【完結】姫の前

やまの龍

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第五章 明石

第7話 江間の方

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  その年の冬の初め、ヒメコは伊豆の江間へと身を移した。頼時やフジ、藤五らは鎌倉に残るので、ヒメコとトモ、そして母の道行きになった。母は生まれて初めての馬に興奮していた。

「これでお義母上に馬鹿にされずに済みますわ。私も馬に乗りましたよってね」

 得意げに話す母だが、数刻しない内に泣き言を言い出す。

「もう疲れたわ。江間はまだなの?トモも疲れて可哀想だから休みましょうよ」

 トモは初の遠出ではしゃいでいる。疲れてるのは明らかに母だけだったが仕方ない。何度も休みを取りながら、ゆるゆると伊豆に向かう。将軍が何度か上洛し、使者の往き来も増えている為、道は大幅に整備されて宿も増えたお陰で昔にヒメコがコシロ兄と馬で通ったよりは格段に快適な旅だった。江間に着いたのは日が暮れてしばらくしてからだった。

「殿、お帰りなさいませ」

 館の前で松明を掲げて迎えてくれたのはシンペイだった。

「殿、お方様、皆々様、夕餉の支度が出来ております。どうぞ」

 案内してくれるシンペイの脇に控える若いふくよかな女性。

「よくおいで下さいました。お身体が冷えたことでしょう。さ、此方へ」

 その若い女性に中に通される。その後ろを荷物を抱えたシンペイが追った。

「お方様のお母君のお部屋はこちらで御座います。さ、どうぞ。あ、ちょっと、あんた。それは殿のお部屋に運ぶ分ずら。まだ覚えらんないのかい?」

 突如声の調子を変えた若い女性に驚く。

「おまいはいちいち煩いんだら。こっちはもういいけん食事の支度をしろ」

 シンペイが言い返したことでやっと気付く。

「もしかして彼女はあなたの?」
  シンペイが頭をかいた。

「はい。女房のシマです。あの通り、口と見てくれは今一ですが、力持ちで料理は得意なので、そこは期待してやってください」

「まぁ、楽しみです。宜しくお願いしますね」

 山木攻めの折、高い木立の上で寝かかっていた小さなシンペイが、お嫁さんを貰っていたなんて。

 一行は温かな汁をいただいて、やっと人心地ついた。

「殿は暫くこちらにいらっしゃれるのですか?」

 ヒメコが尋ねたら、シロ兄はそうだなと曖昧な返事をした。

「鎌倉から急ぎの使いが来なければ、今の予定では五日程こちらにいられる」

「五日」

 短いと思ってしまうのは甘えだろうか。だがその三日後、鎌倉から文が届く。ドキリとするが、コシロ兄宛ではなく、ヒメコ宛の阿波局からの文だった。

 鎌倉を出る前に御所に挨拶に行ったのだが、その日は阿波局は不在だったので文を渡してもらえるよう頼んでおいたその返事だった。

「江間に移られたとのこと。そろそろ落ち着かれた頃かしら?こちらは寂しいわ。大姉上も大姫様も寂しがっているわよ。結局、京では中宮様が皇女をお産みになったし、女御様も皇子をお産みになったとか。将軍様はがっかりして歯の病が再発するし、御所内も雰囲気が悪くて、大姫様のお具合もまた悪くなってしまったの。もう入内の話はなくなるんじゃないかという噂よ」

 皇女に皇子。それでは京に行っても大姫は辛い想いをするばかりではないか。入内の話が無くなるのなら、それが一番いいのに、とヒメコは思った。コシロ兄に尋ねてみる。

「大姫様の入内のお話はどうなるのでしょうか?」

 コシロ兄は首を横に振った。

「分からん。それは将軍様がお決めになること。皇女、皇子がお生まれになったとて、いつ何があるとも分からない。既に話が進んでいる以上、入内の話が止まることはないかと思うが」

「そうなのですか」

 それでいいのだろうか?仕方ないのだろうか?でも、何だろう。嫌な感じがする。ヒメコは立ち上がろうとして気付いた。ここは鎌倉ではない。おいそれと御所に駆け付ける訳にいかないのだ。

 その数日後、コシロ兄が鎌倉に向かう。

「何かあれば、すぐに使いを寄越せ」

 言ってコシロ兄はヒメコの左手をそっと取った。

——私も鎌倉に。

 その言葉を飲み込んで、ヒメコは胸元に入れていた包みをコシロ兄に託した。

「これを大姫様にお渡し願えませんか?」

 それから、馬屋に向かうコシロ兄を追いかけ、その背の上部、風門の辺りをそっと手で払った。邪鬼が入らないよう祈りを込めて。

——またすぐにお会い出来ますよう。


 だが、コシロ兄はなかなか江間に戻らず、そのまま年が明ける。

「年始の行事が済み次第、江間に戻る」

 やがて、それだけの文が届いた。

「まぁ、これだけ?まったく、婿殿はなんて無愛想なんでしょう!こちらは年越しの準備をして待ってましたのに」

 憤慨する母を見ながら、シマとこっそり顔を見合わせる。

「歳の瀬だからゆっくり温泉に行っちゃいましょう」

 と、女だけで古奈の湯を占領し、

「きっと御所で御馳走にありついてるわよ」

 と、シマが準備してくれた御馳走をペロリと平らげた母なのだ。

「殿はお独りの時から殆ど食べ物を口になさらないお方でしたから、私は腕を振るえず残念でしたが、こうして皆さんがたっぷり食べて下さるので作り甲斐があります。うちの人もあんまり食べないので、作り過ぎた分をつい自分で平らげてたらこうなってしまって」

 そう言ってお腹をポンと叩く。

 皆が笑った所で、急にそのシマがお腹を抱えてうずくまった。

「シマ?どうしたの?シマ!」

 何が起きたのか分からず、とにかくシマの背中をさすって横にさせようとした時、トモに手を引かれたシンペイが駆け込んで来た。

「シマ!産まれるのか?」

「え?じゃあ、まさかシマは」
 シマに手を当てたままシンペイを振り仰げば、シンペイは頷いた。

「へぇ、こいつ、腹ボテで。でもまだだって言ってたのに」

「お産婆さんは?」

「呼んで来ます!」

 シンペイは駆け出して行った。それを追いかけて行くトモ。

「あ、トモ!貴方はここにいなさい!」

 叫ぶも、犬のようにシンペイを追って行く後ろ姿はあっという間に見えなくなる。息を切らしながら街道に出たヒメコの前に馬影が止まった。

「何をやっている」


 低い声に顔を上げたら、コシロ兄だった。




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