【完結】姫の前

やまの龍

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第五章 明石

第13話 宿縁

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「殿!」

 踏み込んできたのはアサ姫だった。途端に頼朝が飛び上がる。だが、ギャッ!という悲鳴と共に口を抑えて唸り始めた。楊枝が口のどこかに刺さったのだろう。

「殿、何をなさっておいでです?」

「は、歯の治療をして貰っていたのだ。そなたこそ、何故ここに」


「何故も何も、私がここに居ては何か問題でも?」

 そう言って、ジロリと比礼御前を見据えるアサ姫。

「比礼御前、ご苦労様でした。後はいいわ。もうお下がりなさい。姫御前、こちらへ」

 呼ばれてヒメコは奥に進む。比礼御前は出て行った。アサ姫は頼朝の前にどっかと腰を下ろして口を開いた。

「さて。姫御前には、以前より親能殿からも進言のあった抜歯の件を早速進めて貰いたいと思っているの。殿、それで宜しいですわよね?」

「親能?あいつは京に行っていた筈だが」

「既にもう戻っておりますよ。殿は暫しの間、夢の世界を彷徨っておられたようですね。でももういい加減醒める頃合いですわ」

 そう言ってアサ姫はヒメコを振り返った。

「姫御前、親能殿と共に将軍様の抜歯をして頂戴」

「しかし」

 抗議の声を上げた頼朝をアサ姫は一喝した。

「しかし、じゃありません!歯痛を放っておくと、そのうちに血が穢れて全身の病を引き起こすと聞きました。殿はこの大事の時に、病で動けなくなっていいのですか?」

「馬鹿な。歯痛如きでそんなことまではならぬだろう」

「だろうですって?人がいつ病にかかるか死ぬか、誰にも分からないというのに、将軍になるとそれがお分かりになるのですか?巫女のヒメコにだって分からないことですのに。それらは神仏の領域。人にそれらは分からないもの。ね、ヒメコ、そうよね?そうでしょう?」

 激しく同意を求められ、ヒメコは目を瞬かせながらコクコクと頷く。アサ姫は頼朝に向かって畳み掛けるように続けた。

「今、この大事な時に病に倒れたらそれこそ大姫の入内どころではなくなるわよ。それとも、もう京のことは諦めたってわけ?もしそうならそうで、私は一向に構わないのですけどね。入内なんて私は本当は反対なんですから。殿が倒れるなら、さっさと手を引かせて貰います。私はこの鎌倉が安泰であればそれで十分なんですから!」

 言い立て、立ち上がったアサ姫の裾に頼朝が慌てて取り縋る。


「いやいや、待て。あと少しなんだ。京とはなるべく多くの繋がりを持っておかなくてはならん。その為の入内なのだ。皇子をしたてて帝の外祖父に、とまでは望んでおらぬ。ただ、縁戚となっておいた方が、今後何かと事が運びやすい。あそこは血統と官位だけが物を言う土地だからな。全ては鎌倉の安泰の為だ。そなたならわかってくれていると思ったのだが」

 情けない声をあげる頼朝。

「ええ、分かってますよ。だから大姫を連れて共に上洛しましたでしょう?逆に殿もお分かりの筈。今、自分が倒れたらこの先の鎌倉がどうなるのかを。後継の頼家はまだまだ未熟。なのに、京ではこれまで懇意にしていた関白、九条兼実殿が失脚させられ、代わりに関白になったのは近衛基通殿。近衛殿は皇子を産んだ女御の父、土御門通親殿とは懇意。土御門殿とはまだそれ程強い関係を結べていない今、貴方は病になど罹っておられない状況なのですよ。殿は丹後局殿を取り込んだおつもりでしょうが、あのお方は信の置けぬ人物と私は見ています。取るに足らぬ女の勘とお聞き流しになっても構いませんが、同じ女だからこそ分かることもあるのです。丹後局殿は、仕えた建春門院様の後釜にまんまと収まって法王の寵姫となりながら、その亡き後に寺に入るでもなく権力に固執し、自分に都合のよい相手に取り入って立場を乗り換えるのを厭わない尻軽女。殿が幾ら進物をして期待をかけても、彼女は京の帝位が第一。向こうの形勢如何で、こちらなど直ぐに切り捨ててきますよ」

 アサ姫の辛辣な物言いに、頼朝は慌てて辺りを見回してアサ姫に黙るようにと目配せした。確かにここは小御所で内々の者しか入り込めないが、御所の方には知らぬ顔が増えているようだった。それも京の言葉を使う人たちが。

 アサ姫は声の大きさこそ少し落としたが、まだ言い足りぬらしく続けた。

「もし貴方が病に倒れた場合、京の帝位同様に、頼家を将軍職に据えることは出来ましょうが、今の幕府の体制では、その後見力としてはあまりにか細い。この鎌倉は、源頼朝という強力な存在があって初めて幕府として機能しているのですよ。後白河法王の院政が、法王の存在と共にあったように。平家の栄華が平相国殿の存在と共にあったように。貴方は、この鎌倉の幕府が、平相国殿の平家一門のように、棟梁の死と共にあえなく崩れてもいいと仰るの?将軍となった今、朝廷にとっての院、鎌倉にとっての鎌倉殿の最も大事なお役目は、少しでも長生きすること。たかが歯の一本や二本欠けようが、何の憂いがありましょうか!」

 言い切って、アサ姫はフンと鼻を鳴らした。頼朝は手を挙げて降参する。

「わかった、わかった。痛みの強い歯だけ抜くことを許そう」

 頼朝が抜歯に同意した。ヒメコは早速親能を呼びに行こうと立ち上がる。と、頼朝が呼び止めた。

「ヒメコ、なるべく痛みの少ないようにやってくれよ。直にまた上洛するのだからな。顔も腫らしたくない」

「努力いたします」

 ヒメコがそう答えた時、戸が開いて白と紅の人影が入って来た。

「でしたら姫御前様ではなく、私が抜歯のお手伝いをさせていただきましょう。私の持つ薬は、痛みを感じなくさせてくれますから」

 比礼御前だった。ドキッとする。

——もし、あのキノコを大量に使われたら。

「ああ、そうだな。では」

 同意しかけた頼朝の言葉を遮ったのはアサ姫だった。

「比礼御前、あなたはいいわ。あなたの薬は確かに痛みを軽くしてくれるけれど、その分、頭をぼんやりさせるし、そこから抜けるのにまた一苦労させられる。今、将軍にぼんやりされては困るのよ」

 アサ姫はそう言って頼朝に詰め寄った。

「殿、いいですか?よくお聞きなさい。人というものは痛みを知って初めて痛んだ場所に意識を向け、改めてそれを大事にせねばと心を配るものなの。殿は今まで忙しいを言い訳に、歯も身体も酷使し過ぎてきた。此度のことはそれを教えてくれたよい機会なのです。だから抜歯の痛みくらい薬の力など借りずに我慢なさい。そしてこれに懲りて、もっと自分の身体に心を配り、大切にすることです。抜歯の痛みなんて、受けた鏃を引き抜くのとそう大して変わりはしないわよ。仮にも武士の大将なのですから、そのくらいは朝飯前で耐えられますでしょ」

 アサ姫の圧勝だった。ヒメコは胸を撫で下ろし、改めて頼朝とアサ姫に頭を下げると親能を呼びに行こうと部屋を辞した。

 が、戸を開けた途端、目の前にいた人とぶつかりそうになり、慌てて身をずらす。

「あ、ごめんなさい」

 声をかけたら、その人物が振り返った。比礼御前だった。でも黙ってヒメコを見ている。

 先程に部屋を入れ違ってからずっと戸の前でじっと話を聞いていたのだろうか。そして頃合いを見て入って来た。またアサ姫に追い出された後も戸のすぐ側で中の様子を窺っていた。でも何の為に?

 その時、ヒメコは比礼御前の仕事を奪ってしまったことに気付いた。

「あの、ごめんなさい」

 何と言ったらいいのかわからず、とにかく謝罪の言葉を口にしたら、比礼御前はヒメコにひたと目を合わせた。でも、その目はひどく冷たかった。仕事を取られた憤りや悔しさなどの感情の色はなく、見下すような嘲るような、ただ嫌いな虫でも見るような目をしていた。思い出す。炊事場での彼女の恐ろしい声。

「そうよ、その女のせいよ。その女を縊り殺しておしまい!」

 ——どうして?それもキノコの影響?


 それとも自分はもしかして、いつかどこか気付かぬ内に彼女にそこまで言わせる何かをしてしまったのだろうか。
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