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第五章 明石
※第19話 潮騒
しおりを挟む真名を呼ばれた瞬間にドッと身体中の血が沸き立つ。
——いけない。止めて。
でも頭にのぼった血がおろしてきた言葉がそのまま口から発せられるのをヒメコは止められなかった。
「諦めよ」
その低い声は波の動きすら止めた。
シンと何も無くなった場に頼朝の声が割って入ってくる。
「いや、諦めぬ」
——ああ。
ヒメコは絶望的な気持ちで頼朝を見た。そのヒメコを真っ直ぐに見返す頼朝。
ザザン、ザザ……。
暫くして戻ってきた波の音の合間に頼朝は去って行った。
そこからどうやって戻ったのか覚えていない。体がふわふわとして地に足が着いていない感覚と耳から離れない潮騒の音。
「具合が悪いのか?」
コシロ兄の声に顔を上げる。変わらぬ静かな佇まい。言葉は少ないけれど気遣ってくれている温かな気配。ヒメコは頭を横に振った。でも波の音は消えない。足を掬われそうな感覚は離れてくれない。
「自分がよく分からない。怖いのです。消えてしまいそうになる。どうか繋ぎ止めておいてください。私はここに居たい。貴方の側にいたいのです」
コシロ兄の首に腕を回す。
先の子が流れてから月のモノが戻って暫くしてからもコシロ兄はヒメコに求めてこなかった。ヒメコも求めなかった。でも今夜は、今は繋がりを感じないと耐えられそうになかった。幼い時は、祖母がいてくれた時には、何が視えても聴こえても平気だと思えていた。でもその祖母はいない。自分の足で立たなければいけないと思いながらも、一度崩れてしまった足元は一人で立つには不安が過ぎた。コシロ兄の唇に自らのそれを重ね、その襟の内に指を差し入れて彼の温かな胸に触れる。頬を寄せる。コシロ兄は何も言わず、ヒメコの衣を剥ぎ取るとその胸の内に強く抱き締めてくれた。大きな熱い手でヒメコの身体を抱き留め、吸い尽くすが如くヒメコの身体を、意識をその身に取り込むように激しく求めてくれた。
──生きている。ここにいる。あなたの側に。
その温もりに寄り添い、固く目を閉じて眠る。
ずっとこのままがいい。何も見ず。考えず。聴かず。このまま。
——愛別離苦
その言葉を教えてくれたのは誰だっただろうか?
でもヒメコは心を閉じて、ただゆるゆると時を過ごした。
やがて年が明ける。でも大姫の服喪の為に様々な行事は見合わせられ、静かな年明けだった。これから来る嵐を待つような穏やかな静けさ。そんな中、ヒメコは自らの体の変化に気付く。身籠もったのだと分かった。悪阻は無かった。それでもヒメコは極力動かぬようにして腹を摩りながら過ごした。不思議なことに、ややこの存在に気付いた頃から、あれだけ騒めいていた心が静かに澄み渡って落ち着いてきた。自分はこの子を産む為に生まれて来たのだとそう思った。懐妊を告げたらコシロ兄は一瞬不安げな顔をしたが、ヒメコが微笑んだらそっと抱き寄せてくれた。
「大事にしよう」
その言葉だけで充分だった。やっと逢える。そんな予感にヒメコは生まれてくる子は女の子だろうと思った。
年明けから幕府は上洛の準備で慌ただしいようだった。でもその翌月、帝がまだ齢三つの皇子に譲位したとの報が鎌倉に入る。帝への乙姫の入内の話は強制的に立ち消えた。上洛がなくなったとの話をコシロ兄より聞いてヒメコは内心ホッとする。だがヒメコは頼朝の性質を知っていた。諦めぬと言ったのだ。どうにかして道を繋ぐ筈。そんな頃、阿波局から文があった。御所へ来て欲しいとの内容だったがヒメコはまだ動きたくなかった。身ごもったことを伝えて参内できないことを詫びる。数日後、その阿波局が訪ねて来た。
「あら、お元気そうじゃないの。良かったわ。外に出られないって書いてあるから何事かと思ったわよ」
明るい声に、心にポッと火が灯る。ヒメコはその胸に飛び込んだ。
「あら、やだ。どうしたの?そんなに久しぶりだったかしら?」
そう言いながらも阿波局はヒメコを優しく受け留めて背を撫でてくれた。八幡姫のこと、流れてしまった子のこと、気持ちが溢れて言葉が続かず、ただただ泣かせて貰う。阿波局はヒメコの片言の言葉にうんうんと頷いてくれた。お喋りな彼女が何も言わずに話を聞いてくれた。
ヒメコがあらかた話し終え、息が切れた頃を見計らって水が差し出される。
「喉が渇いたでしょう?」
にっこりと微笑まれ、素直に頷いて椀を受け取る。一息に飲み干したら継ぎ足された。
「次はゆっくりお飲みなさい」
姉のようだと思う。彼女は昔からいつもそうだった。周りをよく見ていて、間というものをよく知っている。そうして、人々の間にすんなりと溶け込んで、必要な情報を得て流していく。さらさらと流れてゆく水のような人。ヒメコはそんな彼女をいつも羨ましく思っていた。
「今日ここに来たのはね、相談があったの。本当は御所に来て様子を見て貰いたかったのだけれど、でもいいわ」
「御所で何かあったのですか?」
「比礼御前よ。彼女をどうにかしたくて」
「比礼御前様?彼女が何か?」
思い起こすのは炊事場での出来事。出来ればあまり関わり合いになりたくない。特に今は。それが正直な気持ちだったが、そういうわけにもいかない。
「比礼御前は此の度産まれた若殿のお子の乳母になるんですって」
「え。若殿にお子が?それは御目出度うございます」
祝いの言葉を口にのぼらせたヒメコだが、阿波局の表情は険しい。
「あの、何か問題でもおありなのですか?」
途端、阿波局は怒り出した。
「問題?ええ、大ありよ!そりゃあ将軍様は大喜びで、若殿のお子を産んだ若狭局とその父の比企能員殿に沢山の祝いの品を送ったわ。それはいいわよ。でも、だからって比礼御前のあの態度は何なの?北条はもう出て行けってあからさまに邪魔者扱いするのよ」
「北条はもう出て行け?」
阿波局は鼻息荒く頷いた。
「特に、私は千幡君の乳母をしているから若殿やその取り巻き連中は気にくわないんでしょうね。将軍様は若殿より千幡君の方をずっとご鍾愛されてらっしゃるから」
「でも、北条は御台様のご実家。若殿のご生母ですし、そんな、まさか」
「ええ、そうよ。だから表には見えない陰湿な嫌がらせをしてくるのよ。それらを指示してるのが比礼御前なの」
女官連中の妬み顰みは、以前からも少なからずあった。でも阿波局はいつもそれらを上手くやり過ごし、味方を増やしていたのに。
「比礼御前は比企能員殿の養女だけれど、実は比企能員殿の妾なんじゃないかって噂もあるのよ。ほら、いかにも男が好みそうな風貌をしてるでしょ?」
ヒメコはなんとも答えられずにただ息巻く阿波局を見つめる。
「とにかくそんなこんなを全部包み隠さず父に伝えたら、父はそりゃあ怒って、御所に上がってきて、将軍様と大姉上に何とかしろと言い募って大騒ぎになったのよ。北条も比企もどちらも将軍家を支える為にあるのにね」
それは北条殿に伝えたのが間違いだったのでは、と思ったが、忿懣やる方なしだったのだろう。
「それで、将軍様は何と?」
「直に頼家の正室が男児を産めば、比企能員もそうそう大きな顔は出来ないだろうと呑気なものよ。将軍様は今は京のことで頭がいっぱいで内輪揉めにはあまり関与したくないんでしょうね」
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——もし、万が一にも比企と北条が争うようになったら?
ふと浮かんだ考えに身を竦める。自分はどうするだろうか?どうすべきだろうか?何が出来るのか?
海の向こうを遠く見ていた頼朝の横顔が浮かぶ。耳に残る潮騒の音。
いけない。今は遠くを見ている場合ではない。内側を固めなければ。でないと幕府は崩れる。
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