【完結】姫の前

やまの龍

文字の大きさ
上 下
164 / 225
第五章 明石

第14話 父と娘

しおりを挟む
「あら、スッキリした顔してるじゃない。頑張って良かったわね、父上」

 軽やかな声に、ヒメコはそちらを振り返る。八幡姫が戸の所に立って微笑んでいた。頼朝が苦い顔をして頰を押さえる。

「何が良いものか。苦しかったのだぞ。まだ痛いし沁みるし、何より心許ない。歯がないと力を入れることも出来ぬではないか」

「あら、義歯は?」

「作成中なのです」

 ムッツリと押し黙る頼朝の代わりにヒメコが答える。

「元の歯はかなり傷んでいたので、抜歯の際にバラバラになってしまって。柘植の木で細工師が微調整しておりますから、もう少しお待ち下さいね」

 実は予め作っておいたものを嵌めて試してみたのだが噛み合わせが悪いと作り直しを繰り返していた。歯軋りが酷かったせいで他の歯にも悪い影響が出てしまっていた。

「あら、大変。ま、これに懲りてお身体を大事になさいませ」

 アサ姫そっくりの顔で八幡姫が言うのを頼朝は僅かに頰を緩めて見つめた。

「それは、そなたこそだぞ。八幡」

 対し、八幡姫が微苦笑をして頼朝を見遣る。

「あら、言われちゃったわ。でも私は平気よ。適当に怠けてますから」

「京に行ったら慣れるまではなかなか気が休まらぬだろう。だが三条家にはお前の従姉妹も嫁いだからな。何か困ったことがあれば、そこを頼れよ。他にも何人か頼りになりそうな伝手を作っておくからな」

 ヒラヒラと手を振り、はいはいと適当に返事をする八幡姫。三条家には、阿波局が産んだ阿野全成の娘が嫁いだらしい。

「済まぬな」

 そう呟いた頼朝の声には微かな湿り気があり、ヒメコは驚いて顔を上げる。

「そなたには幼い頃から苦労をかけてきた」

「それ、義高様のこと?」

 あっさりと返す八幡姫に頼朝は苦笑した。

「そうだな。それもある」

「それも?じゃあ他は?戦ばっかりで家族を顧みなかったこととか?」

「ああ。確かにそなたが三つになって以降は戦に明け暮れた」

 八幡姫は肩を竦めた。
「そうね。でもしょんないでしょ。父さまは鬼で、私はその娘に産まれてしまったんだから。もう覚悟決めてるから別にいいわよ。ただ、次に生まれてくる時には将軍の家だけは絶対選ばないけどね」

 頼朝が眉を上げる。

「今度は普通の平民の娘として生まれたい。そうして、山で茸を取って川で魚を獲って暮らすの」

「それは良いな。その時は私は山で竹取の翁にでもなろう」

「どうかしら?怪しい毒茸を採ってきて、輝夜姫が生まれたって幻を見ちゃうんじゃないの?」

 からかいの言葉に頼朝は噴き出した。

「その時はアサに目を醒まして貰おう。きっとアサは山の主になれるぞ」

「山の主?それって山姥ってこと?母さまが聞いたらひどく怒るわよ」

 八幡姫はクスクスと笑ってから遠い目をした。

「昔、私が小さくて、皆で走湯権現に隠れていた時には、私が父さま父さま母さまを独り占めしてたんでしょ?全く覚えてないけど。でもきっとすごく幸せだったのだと思うわ。有難う」

 直に嫁ぐ娘の、労りと感謝の言葉に頼朝はそっと顔を背けた。北条時政が京から戻ってから結婚を許されるまで、ヒメコが比企に戻されていた数年間の家族三人の暮らし。きっとその幸せな日々があったから、頼朝はその後に以仁王の令旨を受けた際に伊豆で挙兵する覚悟を決められたのだろう。家族を置いて奥州に逃げるのではなく、家族を守る為にその場に踏み止まる決断を。

「入内なんて、別に大したことないわよ」

 八幡姫はそう言って腕を組んだ。

「鬼の娘らしく睨みをきかせてくるわ」

 父と娘の遣り取りを聞きながら、ヒメコもまた遠い伊豆の日々を思い出していた。二十年間の軌跡。もし時が戻るなら、違う道も選べたのだろうか?でも、それでもきっと皆同じ道をゆくのだろう。何かに導かれるように。

 そう考えながら部屋を後にしたヒメコは呼び止められる。

「あ、姫御前。やっと会えたわね。将軍様の抜歯をしてたのですって?」

 阿波局だった。

「はい。阿波局様は京においでだったとか」

「そうなの。娘が三条殿に嫁いだので、その付き添いに。やっと鎌倉に戻れてホッとしたわ」

 ああ、疲れた。と伸びをする阿波局。久々の再会にヒメコは笑顔になる。

「あら、姫御前ったら少し痩せた?」

 言われて自らの頰に手を当てる。

「いえ、そんな事は」

「その左手は怪我したの?」

「あ、はい。ちょっと水甕を割ってしまって」

「水甕を?それはまた豪毅ね。無理しないのよ」

 礼を言って別れてから、ハッと気付く。

——いけない。急いで帰らなくては。


「ごめんなさい。遅くなりました」

 目の前にはムッツリ顔のコシロ兄。今日は早く帰れると聞いていたのに頼朝の抜歯後の処置が長引いた上に父と娘の会話に引き込まれ、御所を出るのが遅くなってしまった。

「いい。一度出るとなかなか戻らないのはもう慣れてる。鎌倉に戻ったらそうなるだろうと思ってた。鎌倉にいるなら、俺が居ようが居まいがどうせ淋しくないのだろう」

 その口調に、あれと思う。もしかして拗ねてる?


「ちちうえー、お馬に乗せて乗せてー」

 飛び付いてきたトモを抱え上げるとコシロ兄は黙ったまま出て行ってしまった。

——やっぱり怒ってる。


「御免なさい」

 夜に改めて頭を下げる。でもなかなか返事がない。チラと目を上げたら、コシロ兄はムッツリ顔のまま床についたヒメコの手を見ていた。

「怪我はもう治ってるのか?」

「あ、はい。おかげさまですっかり」

 答えて顔を上げたら、コシロ兄の顔がすぐ間近にあった。ヒメコの左手が取られる。

「嘘をつけ。まだ血が滲んでるじゃないか。ちゃんと手当てしてるのか?」
 言って、包帯を外していくコシロ兄。

「傷の治りが遅いようだ。もっと栄養をつけろ。フジが心配していたぞ。近頃あまり食事も休みもしっかり取れていないようだと」

 言われて、そうだったかも知れないと思う。江間から帰って来てからキノコのことがあり、頼朝の抜歯があり、御所に通い詰めていた。

「御免なさい。明日からはしっかり食べて休むようにします」

コシロ兄の目を真っ直ぐて見てそう言ったら、コシロ兄の気配が穏やかなものへと変わった。

——心配してくれていたんだ。

 胸がじんわりあったかくなる。

「まったく。お前は手許に置いたつもりでも、気付くと飛び出してる」

 優しい手付きで湿布をあてがわれ、新しい包帯を巻かれる。手当てされた左手をまじまじと見つめながらヒメコは言った。

「あの。これは少し大袈裟では?」

 大仰に布が巻かれた左手は鍋つかみのように丸く膨らんでいた。

「お前はそれくらいでいい。俺がいいと言うまで外すなよ」

 言って、コシロ兄はヒメコの左肘を掴んで持ち上げ、腰を抱くと褥の上へと押し倒した。鼻先に鼻先がぶつかり、額が擦れ合う。

「お前は言ったな。淋しいのだと。俺が淋しくないとでも思ってたのか?」

「え、いえ、あの」

 首を横に振って、コシロ兄の首に抱きつこうと腕を伸ばす。でもぐるぐる巻きにされた左手がもどかしい。

「あの。これ、外していいですか?」

 そうしたら、コシロ兄は意地悪な顔をして答えた。

「駄目だ」
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

GAME CHANGER 日本帝国1945からの逆襲

俊也
歴史・時代
時は1945年3月、敗色濃厚の日本軍。 今まさに沖縄に侵攻せんとする圧倒的戦力のアメリカ陸海軍を前に、日本の指導者達は若者達による航空機の自爆攻撃…特攻 で事態を打開しようとしていた。 「バカかお前ら、本当に戦争に勝つ気があるのか!?」 その男はただの学徒兵にも関わらず、平然とそう言い放ち特攻出撃を拒否した。 当初は困惑し怒り狂う日本海軍上層部であったが…!? 姉妹作「新訳 零戦戦記」共々宜しくお願い致します。 共に 第8回歴史時代小説参加しました!

藤と涙の後宮 〜愛しの女御様〜

蒼キるり
歴史・時代
藤は帝からの覚えが悪い女御に仕えている。長い間外を眺めている自分の主人の女御に勇気を出して声をかけると、女御は自分が帝に好かれていないことを嘆き始めて──

江戸時代改装計画 

城闕崇華研究所(呼称は「えねこ」でヨロ
歴史・時代
皇紀2603年7月4日、大和甲板にて。皮肉にもアメリカが独立したとされる日にアメリカ史上最も屈辱的である条約は結ばれることになった。 「では大統領、この降伏文書にサインして貰いたい。まさかペリーを派遣した君等が嫌とは言うまいね?」  頭髪を全て刈り取った男が日本代表として流暢なキングズ・イングリッシュで話していた。後に「白人から世界を解放した男」として讃えられる有名人、石原莞爾だ。  ここはトラック、言うまでも無く日本の内南洋であり、停泊しているのは軍艦大和。その後部甲板でルーズベルトは憤死せんがばかりに震えていた。  (何故だ、どうしてこうなった……!!)  自問自答するも答えは出ず、一年以内には火刑に処される彼はその人生最期の一年を巧妙に憤死しないように体調を管理されながら過ごすことになる。  トラック講和条約と称される講和条約の内容は以下の通り。  ・アメリカ合衆国は満州国を承認  ・アメリカ合衆国は、ウェーキ島、グアム島、アリューシャン島、ハワイ諸島、ライン諸島を大日本帝国へ割譲  ・アメリカ合衆国はフィリピンの国際連盟委任独立準備政府設立の承認  ・アメリカ合衆国は大日本帝国に戦費賠償金300億ドルの支払い  ・アメリカ合衆国の軍備縮小  ・アメリカ合衆国の関税自主権の撤廃  ・アメリカ合衆国の移民法の撤廃  ・アメリカ合衆国首脳部及び戦争煽動者は国際裁判の判決に従うこと  確かに、多少は苛酷な内容であったが、「最も屈辱」とは少々大げさであろう。何せ、彼らの我々の世界に於ける悪行三昧に比べたら、この程度で済んだことに感謝するべきなのだから……。

我らの輝かしきとき ~拝啓、坂の上から~

城闕崇華研究所(呼称は「えねこ」でヨロ
歴史・時代
講和内容の骨子は、以下の通りである。 一、日本の朝鮮半島に於ける優越権を認める。 二、日露両国の軍隊は、鉄道警備隊を除いて満州から撤退する。 三、ロシアは樺太を永久に日本へ譲渡する。 四、ロシアは東清鉄道の内、旅順-長春間の南満洲支線と、付属地の炭鉱の租借権を日本へ譲渡する。 五、ロシアは関東州(旅順・大連を含む遼東半島南端部)の租借権を日本へ譲渡する。 六、ロシアは沿海州沿岸の漁業権を日本人に与える。 そして、1907年7月30日のことである。

札束艦隊

蒼 飛雲
歴史・時代
 生まれついての勝負師。  あるいは、根っからのギャンブラー。  札田場敏太(さつたば・びんた)はそんな自身の本能に引きずられるようにして魑魅魍魎が跋扈する、世界のマーケットにその身を投じる。  時は流れ、世界はその混沌の度を増していく。  そのような中、敏太は将来の日米関係に危惧を抱くようになる。  亡国を回避すべく、彼は金の力で帝国海軍の強化に乗り出す。  戦艦の高速化、ついでに出来の悪い四姉妹は四一センチ砲搭載戦艦に改装。  マル三計画で「翔鶴」型空母三番艦それに四番艦の追加建造。  マル四計画では戦時急造型空母を三隻新造。  高オクタン価ガソリン製造プラントもまるごと買い取り。  科学技術の低さもそれに工業力の貧弱さも、金さえあればどうにか出来る!

暁のミッドウェー

三笠 陣
歴史・時代
 一九四二年七月五日、日本海軍はその空母戦力の総力を挙げて中部太平洋ミッドウェー島へと進撃していた。  真珠湾以来の歴戦の六空母、赤城、加賀、蒼龍、飛龍、翔鶴、瑞鶴が目指すのは、アメリカ海軍空母部隊の撃滅。  一方のアメリカ海軍は、暗号解読によって日本海軍の作戦を察知していた。  そしてアメリカ海軍もまた、太平洋にある空母部隊の総力を結集して日本艦隊の迎撃に向かう。  ミッドウェー沖で、レキシントン、サラトガ、ヨークタウン、エンタープライズ、ホーネットが、日本艦隊を待ち構えていた。  日米数百機の航空機が入り乱れる激戦となった、日米初の空母決戦たるミッドウェー海戦。  その幕が、今まさに切って落とされようとしていた。 (※本作は、「小説家になろう」様にて連載中の同名の作品を転載したものです。)

勇者の如く倒れよ ~ ドイツZ計画 巨大戦艦たちの宴

もろこし
歴史・時代
とある豪華客船の氷山事故をきっかけにして、第一次世界大戦前にレーダーとソナーが開発された世界のお話です。 潜水艦や航空機の脅威が激減したため、列強各国は超弩級戦艦の建造に走ります。史実では実現しなかったドイツのZ計画で生み出された巨艦たちの戦いと行く末をご覧ください。

富嶽を駆けよ

有馬桓次郎
歴史・時代
★☆★ 第10回歴史・時代小説大賞〈あの時代の名脇役賞〉受賞作 ★☆★ https://www.alphapolis.co.jp/prize/result/853000200  天保三年。  尾張藩江戸屋敷の奥女中を勤めていた辰は、身長五尺七寸の大女。  嫁入りが決まって奉公も明けていたが、女人禁足の山・富士の山頂に立つという夢のため、養父と衝突しつつもなお深川で一人暮らしを続けている。  許婚の万次郎の口利きで富士講の大先達・小谷三志と面会した辰は、小谷翁の手引きで遂に富士山への登拝を決行する。  しかし人目を避けるために選ばれたその日程は、閉山から一ヶ月が経った長月二十六日。人跡の絶えた富士山は、五合目から上が完全に真冬となっていた。  逆巻く暴風、身を切る寒気、そして高山病……数多の試練を乗り越え、無事に富士山頂へ辿りつくことができた辰であったが──。  江戸後期、史上初の富士山女性登頂者「高山たつ」の挑戦を描く冒険記。

処理中です...