急に将軍が亡くなったら、利を得るのは誰だと思う?」
ヒメコは少し考えてから答えた。
「一幡君を擁する比企能員殿でしょうか」
でも、比企能員は頼家の乳母夫で、頼家が産まれてからずっと我が子同然、いやそれ以上に手を尽くして世話をしてきた筈。毒など盛る筈がない。そう口にしたら、阿波局は、そうね、とは答えたものの、どこか歯切れが悪かった。何かあるのだ。やがて阿波局はポツポツと続けた。
頼家殿は早く将軍として権力を示したかったのでしょうね。事を急いた。有力御家人らの土地を取り上げて再分配しようとしたのよ」
「再分配?」
「ええ。有力御家人らに新恩された領土の内、一定量以上のものは返還させて、中小御家人に分け与えようとしたの」
へぇ、とヒメコは声をあげる。
「それは良い案かも知れませんね。不公平や御家人らの力の偏りが無くなりそうです」
でも阿波局は首を横に振った。
「そりゃあ、新参の御家人はいいわよ。でも既に手に入れていた領土を渡せと言われて納得出来る御家人ってどの程度いると思う?だって、土地は彼らやその祖先が命を張って、多大な犠牲を払って手に入れたものなのよ」
それはそうだけれど、でもそれでは貧富の差は無くならない。そう言おうとして、ヒメコは黙った。
「一所懸命」
ヒメコは失ってしまったが、生まれ故郷、大切な家族の暮らす土地、祖先が遺してくれた馴れた風景はかけがえのないもの。そして子らが安心して暮らしていく為に欠かせないもの。昔は土地は全て天から与えられたものだったのに、いつか変わっていった。これからも変わっていくのだろう。でも変化を求める人が居れば、変化を厭う人もいる。そして争いは絶えない。
「幕府と御家人らは、御恩と奉公、つまり領土を保証する代わりに武力を提供するという利害関係の合致で協力関係が成立してるのよ。それを崩しかねない頼家殿の発言は、宿老や文官、武官らにとっては危険極まりないでしょ。そして頼家殿は比企能員殿にも領土の返還を求めていたようよ。乳母夫なら真っ先に手本を示せと。将軍様が急に発病したのはその後なの。過去に頼朝公の急なご不慮があったから、これは早急に後継を定めなくてはと御所中が大騒ぎになったわ。将軍の後継は、本来は正室の長男の善哉君。でも頼朝公亡き今、血筋だけの賀茂殿に、将軍家の後見はとても無理でしょ。善哉君は大姉上が保護して僧にさせる筈よ。だから今、将軍家を継げるとしたら、比企能員殿の娘の若狭局が産んだ一幡君か、頼家殿の弟の千幡君。一幡君には比企が、千幡君には乳母である私の殿と北条が後ろ盾として付いている。それできっと私は比企の連中に目を付けられたのよ」
言い切って阿波局は息を吐いた。きっと、と言った。だから確信はないのだろう。でも誰かに見張られているから怯えているのだろうか。
「頼家殿が毒に侵されているということは何故分かったのですか?」
「女官の一人にそういうのに詳しい子がいてね。症状が似てるから疑われるかも知れない。気を付けてと忠告されたの」
「忠告?どうして阿波局様に?」
「毒だと分かったら私が疑われるだろうと思ったのでしょうね。頼家殿に毒を盛れる人間って限られるから。御所で将軍様に出される食事には全て毒味役がいるでしょ?御所の外ではわからないけど。頼家殿は若狭局と一幡君のいる比企の小御所に滞在されることが多いから、呑まされてるとしたらそこか、または」
そこで阿波局の言葉が止まる。
「または?」
促したら阿波局と目が合う。でも直ぐに逸らされた。少ししてから口をきゅっと結んで阿波局はヒメコを見た。
「私は頼家殿の叔母にあたる。だから私の出すものに毒味役がつくことはないの」
淡々と言葉を繋ぐ阿波局だけれど、ふと引っかかりを感じてヒメコは阿波局を見た。
「あの、もしや」
——阿波局が将軍に毒を?
「実は、少し前に父に待たされた物を頼家殿に食していただいたことがあったのよ。でもその時、彼は私や大姉上の目の前でそれを食べて、とても気に入ったから、またたまに差し入れるようにと言った。だからそれを父に伝えて、定期的に差し入れるようにしてたの。そのことを知ってる誰かが毒を盛って、私に罪を着せようとしてるのではないかって。そう思ったら怖くなって逃げ出してきたの」
「ここに入るのは誰かに見られたかも知れないのですね」
「なるべく隠れて目立たないように来たつもりだけれど、正直言って分からない」
ヒメコは奥の部屋へと入ると、そこの床の継ぎ目に尖った杭を突き立てて床板を外した。
「この下を抜けていくと生け垣にあたります。それを右に辿って暫く行くと中庭に出ます。そこは泰時の屋敷です。いざの時にはそこへ逃げて下さい」
阿波局は頷いた。
「でも、暫くはこの屋敷にお留まり下さい。殿が戻られたら相談しましょう」
やがてコシロ兄が戻る。手短に事情を話したらコシロ兄はまた出かけて行った。
「尼御台様に阿波局は暫く江間で預かることを密かに伝えてきた。また千幡君と阿野全成殿の身辺警護の強化も頼んだ。だが阿野殿は今、駿河国。間に合えば良いが」
そう言ってコシロ兄は阿波局に向き直った。
「毒だと言い出したのは誰だ?」
「女官仲間よ。薬草関係に詳しくて、先の将軍様の歯痛の時くらいから出仕してる子」
「比礼御前ですか?」
ヒメコが聞いたら阿波局はいいえと首を横に振った。でも歯痛の時からと聞くと、どうしても比礼御前を連想してしまう。
「その話だけでお前は逃げたのではないだろう?御所で他にも見たもの、聞いたものがあるのではないか?」
阿波局は俯いた。
「女官部屋で何人かが話してるのが漏れ聞こえたの。御家人衆が戦支度をしているって。文官らが頼家殿を見限って謀叛をけしかけているって話を聞いたらしいわ。皆、ひどく興奮していて私驚いてしまって」
「そう話していたのは以前から見知ってる女官か?」
「部屋の中は覗けなかったからわからない」
コシロ兄は溜息を吐いた。
「お前、嵌められたんゃないか?」
「うちの殿が駿河に下向してしまったので大姉上のお側に、と御所に居たのだけれど、将軍様が病に罹られてね。煙がこちらまで流れて来そうなので、こっそり逃げ出して来たの」
「煙?」
「火のない所に煙は立たないって言うでしょ。いよいよ御所内にも火の粉が降り注ぎ始めたのよ」
「火の粉?」
話がまるで見えずにヒメコは戸惑う。
「私にまで見張りが付けられているみたいでどうしようかと思ったんだけど、名越には今、近付くなと言われてるし、行く所が他に思いつかなかったの。悪いけど少しだけ匿ってちょうだい」
阿波局の顔色はひどく悪く、息も上がっていた。
ヒメコは立ち上がると開いていた蔀戸を閉じ、部屋の戸も全て閉めた。
「殿は御所に出掛けていて、この屋敷の中には私と子らしかおりません」
阿波局はそれでも身を縮こめてじっと耳を澄ましていた。
「御所で何があったのですか?」
ヒメコの問いに阿波局は目は合わせてはくれるものの、なかなか口を開こうとしない。外の物音が気になるようだった。
「警護のものは外におりますが、腕は立ちますし、口も固いのでご安心ください」
そう言って、ヒメコは阿波局に白湯を差し出した。
阿波局は椀をを受け取ったものの、一口だけ啜ると椀を置き、ヒメコににじり寄って耳に口を寄せた。
「頼家殿は亡き者にされるかもしれないわ」
「亡き者に?」
阿波局は頷いた。
「将軍様の病はそんなにお悪いのですか?」
阿波局は曖昧に首を捻った。
「嘔吐と下痢なのだけど、毒のせいではないかと言われてるの」
「そのこと、尼御台様は」
阿波局は首を横に振った。
「私、誰に何を言っていいのか悪いのかわからなくなってしまって」
普段の飄々とした彼女が嘘のように、阿波局は珍しくかなり興奮していた。
「毒だなんて、一体誰に?」
問うたが、逆に尋ねられる。
「今、急に将軍が亡くなったら、利を得るのは誰だと思う?」
ヒメコは少し考えてから答えた。
「一幡君を擁する比企能員殿でしょうか」
でも、比企能員は頼家の乳母夫で、頼家が産まれてからずっと我が子同然、いやそれ以上に手を尽くして世話をしてきた筈。毒など盛る筈がない。そう口にしたら、阿波局は、そうね、とは答えたものの、どこか歯切れが悪かった。何かあるのだ。やがて阿波局はポツポツと続けた。
頼家殿は早く将軍として権力を示したかったのでしょうね。事を急いた。有力御家人らの土地を取り上げて再分配しようとしたのよ」
「再分配?」
「ええ。有力御家人らに新恩された領土の内、一定量以上のものは返還させて、中小御家人に分け与えようとしたの」
へぇ、とヒメコは声をあげる。
「それは良い案かも知れませんね。不公平や御家人らの力の偏りが無くなりそうです」
でも阿波局は首を横に振った。
「そりゃあ、新参の御家人はいいわよ。でも既に手に入れていた領土を渡せと言われて納得出来る御家人ってどの程度いると思う?だって、土地は彼らやその祖先が命を張って、多大な犠牲を払って手に入れたものなのよ」
それはそうだけれど、でもそれでは貧富の差は無くならない。そう言おうとして、ヒメコは黙った。
「一所懸命」
ヒメコは失ってしまったが、生まれ故郷、大切な家族の暮らす土地、祖先が遺してくれた馴れた風景はかけがえのないもの。そして子らが安心して暮らしていく為に欠かせないもの。昔は土地は全て天から与えられたものだったのに、いつか変わっていった。これからも変わっていくのだろう。でも変化を求める人が居れば、変化を厭う人もいる。そして争いは絶えない。
「幕府と御家人らは、御恩と奉公、つまり領土を保証する代わりに武力を提供するという利害関係の合致で協力関係が成立してるのよ。それを崩しかねない頼家殿の発言は、宿老や文官、武官らにとっては危険極まりないでしょ。そして頼家殿は比企能員殿にも領土の返還を求めていたようよ。乳母夫なら真っ先に手本を示せと。将軍様が急に発病したのはその後なの。過去に頼朝公の急なご不慮があったから、これは早急に後継を定めなくてはと御所中が大騒ぎになったわ。将軍の後継は、本来は正室の長男の善哉君。でも頼朝公亡き今、血筋だけの賀茂殿に、将軍家の後見はとても無理でしょ。善哉君は大姉上が保護して僧にさせる筈よ。だから今、将軍家を継げるとしたら、比企能員殿の娘の若狭局が産んだ一幡君か、頼家殿の弟の千幡君。一幡君には比企が、千幡君には乳母である私の殿と北条が後ろ盾として付いている。それできっと私は比企の連中に目を付けられたのよ」
言い切って阿波局は息を吐いた。きっと、と言った。だから確信はないのだろう。でも誰かに見張られているから怯えているのだろうか。
「頼家殿が毒に侵されているということは何故分かったのですか?」
「女官の一人にそういうのに詳しい子がいてね。症状が似てるから疑われるかも知れない。気を付けてと忠告されたの」
「忠告?どうして阿波局様に?」
「毒だと分かったら私が疑われるだろうと思ったのでしょうね。頼家殿に毒を盛れる人間って限られるから。御所で将軍様に出される食事には全て毒味役がいるでしょ?御所の外ではわからないけど。頼家殿は若狭局と一幡君のいる比企の小御所に滞在されることが多いから、呑まされてるとしたらそこか、または」
そこで阿波局の言葉が止まる。
「または?」
促したら阿波局と目が合う。でも直ぐに逸らされた。少ししてから口をきゅっと結んで阿波局はヒメコを見た。
「私は頼家殿の叔母にあたる。だから私の出すものに毒味役がつくことはないの」
淡々と言葉を繋ぐ阿波局だけれど、ふと引っかかりを感じてヒメコは阿波局を見た。
「あの、もしや」
——阿波局が将軍に毒を?
「実は、少し前に父に待たされた物を頼家殿に食していただいたことがあったのよ。でもその時、彼は私や大姉上の目の前でそれを食べて、とても気に入ったから、またたまに差し入れるようにと言った。だからそれを父に伝えて、定期的に差し入れるようにしてたの。そのことを知ってる誰かが毒を盛って、私に罪を着せようとしてるのではないかって。そう思ったら怖くなって逃げ出してきたの」
「ここに入るのは誰かに見られたかも知れないのですね」
「なるべく隠れて目立たないように来たつもりだけれど、正直言って分からない」
ヒメコは奥の部屋へと入ると、そこの床の継ぎ目に尖った杭を突き立てて床板を外した。
「この下を抜けていくと生け垣にあたります。それを右に辿って暫く行くと中庭に出ます。そこは泰時の屋敷です。いざの時にはそこへ逃げて下さい」
阿波局は頷いた。
「でも、暫くはこの屋敷にお留まり下さい。殿が戻られたら相談しましょう」
やがてコシロ兄が戻る。手短に事情を話したらコシロ兄はまた出かけて行った。
「尼御台様に阿波局は暫く江間で預かることを密かに伝えてきた。また千幡君と阿野全成殿の身辺警護の強化も頼んだ。だが阿野殿は今、駿河国。間に合えば良いが」
そう言ってコシロ兄は阿波局に向き直った。
「毒だと言い出したのは誰だ?」
「女官仲間よ。薬草関係に詳しくて、先の将軍様の歯痛の時くらいから出仕してる子」
「比礼御前ですか?」
ヒメコが聞いたら阿波局はいいえと首を横に振った。でも歯痛の時からと聞くと、どうしても比礼御前を連想してしまう。
「その話だけでお前は逃げたのではないだろう?御所で他にも見たもの、聞いたものがあるのではないか?」
阿波局は俯いた。
「女官部屋で何人かが話してるのが漏れ聞こえたの。御家人衆が戦支度をしているって。文官らが頼家殿を見限って謀叛をけしかけているって話を聞いたらしいわ。皆、ひどく興奮していて私驚いてしまって」
「そう話していたのは以前から見知ってる女官か?」
「部屋の中は覗けなかったからわからない」
コシロ兄は溜息を吐いた。
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